本当に知っておくべき見過ごされた音楽のパイオニア

7月 3, 2017


本当に知っておくべき見過ごされた音楽のパイオニア

皆さんは今までに作られた最高の音楽を全て聴いたと思いますか? 1940年代の大スター、アル・ジョルソンがよく言っていたように、あなたはまだ何も聴いていない。生まれる時代が早すぎたり、大衆向けには風変わり過ぎたり、ただただ運が悪かったりと理由は様々だが有名になれなかったものの、多大な影響を及ぼしたアーティストは数多くいる。時にはアーティストよりも有名なファンによって脚光を浴びた者もいれば、時代が彼らに追いつくのをまつしかない者もいた。ギター・ヒーローと言われて思い浮かぶ著名人といえば、ジミー・ペイジ、エリック・クラプトン、ヴァン・ヘイレン、あるいはリチャード・トンプソン、パット・メセニー、トム・ヴァーレインといったカルト系アーティストの名前が思い浮かぶかもしれない。しかし、その彼らが聴いていたアーティストはどんなアーティストなのだろうか?

チャーリー・クリスチャン、アルヴィノ・レイ、ジャコ・パストリアスのような楽器の革新者達もいれば、ジェームス・ジェマーソンやアール・パーマーのように、数ある不朽の名作に埋もれてなかなか評価されず、細かい活字を読まなければ名前を知りえなかったアーティストもいる。彼らは大衆にはあまりにも斬新すぎたのだ。独創性が豊かすぎた作曲家ハリー・パーチやムーンドッグは明らかにこの地球のものとは思えず、ヒットチャートなど論外だった。さらにはダニエル・ジョンストン、ウェスレイ・ウィリス、レジェンダリー・スターダスト・カウボーイのような伝説的奇人たちもいた。彼らがアリーナを満員にすることはないかもしれないが、彼らなしではロックン・ロールの世界はここまで面白くなかっただろう。

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エレクトリック・ギターを演奏する人は誰でもチャーリー・クリスチャンに、たとえ気付いていなくとも恩義があるはずだ。1939年から41年までベニー・グッドマンのバンドのギタリストだったチャーリー・クリスチャンは、エレクトリック・ギターにソロ楽器の役割を初めて用いたギタリストの一人だ。とはいえ、ベニー・グッドマンはこのエレクトリック・ギター奏法に未来があるかどうか確信が持てず、最初は彼を雇うのを躊躇していたそうだ。

チャーリー・クリスチャンの「Rose Room」と「Solo Flight」という2つの主要なショートピースは、ホルンのような音色、直感的なスウィング、流れるようなシングルノートといった、後のギターの醍醐味である要素を登場させた。残念ながら、彼は多くの偉大な音楽を演奏せずに去った。ベニー・グッドマンのバンドを離れたわずか1年後、25歳で結核で亡くなった。

チャーリー・クリスチャンがエレクトリック・ギターでジャズにもたらしたことを、ペダル・スティール・ギターでカントリー・ミュージックに多大な影響を与えたのがクリフ・カーライルだった。1930年頃にクリフ・カーライルが兄弟のビルとレコーディングを開始する前、スティール・ギターは主にハワイアン・ミュージックに用いられていた楽器だった。また、クリフ・カーライルはヨーデル歌手でもあり、そのカデンツはしばしば彼の演奏に活路を見出していた(彼がオフマイクでヨーデルしている作品は数多くある)。彼はカウボーイ、ゴスペル、ウェスタン・スウィングなどを含む数百曲を書いた(晩年の「Just Because」は、エルヴィス・プレスリーのアルバム『Elvis At Sun』でカヴァーされた)。しかし、彼は良心的で比較的マイルドなダブルミーニングのある作品で一番よく知られ、例えば「The Nasty Swing」はレコード盤に捧げた曲である、針を穴に入れるという意味では。

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もう一人のペダル・スティール・ギター・マスター、アルヴィノ・レイはレトロ以前に“レトロ・ヒップ”だった。90年代に復活したオシャレなカクテル・ミュージックは、アルヴィノ・レイが演奏し始めた時に奏でていた音楽と言っても過言ではない。ギア(機材)フリークの一面も持つ彼は、ギターに文字通り言葉を歌わせる方法を確立し、のちにピーター・フランプトンと彼のトーク・ボックス(トーキング・モジュレーター)のステージ制作にも携わっていた。しかし、当時のアルヴィノ・レイは秘密の方法でこれを可能にしていた、彼は妻を幕の裏に隠して、ギターマイクで歌わせていたのだ。

