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貧しいポーランド移民と南部から来た黒人達が紡ぐ「チェス・レコード一代記」

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チェス・レコードについて、最も数多く繰り返し語られてきた逸話のひとつに、ザ・ローリング・ストーンズに関するエピソードがある。彼らが初めて米国に渡り、レコーディングのためチェスのスタジオにやって来た時、彼らの憧れのヒーローであるマディ・ウォーターズがローラーを片手に、脚立の天辺でスタジオの天井にペンキを塗っているところに出くわした、というものだ。その話は、黒人ミュージシャンが自国で侮辱的な扱いを受けていたことの例証だとされているが、それは実際に起こったことなのだろうか? この伝説に真実は含まれているのだろうか?

チェス・レコードの創設者であるレナード・チェスの息子マーシャル・チェスは、「完全なデタラメだ」と主張する。「だが、キースは今日に至るまで、それは実際にあったことだという持論を曲げてはいない……。それは本当のことだと、世間が信じたいのではないだろうか。当時、ブルースがどれほど時代遅れだったかということについて、何かを物語っているエピソードだからね」。

キース以外のザ・ローリング・ストーンズの他のメンバーからマディ・ウォーターズ自身に至るまで、その場にいた人のほぼ全員がきっぱり否定しているにも拘らず、この話は絶えず持ち出され続けているようだ。結局のところ、何と言ってもそれは良く出来た話だからである。ほぼ確実に作り話である一方、そこに描き出されているのは、確かに人々がいかにも納得しそうな状況なのだ。つまり、裕福な白人層の人間が、黒人ミュージシャンを食い物にし、搾取しているという図式。だがチェス・レコードは、断じてそのような状況ではなかった。そもそもレナード・チェスは、特権階級でも裕福でもないユダヤ人の白人だったのだから。多くの芸術家達と同じように、彼は貧困と抑圧に苦しんだ背景を持ち、ルーツは東ヨーロッパに遡る。ユダヤ人が迫害され、悲惨なまでの貧しい暮らしを送ることを余儀なくされていた時代のことだ。

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ヤセフ(Yasef)とシルラ(Cyrla)のチシュ(Czyż)夫妻が暮らしていたのは、ポーランドのモトリ(※現在はベラルーシ領)にある小さなユダヤ人町。彼らの生活状況は、控えめに言ってもごく“質素”なもので、多くの同胞達と同様に、チシュ家は米国での新生活を夢見ていた。ヤセフは靴職人で、シルラは6人の子供のうち生き残った3人(その他の3人は早世)、マルカ(Malka)、レイゾル(Lejzor)、そしてフィシェル(Fiszel)の子育てをしていた。他の10万人程のユダヤ系移民と同じように、シルラの叔父ヨセル・プーリック(Yossel Pulik)が米国に移住したのは、20世紀の変わり目のことだ。

20世紀初頭には、更に多くの親族が新大陸へ渡るのに十分なほど、ヨセルの靴製造業は軌道に乗っていた。ヨセルは、彼の甥でシルラの兄弟であるモイシュ・プーリック(Moische Pulik)と共に、チシュ夫妻の夫のヤセフを呼び寄せた。そのヤセフを追って、妻シルラと3人の子供達が大西洋を越えることが出来たのは、更にその6年後である。その時も尚、旅路は緊張を孕んでいた。特に真ん中のレイゾルが足に問題を抱えており、歩行時には金属製のギプスを足に着ける必要があったからである。

一般的に、米国への移民は元気で健康な者だけが歓迎されると考えられており、ニューヨーク湾のエリス島移民局で入国拒否されることを恐れたシルラは、ギプス無しでレイゾルを通関させた。慣例に従い、シカゴに到着する頃までに、一家は新しい米国の身分証を取得。それにより、ヤセフからジョーと名前を変えた父であるジョー・チェスに紹介された時には、それぞれ米国風のシーリア、メイ、レナード、そしてフィリップ(フィル)となっていた。「これがあなたのお父さんよ」と、シーリアと名前を変えたシルラは幼いフィリップに教えた。

