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創設者の息子として至近距離で歴史を見てきたマーシャル・チェスが語る想い出話とチェス・レコード入門

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1950年、シカゴでスタートされたチェス・レコード。レナード・チェスとフィル・チェス(2人のポーランド姓はシチュ)というポーランド系移民によって設立されるとすぐに、マディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフ、チャック・ベリー等、ブルースとロックン・ロール界の世界的大物アーティストを擁するようになった。ジャズ、ソウル、サイケデリック・ロック等、多岐にわたる歴史を持つチェス・レコードは、音楽史上における最重要レーベルのひとつであり続けている。レナード・チェスの息子、マーシャル・チェスは、uDiscover Musicに対し、こう語った――「チェスがなければ、ロックのサウンドは違ったものになっていただろう」

「ミュージシャンは、父に“フットストンパー / Footstomper”というニックネームをつけていた。父は大きなバック・ビートを入れたがったんだ。あまり知られてはいないんだけど、チャック・ベリーの葬儀で聞いたんだ。葬儀でチャックの‘Maybellene’のレコーディングに立ち会っていた人たちに会うと、彼らから、父はチェス・レコードの誕生だけでなく、ロックン・ロールの誕生に関わっていたと言われたんだよ。父はギターの音を大きくするようするよう、チャック・ベリーをせき立て、ビッグ・ビートを追求したそうだ。それを聞いてビックリしたよ。僕はもちろんその場にもいなかったし、父がそんなことをしていたとは知らなかったんだ」。

マーシャル・チェスは1942年生まれで、レーベル設立時には8歳だった。「流れに乗っていただけ」「生まれに恵まれた」と謙遜して彼自身を言うマーシャル。しかし父と叔父のレーベル創設者の二人はそうではないと言う。「父と叔父はポーランドからの移民で、トイレもないような暮らしをしていた。2人はシカゴにやって来ると、いまだに人々に語られるような素晴らしい音楽を作ったんだ」と語る。

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Leonard, Marshall and Phil Chess (photo courtesy of Marshall Chess)

しかし、マーシャル・チェスも1967年、チェス傘下に自身のレーベル、カデット・コンセプトを設立した。ソロになる前のミニー・リパートンが参加していたロータリー・コネクションを世に送り出し、マディ・ウォーターズやハウリン・ウルフのサイケデリック・ロック・レコードを作ったレーベルだ。「あれが僕の得意ジャンルだった。LSD、ロックン・ロール、ヒッピー、オルタナティヴ・ラジオ。僕はあの時代の出身だったからね」とマーシャル・チェスは語る。「だから自分のレーベルで、まずはサイケデリックなアルバムを作った。そちらに進出したかったんだ」。

マーシャル・チェスは少年時代から、ファミリー・ビジネスを学んでいた。13歳の夏休みから働きはじめたマーシャル・チェスが最初にやったのは、チェス・レコードが入っていた段ボール箱を潰す仕事だった。「夏休みはいつもあそこにいた」と彼は語る。「いつも会社にいたんだ。小さなオートバイで仕事に通っていたよ。なんだか、父がサーカスにいるような感じだったな……あの雰囲気が大好きで、父の傍にいたかった。父と関係を持てる唯一の場所が、仕事場だったんだ」。大学を辞めると、マーシャル・チェスはフルタイムでファミリー・ビジネスに携わりはじめた。「『父さん、僕の仕事は何だい?』って尋ねたら、『バカ野郎、お前の仕事は俺を見てることだ!』って言われたよ」。

幼い頃からチェス・レコードに浸りきってきたマーシャル・チェスにとって、同レーベルの楽曲の中からお気に入りの1曲を選ぶのは、不可能に近い。「どの曲も僕とともに生きている。僕の人生の一部なのさ」と彼は語っている。

それでも、マーシャル・チェスがお気に入りだと素直に認められる曲がひとつある。マーシャル・チェスは、uDiscover Musicだけにチェス・レコードの名曲について語ってくれた。最も近くにいたチェス・レコード関係者の目から見たレーベル・ガイドは以下の通り。