アルヴィノ・レイが最も知られていた要因のひとつが60年代に出演していたザ・キングファミリー・ショーというテレビ番組(彼の妻は番組内キャラクター“キングシスターズ”の一人)だったが、そこからさらにさかのぼる20年間の彼の音楽はよりヒップなものだった。バンド・リーダーのファン・ガルシア・エスキベルとの制作で、アルヴィノ・レイは後にエキゾチカと呼ばれるラウンジとラテンをブレンドさせた新しいジャンルを生み出し、エルヴィス・プレスリーの「Blue Hawaii」とディーン・マーティンの「Memories Are Made Of This」にエキゾチック感を加えたのも、アルヴィノ・レイのスティール・ギターだった。 アルヴィノ・レイの音楽的な血筋は、現在アーケイド・ファイアで活躍するレイの孫であるバトラー兄弟に強く引き継がれている。

アコースティックの世界では、ジョン・フェイヒーのような素朴さと宇宙のような両極性を組み合わせたギタリストはほとんどいなかった。フォークとブルースに根ざしたジョン・フェイヒーはインド音楽や現代のクラシック・ミュージック、猛々しいサイケデリアなど、彼の心に響いたものを取り入れたアメリカン・プリミティブと呼ばれる新しいスタイルを確立した。彼はこれらをスチール弦のアコースティックギターのみの独奏で行った。 ジョン・フェイヒーの優雅な即興は彼をニューエイジの父親として縛りつけたが、彼の詩神は耳障りな葬儀音楽のようなタッチを奏でる不気味な側面も持っていた。また、彼が持つ恐ろしいユーモア感覚の邪悪な分身とも言えるアルバム『Blind Joe Death』の発表や、「The Waltz That Carried Us Away And Then A Mosquito Came and Ate Up My Sweetheart(心を奪うワルツとのちに現れた蚊が私の恋人を食べ尽くした)」のようなタイトルを作品につけた。

ジョン・フェイヒーは精通したビジネスマンでもあり、彼自身の作品を売るためにタコマ・レーベルを始めた。最終的にレーベルは、彼の弟子とも言えるレオ・コトキーとニューエイジのマエストロ、ジョージ・ウィンストンのキャリアをスタートさせたアコースティック音楽の拠点となるまでに成長した。しかし、人生の終わりに差し掛かりつつあったジョン・フェイヒーを再発見したのはオルタナティヴのロッカーだった。ジョン・フェイヒーはソニック・ユースのジム・オルークやカル・デ・サックからも支持を受けたこともあり、1997年の1年間で発表したアルバムは4枚に達した。

ファンク・ブラザーズの中でも一番ファンキーだったモータウンのベーシスト、ジェームス・ジェマーソンは、何を演奏するのではなく、どう演奏するかを示した生きた証だ。 シュープリームスの「You Can’t Hurry Love(邦題:恋はあせらず)」のオープニングのフレーズを考えてみよう。ほぼ1つの音の繰り返しだ。または、テンプテーションズの「My Girl」の同様で完全なベース・イントロはといえば、たった2つの音符のリフだ。ジェームス・ジェマーソンはバンド全体が入る前から、各曲をラジオから飛び出させる魔法のシンコペーションを吹き込んだ。彼の最も重要なプレイの多くは、時に万人が気付かなかったものだった。曲がどれほどうまく流れているかに驚くと同時に、ドラムとタンバリンでベースがシンクロされていることを無意識に植え付けられていた。曲がミラクルズの「Going To A Go-Go」だったなら、おそらく踊ることに夢中でこのようなことについて考えることはなかっただろう。

