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マッスル・ショールズとフェイム・スタジオ:アメリカのソウル史に残る二つの名所

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Photo: Carol M. Highsmith/Buyenlarge/Getty Images

アラバマ州のどかな田舎町マッスル・ショールズにあるマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ(Muscle Shoals Studio)は、サザン・ソウルのサウンドが形作られた場所としてその名を知られるようになり、のちに音楽界を代表する大物が次々と足を運ぶ人気スタジオの一つになった。

パーシー・スレッジの「When A Man Loves A Woman (男が女を愛する時)」、アレサ・フランクリンの「I Never Loved A Man (The Way I Love You) [貴方だけを愛して]」、ザ・ローリング・ストーンズの「Brown Sugar」、ステイプル・シンガーズの「I’ll Take You There」といった不朽のヒット曲は、いずれもこの場所で作られたものだ。

テネシー川沿いにあるマッスル・ショールズの町は、メンフィスとアトランタのほぼ中間地点に位置する。周囲には緑豊かな田舎の風景が広がり、広大なテネシー川に接するマッスル・ショールズ ―― たまたま通りかかった人は、何の変哲もないアラバマの閑静な町という印象を持つことだろう。そこでは、男たちと鳥たちが川で魚を捕り、アリゲーターの潜む沼地に太陽が照りつける。アメリカ先住民のユーチ族は、そのテネシー川を”歌う川”と呼んだ。また同地には、かつて川のほとりに住み、歌で民を守った一人の女性の伝説が残されている。

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Brown Sugar (Remastered 2009)

 

音楽史に残るレコードの数々が生まれた地

1924年、ウィルソン・ダムの完成より、危険だった同地の浅瀬が消滅。そのとき新たに生まれた町とその周辺地域には、その浅瀬 (shoals) にちなんだ名が付けられた。そんなマッスル・ショールズではまるで時が止まったように、のんびりと時間が流れていく。人口は1万3千ほどと決して大きな町ではないが、そんな場所でポピュラー音楽史に残るレコードの数々が生まれたのである。

エルヴィス・プレスリー、ジェリー・リー・ルイス、ジョニー・キャッシュらを発掘したことで知られるサム・フィリップスや、ブルース界の先駆者であるW.C.ハンディも近隣の地域の出身。そういう意味でもマッスル・ショールズは、ブルース、ロックンロール、ソウルの生まれ故郷と呼ぶに相応しい場所なのだ。しかしアラバマ出身の先駆者たちは、自分たちの音楽を世間に幅広く届けるため、多様な文化が花開くテネシー州メンフィスまで足を運ぶ必要があった。

ヘレン・ケラーもこの土地の出身で、盲目のシンガーであるクラレンス・カーターはこんな言葉を残している。

「ヘレン・ケラーはマッスル・ショールズの出身だ。目と耳が不自由な彼女の成し遂げたことにはいつだって驚かされる」

なお、ケラーの最初に学んだ言葉が「water (水)」だったことはよく知られているが、彼女がその単語を学んだ井戸は観光名所として親しまれている。マッスル・ショールズの歴史の裏には必ず「歌う川の水」が存在しているのだ。

I'll Take You There

 

リック・ホールとフェイムの音楽の始まり

リック・ホールはこの地に程近いフリーダム・ヒルズで育った。彼の暮らす家は、地面がむき出しの状態だったという。「俺たちは獣のような環境で育ったんだ」と当人は回想する。そんな彼は、幼いころに3歳の弟を亡くした。母親が裏庭で洗濯をしている最中、熱湯の入った桶に落ちて悲劇的な死を遂げたのだ。その影響で彼の両親はお互いを責め合い、結婚生活は破綻。程なくして母は家を去り、売春宿で働くようになった。

それ以降、彼女が息子に会うことはなかったという。この一連の出来事がリック・ホールの人生に多大な影響を与えたことは想像に難くない。そうして彼は、生涯で何らかの偉業を成し遂げることを決意したのである。さらに、最初の妻を交通事故で亡くしたこともホールの心に大きな傷を負わせ、彼は酒浸りになった。現実逃避の手段としてアルコールと音楽にのめり込んだ彼は、地元のバンドに加入。車に寝泊まりしながら作曲に勤しんだのである。