■チャック・ベリー:「Maybellene」 (1955年)
マーシャル・チェス: お気に入りの曲がひとつある。チャック・ベリーの「Maybellene」だ。あの曲は1955年にリリースされ、その時の僕は13歳だった。人生が変わったよ。それまでのチェスはブルース専門レーベルだった。僕たちは黒人たちに音楽を売っていた。彼らは当時、レコード・プレイヤーも持っていなかったし、40年代は黒人居住区にレコード・ショップもなかったね。みんな、バーバーショップや雑貨屋でレコードを買っていたんだ。ブルースだと、最大のヒットでセールスは20,000枚から30,000枚。大半のレコードは単価が25セントでだいたい8,000枚、10,000枚、15,000枚の売り上げだった。つまり、大金にはならなかったってことだ。ヒットは出していたけれど、僕はエレベーターのない3階建てのアパートに住んでいた。

何年も前に、息子がチャック・ベリーに会いたがったんだ。彼は88歳で、最後のツアーをやっていて、ニューヨークのBBキングズってクラブにいた。チャックに会うのは10年ぶりぐらいだったけど、彼のことはよく知っていたよ。僕は「あのレコードが出て、全てが変わった」と彼に伝えん田。僕たちは一軒家に引っ越すことができたんだって。すると彼は僕の手を取り、涙ぐみながら「何言ってるんだよ? 1955年に俺の人生だって変わったに決まってるじゃないか」と言ったんだ。というのも、彼は十分な金を稼いだ初めてのブラック・ガイだった。彼は金を稼ぎ、多くを犠牲にした。彼は最初の数年間「Maybellene」のソングライター・クレジットをディスクジョッキーのアラン・フリードにあげて、彼がレコードをヒットさせた。ニューヨークで一晩中、繰り返しこの曲をかけていたのさ。だからこれは僕のお気に入りだ。僕の人生に大きな影響を与えた。

■マディ・ウォーターズ:「Mannish Boy」 (1955年), 「I Just Want To Make Love To You」(1954年)
マーシャル・チェス:チェスで2番目に好きだったアーティストは、マディ・ウォーターズだ。僕は彼とすごく仲が良かったし、彼はレーベルにとって最初のスターでもあった。僕たちにとって、最大のブルース・スターだったのさ。さらに、彼は父とも仲が良かった。初めて彼に会った時、彼はまるで宇宙から来た異星人のようだった。彼が家に来て、僕は当時、10歳か11歳ぐらいだったかな。彼は鮮やかな蛍光グリーンのスーツを着て、ポニーの皮みたいなもので出来た靴を履いていた。その皮には毛も生えていたね。彼はお洒落な男で、髪型もバッチリ決めていたよ。彼は車から降りると、「君はヤング・チェスだな。君のパパに会いに来た」と言った。こうして彼と出会った……彼の曲で好きなものはたくさんあるけれど、中でも「Mannish Boy」と「I Just Want To Make Love To You」が特にお気に入りだ。

■ボ・ディドリー:「Bo Diddley」(1955年)
マーシャル・チェス:1955年はチェスの当たり年で、これは白人リスナーに受けた初期のクロスオーヴァー・ヒットのひとつだ……チェスはまず、イギリスの白人の間でブレイクしたんだ。アメリカよりもずっと早かったよ。アメリカは、マディ・ウォーターズがニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに出演した時に、ようやく気づいたんだ。そして僕たちは『Muddy Waters At Newport』(1960年)をリリースした。これが、アルバム・ビジネスの始まりになった。それから、ボストン、ニュー・イングランド・エリアで、このアルバムが売れていることに気づいて、そしてこのアルバムがチェスにとって、これまでで最高の売上になったんだ。フェスティヴァルに行った人たちが、アルバムを買っていたんだ。こうして僕たちは、アメリカの白人マーケットが大きくなっていることに初めて気づいた。

■ハウリン・ウルフ:「Smokestack Lightning」(1956年)、「Evil」(1954年)
マーシャル・チェス:僕のお気に入りの2曲は――とはいえ、10曲はお気に入りがあるのだけれど――「Smokestack Lightning」と「Evil」だ。子どもの頃からブルースの歌詞に親しみ、ブルース・アーティストと話していると、ごく幼い頃から人生について、苦痛や困難についてを植え付けられたことといえば、例えば「他のラバが、お前の納屋を蹴破ってる」というリリック。僕にはこれの意味が分からなかった。何て意味か分かるか? 「他の男がお前の妻/彼女とヤッてる」って意味なんだ。僕は意味を尋ね、それを知った。14歳で、こういったことを知らなきゃならなかったんだ。だから、人間として大きく変わったよ。