ジョー・チェスは、この頃にはヨセルからモリスへと改名していた義理の兄弟と共に、手広くビジネスを展開していた働き者であった。しかし、モリスが1940年に車の事故で命を落とすと、ジョーは新たなパートナーとして、長男のレナードを採用。一方、末っ子のフィルはフットボールの奨学金を受けて、ケンタッキー州のボウリング・グリーン大学に進学する。次男のレナードは間もなく、レヴェッタ・スローン(Revetta Sloan)と結婚。夫妻は、シカゴで拡がりつつあった黒人居住区のひとつに隣接する白人エリアに部屋を借りた。間もなくそこで、彼らは息子のマーシャルをもうける。

シカゴは、南部の貧しいアフリカ系アメリカ人達を惹きつける魅力的な街であった。急速に拡大中だったこの大都市は、メンフィスからミシシッピ川を上って行く、南部の綿花プランテーションからの脱出口を与えてくれたからである。

末っ子のフィルが大学から戻ると、彼も家業に加わるようになり、ジョーはそれを誇らしげに<チェス&サンズ>と名付けた。一家が経営する廃品集積所の近くには小さな黒人教会があり、そこから溢れ出るように流れてきたのが、ゴスペル音楽であった。伝染性の高いブラック・ミュージックのサウンドに、チェス兄弟はそこで初めて触れたのである。何年も経った後、フィルはこう回想していた。

「通りを挟んだ向こう側が教会だったんだ。金曜日の夜になると、彼らは手拍子をし、叫び始めたものさ。そしてそれが実に素晴らしかったんだ。事の核心の全てが、正にそこから始まったんだよ」

レナードは、黒人コミュニティの中心部にあるサウス・ステート・ストリート5060番地の酒屋を買い取って、酒類販売の免許を取得。初めて独り立ちへの一歩を踏み出した。酒類と音楽を提供する一連の事業を起こした後、1946年頃に<マコンバ・ラウンジ>を開業。そこは、ミュージシャンや売春婦や麻薬の売人達に人気の、悪名高い時間外営業ナイトクラブであった。

サウス・コテージ・グローヴ3905番地にあったマコンバ・ラウンジは、銃やナイフが飛び交うような物騒な店ではあったが、繁昌していた。そこはミュージシャンが立ち寄っては、夜通しジャム・セッション出来るような場所であった。熱く煙ったマコンバの空気に充満していたのは、彼らのルーツであるゴスペルやブルースではなく、ビバップ・ジャズだった。エラ・フィッツジェラルドや、ルイ・アームストロング、ダイナ・ワシントンといったスター達は皆、深夜のセッションをしにこの店に寄ったと言われている。

このクラブが火事で全焼した後、レナードとフィルのチェス兄弟は音楽の道を追求することを決意。イヴリン・アーロンが運営するアリストクラット・レコードに経営参加し、まず1947年、レナードは同レーベルの株を初めて取得した。1950年までには会社を完全に買収して社名を変更。ここにチェス・レコードが誕生する。

彼らは、サウス・コテージ・グローヴ・アヴェニューに居を定めた。そこから展開した事業がやがて、米音楽史において最も影響力のあるレーベルのひとつへと成長することとなる。当然ながら、チェスの最初期のレコーディングには、アリストクラット時代から引き継いだアーティスト達が含まれていた。チェス・レコードからの初リリースとなったのは、テノール・サックス奏者のジーン・アモンズによる、当時の人気ヒット曲のカバー「My Foolish Heart」だ。チェス兄弟は、米国移住後に彼らが初めて暮らした家の住所であるサウス・カーロフ・アヴェニュー1425番地に因み、チェスから初めて発売される同シングルにカタログ番号[1425]を与えた。

マディ・ウォーターズとして後に世界に知られるマッキンリー・モーガンフィールドのレコーディング・キャリアの始まりは、1940年代初頭、民俗音楽研究家で実践主義者のアラン・ローマックスと行った録音だった。その後、ミュージシャンとしての名声を得ようと、1943年にはミシシッピの田園地帯からシカゴに移住。「アコースティックでは誰の耳にも届かないのではないか」と、アコースティック・ギターをアンプ付きのエレキ・ギターに持ち替え、最終的にはアリストクラット・レコードと契約し、レコーディングを開始。1948年、同レーベルからリリースした「I Can’t Be Satisfied」と「I Feel Like Going Home」がヒットを記録した。