やがてホールは、同じく地元のミュージシャンでバンドメイトだったビリー・シェリルと共同で作曲をするようになり、ブレンダ・リーやロイ・オービソンらに楽曲を売り込み始めた。そして、背中の丸まった地元の若手実業家とともに、二人は音楽出版社を設立。

三人の若者は自分たちの楽曲のデモ・テープを制作するため、近隣のアラバマ州フローレンスにある薬局の階上に即席のレコーディング機材を設置した。これがフェイム (フローレンス・アラバマ・ミュージック・エンタープライズ[Florence Alabama Music Enterprises]の頭文字を取ったもの) の音楽の始まりであった。

だがそれから一年も経たないうちに、ホールはパートナーたちと仲違いし、二人に手を切られてしまう。ホール本人によれば、その原因は彼があまりにも仕事中毒的だったことにあるのだという。そのため、楽しみながら仕事をしたかったパートナーたちとのあいだに温度差が生じてしまったのだ。

「俺はものすごく前のめりだったし、野心に燃えていたんだ」

彼は、アメリカ南部のソウル・ミュージックに関する名著『スウィート・ソウル・ミュージック――リズム・アンド・ブルースと南部の自由への夢』の著者であるピーター・グラルニックにそう話している。

 

マッスル・ショールズ・リズム・セクション

その後ホールは、レコード制作のビジネスに身を捧げる決意でマッスル・ショールズへと戻った。そして新たに義理の父となった人物の援助を受け、古い倉庫を改装してスタジオを造ったのだ。ホールにとって初のヒット曲となったのは、彼が偶然に出会ったアーサー・アレクサンダーという若手シンガー・ソングライターの作品であった。その1曲「You Better Move On」は、1962年の前半にビルボードのホット100チャートで24位を記録している。

You Better Move On

彼の造ったフェイム・スタジオはやがて、ダン・ペン、ドニー・フリッツ、パーシー・スレッジなど、名声を夢見るミュージシャンや作曲家たちに注目され始める。だがホールの評判が高まり、さらなるヒット曲をチャートに送り込むようになると、彼が雇っていた常勤のミュージシャンたちが報酬の低さに不満を抱くようになり、ついにはスタジオを去ってしまった。

それでも、ホールが次に集めたハウス・バンドは同地に欠かせない存在として定着していくことになる。そのメンバーは、ギターのジミー・ジョンソン、ベースのデヴィッド・フッド、ドラムのロジャー・ホーキンス、キーボードのスプーナー・オールダムという顔ぶれ。彼らは”マッスル・ショールズ・リズム・セクション”、あるいは”スワンパーズ”という名前で知られるようになっていった。

 

パーシー・スレッジの「When A Man Loves A Woman (男が女を愛する時) 」

パーシー・スレッジは、同地に程近いアラバマ州シェフィールドで「When A Man Loves A Woman」を録音。レコーディングが行われたのは、ホールの友人だった地元のDJ、クイン・アイヴィーの所有するスタジオで、その演奏にはマッスル・ショールズ・リズム・セクションの一部のメンバーが参加していた。

完成した曲を聴いたリック・ホールは、同曲がナンバー・ワン・ヒットになることを直感。彼はニューヨークのアトランティック・レコードに勤務するジェリー・ウェクスラーに電話をかけ、契約を纏めたのだった (そうして、印税の一部を仲介手数料として受け取ったのだ) 。

地元の病院で働いていたパーシー・スレッジは、もともと入院患者が眠りやすいよう歌を歌って聴かせていたのだという。彼はのちに「When A Man Loves A Woman」を録音した際のことを振り返ってこう話している。

「俺はスタジオに入って、ガクガク震えていたよ。怖かったのさ」

彼はレコーディングに関してはまったくの素人だったのだ。

「俺は声を出せるだけだった。歌に関しては何も分かっていなかったんだ」

それでも、ホールの直感は正しかった。同曲は1966年、ビルボードのホット100チャートで首位を獲得したのだ。この1曲はサザン・ソウルを一般大衆へと広め、シーンの様相を一変させるとともに、マッスル・ショールズの名を世間に知らしめることとなった。

