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エタ・ジェイムスは薬物中毒の状態でいかにして60年代屈指のソウル・アルバム『Tell Mama』を生み出したのか

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1967年の夏が近づくにつれ、その少し前まで薬物不法所持のためにロサンジェルスのシビル・ブランド女性刑務所で刑期を務め、南カリフォルニアの病院で薬物中毒のためのリハビリ治療をしていた29歳のエタ・ジェイムスの先の見通しは何とも危ういものになっていた。「何ひとつ上手く行ってなかったわ」とエタ・ジェイムスは後に回想する。「キャリアは順調だったけど、生活の方はボロボロに破綻してた」。誰ひとり、エタ・ジェイムス本人さえも、彼女が間もなく60年代屈指の傑作ソウル・アルバム『Tell Mama』のレコーディングに入ろうとしていることなど、この時は知る由もなかった。

エタ・ジェイムスは1960年からチェス・レコードに在籍しており、レナード・チェスは彼女に、その傘下のカデット・レコードのために新作をレコーディングさせようと考えた。レナード・チェスは彼女をアラバマ州シェフィールドに連れて行き、有名プロデューサーのリック・ホールの指揮の下、マッスル・ショールズのフェイム・スタジオでレコーディングに入らせた。この環境は彼女を都会の薬物の誘惑から遠ざけると同時に、新たな音楽的インスピレーションを与えることになった。この転地療法は効果を挙げ、結果として生まれたのは途方もない傑作だったのである。

この年代におけるリック・ホールの成功――後に“マッスル・ショールズ・サウンド”として知られることになるものの基礎――は、人種間の関わり合いが剣呑なレベルまで制限されていた時代と地域性の只中で、黒人シンガーと白人ミュージシャンが築いていた特別な連帯に支えられていた。ウィルソン・ピケットやクラレンス・カーター、パーシー・スレッジ、アレサ・フランクリン、そしてエタ・ジェイムス自身も含めて、60年代最高のR&B楽曲の多くはリック・ホールの指揮の下、フェイム・スタジオで制作されたものである。

当時、つとに知られたリズム・セクション――ザ・スワンパーズと呼ばれていた――を構成していたのは、ジミー・ジェンキンスとアルバート・“ジュニア”・ロウ(ギター)、ロジャー・ホーキンス(ドラムス)、バリー・ベケットとスプーナー・オールダム(キーボード)、それにデヴィッド・フッド(ベース)という面々だった。更に彼らの脇を固めていたのが、ジーン・“バウレグス”・ミラー(トランペット)、ジェームズ・ミッチェルにアーロン・ヴァーネル(サキソフォン)、そしてフロイド・ニューマン(バリトン・サックス)によるスリリングなブラス・セクションである。

1996年、ジョージア州アセンズで結成されたオルタナ・カントリー・バンド、ドライヴ・バイ・トラッカーズのパターソン・フッドの父親であるデヴィッド・フッドは、当時をこう回想する。「(レナードとフィルの)チェス兄弟は彼女にヒット作が生まれる可能性のある場所でレコーディングをさせたいと思っていたんだ。同時にシカゴとかニューヨーク辺りのスタジオだと誘惑や気晴らしがウヨウヨあるから、彼女をそれらから遠ざけたいと考えてもいたんだ。実は俺たちは知らされてなかったけど、あの当時エタは(最初の息子であるドントを)妊娠してたんだよね。彼女は素晴らしいシンガーだよ、本当に偉大なシンガーだ。俺たちとさして年齢も変わらないくらいだったけど、何しろ経験値が違ったから、年上に見えたもんさ。何しろ14か15才の頃から、ジョニー・オーティスとか色んな人たちと一緒にシカゴやカリフォルニアでプロでやってるんだから。そりゃあ年齢不相応に場馴れして見えたはずだよ」。