1950年初めにリリースされた[Chess 1426]は、ウォーターズがレナードとフィルの新レーベルから初めて出したシングルだ。古いデルタ・ブルースのスタンダード・ナンバー「Catfish Blues」を土台にしたこの曲には、「Rollin’ Stone」というタイトルが付けられた。大きなヒットとはならなかったものの、その10年後には、チェスに取り憑かれた若い英国のバンドの名前の由来となり、このレーベルの音楽は、彼らによって世界中へと広まることになる。

恐らくマディ・ウォーターズは、チェス関連のアーティストでは一番の大物だろう。だが彼のレコードの中で最大級の成功を収めたものの多くは、ミシシッピ州出身の元ボクサーが書いた曲であった。その人物とは、マコンバでチェス兄弟に初めて出会ったウィリー・ディクソンだ。

身長約6フィート6インチ(約198cm)、体重250ポンド(約113kg)の彼は、威圧感のある人物で、50年代初頭にはチェスのスタッフとなっていた。ウィリー・ディクソンは、ソングライター兼ベーシスト兼プロデューサーかつ多芸多才な助け人であり、マディ・ウォーターズのためにHoochie Coochie Manや「I Got My Brand On You」「I Just With Love To You」を作詞・作曲。またハウリン・ウルフには「Little Red Rooster」を、リトル・ウォルターには「My Babe」を、そしてボ・ディドリーに「Pretty Thing」を提供した。その後長年に渡り、チェスに欠かせない存在となる彼の影響力は、どれほど強調してもし過ぎることはない。

多くの独立系企業がそうであるように、チェス・レコードは他の中小企業と安定した関係を築くことによって運営されていた。そのためレナードは主に南部を旅して回り、DJやレコード・プロモーター、プレス工場、そして配給業者らに直接会って、レーベルのプロモーションを行うことに多くの時間を費やしていた。サム・フィリップスと彼が、固い友情と相互パートナーシップを結んだのは、こういった労を通じてのことだ。後にサン・レコードとして不滅の名声を確立するサム・フィリップスは、メンフィス・レコーディング・サービスを運営。サム・フィリップスはレナードと頻繁に共同でレコーディングを行うことになるが、チェス初のヒットとなり、20世紀の音楽史におけるその地位を確立したシングルは、その中から生まれた。

品番[Chess 1458]として1951年にリリースされたその「Rocket 88」は、世界初のロックン・ロール・レコードとして多くの人々に引き合いに出されている曲だ。ジャッキー・ブレンストン&ヒズ・デルタ・バンド名義で発表されたこの曲を実際に演奏していたのは、アイク・ターナー&ヒズ・キングス・オブ・リズムであった。同シングルは、BillboardのR&Bチャートで首位を獲得。マディ・ウォーターズも「Louisiana Blues」と「Long Distance Call」により、チャートで成功を収めていく。

マディ・ウォーターズは自身のサウンドを変えたいと思っていた。だがレナードは、それに反対していた。決まったやり方が成功している間は、それを弄ったりしないもので、レナードはマディ・ウォーターズをリスペクトしており、2人は強固で永続的な友情を結んでいたが、彼らはそれぞれ異なる視点から、その考えに到達していた。マディ・ウォーターズが考えていたのは、ドラマーのエルガ・エヴァンス、ピアニストのオーティス・スパン、ギタリストのジミー・ロジャース、そして早熟の若きブルースハープ奏者リトル・ウォルターをスタジオ入りさせたいということ。彼らと共にライヴを行う中で、音楽的な信頼関係を築いていたからだ。