Percy Sledge – When A Man Loves A Woman (Live)

「When A Man Loves A Woman」をきっかけに、ホールとウェクスラーの協力関係が始まった。後者の所属するアトランティック・レコードが、ホールの手がけた作品を強力に後押しするようになったのだ。ウェクスラーはそれまで南部でのレコーディングにスタックス・レコードの設備を使用していたが、このころまでにスタックスのジム・スチュワートとの関係が悪化。そのため、以降は南部でのレコード制作に関してホールを頼るようになった。

 

マッスル・ショールズのサウンド

マッスル・ショールズでは、ヒルビリー、ブルース、ロックンロール、ソウル、カントリー、ゴスペルなどの長所を”良いとこ取り”した新たなスタイルの音楽が生まれた。バス・ドラムにマイクを近づけて音を取ることで、ベースとドラムの重々しいサウンドを作り出すこともフェイム・スタジオのレコーディングの特徴だった。他方、その演奏は軽やかかつ伸びやかで、楽曲はメロディー性やストーリー性に富んでいた。そして、そのすべてが深い情熱と確固たる信念によって纏め上げられていたのである。

ウィルソン・ピケットは、ウェクスラーがマッスル・ショールズにいち早く送り込んだアーティストの一人だ。ピケットは記者のマーク・ジェイコブソンの取材にそう話している。

「まったく信じられなかったよ。飛行機の窓から、綿花を摘んでいる人たちの姿が見えたんだ。俺は心の中で“飛行機を降りちゃダメだ。北部に帰してくれ”と思った。空港に着くと、南部の大柄な男 (リック・ホール) がいた……。だから俺は彼に“ここから出たくない。いまだに黒人たちが綿摘みをさせられているじゃないか”と言ったのさ。するとその男は俺の方を見て“そんなの知るか。行くぞ、ピケット。とにかくヒット・レコードを作ろう”と言った。俺はリック・ホールが白人だなんて思っていなかったんだ」

フェイムを訪れたウェクスラーは、くつろいだレコーディングの雰囲気に衝撃を受けたという。彼は国内屈指のセッション・ミュージシャンたちとの仕事に慣れていた。そうした名手たちは、その場で楽譜を読みながら演奏し、実にプロらしい仕事ぶりで次々にヒット曲を形にしていくのだ。だが、マッスル・ショールズでは様子が違っていた。そこで働くミュージシャンたちは、倉庫やスーパーマーケットで働いていそうな風貌の地元民だったのである。

しかしウェクスラーはすぐに、彼らがファンキーな凄腕プレイヤーたちだと思い知ることになった。それも、どんな名手たちにも引けを取らないほどのグルーヴを生み出すミュージシャンたちだ。ピケットとウェクスラーの二人はそのことに驚愕し、彼らの織りなすサウンドの魅力を知ったのだった。

当時は公民権運動が熱を帯び、あからさまな人種差別が横行していた時代だということも念頭に置いておくべきだろう。1963年にはアラバマ州知事のジョージ・ウォレスが、黒人学生の入学を阻止しようとアラバマ大学のフォスター講堂の前に立ちはだかるという試みを行い、失敗している。

だがレコーディング・スタジオでは、白人と黒人が互いの肌の色にとらわれることなく協働していた。それでも仕事を終えてスタジオを一歩でも出ると、人種差別があちこちに影を落としていたのである。

 

アレサ・フランクリンとのレコーディング・セッション

アレサ・フランクリンはCBSレコードに5年間在籍したが際立った結果を残せず、同レーベルとの契約を切られていた。そこでウェクスラーは彼女と契約を交わし、1967年にマッスル・ショールズへと連れて行った。彼女とマッスル・ショールズ・リズム・セクションは初めこそお互いのしっくりくるグルーヴを見つけるのに苦労したようだが、それが見つかると状況は一変した。

