タグ: Gram Parsons

  • ロックの殿堂入り8組と各部門受賞者が発表:オアシス、メイデン、エド・サリヴァンほか

    ロックの殿堂入り8組と各部門受賞者が発表:オアシス、メイデン、エド・サリヴァンほか

    ロックの殿堂(Rock & Roll Hall of Fame)は、2026年の殿堂入りアーティストを、各賞の受賞者とともに発表した。詳細は以下の通り。

    <関連記事>
    2025年のロックの殿堂入りが発表
    2024のロックの殿堂入りが決定:MJ.ブライジ、Pフランプトンらが選出

    パフォーマー部門

    その独創性や影響力が音楽史に変革的なインパクトを与えたパフォーマー部門の受賞者は以下8組。

    ・オアシス(Oasis)
    ・ウータン・クラン(Wu-Tang Clan)
    ・ビリー・アイドル(Billy Idol)
    ・アイアン・メイデン(Iron Maiden)
    ・フィル・コリンズ(Phil Collins)
    ・シャーデー(Sade)
    ・ルーサー・ヴァンドロス(Luther Vandross)
    ・ジョイ・ディヴィジョン/ニュー・オーダー(Joy Division/New Order)

    ルーサー・ヴァンドロスとウータン・クランは初ノミネートでの選出となった。

    ロックの殿堂入りの資格を得るためには、個々のアーティストもしくはバンドが、ノミネートされた年の少なくとも25年前に最初の商業レコーディングをリリースしていることが条件となる。そのため、今年の対象アーティストの初商業作品は2001年以前にリリースされてなくてはならない。殿堂入り候補者への投票は、約2か月間にわたり、1,200人以上の音楽業界専門家からなる国際審査委員会によって実施されるほか、ファン投票も最終集計に反映される。

    アーリー・インフルエンス・アワード

    その作品やパフォーマンス・スタイルが、音楽や文化の発展に直接的な影響やインスピレーションを与えたアーティストを称える<アーリー・インフルエンス・アワード>(Early Influence Award)の受賞者は以下5組。

    ・クイーン・ラティファ(Queen Latifah)
    ・MCライト(MC Lyte)
    ・セリア・クルス(Celia Cruz)
    ・フェラ・クティ(Fela Kuti)
    ・グラム・パーソンズ(Gram Parsons)

    ミュージカル・エクセレンス・アワード

    その独創性と影響力によって音楽界に多大な影響を与えたアーティスト、ミュージシャン、ソングライター、プロデューサーを称える<ミュージカル・エクセレンス賞>(Musical Excellence Award)の受賞者は以下4組。

    ・リンダ・クリード(Linda Creed)
    ・アリフ・マーディン(Arif Mardin)
    ・ジミー・ミラー(Jimmy Miller)
    ・リック・ルービン(Rick Rubin)

    アーメット・アーティガン・アワード

    パフォーマー以外で音楽界に多大な影響を与えた人物に贈られる、ロックの殿堂の共同創始者でもある故アーメット・アーティガンの名を冠した<アーメット・アーティガン・アワード>(Ahmet Ertegun Award)の受賞者は以下の通り。

    ・エド・サリヴァン(Ed Sullivan)

    ロックの殿堂財団で会長を務めるジョン・サイクスは声明で次のように述べている。

    「ロックンロールの殿堂入りは音楽界における最高の名誉であり、今秋に2026年の殿堂入りメンバーを祝福できることを楽しみにしています。忘れられない夜になるでしょう」

    現地時間11月14日、ロサンゼルスのピーコック・シアターで開催される2026年の殿堂入り式典は、12月にABCで放送されるほか、Disney+(ディズニープラス)でも配信される。また2027年には、2024年以来、3年ぶりにロックの殿堂が所在するクリーブランドで同式典が開催される予定だ。

    Written By Greer Dalton



  • ローリング・ストーンズ「Wild Horses」解説:60年代の夢が砕け散ったときに生まれた喪失の歌

    ローリング・ストーンズ「Wild Horses」解説:60年代の夢が砕け散ったときに生まれた喪失の歌

    ザ・ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)が、18年ぶりとなる新作スタジオ・アルバム『Hackney Diamonds』を2023年10月20日に発売することを発表した。

    この発売を記念して彼らの過去の名曲を振り返る記事を連続して掲載。

    <関連記事>
    ストーンズ、18年振りのスタジオアルバム『Hackney Diamonds』を10月に発売
    ザ・ローリング・ストーンズが18年振りの新作発表会見で語ったこと

    The Rolling Stones – Wild Horses (Live)

     

    ブライアン・ジョーンズの死

    ザ・ローリング・ストーンズはそれまで6年間にわたってスキャンダルと賛否両論の渦の中にあった。それでもなお、1969年は彼らにとって過去最高にドラマチックな年だったと言って間違いない。

    やがて『Let It Bleed』のタイトルでリリースされるアルバムのレコーディング・セッションは既に始まっていたが、ほとんどのセッションに、ギタリストのブライアン・ジョーンズは参加していなかった。彼は常にドラッグで酩酊状態だったため、たとえその場にいたとしても役に立たなかったのである。

    いやが応でも、何らかの対処が必要だった。この年の5月、ストーンズはオーディションを行い、まだ20歳だった若きギタリスト、ミック・テイラーを採用した。そして6月、ストーンズを結成した張本人だったブライアンはバンドから脱退するように求められた。それから1ヵ月が経ったころ、彼は自宅のプールで水死体となって発見されたのだった。

    ブライアンの死は、当時のミック・ジャガーのガールフレンド、マリアンヌ・フェイスフルに大きな衝撃を与えた。ミックとマリアンヌはオーストラリアへ飛び、ジョーンズの葬儀を欠席した。その後、彼女は薬物の過剰摂取により昏睡状態に陥った。8月にはキース・リチャーズと恋人のアニタ・パレンバーグとのあいだに息子マーロンが生まれ、キースは一児の父親になった。

    やがて10月、ストーンズはアレン・クラインと交わしていたマネジメント契約から解放されることになったが、その結果、このバンドの財政が厳しい状況にあることが明らかになった。とはいえ、バンドの生計を立てるという面では幸いだったことに、ストーンズは3年ぶりにアメリカ・ツアーを開催することが可能になった。それまでの3年間は、犯罪歴を持つブライアンのアメリカ入国が難しかったため、バンドがコンサート・ツアーを行うことは困難だったのである。

     

    曲ができた時

    再びアメリカ・ツアーに出られるというのはストーンズにとって喜ばしい展開ではあったが、必ずしも嬉しいことばかりではなかった。キースとしては、生まれたばかりだった息子と離れたくなかったのである。彼はこう語っている。