最終的にはマディ・ウォーターズの要望が通り、彼は自身のハウス・バンドをスタジオ入りさせた。一緒にセッションを開始してから早い段階で、その日の作業が早めに終わり、空き時間が出来ることが判明。その空き時間を利用して、リトル・ウォルターがブルースハープを披露するインストゥルメンタルをを録音することに決めた。ハーモニカをアンプで増幅することにより独創的なサウンドを生み出したリトル・ウォルターは、伝統的なブルースハープというよりサックスのように演奏することで更にそれを開発。

2012年、レナードの息子マーシャル・チェスはウェブ・マガジンのサボタージュ・タイムスに対し、リトル・ウォルターがどれほど高く評価されていたかについて、こう語っている。「マイルス・デイヴィスはかつて僕に、リトル・ウォルターはモーツァルト並みの音楽的天才だと言っていた。僕も同意見だよ。彼のハーモニカの吹き方は、ブルースを完全に変えた。リトル・ウォルターは、チェスで一番の才能の持ち主だったね」。

リトル・ウォルター名義でリリースされた「Juke」は、BillboardのR&Bチャートで8週間に渡って1位に君臨。チェス兄弟にそれまでで最大のヒットをもたらし、チェス・レコード・ファミリーにおけるウォルターの地位を確固たるものにした。

しかしながら「Juke」がリリースされたのは、チェスではなく、傘下レーベルのチェッカー・レコードから。当時、成功したレーベルが子会社を設立するのは慣行となっていた。というのも、ラジオのDJは一般的に、番組では同じレーベルから一定数のレコードしかエアプレイしないという考えがあったからである。その解決法はシンプルだった。つまり、新しいレーベルを設立すること。そうすれば名目上、エアプレイ回数の機会2倍にすることが可能となったからだ。

「Juke」の成功を受け、リトル・ウォルターはマディ・ウォーターズのバンドを脱退し、ずっと夢見ていたバンド・リーダーとしての道に踏み出した。リトル・ウォルター&ザ・ジュークスはその後、50年代を通じ、BillboardのR&Bチャートで数多くのトップ10のヒットを飛ばすことになる。その中に含まれていたのが、ウィリー・ディクソンが書いたNo.1ヒット「My Babe」だ。しかし、アルコール依存症との闘いや喧嘩っ早さが災いし、50年代の終わりにはリトル・ウォルターの人気と評価は下降。60年代にはヨーロッパを2度ツアーしたものの、チャートを賑わす往年の勢いを再び取り戻すことはなかった。だが、それでも彼はチェス兄弟のレーベルでレコーディングを続け、1967年にはボ・ディドリーやマディ・ウォーターズらと共に録音したアルバム『Super Blues』を発表。その12ヵ月後、37歳で死去した。

チェッカーは元々、チェス兄弟がカントリー色のあるレーベルとして考案していたが、実際には何でもありで、様々なヒット・レコードを世に送り出した。1955年にはサニー・ボーイ・ウィリアムソンIIの「Don’t Start Me Talkin’」をリリース。また同年発表の、自身の名を冠したボ・ディドリーのデビュー・シングルは、BillboardR&Bチャートで首位を獲得した。また、デイル・ホーキンズのロカビリー・ヒット「Suzie Q」は、1957年に全米チャートでトップ30入りを果たしている。

メンフィスのサム・フィリップスとレナードの友情は、シカゴのチェスに利益をもたらし続けていた。中でも特に注目すべきだったのが、ハウリン・ウルフと名乗るシンガー兼ギタリストである。巨漢のハウリン・ウルフは、巨大な足が靴に収まり切らないため、その両脇に切れ目を入れていた。彼がチェス・レコードから初めてリリースしたのが「Moanin’ At Midnight」だ。そこで披露されているのは、彼のトレードマークである呻くようなしゃがれ声と、吠えるような歌唱表現、そして強烈なギター・スタイル。彼らがザ・ウルフと呼んでいた男がチェスから飛ばした数多くのヒットの、最初1枚がそれであった。