そうして彼らがフェイムで最初に録音した曲が、フランクリンにとって初めてのヒット曲となる「I Never Loved A Man (The Way I Love You)」だったのだ。ミュージシャン/作曲家のダン・ペンはこう回想する。

「2時間もしないうちに完成したんだ、紛れもない名曲がね。その朝、俺たちはスターの誕生を確信したよ」

Aretha Franklin – I Never Loved a Man (The Way I Love You) (Official Audio)

さらに、同曲の雰囲気を決定付けるイントロを弾いたキーボード奏者のスプーナー・オールダムはこう語る。

「俺は何百ものレコーディング・セッションに参加してきた。率直に言って、その中でも魔法のようで忘れられない経験だったのは、アレサ・フランクリンとの最初の数回のセッションだね」

だが起きたのは魔法だけでなく、トラブルも巻き起こった。フランクリンの夫でマネージャーのテッド・ホワイトが酒に酔ってトランペット奏者と口論になり、それがリック・ホールとの揉め事に発展したのだ。ホワイトはそのあとで町を去ってしまい、ウェクスラーはレコーディング中止の責任をホールに問うた。そしてウェクスラーは、二度とマッスル・ショールズに足を踏み入れないと宣言したのである。

それにもかかわらず、ウェクスラーはマッスル・ショールズのミュージシャンたちをニューヨークへと呼び寄せ、アルバム『I Never Loved A Man The Way I Love You (貴方だけを愛して)』を同地で完成させた。このアルバムは、ソウル・ミュージック史を代表する名盤として現在も愛され続けている。さらに両者はこのあとも引き続き手を結び、驚異的な数のヒット曲を生み出していった。

他方のホールは、シカゴに拠点を置くチェス兄弟と接近。そうして、レナード・チェスがエタ・ジェイムズをフェイムへと連れて来ることになった。結果としてホールは、1968年に彼女が発表したヒット・アルバム『Tell Mama』をフェイムでプロデュース。当のジェイムズは、音楽に対するホールの感性に感銘を受けたという。

「実際に会った中で、ああいう類の”ソウル”を備えていると感じた白人はリック・ホールが初めてだった。彼はエンジニアでありながら、ソウルフルなの」

I'd Rather Go Blind

 

オールマン・ブラザーズの登場

ウィルソン・ピケットは1968年の後半にマッスル・ショールズへと舞い戻った。ウェクスラーはホールと再び手を組むことを拒否したが、ピケット自身はホールへの忠誠心と、彼のスタジオへの根拠の薄い信頼感を抱いていたのだ。そしてそのレコーディングには、デュアン・オールマンという有能な若手ギタリストも参加していた。

彼は乗馬中の事故で肘を怪我したのをきっかけに、少ない動きでギターを弾けるようボトルネック奏法を習得。すぐにそのスタイルを自分のものにしていった (ホールはのちに、デュアンはほかの誰とも違うやり方でスライド・ギターを弾いていたと話している) 。

だが、ほかの白人ミュージシャンが身だしなみを小ぎれいに整えている中、オールマンは肩の下まで髪を伸ばし、立派なもみあげを作り、メキシコ人のような口髭をたくわえていた。さらにその服装は、絞り染めや花柄のシャツに、薄汚いデニムというものだった。ジミー・ジョンソンはこう回想する。

「みんなでスタジオの外に出ると、いつも少しばかり物騒だった。俺たち白人が黒人のアーティストと一緒にいると、嫌な”視線”を向けられるんだ。だけど、俺たち白人が長髪のヒッピーと出歩くことはそれ以上の大問題だった。周囲からの拒否反応が凄まじかったんだ。だから、彼ら (オールマンとピケット) はスタジオに残っていたよ」

オールマンがピケットに「Hey Jude」のカヴァーを提案したのは、ほかのミュージシャンが昼食を取りに外出していたそんなときだった。当初はピケットもホールも、ザ・ビートルズの楽曲を勧めるオールマンは正気ではないと感じたようだ。

