ヒップホップの20曲

11月 12, 2017


ヒップホップの20曲

いちアーティストのキャリアを20曲にまとめることすら難しいのに、いちジャンルを20曲でまとめるとなると、どれほど難しいかを想像するのが精一杯だ。だが、70年代から続くヒップホップの歴史をどう辿ればいいのか迷っている人にとって、助けになる道しるべこそ必要であろう。そして、その出発点からはじめるのが最適であろう。

あらゆる音楽形式のなかで、おそらく最もユニークなヒップホップには、一般的に認められている誕生日がある。それは、1973年8月11日。ティーンエイジャーのDJクール・ハークが、ニューヨーク州ブロンクスの彼らのアパートの地下室で、妹の誕生パーティを開催した日だ。クール・ハークはヒップホップの初期の革新的サウンドを開発した。特に革新的だったのが、ファンクのレコードのパーカッション部分を取り出してリピートすること。同じレコードを2枚使ってブレイクダウンを延長し、ダンサーが好き勝手に踊れるパートを設けたのだ。この延長されたパーカッションの間奏は、"ブレイクビーツ"として知られるようになり、それに合わせて踊る人々は、ブレイクダンサー、あるいはBボーイ、Bガールと呼ばれた。間もなく、セレモニーの長を意味するMC(後に“ラッパー”)達が、パーティで仲間達に向けて挨拶をするようになり、ブレイクビーツに乗せて、詞をラップし始めた。NYに広がったグラフィティ・アートの隆盛と共に、ヒップホップ文化は誕生した。

最初のレコードの数々は、1979年に登場した。その頃には、ラップはすでにアートとして発展を遂げていたが、DJによるヒップホップの最初の開花は、レコーディングされた曲としては全く残っていない。こうしたパーティがどんなものであったかを一番感じ取ることができる曲は、1980年に、グランドマスター・フラッシュが発表した「The Adventures Of Grandmaster Flash On The Wheels Of Steel」で、彼の驚異的なスキルが披露されている。

クール・ハークとグランドマスター・フラッシュと並んで、元祖DJの‘三位一体’の一人として知られているのが、アフリカ・バンバータである。“マスター・オブ・レコード”と呼ばれた彼は、ヨーロッパや日本の奇妙なサウンドを、ブロックパーティでドロップしていた。1982年、彼はMC仲間のソウル・ソニック・フォースと共にレコード・デビューする。「Planet Rock」は、クラフトワークとプログラムされたドラムのビートを融合し、ヒップホップのサブジャンルであるエレクトロを生み出した。

Run-DMC - Raising Hell era

現在、ヒップホップの黄金時代と見なされている時代は、1986年にRUN-DMCによってもたらされた。彼らの3枚目のアルバム『Raising Hell』は、彼らのブロックパーティ時代にインスピレーションを得ており、彼らのサウンドからドラムマシンを排除し、再びプレイクビーツのサンプリングに頼ったものだ。彼らのプロデューサー、リック・ルービンは、エアロスミスの「Walk This Way」のイントロでドラムに乗せてラップするだけではなく、この曲のオリジナルのカヴァー・バージョンをやることを彼らに提案した。そして彼らは、ヒップホップのコア・ファン・ベース以外の人々にも強く共感される、史上初のヒップホップ・ヒットを完成させたのである。この曲のおかげで、ラップは世界的な音楽となった。

Compton artwork1988年に堰が切って落とされ、サンプリングと口頭の競技による革新的な音楽が世に出た。ロングアイランド出身のティーンエイジャー、ラキムが詩人の威厳を持つラップを発明したのである。彼と、パートナーのエリックBは、ボブ・ジェームスのジャズ・ファンク・ブレイクビーツの定番「Nautilus」を、「 Follow The Leather」という宇宙空間に変化させた。同じくロングアイランド出身のパブリック・エナミーは、1982年にラップは社会的論評や抗議を伝えるメディアになることを知らしめたメリー・メルの「The Message」に挑戦にすることにした。パブリック・エナミーは、ザ・クラッシュのヒップホップ・ヴァージョンとなり、不朽の名曲「Fight The Power」を生み出したのだ。一方、ロサンゼルスではラッパー達が、主に黒人が住む郊外の街を荒廃させているギャング抗争について語り始めていた。そして、「Straight Outta Compton」と同名のアルバムを発表したN.W.A.が、“ギャングスタ・ラップ”を生み出した。以降、それがヒップホップの代表的なスタイルとして、長年続いていくことになる。

そこから、ヒップホップは枝分かれしてあらゆる方向に広がっていった。東海岸に話を戻すと、陽気なネイティヴ・タングス集団が、パブリック・エナミーの強烈な政治的発言や、N.W.A.のギャングスタ・スタイルよりも明るいヒップホップを作っていた。そのファミリーにいたグループが、デ・ラ・ソウル、ジャングル・ブラザーズ、そして、ア・トライブ・コールド・クエストである。ア・トライブ・コールド・クエストの1991年のセカンド・アルバム『The Low End Theory』には、彼らの友人のリーダーズ・オブ・ザ・ニュー・スクールをフィーチャーした、永遠の名曲「Scenario」が収録されている。ア・トライブ・コールド・クエストのQ-Tipと、リーダーズ・オブ・ザ・ニュー・スクールのバスタ・ライムズは、しかるべくして大物スターになろうとしていた。男性だけではなく女性達もまた、つねにヒップホップ界で活躍していた。1993年に発表されたソルト・ン・ペパのサード・アルバム『Very Necessary』は、世界的に大ヒットを果たし、「Shoop」のような曲で、マッチョなラッパー達を驚かせたのである。