後にマーシャル・チェスは、「レーベルが成功を収めた理由の大部分は、チェス一家が黒人社会の外で生計を立てようとしていたのではなく、その中で生活と商売を営んでいたという事実にあった」と述べている。チェス兄弟は自分達を移民として捉え、南部での苦難から逃れるために北に移動した黒人ミュージシャン達と何ら変わりはないと考えていた。そして彼らのサウンドが新しいものへと進化していったのがシカゴであった。そう、シカゴ・ブルースだ。

シカゴのブルースがどのように進化したか、マーシャル・チェスは、映画監督のマーク・レヴィンにこう説明している。「南部では、エレキ・サウンドを作る機会が全くなかったんだ。というのも彼らが演奏していた小さな酒場は、殆ど電気が通っていなかったからね。彼らがシカゴにやって来た頃は、よりデルタ・ブルースに近いものを歌っていた。そして幾つものクラブがある大都市に辿り着くと、楽器を壁のコンセントに差し込んでは、そいつをエレキ・サウンドで轟かせたのさ!」。

「チェス・レコードは移民だらけだったんだよ。アーティスト達は皆南部の出身で、うちの家族はポーランド出身。黒人アーティスト達は、ミシシッピ州やアーカンソー州からやって来たんだ。メンフィスからシカゴまで、イリノイ・セントラル鉄道に乗ってね。うちの家族はポーランドから船でニューヨークに渡り、鉄道でシカゴにやって来たんだよ」。

チェス・レコードとその子会社は、ブルースだけでなく、他の分野でも大きな成功を収めていた。特に、ドゥーワップのザ・ムーングロウズは、シングル「Sincerely」で大ヒットを飛ばしている。しかしチェスの庭では、全てが薔薇色というわけにはいかなかった。ジャッキー・ブレンストン&ザ・デルタ・キャッツのプロモーション・ツアーの費用負担を巡って対立した結果、サム・フィリップスとの実入りの良い提携関係が解消されるに至ったのである。後年、レナードは次のように述べていた。「あれがぶち壊しになっていなかったら、うちはエルヴィスやジェリー・リー・ルイスを抱えていたかもしれなかったんだよ」。サム・フィリップスは取り澄ましてこう答えている。「ああ、そうだったかもしれないね」。

だが、逃した機会の分以上に、多くのチャンスが舞い込んだ。マディ・ウォーターズがチェスにもたらしたヒット・メーカーは、リトル・ウォルターだけではない。チャック・ベリーがシカゴにやって来たのは、1955年。カントリー、ブルース、R&Bの混合を、地元ミズーリ州セントルイスで2年ほどプレイして回った後のことである。マディ・ウォーターズは、チャック・ベリーをレナード・チェスに推薦。チャック・ベリーが解釈した「Ida Red」に、レナードは惹きつけられた。この曲の基になったのは、ボブ・ウィルズ&ヒズ・テキサス・プレイボーイズで有名になった、フィドルが奏でるカントリー・ナンバーだ。ベリーはその曲を、自身の「Maybelline」に翻案。それにより、チェスはミリオン・セラーを手にすることとなった。

それから5年に渡り、チャック・ベリーは「Johnny B Goode」「Rock’n’Roll Music」「Sweet Little Sixteen」など、数多くのヒットを連発。チャック・ベリーの人気が爆発したことにより、チェス・レコードはリスナー層をますます拡大していった。

チャック・ベリーがレーベルに加わってからほどなくして、チェス兄弟はサウス・ミシガン・アヴェニュー2120番地に移り、そこを新たな本拠地とした。マーシャルは英ガーディアン紙のイライジャ・ワルドにこう語っている。「サウス・ミシガン・アヴェニューは、“レコード通り”と呼ばれていた。チェスだけでなく、通りの向かいにヴィージェイ・レコードがあったり、5、6社の配給会社があったりしてね。うちのビルは1920年代に建てられた、シカゴらしい2階建ての狭い建物だった。オフィスは1階にあり、スタジオが2階にあったんだ」。

マーシャルはこう続ける。「入ってすぐの所に待合室があって、そこが防壁の役割を果たしてて、そのドアには窓が付いていた。というのも、チェス・レコードにやって来る多くの人が不満を抱えていたからね、『どうして俺のレコードはヒットしなかったんだ?』って具合に。R&Bアーティストのビリー・スチュワートが銃を取り出して、ドアに向かってぶっ放したこともあったよ、さっさと中に入れてくれなかったからって理由でね」。

