このことが「Wild Horses」の痛烈な歌詞に織り込まれなかったとは考えにくい (この曲の中でミックは、“You know I can’t let you slide through my hands / するりと抜けていこうとする君の手を離しやしない”と歌っている) 。しかしそうした解釈をミック本人は過去にこう否定している。
ダラス出身のロン・タットは、その60年に及ぶキャリアの中で、ビリー・ジョエル、ニール・ダイアモンド、エミルー・ハリス、ジェリー・ガルシアらと共演を果たし、彼の演奏は、ビリー・ジョエルの『Piano Man』(ビリーにとって初のヒット曲である同名のシングルを含む)、エルビス・コステロの『King of America』、グラム・パーソンズのアルバム『GP』、『Grievous Angel』など数々の名作アルバムで聴くことができる。
Billy Joel – Piano Man (Official HD Video)
エルヴィス・プレスリーとの共演
ロン・タットは、エルヴィス・プレスリーのバックバンドとして知られるTBC(Taking Care of Business)バンドの一員としてギタリストのジェームズ・バートンらと共に1969年のツアーに参加し、かの有名なラスベガス公演のオープニングでも共演。英メロディ・メイカー誌に掲載された1976年のエルヴィス・プレスリーのLA公演のレビューには、TBCバンドの演奏について“機械的ではあるが見事”と評されている。
1970年代半ば、エルヴィス・プレスリーとの共演を続ける傍ら、ジェリー・ガルシア・バンドと共にツアーに同行するようになったロン・タットは、1978年の『Cats Under The Stars』をはじめとする彼のスタジオ録音にも参加。2017年のローリング・ストーン誌のインタビューで、彼はこの2つのバンドの美意識が対照的だったことを明かしていた。
大好きだった場所への遠出は、新しいツアーに出る前の休養として計画されていた。その年の前半にはライヴを行っており、「Drug Store Truck Driving Man」「Sin City」や「That’s All It Took」など、カントリー・ロックというジャンル自体を築くことに一石を投じた楽曲を演奏していた。
かつてはローリング・ストーン誌の表紙を飾ったこともあるヌーディー・コーンは、カントリー界、ロック界、そしてハリウッドのスターたちを40年あまりにわたって着飾らせてきた張本人である。彼の顧客リストはハンク・ウィリアムス、ロイ・ロジャース、ドリー・パートン、ジョニー・キャッシュらカントリー創生期の大御所たちから、ジョン・レノン、エルトン・ジョン、シェール、グラム・パーソンズまで多岐に及び、とりわけ有名なのがエルヴィス・プレスリーのグレイテスト・ヒッツ・アルバム『50,000,000 Elvis Fans Can’t Be Wrong』のカヴァー・アートワークでお披露目された、時価1万ドルのゴールドのラメ・スーツだった。
彼の父親はブーツ職人だったので、ヌーディーは何とか手に職と言えるほどの裁縫のスキルは身につけていた。それから数年間、アメリカ中を転々としながら仕事をこなした後、新妻のボビーを連れてニューヨークに戻って来た彼は、ヴォードヴィル・アクトやバーレスクのパフォーマーたちのために派手な飾りつきのGストリング[訳注:日本ではバタフライと呼ばれる、ストリッパー等が舞台で使用するヒモ状の下着]を仕立てる、その名も「Nudie’s For The Ladies」というおあつらえ向きの屋号を掲げ、夫婦で最初の商売を旗揚げした。やがて彼は吸い寄せられるように西へと向かい、ヌーディー・コーンとその一家はハリウッドに店を構え、更に後にはサン・フェルナンド・ヴァリーに落ち着いた。程なくして彼が憧れていた‘カウボーイたち’が彼の顧客となったが、その第一号はウェスタン・スウィングのミュージシャン、テックス・ウィリアムズで、彼はニューディーの後援者として、ミシン1台の購入代金として150ドルを貸し付けてくれた。この援助で彼は商売を始めることが可能になり、それがヌーディーの精巧なカントリー・ウェア御用達の仕立て屋としての足がかりとなったのである。
ハリウッドからお声がかかるようになるまでにはそれほど時間はかからなかった。最初はジーン・オートリーで、続く “King Of The Cowboys(カウボーイたちの王様)”、ロイ・ロジャースは、ヌーディーのデザインを彼と彼の妻デイル・エヴァンスが出演していた人気TV番組 『The Roy Rogers Show』の中で採用した。このロイ・ロジャースとの運命的な出会いと関わりが、ヌーディーのクリエイティヴな発想に大きなチャンスを与えてくれたのである。
この時の役目が、ジェイミーに自分のカフェ「Nudie’s Custom Java」を開くというアイディアをもたらした。現在この店はコーヒーハウスと、かつてヌーディーの店に飾られていた数え切れないほど沢山の写真やメモラビリアの展示場所を兼ねている。前述の長いジャム・セッションの最中には、ヌーディーが自前のマンドリンで参加することもあった。彼は後に自分名義でもレコードを作り、『Nudie And His Mandolin』と題されたそのアルバムは、カントリー専門の音楽番組『Hometown Jamboree』の司会者として有名なカントリー歌手、クリフ・ストーンがプロデュースを手掛け、1974年に発売されている。プレスされたレコードの半分近くは、彼が自分であちこちに無料でバラまいていただけだったとジェイミーは言うが、ヌーディーにとって音楽がその生涯を通して情熱を注ぐ対象であったことは間違いない。
ジョーンズは1955年に初めてのヒット曲「Why Baby Why」を出して以来、50年近くに亘ってカントリー・シーンでとてつもない存在感を示してきた。今のところ、最後にヒットしたのは2002年の「50,000 Names」それまでにジョーンズはナンバー・ワン・シングルを13枚出してきた。その中には、「She Thinks I Still Care」「We’re Gonna Hold On」「Near You」(妻のタミー・ワイネットとのデュエット)、「He Stopped Loving Her Today」といった不朽の名曲が並んでいる。