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モータウンに入る以前はジャズプレーヤーだったジェームス・ジェマーソンは、レーベル全盛期のヒット曲の大部分に関わっていた。しかしモータウンのバンドプレーヤーに脚光を浴びさせなかったやり方のせいで、マーヴィン・ゲイが「What’s Going On」にジェームス・ジェマーソンをクレジットに載せるまで、彼の名がアルバムに載ることはなかった。そのアルバムはモータウンの古い体質が終わる時期とほぼ一致し、1972年にロサンゼルスに本拠地を移したモータウンは多くのキープレーヤーをデトロイトに置き去りにした。そこでフリーランスとなったジェームス・ジェマーソンは、ヒット曲が増えた。グラディス・ナイトの「Neither One Of Us」での洗練されたグルーヴは彼のもので、シルヴァーズの「Boogie Fever」で少なくとも1回ヒットした。ジェームス・ジェマーソンはザ・ローリング・ストーンズのビル・ワイマンやラッシュのゲディ・リーらの著名人が自分のファンだということを知ることもなく、1983年に若くして亡くなってしまったが。

若い頃のジャコ・パストリアスは他のミュージシャンに自己紹介する際に、「世界最高のエレクトリック・ベーシストだ」と言っていたことで知られている。彼は短いながら燃えるようなキャリアでそれを証明しようとした。ウェザー・リポートでの作品やいくつかの革新的なソロ・アルバムでよく知られているジャコ・パストリアスは、ファンクとラテンの要素を取り入れ融合させてベースの領域を拡大しただけでなく、その存在を曲中でさらに高めた。ウェザー・リポートのクラシック「Birdland」を、メインを奏でるベースライン無しで想像して欲しい。彼の数少ないロック・セッションのひとつであるイアン・ハンターのアルバム『All American Alien Boy』では、彼はリード・ギターの役割も担っている(リード・ギターがいる時でも、それをもかき消す存在感を示している)。ジャコ・パストリアスの最高傑作はおそらく、混沌としたエネルギーを6分にも及び放ち続ける2枚目のソロ・アルバムの火蓋を切る曲「Crisis」だろう。

ジャコ・パストリアスの天才肌は、彼の自己破壊的な傾向と密接に連携していた。彼はステージ本番中に自ら演出から外れ、メタル要素の強いフィードバックをよく奏でること知られていた。そのステージ上の行為はジョニ・ミッチェルのバックバンドとしては、賢い選択ではなかった。彼の危険かつ不安定な気性はバック・ミュージシャンとしての演奏する機会を激減させ、最終的に彼がサンタナのショーを崩壊させようとして警備員が介入し、彼の悲劇的な死を招いたのだ(*訳注:サンタナのライヴに無許可で飛び入りしようとしたところ、警備員と乱闘となり、頭部を強打し、意識不明の重体となった)。最近彼の人生に関するドキュメンタリーを制作したメタリカのロバート・トゥルージロのように、ジャコ・パストリアスのファンに多くのロック・ミュージシャンがいることは、決して驚くべきことではない。

もしチャック・ベリーが各世代のギタリストに影響を与えているとしたら、アール・パーマーは私たちにロックン・ロールのビートをもたらしてくれた。史上最も録音されたドラマーとして、非凡なセッションマンはサイドマン(伴奏楽器奏者)という役割を再定義した。ニューオーリンズ出身のアール・パーマーは、自信に満ち溢れる音楽の才能で、毎日の仕事の中でロックの歴史を刻み続けた。リトル・リチャードの「Long Tall Sally」のスネアロールや、リッチー・ヴァレンスの「La Bamba」のスイングするシンバル、ファッツ・ドミノの「I’m Walkin’」のシャッフルのイントロ、すべてアール・パーマーの演奏である。ジャン&ディーンは「The Little Old Lady From Pasadena」でアール・パーマーを雇った金額に見合うだけのものを得た。なぜなら、歌詞が一行終わるたびにスネアフィルまたはタムロールがあるからだ。

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多くの音楽パイオニアとは違って、アール・パーマーはロックを見捨て、サウンドトラック制作で豊かなキャリアを築いた(『ミッション:インポッシブル』のテーマは彼の演奏)。アルバム『King Of America』の「Poisoned Rose」で繊細なブラッシングの演奏を依頼したエルヴィス・コステロを含む賢明なアール・パーマーのファンは、セッションのためにアール・パーマーを呼び寄せ続けた。 2008年にパーマーが亡くなる前に彼を雇った最後のバンドのひとつが、ビデオ「I Hate My Generation」に出演を依頼したクラッカーだ。フロントマンのデヴィット・ロワリーがレコーディングで収録されていなかったドラムパートを演じることができるかどうかをアール・パーマーに尋ねたところ、アール・パーマーの反応が全てを物語っていた、「それは俺が発明したんだぜ」。