「うちではブルースのアーティストを扱っていて……そのの80%が飲んだくれだったよ。さんざん怒鳴り合ったり、『このくそったれ野郎』と相手を罵倒したり、喧嘩もしょっちゅうだった。ブルースのアーティストは、金曜日に2,000ドルのギャラを渡しても、月曜日までには一文無しになってしまったりする。すると彼らは『おい、ひでえじゃねえか、俺の金はどこだよ?』って言いに来るわけさ。天使のようなお人好しには、シカゴのゲットーでチェス・レコードを経営するのは無理だろうね」。

50年代が終わりを迎える頃には、チェス・レコードは溢れるほどのヒットを生み出しており、レーベルは地位を十分に確立。その評判のおかげで、将来有望なアーティスト達がこぞって例の窓付きドアをくぐり、チェス兄弟のもとを訪れた。そのうち最も重要だった訪問のひとつは、特にドラマティックなものだった。

マーシャル・チェスがサボタージュ・タイムズについてこう語っている。「エタ・ジェームスは、派手な登場の仕方を心得ている人だった。1960年に初めて彼女がチェスに現れた時、僕もその建物にいたんだ。彼女は狭い廊下を歩いていたんだけれど、誰もが目を留めずにはいられなかったよ。当時にしては大柄な女性で、多分体重は200ポンド(約90kg)くらいあっただろう。そして彼女は、僕が初めて見た金髪の黒人女性だった。彼女には側近が大勢いて、美容師や洋裁師、男のなりをした筋骨逞しい女性同性愛者、さらには小人まで引き連れていたよ。まるでフェリーニの映画を生で見ているようだった。そこで小人がどんな役割を果たしていたのかは、とうとう分からなかったな。エタはいつだって取り巻きを連れているのが好きだった。彼女は生き生きとした面白い人物だったね……。並外れた個性の持ち主だった。そして彼女の声から最高のものを引き出すにはどうすればいいのか、僕の父は知っていたんだ」。

エタ・ジェームスは、チェス兄弟が手掛けた作品の中でも特に折紙付きの、際立って魅力的な不朽の名作の幾つかをレコーディングすることになる。彼女のデビューLPは、チェス・レコードのもうひとつの子会社であるアーゴ・レコードからリリース。そこからは数々のヒット・シングルが生まれ、特に表題曲の「At Last」はエタ・ジェームスの代表曲となった。後年、ローリング・ストーン誌が『史上最高の名盤500枚』を選出した際、このLPはリストの119位に挙がっている。華やかなストリングスとジャジーなリズムセクションに裏打ちされた、パワフルでソウルフルなその歌唱は、ダスティ・スプリングフィールドからエイミー・ワインハウスまで、あらゆる人に影響を与えた。

だが、ロックン・ロールの先駆者ボ・ディドリーから、R&B界にセンセーションを巻き起こしたシュガー・パイ・デサントまで、この頃までには錚々たる面々が所属していたにも拘らず、チェスの黒人アーティスト勢がクロスオーヴァーな成功を達成するのは、少なくともアメリカでは事実上不可能なことであった。しかしながら、大西洋を挟んだ向こう側、つまり英国では、チェスの作品が旋風を巻き起こしており、それによって同レーベルの名は、間もなく世界中のレコード購買層の間に浸透していくことになる。

ザ・ビートルズとザ・ローリング・ストーンズは、自作の曲をレコーディングするようになる前、チェスや、スタックス、サンの他、米南部の様々なレーベルからリリースされたレコードのカヴァーを長らくレパートリーに入れて演奏していた。そして彼らが母国イギリスでスターとなってアメリカに渡った時、彼らを筆頭とするブリティッシュ・インヴェイジョン勢は、自分達の憧れのアーティストの多くがアメリカではほぼ無名であることに衝撃を受けた。ザ・ビートルズが米国に上陸した際、ポール・マッカートニーは、自分達の目で是非見たいのは、マディ・ウォーターズとボ・ディドリーだと明かすと、無知な記者が地名・店名等だと勘違いして「それはどこにあるんですか?」と言うと、ポール・マッカートニーは彼にこう尋ねた。「自分達の国の有名人なのに、誰だか分からないんですか?」と。

