史上最高のチェス・シングル50選(全曲試聴付)

2月 19, 2018


史上最高のチェス・シングル50選(全曲試聴付)

熱狂的なファンを誰ひとり苛々させずに、チェス・レコード・トップ50シングルを選ぶことなど可能だろうか? 候補者が何百と名を連ねるチェスの全名簿から、シングルを消去していく行為は、ファンから非難を浴びかねない。正直言って、会社最大のスター達、マディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフ、サニー・ボーイ・ウィリアムソン、チャック・べリー、ボ・ディドリー、エタ・ジェイムスによる正真正銘の名作だけでも、簡単に50枚は集まってしまう。

しかしレナードとフィル・チェスは、常に広い視野で物事を考え、自分達の音楽の魅力を広げることを目指した。その歴史を見れば一目瞭然だ。まずはブルースとジャズに重点を置いた後、ロックン・ロールに移り、その後ソウル・ミュージックへと、大衆の好みの変化に対応しながら、革新的なリリースで彼等の嗜好の先を行った。と言うわけで、その寛大な精神に則り、ここにチェス・レコード・シングル・ベスト50選をご紹介しよう。有名なもの多数、あまり知られてはいないもの少々。議論討論するもよし、でも主に聴いて考える為に…。

 

■マディ・ウォーターズ「I Can’t Be Satisfied」/「(I Feel Like) Going Home」
1948年、アリストクラット・レコードとの3度目のセッションの終盤に差し掛かった頃、マディ・ウォーターズは何曲かを、ミシシッピの現場作業員だった頃にプレイしていたように、ピアノ伴奏なしで“自分ひとりで”レコーディングしても良いかと、プロデューサーでありレーベルの共同経営者レナード・チェスに訊ねた。レナード・チェスは同意し、マディ・ウォーターズはアメリカ議会図書館の為に、7年前に自分の小屋でレコーディングしたこの2曲を再び取り上げた。この時マディ・ウォーターズは、アーバン・リズムを刻むエレキ・スライド・ギターに乗せて、その物悲しいヴォーカルを響かせながら、再びデルタ・ブルースに取り組んだ。両曲のカントリーとシティのブレンドは、シカゴのリスナーの心に響いた。ディスク初回版は2日間で完売し、局所的ではあったものの、マディ・ウォーターズとその後チェス・レコードとなるレーベル双方に取って初ヒットとなった。

■ロバート・ナイトホーク「Sweet Black Angel」
より多くのエレクトリック・カントリー・ブルースを求めて、チェスは(マディ・ウォーターズの後押しを受けて)ロバート・リー・マッカラムのこの曲をレコーディングし、1949年にアリストクラットからリリースした。オリジナルは1930年に遡るが、ナイトホークのヴァージョンにインスパイアされたB.B.キングが`56年に「Sweet Little Angel」としてカヴァーしたこの曲は大ヒットし、ブルース・スタンダードになり、1995年にロックの殿堂の“ロックン・ロールの歴史500曲”に登場した。その2年後、ナイトホークのヴァージョンはブルースの殿堂入りを果たした。またこれはベース・プレイヤーでお馴染みのチェス・ミュージシャン/ソングライター/アレンジャー/プロデューサーのウィリー・ディクソン初参加のチェス・レコード作品だった。

■ジーン・アモンズ・セクステット「My Foolish Heart」
1950年の初リリース以来、チェス・レーベルはジャズとR&Bアーティストによるポップ・ヒッツというトレンドを追い続けたが、これはジーン・アモンズのテノール・サックスの演奏がフィーチャーされたビリー・エクスタインのミリオン・セラー・ヴォーカル・ラインのジャズ・ヴァージョンだ。この曲は僅か2週間でR&Bトップ10入りを果たし、そこに2週間留まった。チェス兄弟は、移民の父が最初に住んだシカゴの家、サウス・カルロフ・アヴェニュー1425番地に敬意を表し、このレコードのカタログ・ナンバーを“チェス1425”とした。

■ジャッキー・ブレンストン&ヒズ・デルタ・キャッツ「Rocket 88」
この人達は誰だ? 実は彼等はアイク・ターナーのキング・オブ・リズムの一員であり、メンフィスでレコーディングされたこの1951年ナンバーで、ジャッキー・ブレンストンはサックス・プレイヤー&ヴォーカリストだった。生々しく、歪んだギターと、自動車(個人的自由の象徴)というテーマは、ディストーションを効かすことはなく、汽車に対する親近感を持つジャンプ・ブルースとは別物で、従ってこれを初レコーディングされたロックン・ロール・ソングという人もいる。そうかも知れない。とにかく大衆には凄く受けた。R&Bチャート・トップに5週間留まり、チェスのベスト・レコードのひとつとして、そのレガシーは永遠に伝え継がれている。