    「アメリカに行って、また本腰を入れてコンサート・ツアーを始めなければならないとわかっていた。だけど [俺個人としては] 行きたくはなかった。とても難しい時期だったんだ。子供が生まれてからまだ2カ月しか経っていないのに、どこか遠くに行くっていうのはね。そういう立場にいる人は、いつだって何百万人もいる。それでもやっぱりな……」

    キースは息子と引き離されることに対するそんな不安を抱えながら、ふと12弦ギターを手にして寂しげなマイナー・キーのコード進行をかき鳴らした。そしてサビの部分を考えたときに、突然、2つの言葉が脳裏に浮かび上がってきた。それが「Wild Horses」だったのである。キースはこう語る。

    「あれは、何かがしっくりハマる魔法の瞬間だった。夢を見ていたら、突然、すべてを手にしていたんだ。“Wild Horses (野生の馬)”っていうイメージが浮かんだら、次はどんなフレーズを使うことになる?それは間違いなく“couldn’t drag me away (引っ張られても決して引き離されやしない)”ってやつだ」

    The Rolling Stones – Wild Horses (Acoustic / Lyric Video)

    キースは自分が思いついたアイディアをミックに伝え、それによってこの曲のヴァースが出来上がった。一方マリアンヌは自伝の中で次のように主張している。6日間の昏睡状態から目覚めたとき、心配するミックに向けて彼女が「Wild horses couldn’t drag me away (野生の馬に引っ張られても引き離されやしない)」と請け合ったというのである。当然のことながら、ミックはマリアンヌが回復したことに安堵したが、当時ふたりの関係にはヒビが入りつつあった。この事件も関係の修復にはつながらず、まもなく4年間の付き合いにピリオドが打たれることになる。

    その年の11月、ストーンズのアメリカ・ツアー中に、「マリアンヌがミックと別れ、イタリアのアーティスト/映画監督のマリオ・スキファノと交際開始」という記事が本国イギリスの新聞に掲載された。

    このことが「Wild Horses」の痛烈な歌詞に織り込まれなかったとは考えにくい (この曲の中でミックは、“You know I can’t let you slide through my hands / するりと抜けていこうとする君の手を離しやしない”と歌っている) 。しかしそうした解釈をミック本人は過去にこう否定している。

    「みんな、これはマリアンヌについて書いた歌詞だっていうけれど、俺は違うと思うね。あの時点では、どれもこれもすべて終わった話だったからだ。でも、自分がこの曲の中に感情的な面ですごくのめり込んでいたのは間違いない。この曲はとてもプライベートな作品であり、さまざまな感情を呼び起こす悲しい曲だ。今となってはかなり陰鬱に聞こえるけど、当時はかなり重苦しい時期だった」

    ミックが抱いていた彼の苦悩は、この率直な歌詞の中にあまりにもあからさまに表れている。彼はここで“気品のない女性”のせいで“鈍く痛み”を感じていると歌っている。彼の声は、おそらく過去に例がないほどに儚げだ。ヴァースではとても暖かく切々とした表情を浮かべ、サビの部分ではとても愛情深く聞こえる。そこにキースの孤独なハーモニーが加わることで、そうした情感がさらに強調されている。ミックはこの曲の繊細さについて次のように語っている。

    「こういう曲はこうでなきゃいけないんだ。こういう風に感情を表現しないことにはまるで意味がない。この歌詞を書いたとき、俺はか弱い感じになっていたんだよ」

     

    マッスル・ショールズでの録音

    フロリダ州パーム・ビーチでアメリカ・ツアーを終えてから数日が経過した12月2日、ローリング・ストーンズはアラバマ州フローレンスのマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオでレコーディングに着手した。

    ここは、かつてリック・ホールのFAMEスタジオのハウス・バンドとして活動していた4人のミュージシャンが新たに開設したスタジオだった (彼らは、エタ・ジェイムス、ウィルソン・ピケット、アレサ・フランクリンらとの仕事で高く評価されていた) 。ストーンズは、ここで3日間に亘ってレコーディングを行い、3曲を吹き込んでいる。当時を振り返り、チャーリー・ワッツはこう語っている。

    「ツアーの最中でいい演奏ができる状態のときにレコーディングをするっていうのは、キースの得意技だ。とはいえ、マッスル・ショールズ・スタジオがとても特別な場所だったってことも重要だ。あそこはとても素晴らしいスタジオで、流行の最先端をいっていた。ドラム・セットが高い位置のライザーの上に配置されていたんだ。しかも同じスタジオで働いていた連中が設立したスタジオだったから、そういう場所でレコーディングをやってみたかった」

    エンジニアのジミー・ジョンソンをプロデューサーに迎え、ストーンズはいつものように曲作りに取り掛かった。何時間もかけて根気強くリハーサルを重ね、徐々に曲を洗練させていったのである。レコーディング初日が終わるころにはフレッド・マクダウェルの「You Gotta Move」のカヴァー・ヴァージョンが完成し、2日目には「Brown Sugar」が完成した。そしてスタジオでの作業を始めてから3日目に、彼らは「Wild Horses」に挑戦した。

    You Gotta Move (2009 Mix)

     

    「Wild Horses」のレコーディング

    アメリカ深南部 (ディープ・サウス) のスタジオに入ったストーンズは、インスピレーションを感じずにはいられなかった。FAMEスタジオの壁にはR&Bのサウンドが染み込んでいたのだ。

    ミック・テイラーがアコースティック・ギターをナッシュヴィル・チューニングにすると、曲ははっきりとしたカントリー・テイストを帯びるようになった。「あそこにいると、確かにちょっと違うことをやってみようっていう気になる」とジャガーは語っている。

    ストーンズの忠実なピアニストであり、ロード・マネージャーでもあるイアン・スチュワートは「マイナー・キーの曲では演奏したくない」と言って、ピアノの定位置から降りていた。その代わりを務めたジム・ディッキンソンはプロデューサーのジミー・ジョンソンの友人で、このときはちょうどメンフィスから足を伸ばしてスタジオを訪れたところだった。ジョンソンは次のように振り返っている。

    「ジムは、ギター・アンプの後ろにいた。うちのスタジオにはタック・ピアノがあった。古いアップライト・ピアノで、そのハンマーに鋲を打って、ホンキートンクのような音を出せるようにしていたんだ。とにかく、ストーンズが作り上げたグルーヴに合わせて、ジムがそのピアノをちょこちょこ弾いていたら、キースがそばに来て、“おい、それを弾いてくれよ!”って言ったんだ」

    ミックはリハーサルを進めているあいだに歌詞を固めた。そしてヴォーカルの吹き込みが完了して楽曲は完成した。メイズルズ兄弟が1970年に制作したドキュメンタリー映画『ギミー・シェルター』では、ストーンズが「Wild Horses」のマスターを聴き直しながら、その見事で繊細な仕上がりに浸っている姿が映し出されている。その後の彼らは消耗していた。ジム・ディッキンソンはこう明かしている。