60年代、レーベルは繁栄期を迎え、ココ・テイラーや、バディ・ガイ、ジュニア・ウェルズ、オーティス・ラッシュといったアーティストが加わった一方、スター達の既発作品もセールスを上げ続けていた。そしてチェスは、新たな拠点へと移転。イースト 21st ストリート320番地に位置するその建物では、ひとつ屋根の下でレコード制作過程のあらゆる局面に対処することができた。マーク・レヴィン監督のドキュメンタリー映画『ゴッドファーザー&サン』の中で、マーシャルはこう説明している。「素晴らしい建物だったよ。 スタジオから、レコードプレス、印刷、マスタリングまで——金曜の午前中にそこでレコーディングすれば、土曜の正午までにはもうレコードが出来上がっていたんだからね」。

チェス兄弟は、様々なスタイルの音楽の人気の変化に遅れを取らないよう、常に目を配っていた。例えばチャック・ベリーとの契約は、ブルースの勢いが下降気味であると気づいたことに対する反応だ。そして60年代が進んでいくにつれ、チェス・レコードもまた、変化を受け入れようと試みた。60年代中頃、チェスとその傘下レーベル陣は、目覚ましいソウル・ヒットを次々と連発。その多くはやがて、ノーザン・ソウルのファンの愛聴盤となった。その中には、フォンテラ・バスの「Rescue Me」や、ラムゼイ・ルイスの「Wade In The Water」、そしてエタ・ジェームスの「Tell Mama」があり、ソウル全体を引っ括めた中でも極めて鋭いホーンがその特徴となっている。

60年代終盤になると、レナードとフィルは、レーベル運営に以前ほど魅力を感じられなくなっていた。彼らはラジオ業界で優れた事業を確立しており、テレビ業界への移行について検討し始め、1969年には、チェス社の株式をジェネラル・レコーディッド・テープ社(GRT)に650万ドルで売却するという提案を受諾。だが売却から数ヶ月後にレナードは病に倒れ、心臓発作で亡くなった。チェス・レコードは様々に形を変えながら、その後もしばらく存続。同レーベルが長年に渡り、アメリカにおけるブラック・ミュージックの草分けとして功績を残してきたことが、その大きな支えとなった。

皮肉なことに、チェス最大のヒットは、レーベル売却後に生まれている。それはチャック・ベリーの1972年のおふさげ楽曲「My Ding-A-Ling」で、同シングルは全米チャートで1位を記録した。フィルは隠居してアリゾナへ。音楽業界の賞を受賞した際には、時折姿を見せていたが2016年、95歳で亡くなっている。マーシャルはレコード業界に留まり、ザ・ローリング・ストーンズ自身のレーベルの運営を行った。以来チェスの作品は、ノーザン・ソウル・ムーヴメントやモッズ・リバイバルから、ヒップホップ・アクトによる絶え間ないサンプリングまでを通じ、依然として高い需要を誇っている。同レーベルのアーティストを元にした映画も数々製作された。中でも最も有名なのが、エタ・ジェームス役としてビヨンセが主演した2008年の映画『キャデラック・レコード  音楽でアメリカを変えた人々の物語』だろう。この映画では、同レーベルが偉大になった理由の多くが描かれているものの、物語の殆どが全くの創作である。

貧しいポーランド人移民が、あの有名なレーベルの扉を閉め、事業より身を引いてから長い年月が経った。しかし、彼らが生涯をかけたライフワークは、今日まで途絶えることなく影響を及ぼし続けている。史上最高の独立系レーベルのひとつとして、チェス・レコードが築いた地位は現在も揺るぎなく、その音楽は今も尚、革命的なサウンドを鳴り響かせている。

♪ 『Chess Records Essential

By Paul McGuinness


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