■ハウリン・ウルフ「Moanin’ At Midnight」/「How Many More Years」
ハウリン・ウルフの1951年チェス・デビュー作「Moanin’ At Midnight」もまた、メンフィスから登場した。その後DJやジュークボックス・リスナーがこれをひっくり返すようになり、B面の方が広く知られるようになった。「How Many More Years」もまた、過去のブルース・レコードよりもドラムスとベースが目立つミキシングにより、世界初ロックン・ロール・ソングと言われている曲のひとつ。ウルフのファジーなギター・リックと、現在パワー・コードと呼ぶそのストラミング、それからアイク・ターナーのロッキング・ピアノも堪能出来る。

■ハーモニカ・フランク「Howlin’ Tomcat」
今日では忘れられたも同然の存在の、ミシシッピ州生まれのフランク・フロイドは、移動遊園地や路上演芸でプレイし、ラジオで演奏するブルース、フォーク、そしてヒルビリー・ワンマン・バンドであり物まね師だった。サム・フィリップスは1951年、フロイドがチェスと契約する直前に、メンフィスのサン・スタジオで彼のレコーディングを行なっている。これは`52年にリリースされた。

■ウィリー・メイボン「I Don’t Know」
ウィリー・メイボンといったら、ウィリー・ディクソンが書き多くの人がカヴァーした「The Seventh Son」を思うかも知れない。しかしこの面白くてファンキーな1952年チェス・シングルは、R&Bチャート・トップで8週間その魅力を振り撒き、ロックン・ロール時代以前にレーベル史上最大のヒット作となった、ベスト・チェス・レコード・リストの中に入れるに相応しい作品だ。また早い時期にテネシー・アーニー・フォード(R&Bヒット・レコードを放った初の白人アーティストのひとり)が、そしてその後ジョン・ベルーシがブルース・ブラザースのファースト・アルバムでカヴァーしている。

■リトル・ウォルター「Juke」
マリオン・ウォルター・ジェイコブスは1950年からマディ・ウォーターズのグループでプレイし、`51年以来マディ・ウォーターズとレコーディングしているが、これは彼が初めてセッションを率いた作品。リトル・ウォルターの革新的なソロにより、この曲はナンバー・ワンR&Bスマッシュ・ヒットとなり(今でも頂点を極めた唯一のブルース・ハーモニカ・インストゥルメンタルとして知られる)、チャート内に20週間留まった。またチェス傘下チェッカー・レコードからの初リリースでもある。

■エディ・ボイド「Third Degree」
マディ・ウォーターズの従姉妹で同じミシシッピの農園出身のボイドは、この親戚とシカゴで再会し、サニー・ボーイ・ウィリアムソンIIとのバンド等で時おり一緒にプレイした。しかしマディ・ウォーターズのよりラフなギター・スタイルとは異なり、ピアニストのエディ・ボイドはブルースに対してより洒落たアプローチを好んだ。「Five Long Years」で既に大ヒットを生んでいた彼だが、ウィリー・ディクソンと共作したこの悲しげな1953年チェス・シングルは、R&Bチャートで最高3位を記録し、彼の最後の大ヒット作となった。エリック・クラプトンはこれをチェス・レコード中ベストな作品だと感じていたようで、エディ・ボイドが1994年に死去した数か月後、“スローハンド”はグラミー賞受賞アルバム『From The Cradle』で「Five Long Years」と「Third Degree」の2曲をカヴァーした。

■シュガー・ボーイ&ヒズ・ケイン・カッターズ「Jock-A-Mo」
ニューオーリンズでレコーディングされた、この1953年チェッカー・シングルがヒットすることはなかったものの、12年後にディキシー・カップスが「Iko Iko」としてカヴァーし、ドクター・ジョン、ネヴィル・ブラザーズ、ナターシャ・イングランド、ザ・ベル・スターズ等々のヴァージョンが世界的に高い評価を得た。ジェイムズ・“シュガー・ボーイ”・クロフォードは、マルディグラ・インディアンが路上で部族間の伝統的な衝突時に叫んでいた様々なチャントのフレーズを混ぜ合わせながらこの曲を書き上げた。50年後に雑誌のインタビュアーに、“ジョク・ア・モー”というフレーズの意味を訊ねられた時、彼は“よく知らないんだ”と笑いながら答えた。