    「セッションが終わって、ラフ・ミックスが出来上がると、ジャガーはそこに座って、マスター以外のテープをズタズタにしてしまった。彼は、ボツになったミックスとアウトテイクをすべて消去したんだ。そして、マスター以外の8トラック・テープをズタズタにして、床にばらまいた。だから、あのときのセッションのブートレグは存在しないんだよ」

    Wild Horses (2009 Mix)

     

    オルタモントの悲劇のあとにグラム・パーソンズが聞いた

    12月7日未明、ストーンズはサンフランシスコのホテルで、直前に経験した事態に向き合わざるを得なくなっていた。その日、オルタモント・スピードウェイで開催した無料コンサートは、ツアーの成功を受けてストーンズがファンに送る感謝イベントとして企画されていた。しかしこのコンサートは開始直後から暴力沙汰に苛まれ、荒れ模様となった (その原因は、手荒な暴走族集団ヘルズ・エンジェルスが警備を担当したことにあった) 。

    それが最高潮に達した結果、ステージの目の前でファンが刺し殺されるという事件が発生した。その現場から無事脱出したストーンズは、ホテルの部屋で友人たちと一緒に緊張をほぐしていた。その中には、フライング・ブリトー・ブラザーズのグラム・パーソンズもいた。

    グラム・パーソンズがストーンズと出会ったのは1968年のことで、その当時の彼はバーズのメンバーとしてロンドンにわたっていた。グラムとキースはカントリー・ミュージックが大好きだという共通点があり、それがきっかけとなってふたりのあいだに友情が芽生えた。

    フォーク・ロック・バンドだったバーズは、フロリダ生まれのグラムが加入したあと、純粋なカントリー・ミュージックへと方向性を転換させていた。しかしグラムはツアーを続ける代わりにロンドンでキースと一緒に過ごすことを選んだため、すぐにバーズから解雇されてしまっていたのだ。

    その後の彼は、やはりバーズのベーシストだったクリス・ヒルマンとフライング・ブリトー・ブラザーズを結成。オルタモントのコンサートに出演した前座バンドの中には、ブリトー・ブラザーズも含まれていた。パーソンズは、その夜のことを次のように振り返っている。

    「あんな出来事を体験して、僕たちはみんな震えていた。ストーンズは次の日に出発する予定だった。やがて [ミックが] こう言ったんだ。“この曲を聴いてくれよ。気に入ってくれるんじゃないかな”。そうして“Wild Horses”を聴かせてくれたんだ」

    それからまもなく、どうやらグラムは「Wild Horses」のマスターテープを受け取ったようだ。これには、グラムかブリトー・ブラザーズのペダル・スティール奏者”スニーキー”・ピート・クレイナウのどちらかに演奏を追加してもらうという狙いがあったらしい。彼らの加えた演奏がどんなものであったにせよ、結局ストーンズはそれを採用しなかった。とはいえ、グラムとブリトー・ブラザーズはこの曲を覚え、自分たちのセカンド・アルバムでカヴァー・ヴァージョンを録音した。

    そのアルバム『Burrito Deluxe』は1970年5月にリリースされた。ストーンズ自身の「Wild Horses」が世間の人の耳に触れるのは、それよりさらに1年ほど先のことだった。こうした経緯をふまえて、この曲の制作過程にグラムが関わっていたのではないかと考える人がたくさんいる。真相を解き明かすのは難しい。ただしブリトー・ブラザーズのカヴァーは、ストーンズのヴァージョンと同じように甘い仕上がりではあるけれど、身にしみるような痛切さが欠けている。その点ははっきりしている。

    Wild Horses

     

    リリース

    ザ・ローリング・ストーンズは、さらなる新曲をリリースする前に、ビジネス面を整理したいと考えていた。アレン・クラインと結んだ契約には、1960年代にストーンズが録音したジャガー/リチャーズ作品全曲 (これには「Brown Sugar」や「Wild Horses」なども含まれていた) の所有権がクラインにあると明記されていた。このため、彼をマネージャーから解任することが何より先に必要だったのである。

    ストーンズは1970年に自らのレーベルである”ローリング・ストーン・レコード”を立ち上げ、1971年4月に『Sticky Fingers』をリリースした。このアルバムの3曲目に収録されている「Wild Horses」は、そのほろ苦い美しさがすぐに評価されるようになった。

    この曲は、当時カナダとアメリカでのみシングルとしてリリースされた。その後1995年にストーンズのアルバム『Stripped』で再録音され、その新しいヴァージョンがシングル・カットされると、ヨーロッパではオリジナル版よりも好成績を収めた。

    「Wild Horses」は、長年のあいだにさまざまなアーティストたちがさまざまなスタイルでカヴァーし、レコードやライヴで披露している。その例としては、ザ・サンデーズの浮遊感のあるインディー・ヴァージョン、アリシア・キーズのR&Bピアノ・バラード、ガンズ・アンド・ローゼズの燃え立つようなギター・バトル、シャロン・ジョーンズ&ザ・ダップ・キングスのビンテージ・ソウル・アレンジなどが挙げられる。そしてスーザン・ボイルまでもがこの曲を歌っている。こうしたカヴァーを聞けば、すぐに人の心を動かす感動的な要素がこの曲に含まれていることがわかるだろう。

    Wild Horses (Live In Las Vegas, Thomas & Mack Center – January 25, 1992 / Visualizer)

    この曲の魅力は繊細なところにある。そのせいか、ストーンズのコンサートではセットリストの定番にはなっておらず、演奏される回数も少ないほうだ。ただしステージで披露される場合、「Wild Horses」は曲にふさわしい気高さをもって扱われる。時には特別なゲストが情熱的な歌声を披露し、曲をさらに高貴なものにしてきた。

    たとえばデイヴ・マシューズ、エディ・ヴェダー、フローレンス・ウェルチがゲスト・ヴォーカリストとして参加し、ミックの力強いヴォーカルと共演している。そうした演奏を聞けばわかるとおり、ストーンズがプライベートな側面と魂を最高にさらけ出したこのバラードは、時代を超える魅力を持っているのである。

    The Rolling Stones – Wild Horses (Live At London Stadium / 22.5.18) ft. Florence Welch

    Written By Simon Harper


    最新アルバム

    ザ・ローリング・ストーンズ『Hackney Diamonds』

    2023年10月20日発売
    デジパック仕様CD
    ジュエルケース仕様CD
    CD+Blu-ray Audio ボックス・セット
    直輸入仕様LP
    iTunes Store / Apple Music / Amazon Music