ムーンドッグとして知られる作曲家は、数多くのハープやパーカッションなどの多くの楽器を彼自身で文字通り発明した。何十年にも渡って、彼はマンハッタンの混雑したストリートで、バイキング服を着るストリートミュージシャンとして知られていた。1950年代からレコーディングはしていたが、彼の音楽の深みは、1969-70年にコロンビアからリリースされた2枚のアルバムでより明確になった。両方とも、ミニマリズム主義者の作曲家フィリップ・グラスとスティーヴ・ライヒに影響を与えている。「All Is Loneliness」をジャニス・ジョプリンはビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーとともにロックソングに仕上げた。別の興味深い関係として、両方のアルバムはプロデューサーのジェームス・ウィリアム・ガルシオによって、シカゴの最初の2枚のアルバムを制作する間にプロデュースされている。

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ムーンドッグ自身が受けた影響のひとつは、カリフォルニアのアヴァンギャルドな作曲家ハリー・パーチだった。理論家と発明家でもあるハリー・パーチは、新しい43音のオクターブとそれを演奏できる楽器を考案した。ハリー・パーチの作品を完全に理解するには、人間の精神に及ぼす音の周波数の共鳴に関する彼の理論と、彼の概念的なダンスや劇場作品のために描いた神話や儀式の世界を知ることが望ましい。だが、もし不気味な詠唱、テープ操作、パーカッション・アウトバーストに興味があれば、もっと端的に彼の作品を楽しむことができる。おそらく彼の最も有名な作品、1969年のオペラ「Delusion Of The Fury(怒りの妄想)」は、彼の狂気と謎に迫る良いイントロダクションと言えるだろう。

自分よりももっと有名なアーティストがカヴァーしたり、名前を引用することで知られるようになるアーティストもいる。アークティック・モンキーズのフロントマンのアレックス・ターナーがランカシャー出身のパンク詩人ジョン・クーパー・クラークを称賛していることは、実際に彼らが「I Wanna Be Yours」をアルバム『AM』でカヴァーするずっと前から知られていた。同様に、ベックのファンは、ゲイリー・ウィルソンの事を「My Man, Gary Wilson」という「Where It’s At」の歌詞から知ることとなった。 (ちなみに、2009年にベックはウェブサイトに10分に及ぶハリー・パーチへの賛辞を送った。作曲家の名前を冠して、ハリー・パーチの43音階を使ったもので、ベックはこれを「思い込みのない価値観や視点を確かなものにするための異なる領域を渡る長旅」と述べた)。

ベックのファンがゲイリー・ウィルソンの作品を見出したとき、切り貼りされた音、自由かつ連想的なソングライティング、そして奇抜なウィットなど、ベックが魅せられた理由がすぐに分かだろう。同様に、己の感情のもろさまでも危険的にさらしてしまうポップな音楽性を持つテキサスのソングライター、ダニエル・ジョンストンをカート・コバーンが敬愛していたことは、さほどショッキングなことでもない。ドキュメンタリー映画『COBAIN モンタージュ・オブ・ヘック』のサウンドトラックで最近登場したカート・コバーンのホームデモは、ダニエル・ジョンストンがオースティンのファンや見知らぬ人に手渡していたカセットから程遠くない。

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デヴィッド・ボウイはもちろんあらゆるところから影響を受けたわけだが、彼の初期の分身であるジギー・スターダストのジギーという名は、彼のヒーロー、友人、そしてコラボレーターでもあるイギー・ポップに由来すると言われている(ジギーズというロンドンのテイラーからとったものでもあるが) 。ではスターダストはというと、その由来はよりエキゾチックだ。極めて不安定なシングル「Paralyzed!!」を1968年に発表したラボック出身のレジェンダリー・スターダスト・カウボーイに由来する。その狂気かつオフキーで完全に支離滅裂な「Paralyzed!!」は、デヴィッド・ボウイにも他の誰にも作り得ない作品だ。

レジェンダリー・スターダスト・カウボーイの嘆きや不平不満に追いつくために最善を尽くしていたドラマーは、有名になる前のT・ボーン・バーネットだ。恩返しにとデヴィッド・ボウイは、名前をとってから30年後にレジェンダリー・スターダスト・カウボーイの曲「I Took A Trip (On A Gemini Spaceship)」をアルバム『Heathen』でカヴァーし、後に彼の最後のライヴ公演のひとつだったニューヨークでレジェンダリー・スターダスト・カウボーイが前座を務めた。