だが完成したレコードはザ・ビートルズの楽曲のカヴァー史上に残る名演となり、ウィルソン・ピケットの作品の中でも屈指の力強さを誇るトラックになった (大ヒットを記録したことは言うまでもないだろう) 。また、エリック・クラプトンは同ヴァージョンでのオールマンの演奏に衝撃を受けたという。

「ウィルソン・ピケットの“Hey Jude”を聴いたときのことはよく覚えている。終盤のリード・ギターに驚愕したんだ。誰が弾いているのか、一刻も早く知りたいと思ったよ」

Hey Jude

その後、フェイムに出入りする様々なミュージシャンがオールマンとジャム・セッションをするようになり、それがオールマン・ブラザーズ・バンドの結成に繋がった。だがホールは彼らが形作っていた独自のサウンドの未来を見通せず、レコーディングを手伝わないことにした。ご存知の通り、そのサウンドはのちにサザン・ロックというジャンル全般の基礎を築き上げることなる。ホール本人は作家のピーター・グラルニックにこう話している。

「彼のことをどうすべきか俺には分からなかった。それで、最終的にはフィル (ブッキング・エージェントのフィル・ウォールデン) がこう言ったんだ。“いいかい。彼と一緒にやっていることはまだ何もないんだから、ウェクスラーのところに売り込んで、手数料をもらうのはどうだい?”とね。ウェクスラーに話をしてみると、“マスターと契約でいくら欲しいんだ?俺からは1万ドルしか渡せないよ”と言うので、俺は“それで小切手を切ってくれ”と返したんだ。いまでもフィルとその話をして笑い合うんだ。目の前のチャンスをモノにしていれば当然、5百万から1千万ドルは手に入っていただろうからね」

 

マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオの完成

そのころ、時代は急速に移り変わろうとしていた。そしてマッスル・ショールズ・リズム・セクションの面々は時機を見計らい、フェイムと直接の競合となるビジネスに挑戦することをホールに告げた。それは、ホールが彼らを事務所に呼び出したときのことだった ―― キャピトル・レコードと新たな契約を交わしていたホールは、その条件の下で専属契約を結ぶことをその場で彼らに提案したのだ。彼はそのときのことをこう振り返っている。

「メンバーの一人が俺の話を遮ってこう言った。“俺たちはすでにジェリー・ウェクスラーと契約していて、彼が町の向かい側に俺たちのスタジオを建ててくれるんだ。俺たちはここを離れて、彼と組むのさ”とね。人生の拠り所が根底から崩れ去ったような気分だったよ……。そうなれば戦争さ。全面戦争だよ」

他方のスワンパーズの言い分では、ホールのやり方に対する彼らの我慢は限界に達していた。ホールはキャピトルとの新契約で百万ドルほどを手にしたと報じられているが、ジョンソンによれば彼がメンバーたちに提示した年俸はたったの1万ドルだったというのだ (しかもそれは、前年の彼らの収入の約半分程度の金額だった) 。当のホール自身も、自ら墓穴を掘ったのかもしれないと認めている。

「彼らをパートナーにするか、彼らにも分け前が入るようにすべきだった。それなのに俺は、どのミュージシャンを雇ってもヒット・レコードは作れると過信するようになっていたんだ。俺はそれほど頭が良くなかったのさ。あるいは、自分のことに気を取られすぎて、周りに目がいかなかったのかもしれないね」

そうして1969年、アラバマ州シェフィールドのジャクソン・ハイウェイ3614番地にマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオが設立された。創設者はバリー・ベケット (スプーナー・オールダムに代わって1967年に加わったキーボード奏者)、ロジャー・ホーキンス、ジミー・ジョンソン、デヴィッド・フッドという面々である。フッドの話では、これはミュージシャンたちによる一か八かの賭けだったという。

「スタジオを買ったときは、ヒット曲が生まれるか全員が大きな不安を抱えていた。それに、レコーディングのビジネスを続けていくためにはヒット曲を作り続けないといけないんだ」