    シングル

    ザ・ローリング・ストーンズ「Angry」
    配信:2023年9月6日発売
    日本盤シングル:2023年10月13日発売
    日本盤シングル / iTunes Store / Apple Music / Spotify / Amazon Music / YouTube Music



  • プレスリーやニール・ダイアモンドらのドラムを務めたロン・タットが逝去。その功績を辿る

    プレスリーやニール・ダイアモンドらのドラムを務めたロン・タットが逝去。その功績を辿る

    エルヴィス・プレスリーやニール・ダイアモンドら多くの大物ミュージシャンたちのバックを務めたドラマーのロン・タット(Ronnie Tutt)が83歳で逝去した。彼の妻ドナが、米メディアTMZに語ったところによると、10月16日、彼はテネシー州フランクリンの自宅で家族に見守られながら息を引き取ったという。

    <関連記事>
    オールマン・ブラザーズ・バンドの20曲
    エルヴィス・プレスリーが亡くなり、エルヴィス・コステロがチャートに登場

    Neil Diamond – Cherry, Cherry (Live At The Greek Theatre / 2012)

    エルヴィス・プレスリー・エンタープライズは、同日、公式サイトで彼の訃報を伝え、次のように追悼を捧げている

    「深い悲しみに包まれています。彼は伝説的なドラマーであるだけでなく、ここグレースランドの多くの人たちにとって良き友人でした。彼の死はとても惜しまれることでしょう」

    ダラス出身のロン・タットは、その60年に及ぶキャリアの中で、ビリー・ジョエル、ニール・ダイアモンド、エミルー・ハリス、ジェリー・ガルシアらと共演を果たし、彼の演奏は、ビリー・ジョエルの『Piano Man』(ビリーにとって初のヒット曲である同名のシングルを含む)、エルビス・コステロの『King of America』、グラム・パーソンズのアルバム『GP』、『Grievous Angel』など数々の名作アルバムで聴くことができる。

    Billy Joel – Piano Man (Official HD Video)

    エルヴィス・プレスリーとの共演

    ロン・タットは、エルヴィス・プレスリーのバックバンドとして知られるTBC(Taking Care of Business)バンドの一員としてギタリストのジェームズ・バートンらと共に1969年のツアーに参加し、かの有名なラスベガス公演のオープニングでも共演。英メロディ・メイカー誌に掲載された1976年のエルヴィス・プレスリーのLA公演のレビューには、TBCバンドの演奏について“機械的ではあるが見事”と評されている。

    2016年に行われたオーストラリアのエルヴィス・ファンクラブとのインタビューの中で、ロン・タットは、同ツアーのオーディションでエルヴィスに実際に会うまでは“大したファンではなかった”ことを認め、こう語っている。

    「彼に直接会って、彼の持つカリスマ性を理解した途端に、彼のことを愛さずにはいられなくなるんです。私たちはすぐに意気投合しました。視覚的にも、私たちは常にお互いを見ていました」

    1970年代半ば、エルヴィス・プレスリーとの共演を続ける傍ら、ジェリー・ガルシア・バンドと共にツアーに同行するようになったロン・タットは、1978年の『Cats Under The Stars』をはじめとする彼のスタジオ録音にも参加。2017年のローリング・ストーン誌のインタビューで、彼はこの2つのバンドの美意識が対照的だったことを明かしていた。

    「ある晩、ラスベガスでラインストーンをあしらったセットアップを着ていたかと思えば、翌日の夜にはタイダイのTシャツとジーンズ姿でガルシアと出かけていたから、いつもそんな自分が可笑しかったです。社会的に見ても、全くの別世界でしたね」

    「エルヴィスの音楽は、より挑戦的で、どんな演奏も事足りないんです。一方でジェリーとは、実際にそんな話をしたことはありませんでしたが、どんな構成であっても、私の役割はバンドのまとめ役だと思っていました」

    Blue Suede Shoes (August 23, 1969 – Dinner Show)

    ロン・タットは、1977年にエルヴィス・プレスリーが亡くなるまで彼との仕事を続け、その後何年にもわたってTCBバンドのメンバーと共演を果たした。また、ジョニー・キャッシュ、ケニー・ロジャース、グレン・キャンベル、ロイ・オービソン他多くのアーティストのライヴに参加している。

    彼の妻ドナはTMZの取材に、彼は晩年、心臓病を患い、もうドラムを叩くことができなかったことを明かしている。

    Written By Tim Peacock




  • グラム・パーソンズの最後:棺を盗み出され、砂漠で火葬された遺体

    グラム・パーソンズの最後:棺を盗み出され、砂漠で火葬された遺体

    結果論ではあるが、本名セシル・コナー3世、私たちが知るところのグラム・パーソンズ(Gram Parsons)は、速く生き若く死ぬ運命にあったのかもしれない。ジョージア州ウェイクロス出身の彼は、数年の間、創造性に溢れた短く濃縮された時間の中で快楽主義的なライフスタイルを貫いたが、その生活は彼の健康に影響を及ぼした。それでも、1973年9月19日、カリフォルニア州のジョシュア・ツリー国定公園(現国立公園)に向かったグラム・パーソンズが最期を迎えたという訃報は、悲劇的なニュースだった。

    大好きだった場所への遠出は、新しいツアーに出る前の休養として計画されていた。その年の前半にはライヴを行っており、「Drug Store Truck Driving Man」「Sin City」や「That’s All It Took」など、カントリー・ロックというジャンル自体を築くことに一石を投じた楽曲を演奏していた。

    しかし、旅の2日目にグラム・パーソンズは寝室で意識がないところを発見された。あらゆる蘇生措置を試みたものの、成功することなく午前0:15にハイデザート記念病院で死亡が確認された。死因は、モルヒネとアルコールの過剰摂取だった。マネジャーのフィル・コフマンと元ザ・バーズのローディーだったマイケル・マーティンが彼の棺を盗み出し、カリフォルニアの砂漠にあるキャップ・ロックに連れて行った。グラム・パーソンズの希望通り、そこで遺体に火がつけられた。グラム・パーソンズはのちにルイジアナ州メテリーにあるガーデン・オブ・メモリーズ墓地に埋葬された。

    しかし、グラム・パーソンズの音楽的な伝説は豊かなものであり、初期にはインターナショナル・サブマリン・バンドと、そして1967年に西海岸に移ってからは短かったが重要な時間をザ・バーズと過ごし、クリス・ヒルマンとともにフライング・ブリトー・ブラザーズで活動し、最後に2枚の偉大なるソロ作品、1973年の『GP』とグラム・パーソンズの死後にリリースされた遺作『Grievous Angel』がある。