CREAM Artwork

黄金時代が終わりを迎え元N.W.A.のドクター・ドレーのソロ・デビュー・アルバム『The Chronic』が驚異的なヒットを達成した後、2度目のニューヨーク隆盛が起こり始めた。 ヒップホップの生まれ故郷は反撃に出たのだ。1993年に、スタテンアイランドとブルックリン出身の9人のMCによって結成されたウータン・クランは、「C.R.E.A.M.」等の曲で、ヒップホップを中国古来の武道を精神的に継承したものに塗り替えた。その翌年、Nasがほぼ完璧なデビュー・アルバム『Illmatic』を発表し、ノートリアス・B.I.G.は、鮮やかでシネマティックな『Ready To Die』で、ギャングスタ・ラップとストーリーテリングを融合してみせた。

ノートリアス・B.I.G.がこのアルバムの収録曲「Things Done Changed」で語ったように、ラップ界のゲームには、変化が起こっていた。彼はラッパー兼映画俳優のトゥパックとの確執に巻き込まれ、二人とも90年代後半に殺害されるという悲劇に見舞われた。トゥパックが1995年に発表したシングル「Dear Mama」が、政治的で“社会意識の高い”スタイルと、よりストリートに根ざした犯罪者の人生のラップの間の境界をまたぐことは可能だと示していたにも拘らず、彼の死後ヒップホップは危機に陥ったように思われた。だが、1986年にブギー・ダウン・プロダクションズと組んでデビューして以来、つねにアイコンであり続けているKRS・ワンが、1997年の素晴らしいシングル「Step Into A World (Rapture's Delight) 」で、ラップ、DJ、ブレイクダンス、そしてグラフィティの基本原則を、世界中の人々に思い出させてくれた。

Eminem - unknown date今や、どんなことでも可能になっていた。ローリン・ヒルは1998年のソロ・デビュー・アルバムで大量のグラミー賞を獲得した。彼女は「Everything Is Everything」という曲で、ラキム以来、誰も達成したことのないやり方で、ラップは瞬時にリスナーを時空を超えた場所に連れていけることを知らしめてみせた。2000年代に入ると、アトランタのデュオ、アウトキャストが、英国ドラムン・ベースの曲の猛烈なテンポとサイケデリック・ロックのギターの叫びと、光速のラップのスキルを取り入れ、目のくらむような名曲「B.O.B.」を生み出した。この曲では数々のニュースの見出しから引用した暗喩が、彼らの至高のスタイルに手出しするなというライバル達への警告として展開されていた。また、2000年には、デトロイト出身の白人ラッパー、エミネムが、ヒップホップのエルヴィス・プレスリーとなった。世界を征服したエミネムは、ヒップホップを何百万人もの新しいリスナーに届けたのだ。しかも、ヒップホップをおとしめることなく、それをやってのけたのである。「Stan」のような曲は、黄金時代のラッパー達のどの曲にも匹敵するほど魅力的である。

Kanye - mid 00s

5年後、プロデューサーからラッパーに転身したカニエ・ウェストが、ビギーとNasの現代版であるジェイ-Zと組んで「Diamonds from Sierra Leone (Remix) 」を発表し、ラップ・カルチャーが著しく消費をしていること、俗語で“ブリング”というジュエリーに夢中になっているラッパー達が、ジュエリーの値段ばかり気にし出していることを批判した。活動を始めた時(当初はバスカーズという名前だった)から生楽器を演奏していたグループ、ザ・ルーツは、ヒップホップは音楽の盗用ばかりであるというよくある批判を論破する存在であった。彼らの2006年の秀逸なアルバム『Game Theory』収録の「Here I Come」の盛り上がりは、特に際立っていた。しかし、前例がないほど多才なこのグループは、アメリカの深夜のTV番組『Late Night With Jimmy Fallon』の番組専属バンドとして雇われて、あらゆるジャンルのゲスト・ミュージシャン達のバックで演奏し、彼らの曲は番組のテーマ・ソングとなって、ヒップホップを超えた人生を送ることとなった。

Nasを始めとする過去の偉人達も、前進を続けていた。2008年発表のシングル「Hero」で、Nasはラップに反対する批評家達の無知の怒りへの返答として、彼のアートを制限することによって彼を倒そうとした反対勢力や臆病者達を批判し、抵抗を響き渡らせた。ケンドリック・ラマーもまた、その感情を理解している。2015年、高揚感のあるアンセム「Alright」は、社会の腐敗やネガティヴィティを助長するとして批判されたが、 実際はリスナーが障害を乗り越えるのを助けるために書かれた曲だった。

Kendrick Lamar 2015

ヒップホップは世界中で鳴り響き、共感を呼び続けている。素晴らしいヒップホップの曲は、フランス、ドイツ、日本、南アフリカ、スウェーデン、その他多くの国々で誕生している。イギリスでは、何十年もの刷新と実験の間に、ドラムン・ベース、ブリットコア、グライムといった新スタイルがそれぞれに成長し、他のアート形式にも影響を与えている。「Feeling Myself」は、グライム・シーンで最も長く活躍している3人のMCのコラボレーションで、ヒップホップの影響のサイクルが完全に一巡したことを知らしめた。チップ、カノ、レッチ32がロンドンのサウンド、スタイル、スラングを使って、ラップの歴史におけるどんな曲にも匹敵するほど、巧妙なニュアンスの緻密に重ねられたヴァースを生み出したのである。実際、レッチ32は、ビギーの「Things Done Changed」を引用しており、今は亡きラッパーのライムをもじって、勝つために知性と知恵を請願するという新しいテーマを導き出しており、私達はそこにヒップホップの真髄を見聞きすることができる。その誕生から50年近く経過した今も、ヒップホップは君臨し続けているのだ。

Written By Angus Batey



♪プレイリスト『Hip-Hop Heroes』 spotify_logo_link

 

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