だが、ウェクスラーは才能溢れるアーティストが新スタジオに安定して訪れるよう取り計らっていた。ジョンソンはグラルニックにこう説明している。

「ビジネスを始めたばかりのころ、顧客はリックに追い出されたアーティストたちしかいなかった。それなのに俺たちは8トラックの録音に対応するため、アトランティックに1万9千ドルを借りてミキシング・コンソールを改造したんだ。それから、俺たちはフレッド (大家のフレッド・べヴィス) が建物の購入と改修のために借りた4万ドルも肩代わりしていた。合計で約6万ドルの負債を抱えて俺たちは死ぬほど怯えていたけど、どうにか前進していったんだ」

ジェリー・ウェクスラー率いるアトランティックは、彼らに対して向こう18ヶ月の仕事を世話してくれた。だが、ウェクスラーがソウル・ミュージックの事業拠点をマイアミに移すことにした際、マッスル・ショールズ・リズム・セクションの面々はそれに付いていく準備を整えられず、その時点で両者の関係は終わりを迎えてしまった。

「あの時期は恐怖に震えていたよ」とジョンソンは謙遜して言うが、スタックス・レコードの所属アーティストとのセッション・ワークなどもあり、スタジオが破産するようなことはなかった。

 

ザ・ローリング・ストーンズの『Sticky Fingers』

1969年が終盤に差し掛かっても事業はなかなか軌道に乗り切らなかったが、同年12月の前半、ザ・ローリング・ストーンズが同スタジオに入ることとなった。そのとき彼らが制作に着手したアルバムは、のちに『Sticky Fingers』としてリリースされることになる。キース・リチャーズは、グループと同スタジオが相性抜群だったと話す。

「スタジオに入る前から、俺の頭の中ではサウンドが出来上がっていた。実際に録音してみると期待以上のものが完成して、ロックンロールの天国にいる気分だったよ」

ストーンズの面々はブルースの本場という環境を活かして、フレッド・マクダウェルの「You Gotta Move」を録音。そのあとでオリジナル曲の「Wild Horses」に取り組んだ。リチャーズによれば、レコーディングは至極順調に進んでいったという。

「あれほど苦労せず、勢いに乗っていたセッションはほとんどないはずだ。それくらい次々に曲が出来ていったのさ。確か2日で3曲か4曲を録音したと思う。ストーンズにとっちゃ、それはすごいことなんだよ」

そして彼らはジャクソン・ハイウェイへの滞在を「Brown Sugar」の録音で締めくくった。リチャーズは法的問題で再入国を禁じられてさえいなければ、『Exile On Main St. (メイン・ストリートのならず者)』も同地で制作していただろうと語っている。

Wild Horses (2009 Mix)

ストーンズに利用されたことで同スタジオが得た利益は計り知れない。この一件でマッスル・ショールズは70年代ファンクの制作拠点として確固たる地位を築き、同時にポール・サイモンとアート・ガーファンクル、ロッド・スチュワート、エルトン・ジョンなど、ポップ/ロック界を代表する大物アーティストにも使用されるようになったのである。

 

確執、「Freebird」、そしてフェイム・ギャング

ホールとウェクスラーのあいだの確執により、両スタジオは必然的に仕事の質を向上させて競争力を高めなければならなかった。フェイム・スタジオでは、ホールが新たなハウス・バンドのフェイム・ギャングを集め、次々にヒット曲を制作。その中で同スタジオを活用したアーティストには、ジョー・テックス、トム・ジョーンズ、オズモンズ、キャンディ・ステイトン、ボビー・ジェントリー、キング・カーティス、リトル・リチャード、ポール・アンカ、ボビー・ウォーマック、クラレンス・カーターなどが挙げられる。

そうしてリック・ホールは、1973年に”プロデューサー・オブ・ザ・イヤー”の栄冠を獲得。これは、彼の手掛けたレコードがビルボードのポップ・チャートで計17週も首位に立つという並外れた記録を残したためであった。

他方のマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオでは、レーナード・スキナードがレコーディングを行っていた。同グループの大曲「Freebird」はのちに現代サザン・ロック界のアンセムとして愛されるようになるのだが、同スタジオはこの曲をリリースするレーベルを見つけることに失敗。結果として、爆発的な人気を得る直前のレーナード・スキナードを手放さざるを得なくなった。そして彼らは、このことを後々まで悔やみ続けることになる。