インスピレーションはどこででも突然沸くことがある。ファンクの歴史の中で最も影響力のあるトラックのひとつは、地元のドラッグクイーンの歩き方に影響を受けている。これはニューオーリンズではよく見られる光景だ。ミーターズはその特徴的な歩き方の描写を「Cissy Strut」のグルーヴに取り入れた。バンドの60年代後期の典型的な音源(歌手のシリル・ネヴィルを追加してより重いサウンドへと移行する前)は、「Cissy Strut」のようなレコードは多くの空間があり、無駄な音符はほとんどなかった。

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ドラマーのジギー・モデリステがメインリフでどのようにハイハットを刻んでいるか、またはブルースなどに用いられる「チャンカチャンカ」というリズムコードがアート・ネヴィルの素早くて魅力的なオルガン・ソロをどのように構成しているかを聴いてみてほしい。レッド・ホット・チリ・ペッパーズは、ミーターズの「Africa」をカヴァーした後、「Hollywood」というタイトルに変えて注目を集めた。 以来両バンドは友情関係を築き上げ、レッチリがニューオーリンズで公演する際はミーターズの何人かがステージに登場しているのが見られる。

フュージョン・ジャズとプログレッシヴ・ロックに片足ずつ跨ぐ英国のギタリスト、アラン・ホールズワースのアイデアをいくつか盗んだと初めて認めたミュージシャンはエドワード・ヴァン・ヘイレンではないだろうか。 プログレッシヴ・ロック・ファンは、「In The Dead Of Night」で滑らかで優雅なソロを弾いている短命のスーパーグループのUKで彼を覚えているはずだ。非常に速い指の動きと複雑な数学的感覚で、アラン・ホールズワースはキーと拍子記号を簡単に飛び越えることができた。それは彼が複雑なリフを楽しんでいないと決して言っているわけではない。ヴァン・ヘイレンは一時彼をワーナーと契約させ、ジャック・ブルースをヴォーカルに迎え、大衆受けするEP「Road Games」を制作した。後に、アラン・ホールズワースはシンタックス(SynthAxe)と呼ばれるギター・シンセに夢中になり、やはり彼に追いつくためにはデジタルな思考が必要なことが証明された。

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ブルースをブラインド・ウィリー・マクテルのように歌うことは誰もできない。ボブ・ディランに聞けばすぐ分かる、その偉大なブルース・マンにちなんで命名された彼の歌「Blind Willie McTell」の中でまさにそう唱えており、ボブ・ディランの80年代最高の曲のひとつと広く考えられている。ボブ・ディランにとってブラインド・ウィリー・マクテルの声は、黒人の歴史とアメリカ南部のより深い謎について語っている。他の人たちは純粋に音楽的な理由からブラインド・ウィリー・マクテルを愛していた。彼の声は初期のブルースでは最も繊細で甘く、ほぼ常に12弦を使用した彼のアコースティック・フィンガーピッキングは気品にあふれていた。ブラインド・ウィリー・マクテルに敬意を表する唯一の現代的なアイコンはボブ・ディランだけではない。ザ・ホワイト・ストライプスは彼にアルバムを捧げている。 オールマン・ブラザーズ・バンドのファンは、ブラインド・ウィリー・マクテルの原曲「Statesboro Blues」における優しいカントリー感にショックを受けるかもしれないが、デュアン・オールマンとグレッグ・オールマンが吹き込んだ魂は彼らのヴァージョンにはピッタリとハマっている。

陽気ではあるが下品な歌詞を好む偶発的パンク・アイコン、ウェスレイ・ウィリスは、パンクのパイオニアで元デッド・ケネディーズのフロントマン、ジェロ・ビアフラによって歓迎された後、90年代半ばの代表的なカルトの象徴となった。ウェスレイ・ウィリスの経歴の一部は感動的だが、一部は悲劇的なものだ。幼い時に虐待され、その後統合失調症と診断されたが、安いキーボードで思いつくままに歌い上げる彼は、後にシカゴで愛された崇拝の的になった。