■サニー・ボーイ・ウィリアムソンII:「Help Me」 (1963年)
マーシャル・チェス:サニー・ボーイ・ウィリアムソンも、本当に大好きだったアーティストだ。彼はユニークな人物だった。彼の曲で特に好きなのは「Help Me」だ。というのも、僕は子どもの頃からいろんな歌詞に触れてきて、その大半がセクシュアルなもの、心理的なものだったからだ。この「Help Me」のようにね。何度も何度も歌詞を聞いた。いつもみんなに話していることなんだけれど、「当時のブルース・ガイたちとはどんなことを話していたたか?」って質問を受けるんだが、当時僕は子どもだったのに、彼らはどんな質問をしてきたと思う? 彼がきいてきたのは「もう初体験はすませたか?」とか「セックスはしたか?」ってことさ。「おい小僧、もうヤッたか?」ってね。歌詞は女性とセックスについて、多くを語っている。それから人生の悩みについても。もちろん、成長する過程で僕にも悩みがあった。そして「Help Me」は――大人になる過程で、この曲のような感情を抱えるものなんだ。

■リトル・ウォルター:「Juke」(1952年)
マーシャル・チェス:リトル・ウォルターは、ブルースの様相を一新した。彼はマディ・ウォーターズのバンドのハーモニカ奏者で、エゴが凄い強かったんだ。ソロになった彼の初レコードが「Juke」で、これはインストゥルメンタルだった。「いいか、“Juke”が出る前、ブルース・バンドにはハーモニカ奏者はいなかった。しかし、“Juke”が大ヒットすると、どのバンドもハーモニカをアンプにつないだ」って、叔父はよく言っていたよ。リトル・ウォルターは天才だと、マイルス・デイヴィス にも言われたことがある。彼はリトル・ウォルターをよく聴いていたんだ。

妹のエレインは、チェスのレコードを聴かされて、「どっちがA面、どっちがB面だ?」って訊かれていた。彼女が惹かれるメロディや何かがある曲が、A面にふさわしいと思われてたんだ。リトル・ウォルターの「Juke」をかけた時、僕たちは、入り口に日よけのついた建物に住んでいて、ほんの数フィート先にはバス停があった。エアコンもなくて、シカゴの夏は暑いから、夏の間はドアを開けっぱなしだったんだ。リトル・ウォルターの最初のセッションをかけて、「Juke」をかけた時、バス停にいた女性たちが踊っていることに入口のスタッフが気づいた。これがきっかけとなり、チェスはこのレコードの発売を急いだんだ。

■チェス・ソウル
マーシャル・チェス:チェスのヒット曲でお気に入りはたくさんある。ボビー・ムーア&ザ・リズム・エイシスの「Searching For My Baby」は大好きだったよ。チェスには素晴らしいドゥワップのレコードがあって、僕もドゥワップが大好きだった。「Ten Commandments Of Love」や「Sincerely」を歌っていたムーングロウズは特に好きだった。60年代に入ると、フォンテラ・バスの「Rescue Me」、ビリー・スチュワートの「Summertime」、エタ・ジェイムスの「At Last」、そしてもちろんデルズ、いくらでも名前を挙げられるくらいだ。特に好きだったのはロータリー・コネクション。僕が作ったグループだ。僕がチェスを去る頃に彼らが作った最後の曲「I Am The Black Gold Of The Sun」は素晴らしい。名曲だね。

それから、ノーザン・ソウル。あれには圧倒された。こうしたノーザン・ソウルの楽曲は、全てイギリスで見つけた。僕がエグゼクティヴ・プロデューサーなどで関わった曲の大半は、ノーザン・ソウルの人々に愛されていたヒットでもなかった。だから興奮したし、その興奮は止まらなかった。40年代からチェスが売却される1969年まで、本当に素晴らしい音楽が集まり、僕たちは、途方もなく素晴らしい音楽を作り出したんだよ。

By Jason Draper


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