Lynyrd Skynyrd – Free Bird (Official Audio)

しかしその後、スキナードのメンバー三人が命を落とす悲劇的な飛行機事故が発生。すると、残されたメンバーはマッスル・ショールズで録音していた音源をアルバム『Skynyrd’s First and… Last』として発表した。また、マッスル・ショールズの男たちの名は、同グループの伝説的なシングル「Sweet Home Alabama」の歌詞にも歌われている。

いまじゃマッスル・ショールズにはスワンパーズがいる
連中が演奏した有名な曲がいくつかある (そうとも)
彼らは俺の心を解き放ってくれる
ふさぎ込んでいるときに 元気付けてくれる さあ あんたはどうだい?

Lynyrd Skynyrd – Sweet Home Alabama (Lyric Video)

 

大物たちが愛する人気スタジオ

マッスル・ショールズのサウンドのルーツはR&Bにあったかもしれないが、70年代までにマッスル・ショールズ・リズム・セクションの面々は、実に幅広いジャンルに適応してみせた。自分たちのスタジオのハウス・バンドとして、ジミー・クリフのレゲエ作品にアメリカ南部の音楽の要素を加えたのもその一例である。

また、彼らはトラフィックのアルバム『Shoot Out At The Fantasy Factory』にも参加し、そのあとで同グループのツアーにも帯同。マッスル・ショールズ・リズム・セクションのメンバーがツアー活動を行ったのはこのときが初めてだった。しかし彼らは、マッスル・ショールズの地を離れてライヴ・ステージのまばゆい光を浴びることで、逆にアラバマでの生活の心地良さを再認識したのだった。

そうしてマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオは、音楽界を代表する大物が次々に足を運ぶ人気スタジオの一つになった。ボブ・ディランの『Slow Train Coming』やポール・サイモンの『There Goes Rhymin’ Simon (ひとりごと)』が同地で制作されたほか、ボズ・スキャッグス、ジョー・コッカー、ロッド・スチュワート、ステイプル・シンガーズ、レオン・ラッセル、ミリー・ジャクソン、ダイアー・ストレイツ、ドクター・フック、キャット・スティーヴンス、ボブ・シーガー、エルトン・ジョン、ウィリー・ネルソン、ジュリアン・レノンらはいずれも、80年代にかけてこのスタジオでのレコーディングを行っているのだ。

Gotta Serve Somebody

1979年、同スタジオはより規模の大きなアラバマ・アベニュー1000番地の建物に移転。その後も営業を続けたが、1985年、彼らの友人であるトミー・クラウチが経営するマラコ・レコードに売却された (これと同時に、マッスル・ショールズ・サウンドの所有する音楽出版権も同社に売り渡されている) 。

これと前後して、ベケットはプロデューサーとしてのキャリアを追求するためナッシュヴィルに移住。他方で残った3人のメンバーは、かつての自分たちのスタジオでレコーディングに参加する傍ら、アメリカ屈指の人気セッション・ミュージシャンとして活躍した。

マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオとフェイム・スタジオは、レコーディング・スタジオとして現在も営業中だ。また、両スタジオは人気の観光スポットにもなっており、日中は修復された建物の中を見学することもできる。近年ではドライヴ・バイ・トラッカーズ、バンド・オブ・ホーセズ、ベティ・ラヴェット、フィッシュ、グレッグ・オールマン、シリル・ネヴィルらがマッスル・ショールズでのレコーディングを行っている。

マッスル・ショールズ・リズム・セクションによるホールとの決別は後者を何より憤慨させたが、歳月を経て両者の関係は改善されたようだ。実際、スワンパーズの面々は”マッスル・ショールズ・サウンドの生みの親”としてのホールの功績を認めており、他方のリック・ホールは後年、彼らに関して端的に、「俺は心から彼らのことが大好きだったんだ」とコメントしている。

Written By Paul McGuinness


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