ウェスレイ・ウィリスは他のアーティストについてアルバムの全曲を書き上げ、中でも「Alanis Morissette」は彼女の非常にシリアスというみんなが思うイメージにちょうど必要だったものを与えた。彼の精神状態には重い側面もあり、ウェスレイ・ウィリスのユーモアの少ない曲は、統合失調症が彼を乗っ取った地獄のようなの状態の時のものだ。2003年の白血病の合併症で亡くなった後、ジェロ・ビアフラはジミ・ヘンドリックス級のアーティストとしてウェスレイ・ウィリスを賞賛し、ケイティ・ペリーは自身の曲「Simple」で彼について言及している。もしウェスレイ・ウィリスが賛辞を返すチャンスを持っていたなら、必ずや返していたことだろう。

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なかには自国より海外で先に火がつくアーティストもいる。 その典型的なケースが、地元アメリカのクラブを埋められないまま、わずか3枚のアルバム発売後に日本武道館で公演を行ったチープ・トリックだ。彼らの日本のレーベルがライヴ・アルバムを急いで発売し、その後の歴史は言うまでもない。『Cheap Trick At Budokan』は輸入盤として大盛況を収め(数ヶ月後に発売されたアメリカ盤も同様)次のスタジオ・アルバム『Dream Police』はその盛況が落ち着くまで発売を止めていたほどだ。このアルバムは今や名盤として崇められている。彼らの曲間のセリフを他のバンドが引用していることを何度聞いたことがあるか数えてみるといい。チープ・トリックが今日まで繁栄している理由のひとつであることは間違いない。

1970年から71年にビル・ウィザースのホーム・レーベルとして知られるサセックス・レーベルで2枚のアルバムを発表したデトロイトのソングライター、シクスト・ロドリゲスの話はどのアーティストとも全くもって似通っていない。ビル・ウィザース特有のソウル、ゴスペル、そしてフォークを組み合わせたユニークな要素が成功するなら、シクスト・ロドリゲスのファンキーなストリート・ポエムも同じく成功するだろうとレーベルはおそらく考えていただろう。しかしその読みは完全に外れ、両方のアルバムはなんの爪跡を残すことなく沈んでいった。シクスト・ロドリゲス本人でさえ、彼の音楽が南アフリカにどのように伝わったのか知らなかったが、70年代後半にオーストラリアで短期間だけ復活した後にそれは確実に届いていた。(オーストラリアの海賊版が南アフリカに流れ込んだようだ)。シクスト・ロドリゲスの曲が持つ反感論は特にアパルトヘイト時代の南アフリカに共感され、彼はかの地でフォークの英雄となった。反アパルトヘイト活動家のスティーブ・ビコもファンであると噂されていたほどだ。

頑固なレコード・コレクターということ以外彼のことを知る人はいなかったが、映画の題材としては格好の被写体だった。シクスト・ロドリゲスの南アフリカでの再発見を記録した『シュガーマン 奇跡に愛された男(原題:Searching for Sugar Man)』が2012年発表された(オーストラリアでの脚光を省いて少し脚色されているが)。これは米国でのシクスト・ロドリゲスのカムバックに大きくつながり、このカルト・ヒーローは発売から50年経ってその数々の曲を満員の会場で演奏することとなった。 2015年には同じく70代近い才能のあふれる先見者、ブライアン・ウィルソンと一緒にツアーをまわった。

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同様に、なぜリジー・メルシエ・デクルーが彼女の母国フランス以外でスターになれなかったのかは理解しがたい。マドンナがデビューする前にニューヨークを訪れたリジー・メルシエ・デクルーは、シャープな知性、エキゾチックな美貌、古典的なポップルーツとモダンなダンス・サウンドを融合した音楽など、マドンナ同様な多くの魅力的要素を持っていた。彼女は少なくともニューヨークで旋風を巻き起こし、先駆的なZEレーベルの立ち上げに携わり、パティ・スミス、リチャード・ヘル、チェット・ベイカーなどの異端者たちと仕事をした後、2004年に早すぎる死を迎えた。

幸運なことに、これらのアーティストの作品は皆、何十年もの時を経ても未だに発売されており、彼らの音楽を発掘するにも機が熟しているともいえる。ちょうど追いつき始めているのなら、これまでそれらのアーティストを発見していなかったことに驚きを隠せないだろう。

By Brett Milano



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