    『GP』がリリースされた際、ローリング・ストーン誌はグラム・パーソンズを「ジャガー=リチャーズ、レイ・デイヴィスやその他の称賛されているアーティストと同じように、独特でパーソナルなヴィジョンを持っているアーティストだ」と称した。

    彼の訃報について、ヴィレッジ・ヴォイス誌は元ザ・バーズのドラマー、マイク・クラークの発言を引用している「グラムが好きじゃないドラッグはなかったんだ。そこに教訓があるということかもね」。

    Written by Paul Sexton



    グラム・パーソンズ & フライング・ブリトウ・ブラザーズ『Sleepless Nights』

    spotify_logo_link  download_jtunes_link applemusic_link

    uDiscoverのフライング・ブリトー・ブラザーズ Best Of プレイリストをSpotifyで聴く

  • ヌーディー・コーン、仕立て屋でありヌーディー・スーツを創った伝説の男の半生を孫娘のジェイミーが振り返る

    長年、ウェスタンというポピュラー・カルチャーの定義は“無骨で寡黙な男たち”、“ダスティ・ブーツ”、そしてそれらと同じくらい飾り気のない“服装”だった。だがそこへ登場したのがヌーディー・コーンという働き者のウクライナ移民の仕立て屋はきら星の如きロデオ・マンの時代を先導し、ウェスタンのファッションとカントリー・ミュージックを一変させたのだった。

    このスター御用達の仕立て屋の名前は聞いたことがなくても、ヌーディー・スーツを目にしたことがない人はまずいないはずだ。恐ろしく緻密な刺繍飾りのデザインと、細かくびっしりとちりばめられたラインストーンが特徴の、これぞアメリカーナの魅力を掛け値なしに純粋な形で表現したアートである。

    Caroline Ashleigh – Antiques Roadshow – Nudie Cohn

     

    かつてはローリング・ストーン誌の表紙を飾ったこともあるヌーディー・コーンは、カントリー界、ロック界、そしてハリウッドのスターたちを40年あまりにわたって着飾らせてきた張本人である。彼の顧客リストはハンク・ウィリアムス、ロイ・ロジャース、ドリー・パートン、ジョニー・キャッシュらカントリー創生期の大御所たちから、ジョン・レノンエルトン・ジョン、シェール、グラム・パーソンズまで多岐に及び、とりわけ有名なのがエルヴィス・プレスリーのグレイテスト・ヒッツ・アルバム『50,000,000 Elvis Fans Can’t Be Wrong』のカヴァー・アートワークでお披露目された、時価1万ドルのゴールドのラメ・スーツだった。

    「彼があのスーツを着て滑るようにステージに姿を現すと、黄金色の火花が散ったんですって」とヌーディー・コーンの孫娘で、一族が代々経営していたカリフォルニア州ノース・ハリウッドの『Nudie’s Rodeo Tailors』の運営を手伝っていたジェイミー・コーンが言う。

    ヌーディー・コーンはカントリー・ミュージックとファッションにある種のけばけばしさとショウマンシップを持ち込み、アメリカン・ポップ・カルチャーに現代にも通じるファッションを確立した。ヌーディー・スーツを好んで着ている現代のカントリー・スター、ミッドランドは、uDiscover Musicにこう語ってくれた 「俺たちはアーティストなんだ……税理士みたいなナリをする気はないんだ」。グラミー賞授賞式のレッド・カーペットからランウェイを眺めても、ますます多くの人々が彼の編み出した芸術作品を熱心に再現しようとしており、ヌーディーの存在感は今も絶大だ。

    Midland – Make A Little

     

    「どれもみんな代表的なデザインよ」とジェイミーは言う。「おじいちゃんが手がけたどのデザインにも物語があるの。その物語はずっと受け継がれてゆくのよ」。

    ヌーディーの物語とは、彼が子供の頃に憧れていたカウボーイ・ウェスタンと同じくらい、典型的なアメリカ人の物語だ。多くの移民たち同様、彼の興味深い変名はエリス島[訳注:アメリカにやってきた移民たちの入国手続きが行なわれる場所]でのたどたどしい英語の発音が元で、ヌータ・コトリャレンコがヌーディー・コーンにされてしまったのだった。彼は僅か11歳で、生まれ故郷のキエフから、兄のユリウスと共に両親の手でニューヨークに送り出されて来たのである。年かさの兄が早々に女の子に興味を惹かれる一方で、ヌーディーが見出した楽しみは、街の古い映画館でウェスタン映画を観ることだった。

    彼の父親はブーツ職人だったので、ヌーディーは何とか手に職と言えるほどの裁縫のスキルは身につけていた。それから数年間、アメリカ中を転々としながら仕事をこなした後、新妻のボビーを連れてニューヨークに戻って来た彼は、ヴォードヴィル・アクトやバーレスクのパフォーマーたちのために派手な飾りつきのGストリング[訳注:日本ではバタフライと呼ばれる、ストリッパー等が舞台で使用するヒモ状の下着]を仕立てる、その名も「Nudie’s For The Ladies」というおあつらえ向きの屋号を掲げ、夫婦で最初の商売を旗揚げした。やがて彼は吸い寄せられるように西へと向かい、ヌーディー・コーンとその一家はハリウッドに店を構え、更に後にはサン・フェルナンド・ヴァリーに落ち着いた。程なくして彼が憧れていた‘カウボーイたち’が彼の顧客となったが、その第一号はウェスタン・スウィングのミュージシャン、テックス・ウィリアムズで、彼はニューディーの後援者として、ミシン1台の購入代金として150ドルを貸し付けてくれた。この援助で彼は商売を始めることが可能になり、それがヌーディーの精巧なカントリー・ウェア御用達の仕立て屋としての足がかりとなったのである。

    ハリウッドからお声がかかるようになるまでにはそれほど時間はかからなかった。最初はジーン・オートリーで、続く “King Of The Cowboys(カウボーイたちの王様)”、ロイ・ロジャースは、ヌーディーのデザインを彼と彼の妻デイル・エヴァンスが出演していた人気TV番組 『The Roy Rogers Show』の中で採用した。このロイ・ロジャースとの運命的な出会いと関わりが、ヌーディーのクリエイティヴな発想に大きなチャンスを与えてくれたのである。

    ロイ・ロジャースとデイル・エヴァンス、1989年の第61回アカデミー賞授賞式にて

    「ロイは言ったんだそうよ、『なあ、あんたの評判はそこら中で聞いてるよ。実は今度マディソン・スクエア・ガーデンでプレイするんだけど、その時に着る衣装が欲しいんだ。てっぺんの方の安い席の若い子たちまで、ステージの上の俺が見えるようなやつがさ』って」とジェイミーは語る。

    「そこでおじいちゃんは、シャツにフリンジをつけて、そのフリンジのひとつひとつに上から下までラインストーンを付けるっていうアイディアを思いついたの。それがロイ・ロジャースのトレードマークになったのよ」。