アルバムのタイトル曲であるオープニング・トラック「Tell Mama」は、元はリック・ホールがその1年前にクラレンス・カーターと一緒にレコーディングしていたものだったが(当時のタイトルは 「Tell Daddy」だった)、それだけで既にセンセーショナルだ。フェイム・スタジオにおけるレコーディンング技術の向上は、過去にあった彼女のレコーディングでは高音域はいささか歪みがかかっていた、といった幾つかの問題を解決し、リック・ホールは『Tell Mama』のタイトル曲とそれに続く12の収録曲で前例のないレベルのクリアなサウンドを実現させた。タイトル曲はシングルとしてリリースされ、Billboard誌のR&Bチャートでトップ10に食い込んだ。

2曲目の「I’d Rather Go Blind」は、忘れ難いほどに痛切な喪失と嫉妬のバラードだ。エタ・ジェイムスの物憂げなヴォーカルが、眩暈を誘うようなリズム・ギターとオルガン、ドラムスのパターンと心揺さぶるホーンのラインにかぶさり、歌詞のあからさまな痛みをそのまま伝えてくる。初めてこの曲を聴いた時、レナード・チェスは号泣しながら部屋を出て行ったそうだ。

1995年の自伝『Rage To Survive』の中で、エタ・ジェイムスは彼女の友人であるエリントン・ジョーダンが「I’d Rather Go Blind」を完成させるのを自分が助けたことを回想している。エリントン・ジョーダンがこの曲を書いたのは刑務所の中で、すっかり打ちのめされ、「負けることにも落ち込むことにももうウンザリしていた」時だったと言う。エタ・ジェイムスは本来彼女のものだった共作者のクレジットを、どうやら税金対策の一環でシンガーのビリー・フォースターに譲ってしまったが、後年この曲がB.B.キングロッド・スチュワートポール・ウェラーにビヨンセといった錚々たるアーティストたちにカヴァーされて金の成る木となったことで、自らの決断を悔やんでいたに違いない。

最初から最後まで、一貫して力強いナンバーがぎっしり詰まったこのアルバムには、1964年に出たオーティス・レディングのデビュー・アルバムのために書かれた曲「Security」 やジミー・ヒューズの「Don’t Lose Your Good Thing」等、他にも聴きどころが満載だ。ドン・コヴェイの僅か2分の小品 「Watch Dog」や「I’m Gonna Take What He’s Got」でもエタは気迫のこもったパフォーマンスを聴かせている。そしてマーヴィン・ゲイと「Let’s Get It On」を共作したエド・タウンゼントのペンによる「The Love Of My Man」は、彼女の声に込められた混じりけのないパワーとニュアンス、深いエモーションにより生き生きとした命が吹き込まれた。

『Tell Mama』は必ずしも心安らかに聴ける作品ではない。 アルバムでバッキング・ヴォーカルを務めているチャールズ・チャーマーズの書いた曲「It Hurts Me So Much」では、エタ・ジェイムスは文字通りその苦痛を生身で味わっているようであり、陽気で快活なメロディを持つ「The Same Rope」も、 “The same rope that pulls you up/Sure can hang you / あんたを高いところへ引き上げてくれる同じロープが/あんたの息の根を止めることになるだろうよ”と歌う彼女の獰猛さを隠し切れはしないのだ。

『Tell Mama』は商業的にも成功し、批評家たちからも絶賛されたが、その後のエタ・ジェイムスの人生がより安楽になったとは言い難い。70年代の一時期、彼女は事務員としてチェスに戻ったが、ドラッグとアルコールとの縁は断ち切れず、彼女の生活は荒れたままだった。ただ幸いなことに、90年代に彼女のキャリアは再評価され、リヴァイヴァル旋風が巻き起こることとなった。

エタ・ジェイムスのシンガーとしての名声は、何より『Tell Mama』のような傑作アルバムの功績もあり、この先の時代もずっと変わらず語り伝えられていくに違いない。それはザ・ローリング・ストーンズキース・リチャーズの言葉通りだ。「エタ・ジェイムスの声は天国と地獄、両方を知ってる声だよ。あのシスターの声を聴いてると、優しく撫でられると同時にメチャメチャにいたぶられる感じがするんだ。あの声、あのスピリット、あのソウル、あれこそまさしく不滅だよ」。

Written By Martin Chilton


 

Tell Mama: The Complete Muscle Shoals Sessions


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