またエルヴィス・コステロはジョーンズと一緒にレコーディングをしている。それはキース・リチャーズも同じ。彼はやはりジョーンズの大ファンだった故グラム・パーソンズと付き合ううちに、ファンになった。ジョーンズとデュエットした「Say It’s Not You」について、キースは自伝の中でこう書いている。「ジョージは素晴らしい共演相手だった。なにより、あんな髪型をしていたのだから。とてつもない歌手だ」。
「Oh My Sweet Carolina」や「Come Pick Me Up」などの楽曲を聴いた者にそれが記憶として永遠に刻まれたことを考えると、アルバムからシングルが発売されなかったことは信じがたい。USチャートにも登場しなかった(UKトップ200には何とかランクイン)。その『Heartbreaker』が今では傑作として扱われ、ライアン・アダムスの曲作りの素晴らしさを証明している。あのエミルー・ハリス(グラム・パーソンズと組んだことを考えれば、彼女は才能ある作曲家をちゃんと聴き分けられる)も「Oh My Sweet Carolina」のデュエットで参加している。
しかし、それは作品の素晴らしさのほんの一部にしか過ぎない。直後に素晴らしい作品『Time (The Revelator)』をリリースするギリアン・ウェルチとデイヴ・ローリングスがライアン・アダムスにぴったり合う曲を提供し、プロデューサーのイーサン・ジョンズも少しだけ協力している。“心をさらけ出すシンガーソングライター”のモードに入りながら、作品を通じてライアン・アダムスは音楽スタイルの幅広さを披露した。「My Winding Wheel」はカントリー・ロックの素晴らしい見本であり、パット・サンソンの心地よいオルガンが曲に更に深みを与えている。
My Winding Wheel
「Call Me On Your Way Back Home」の始まりではその心をむき出しにし、後からバンドがその苦悩を沈めていく。その優しいシンバルとオルガンで「Amy」はライアン・アダムスの傷ついた心に直接訴えかける。バンジョーと繋がり合うドラムで「Bartering Lines」は、命をかけた男の不幸をつづる手紙となっている。
同病相哀れむと言うが、悲しみに溺れたいのであれば、この作品の中で癒やしを見つけられるだろう。しかし、ロカビリー調でライアン・アダムスの初期の冒険心を表す元気さとメランコリーのバランスで奏でられる「To Be Young (Is To Be Sad, Is To Be High)」の次に激しい「Shakedown On 9th Street」を聴けば、どっちかひとつだけではなく、両方のタイプの曲を聴きたくなるだろう。
Shakedown on 9th Street
アルバムの1曲目「(Argument with David Rawlings Concerning Morrissey)」では、ライアン・アダムスとデイヴ・ローリングスがモリッシーのある曲が『Bona Drag』と『Viva Hate』の両方に収録されているかどうか言い合っている。ソロ・キャリアをこのようなお喋りから始めるのは不思議なのかも知れないが、その内容には後の音楽を予告する部分も含まれており、「Love Is Hate」や後のパックス・エーエムからのシングル等ではザ・スミスのようなギターが使用されている。そのようにして『Heartbreaker』を始めることは、彼の少しだけずれたユーモアのセンスを表しており、それはライアン・アダムスらしいステージ上でのキャラクターでもある。
そして、意外なことに1969年は、フェアポート・コンヴェンションのセカンド・アルバム、サード・アルバム、フォース・アルバムの3枚のアルバムがリリースされた年でもある。われわれは今回、セカンド・アルバム『What We Did On Our Holidays』に焦点を絞って紹介していこう。この作品は初めて、サンディ・デニーの印象的なヴォーカルをフィーチャーした作品だ。彼らのソング・ライティングの泉に、彼女の才能が加わり、その後彼らの十八番となっていくブリティッシュ・フォークの方向にグループが向かったように感じられる作品である。(サンディ・デニーはフェアポート・コンヴェンション脱退後、短命ではあったがフォザリンゲイという名のグループで活動した)
彼らの代表曲にはジョニ・ミッチェルの「Eastern Rain」やボブ・ディランの「I’ll Keep It With Mine」のカヴァーもあるが、6人のメンバーはそれぞれが、またはグループとして、アルバムのソングライティングにクレジットされている楽曲も多く存在する。
エレクトリック、アコースティック・ギタリストのリチャード・トンプソンは、『What We Did On Our Holidays』リリース時にはまだ19歳だったが、すでに3曲自身の曲を提案しており、その中にはグループの不滅の代表曲であり、ショウの終りに演奏される「Meet On The Ledge」が含まれている。また、バンド仲間と共作した楽曲も2曲あり、また彼らは2曲のトラディショナル曲をアップデイト、そのうちの1曲は抗いがたいほど魅力的な「She Moves Through The Fair」である。
またヴォーカリスト兼パーカッショニストのイアン・マシューズとドラマー/パーカッショニスト/ヴァイオリニストのマーティン・ランブルも楽曲を制作、そしてアシュリー・ハッチングスも彼が作曲した「Mr. Lacey」でロックン・ロールを持ち込んでいる。そして、アルバムは、サイモン・ニコルの「End Of A Holiday」で締めくくられている。
フェアポート・コンヴェンションがサード・アルバム『Unhalfbricking』ではじめてUKチャートに姿を現すまでには、数ヶ月あった。しかし、『What We Did On Our Holidays』は現在までの半世紀に及ぶほど続いている物語の生き生きとした序章なのだ。