    ロイ・ロジャースとの仕事はヌーディーの名前を更に広めることになったが、ハリウッドからその向こうまで、彼の評判を不動のものにしたのは、何と言ってもレフティ・フリッツェルとの仕事だった。1957年、このホンキー・トンク・シンガーから、大勢の出演者たちの中で断トツに目立ちたいという相談を持ちかけられ、仕立て屋ヌーディー・コーンはこう答えた。「レフティ、もしもあんたに着こなすガッツがあるなら、こいつはヒットだ、俺が請け合うよ」。彼はスーツの両方の襟の折り返し部分にブルーのラインストーンをびっしりと散りばめ、ここにひとつのトレードマークが生まれたのだった。

    ヌーディー・スーツはそれを纏う人々と同じくらいカラフルだった。一着一着が完全なる一点ものであり、注文主ひとりひとりのイメージを反映したデザインが施されていた。一面バラで覆われたスーツと、星の装飾が施された帽子はエルトン・ジョンの「Rocket Man」のカヴァー・アートに。

    「elton john rocket man」の画像検索結果

    そして幌馬車の車輪はポーター・ワゴナーに。そして勿論、かの有名なケシと錠剤と麻の葉のデザインはアメリカーナの父祖グラム・パーソンズのために。フライング・ブリトー・ブラザーズのメンバーたちは全員カスタム・メイドのニューディー・スーツをあつらえており、かのシンガー・ソング・ライター兼ギタリストと仕立て屋は特別な関係を築いていた。

    Flying Burrito Brothersの象徴的なNudieスーツ

    「グラム・パーソンズはヌーディーのことを理想の父親像として崇めていたし、おじいちゃんはグラムを自分では持ったことのない息子として見ていたの」とジェイミーは言う。「あの人たち、俳優に、ミュージシャンに、スターと呼ばれる人々。彼らはみんな友達になったり、家族も同然になったわ。私が娘を産んで病院から戻ってきたその日に、マーティ・ロビンスが彼女を抱っこしてる写真があるわよ。私はグレン・キャンベルの子供さんたちの誕生パーティに招ばれてたしね。私は彼らと一緒に大きくなったのよ」。

    ヌーディーの有名人のお得意様の中でも、ハンク・ウィリアムスなどはいささか孫娘のジェイミーには年を取り過ぎていたかも知れないが、70年代のティーン・アイドル、デヴィッド・キャシディが店に入ってきたのは、10代の頃彼に夢中だったジェイミーにとっては非現実的な光景だった。それから随分経って、ヴェガスで行なわれたデヴィッド・キャシディのショウをジェイミーが観に行くと、テレビ・ドラマから出てきたスターはパフォーマンスの最中にステージを降りてきて彼女の膝に座った。ショウが終わった後で彼女がバックステージに行くと、彼はこう言ったと言う。「キミのおじいさんがどれほど素晴らしい人だったか、きっとキミには分からないだろうなぁ」。

    Hank Williams – Hey Good Lookin'

     

    ヌーディー・コーン対する深い共感は、恐らくヌーディーの仕事に対する姿勢とも関係しているのだろう。彼が未払いの代金を免除したり、刑務所に入った顧客の保釈金を払ってやったり、社会復帰に手を貸したというエピソードは幾つもある。

    「ヌーディーの店はただ単に行ってカスタム・メイドのスーツを造ってもらうための場所と言うより、みんなが集まる場だったのよ」とジェイミーは言う。「店ではいつもジャム・セッションが行なわれていたわ。ラジオの生中継でライヴを演ったこともあってね、その時には私はひたすらコーヒーを淹れ続けるって役目を仰せつかったの」。

    この時の役目が、ジェイミーに自分のカフェ「Nudie’s Custom Java」を開くというアイディアをもたらした。現在この店はコーヒーハウスと、かつてヌーディーの店に飾られていた数え切れないほど沢山の写真やメモラビリアの展示場所を兼ねている。前述の長いジャム・セッションの最中には、ヌーディーが自前のマンドリンで参加することもあった。彼は後に自分名義でもレコードを作り、『Nudie And His Mandolin』と題されたそのアルバムは、カントリー専門の音楽番組『Hometown Jamboree』の司会者として有名なカントリー歌手、クリフ・ストーンがプロデュースを手掛け、1974年に発売されている。プレスされたレコードの半分近くは、彼が自分であちこちに無料でバラまいていただけだったとジェイミーは言うが、ヌーディーにとって音楽がその生涯を通して情熱を注ぐ対象であったことは間違いない。

    「カントリー・ミュージックはロックン・ロールを凌駕したんだ」1969年、ヌーディーはローリング・ストーン誌に語っている。「俺は誰が服を買ってくれようと構わない。とにかくベストを尽くすだけさ」。

    ZZ Top – Gimme All Your Lovin' (Live)

     

    ヌーディーは音楽の進化に順応し、ジョン・レノンやソニー&シェール、ZZトップ、デヴィッド・リー・ロスらロック・アイコンたちのためにスーツをデザインし、スライ・ストーンやアレサ・フランクリンといったところまで顧客に迎えた。年を重ねるうち、ニューディーはカスタム仕様のニューディー・モービルズでサンセット・ストリップを転がし、ロキシー・シアター、ウィスキー・ア・ゴー・ゴーやレインボー・ルームといった地元の有名クラブに出没しては、派手な衣装を求めている新しい顧客を探すようになった。

    ヌーディー・スーツを彼らの様式に則った中世風タペストリーとするなら、ヌーディー・モービルズはそれ自体ポップ・カルチャーのアイコンである。内装にはスーツと同じ精巧なチェーンステッチが施され、車の外側に着けられた子牛の角と銀のドル硬貨、六連発銃に至るまで、街を走り回るこの車はそのままヌーディーのシンボルだった。ヌーディー・モービルズは何台も作られたが、今やその大半は(スーツ同様)一般人には手の届かない場所にある。ベイカーズフィールドのバック・オーウェンズ・クリスタル・パレス、サン・フェルナンド・ヴァリーのザ・ヴァリー・レリックス・ミュージアム、ベルギーのエンターテイナー、ボッベジャーン・ショーペンがベルギーに設立した西部劇のテーマパーク、ボッベジャーンランド。そしてこのほどナッシュヴィルにオープンしたばかりのヌーディーズ・ホンキー・トンクは、ジェイミーが情熱を注いできた最新プロジェクトである。

    Nudie's Caddy is a cowboy's dream car

     

    ジェイミー・コーンは先頃ナッシュヴィルに相次いで開館したパッツィ・クライン博物館やジョニー・キャッシュ博物館の仕掛け人であるビル・ミラーと手を組み、所有するコレクションから選りすぐりのヌーディー・スーツ数着と、2台のヌーディー・モービルズをこの新しいホンキー・トンクな施設に貸し出している。3階建てで、延べ床面積1万2000平方メートルの酒場には、ライヴ演奏用に3つのステージが作られ、ミュージック・シティであるナッシュヴィルを訪れる人々は、ヌーディー独特の華やかなデザインや、それを生み出すインスピレーションとなった類の音楽を身をもって体験することができるのだ。

    いつのまにか一族の歴史学者という役割を背負った格好のジェイミーは、裁縫机の奥からではなく、こうした表の仕事を通してヌーディーの遺した遺産を維持することに一役買っているのである。

    「祖父が私に裁縫の技術を学ばせようとしなかったのは、彼自身に関して、そしてビジネスの仕組みについてもっと知って欲しいと思ってたからなのよ」とジェイミー・コーンは言う。「そのことについてはとても感謝してるの。今の私はお客さんに売れるようなものは何ひとつ縫えないけど、彼らに関することなら何でも話せるもの」。

    By Laura Stavropoulos



    歴代最高のカントリー・ヒッツのプレイリストのフォローはこちらから。

     

  • コステロやキースも敬愛するジョージ・ジョーンズ:カントリーの歴史の中で最も偉大な歌手の一人

    “ポッサム”というあだ名で呼ばれたカントリーの伝説的歌手は、1931年9月12日にテキサス州サラトガで生まれた。彼をカントリーの歴史の中で最も偉大な歌手として考える人はたくさんいる。言うまでもなく、これはジョージ・ジョーンズの話だ。

    00574.jpg

    ジョーンズは1955年に初めてのヒット曲「Why Baby Why」を出して以来、50年近くに亘ってカントリー・シーンでとてつもない存在感を示してきた。今のところ、最後にヒットしたのは2002年の「50,000 Names」それまでにジョーンズはナンバー・ワン・シングルを13枚出してきた。その中には、「She Thinks I Still Care」「We’re Gonna Hold On」「Near You」(妻のタミー・ワイネットとのデュエット)、「He Stopped Loving Her Today」といった不朽の名曲が並んでいる。

    その多く(特に、彼がカントリー界の人気者になってからの作品)は、本人が抱える薬物中毒、タミーとの夫婦関係の悪化などの問題が世間に広まったおかげで、さらに実感を持って受けとめられることになった。

    Photo of George Jones

    ジョーンズは、忠実なるファンだけでなく、カントリー界の他のミュージシャンにも深い影響を及ぼしてきた。「ジョージ・ジョーンズは今もお気に入りの歌手だ」とウェイロン・ジェニングスは1971年に語っている。「彼は史上最高の歌手だと思う。ジョージ・ジョーンズよりも上手に歌える人間なんて、ひとりもいないんじゃないか」。

    ジョージ・ジョーンズが存在感を放っているのは、カントリー界の中だけではない。ボブ・ディランキース・リチャーズエルヴィス・コステロ、リンダ・ロンシュタットといったロックの大物ミュージシャンも彼を讃えている。このうちリンダは、1974年にこう語っている。「お気に入りの歌手はジョージ・ジョーンズ。あの人は本当にいい。レイ・チャールズと同じくらい素晴らしい」。

    keith-richards-george-jones

    またエルヴィス・コステロはジョーンズと一緒にレコーディングをしている。それはキース・リチャーズも同じ。彼はやはりジョーンズの大ファンだった故グラム・パーソンズと付き合ううちに、ファンになった。ジョーンズとデュエットした「Say It’s Not You」について、キースは自伝の中でこう書いている。「ジョージは素晴らしい共演相手だった。なにより、あんな髪型をしていたのだから。とてつもない歌手だ」。

    Written By Paul Sexton



    ♪ プレイリスト『All Time Greatest Country Hits

  • 全ては『Heartbreaker』から始まった。ライアン・アダムスのデビュー作

    全ては『Heartbreaker』から始まった。ライアン・アダムスのデビュー作

    オルタナティヴ・カントリー界のスターであったバンド、ウイスキータウンは熱狂的なファンを惹きつけることに成功していた。2000年にフロントマンのライアン・アダムスがソロ・アーティストとして活動を始めるとすぐにファン層が出来上がり、彼をまるで戻ってきたヒーローのように歓迎したことは驚きではない。デビュー・アルバム『Heartbreaker』は、発売時にライアン・アダムスが行ったソロ・ライヴを観た幸運な者たちから今でも静かに尊敬され続けている。それは親密なライヴで、ライアン・アダムスと増え続けていく信奉者たちの間に生まれた揺るぎない絆を築いた。

    アルバムが2000年9月5日に発売された時、ウイスキータウンは混乱状態に陥っていた。最後の作品となった『Pneumonia』は前年にレコーディングされたが、レーベル内で起こっていた混乱のせいで2001年まで発売されなかった。しかしやっと発売になった時にはライアンのソロ『Heartbreaker』がメディアの見出しを飾っていた。ライアン・アダムスをオルタナティヴ・カントリーの先駆者(その後のキャリアを考えると、彼をひとつのジャンルにくくるのは無駄なことであるが)にした15曲を含む『Heartbreaker』は、決定的な別れをテーマとしたアルバムであり、ライアン・アダムスが愛するニューヨーク市への賛歌となった。

    Ryan Adams Heartbreaker Pax-Am Vinyl Label

    「Oh My Sweet Carolina」や「Come Pick Me Up」などの楽曲を聴いた者にそれが記憶として永遠に刻まれたことを考えると、アルバムからシングルが発売されなかったことは信じがたい。USチャートにも登場しなかった(UKトップ200には何とかランクイン)。その『Heartbreaker』が今では傑作として扱われ、ライアン・アダムスの曲作りの素晴らしさを証明している。あのエミルー・ハリス(グラム・パーソンズと組んだことを考えれば、彼女は才能ある作曲家をちゃんと聴き分けられる)も「Oh My Sweet Carolina」のデュエットで参加している。

    しかし、それは作品の素晴らしさのほんの一部にしか過ぎない。直後に素晴らしい作品『Time (The Revelator)』をリリースするギリアン・ウェルチとデイヴ・ローリングスがライアン・アダムスにぴったり合う曲を提供し、プロデューサーのイーサン・ジョンズも少しだけ協力している。“心をさらけ出すシンガーソングライター”のモードに入りながら、作品を通じてライアン・アダムスは音楽スタイルの幅広さを披露した。「My Winding Wheel」はカントリー・ロックの素晴らしい見本であり、パット・サンソンの心地よいオルガンが曲に更に深みを与えている。

    My Winding Wheel

    「Call Me On Your Way Back Home」の始まりではその心をむき出しにし、後からバンドがその苦悩を沈めていく。その優しいシンバルとオルガンで「Amy」はライアン・アダムスの傷ついた心に直接訴えかける。バンジョーと繋がり合うドラムで「Bartering Lines」は、命をかけた男の不幸をつづる手紙となっている。

    同病相哀れむと言うが、悲しみに溺れたいのであれば、この作品の中で癒やしを見つけられるだろう。しかし、ロカビリー調でライアン・アダムスの初期の冒険心を表す元気さとメランコリーのバランスで奏でられる「To Be Young (Is To Be Sad, Is To Be High)」の次に激しい「Shakedown On 9th Street」を聴けば、どっちかひとつだけではなく、両方のタイプの曲を聴きたくなるだろう。

    Shakedown on 9th Street

    アルバムの1曲目「(Argument with David Rawlings Concerning Morrissey)」では、ライアン・アダムスとデイヴ・ローリングスがモリッシーのある曲が『Bona Drag』と『Viva Hate』の両方に収録されているかどうか言い合っている。ソロ・キャリアをこのようなお喋りから始めるのは不思議なのかも知れないが、その内容には後の音楽を予告する部分も含まれており、「Love Is Hate」や後のパックス・エーエムからのシングル等ではザ・スミスのようなギターが使用されている。そのようにして『Heartbreaker』を始めることは、彼の少しだけずれたユーモアのセンスを表しており、それはライアン・アダムスらしいステージ上でのキャラクターでもある。

    そしてその後に生まれる音楽の種を植え付けた作品でもある。それは、増え続けていくライアン・アダムスの作品のコレクションの中だけではなく、世に存在するすべての素晴らしい作品とくらべても、正当に傑作として認められている。

    Written By Jason Draper

    https://www.youtube.com/watch?v=buAu6ZbD6vs&feature=emb_title



    ライアン・アダムス / Heartbreaker

    btn_store_link spotify_logo_link download_jtunes_link applemusic_link

     

  • サンディ・デニーが加入したフェアポート・コンヴェンションのセカンド・アルバム『What We Did On Our Holidays』

    サンディ・デニーが加入したフェアポート・コンヴェンションのセカンド・アルバム『What We Did On Our Holidays』

    フェアポート・コンヴェンションの創立時のメンバー、アシュリー・ハッチングスによると、バンドの初期では、彼らは決してブリティッシュ・フォークに分類されていなかった。しかしバンドの形成期において、ジョニ・ミッチェルやレナード・コーエン(どちらともアシュリー・ハッチングスは対面している)らの北米のシンガー・ソングライターの作品を称賛しており、その音楽は彼らの遺伝子に入り込んでいた。

    Fairport-debut-album

    フェアポート・コンヴェンションは、1968年に『Fairport Convention』でデビューを果たす。このアルバムは1967年後半に録音され、翌年の6月にリリースされた。バンドは、ライヴで各地を回ることで、その評判をあげていった。「僕らは、1967年に活動を始めたんだ」と創設メンバーのアシュリー・ハッチングスは昨年、プログ・マガジンのためにポール・セクストンに語った。「当時の僕らはアメリカのアーティストのコピーをしていたようなものだったから、自分たちが成功するなんて思ってなかった」。

    「しかし、ジョン・ピール(非常に影響力の大きいBBCのDJ)や多くの人が、セカンド・アルバムまで応援してくれてたんだーおそらく、サード・アルバムもだと思う。音楽的にはよりフォーク色が強まっていった。サンディ・デニーが加入して、もしくはデイヴ・スウォーブリックが加入したことで、突然フォークになったとしても不思議はないよね」。

    「リチャート・トンプソンとサイモン・ニコルと僕、そしてはじめはジュディ・ダイブルはいつもフォーク・クラブに行っていて、それは僕らのDNAの一部だった。だけど、1969年になる頃には、アメリカからの影響だけでそれを続けるのは無理だと気が付いた」。

    「そこ頃までには、僕はローマでザ・バーズと出会ってグラム・パーソンズと話をしたんだ。彼はちょうどバンドに加入したばかりだった。そして、ザ・バンドにも出会ったよ。そして、僕たちの中でもようやく合点がいったんだ。“歴史に残る音楽を自分たちのヴァージョンにしてやってみよう”とね。それからは何も振り返らなかった。1969年はとてもに重要な年になったんだ」。

    そして、意外なことに1969年は、フェアポート・コンヴェンションのセカンド・アルバム、サード・アルバム、フォース・アルバムの3枚のアルバムがリリースされた年でもある。われわれは今回、セカンド・アルバム『What We Did On Our Holidays』に焦点を絞って紹介していこう。この作品は初めて、サンディ・デニーの印象的なヴォーカルをフィーチャーした作品だ。彼らのソング・ライティングの泉に、彼女の才能が加わり、その後彼らの十八番となっていくブリティッシュ・フォークの方向にグループが向かったように感じられる作品である。(サンディ・デニーはフェアポート・コンヴェンション脱退後、短命ではあったがフォザリンゲイという名のグループで活動した)

    彼らの代表曲にはジョニ・ミッチェルの「Eastern Rain」やボブ・ディランの「I’ll Keep It With Mine」のカヴァーもあるが、6人のメンバーはそれぞれが、またはグループとして、アルバムのソングライティングにクレジットされている楽曲も多く存在する。

    エレクトリック、アコースティック・ギタリストのリチャード・トンプソンは、『What We Did On Our Holidays』リリース時にはまだ19歳だったが、すでに3曲自身の曲を提案しており、その中にはグループの不滅の代表曲であり、ショウの終りに演奏される「Meet On The Ledge」が含まれている。また、バンド仲間と共作した楽曲も2曲あり、また彼らは2曲のトラディショナル曲をアップデイト、そのうちの1曲は抗いがたいほど魅力的な「She Moves Through The Fair」である。

    またヴォーカリスト兼パーカッショニストのイアン・マシューズとドラマー/パーカッショニスト/ヴァイオリニストのマーティン・ランブルも楽曲を制作、そしてアシュリー・ハッチングスも彼が作曲した「Mr. Lacey」でロックン・ロールを持ち込んでいる。そして、アルバムは、サイモン・ニコルの「End Of A Holiday」で締めくくられている。

    フェアポート・コンヴェンションがサード・アルバム『Unhalfbricking』ではじめてUKチャートに姿を現すまでには、数ヶ月あった。しかし、『What We Did On Our Holidays』は現在までの半世紀に及ぶほど続いている物語の生き生きとした序章なのだ。

    Written By Paul Sexton



    reDiscover Fairport Convention’s ‘What We Did On Our Holidays’

    フェアポート・コンヴェンション『What We Did On Our Holidays』

    spotify_logo download_jtunes applemusic