■ロウエル・フルソン「Reconsider Baby」
レオナード・チェスはこの見事な1954年チェッカー・シングルを、ロウエル・フルソンとそのツアー・バンドがダラスでレコーディングするのを、渋々承諾した。嬉しいことに。と言うのも、ロウエル・フルソンの素晴らしいギター、ドライヴするビート、主張するホルン、強い歌詞、そして自信に溢れたヴォーカルと、全ての要素がフルソンのベスト・チェス・レコード・リリースに繋がり、その結果彼は最大のヒットを手にし、このウエスト・コースト・ブルースは深く愛されるスタンダードになった。

■マディ・ウォーターズ「I’m Ready」
1954年にリリースされR&Bチャート上位に登場した、マディ・ウォーターズのチェス作3枚の内の3枚目(最初の2枚は「I’m Your Hoochie Coochie Man」と「I Just Want To Make Love To You」)は、リトル・ウォルターの見事なハーモニカ・ソロで定評がある。しかしマデ・ウォーターズを過小評価するなかれ。彼のパワフルでパンチの効いた歌い方とウィリー・ディクソンの歌詞は、“迫真の敵意”とある批評家が評したその内容によく合っている。

■ハウリン・ウルフ「Evil (Is Going On)」
1954年5月にレコーディングされたこのシングルは、ハウリン・ウルフの代表作でありしばしばカヴァーされているブルース・スタンダードであることに加え、歴史的重みのある曲でもある。ハウリン・ウルフがレコーディングした初ウィリー・ディクソン作品であり、ウルフの長年のバンド・メイト、ヒューバート・サムリンとの初レコーディング・セッションだ。1969年には「Evil」をワウワウ・ギターの伴奏で再リリースしたが、そのヴァージョンはハウリン・ウルフ最後のチャート・イン・シングルとなった。

■ザ・ムーングロウズ「Sincerely」
トレードマークである“ブロウ・ハーモニー”で、この時代の偉大なドゥーワップ・グループ達と肩を並べたザ・ムーングロウズは、1954年後半のチェス・デビュー作で彼等最大のヒットを記録した。グループ・メンバーのハーヴィー・フークワが(そして表向きは、マネージャー兼有名DJアラン・フリードも一緒に)書き、ボビー・レスターがリード・シンガーを務めた「Sincerely」は、R&Bチャートのトップを飾り、ポップ・チャート・トップ20ヒットになった。この直後にマクガイア・シスターズがカヴァーし、同ヴァージョンは百万枚を売り上げた。

■ザ・ホーネッツ「Mardi Gras Mambo」
「Jock-A-Mo」同様、このニューオーリンズのスタンダードが1955年のリリースから人気を得るまで時間を要した。しかしチェスはこれを毎年マルディグラの時期に繰り返しリリースした結果、永遠の人気ナンバーになった。ジョン・ブードロ―のドラムスに駆られたこの曲で、若きシンガー兼ピアニストのアート・ネヴィルがレコード・デビューを果たしている(彼はレコードを出した最初のネヴィル兄弟でもある)。ザ・ホーネッツが次のレコードを作ることはなかったが、ザ・ネヴィル・ブラザーズがその歩みを止めることはなかった。

■リトル・ウォルター「My Babe」
他の多くのアフリカ系アメリカ人同様、リトル・ウォルターの2枚目ナンバー・ワンR&Bレコードの基になっていたのはゴスペル・ソングだった。「This Train」のオリジナルはシスター・ロゼッタ・サープがレコーディングしている。ウィリー・ディクソンのベスト・チェス・レコードのひとつであり(そしてウィリー・ディクソンが書いた中で唯一頂点に立った曲)、彼は1954年にこの曲をリトル・ウォルターに提供したが、その翌年「This Train」のヴァージョン等をチェスのゴスペル・セッションでプレイした数日後に、これを作り変えている。

■チャック・ベリー&ヒズ・コンボ「Maybellene」
チェスの幾人かのスーパースター同様、このベスト・チェス・レコード・シングル50選リストに堂々とエントリー出来る、ウィットに富んだ典型的なチャック・ベリー・シングルは1ダースあっただろう。しかしBillboardのトリプル・クラウン(3つのR&Bチャートでナンバー・ワンになること)を獲得した1955年のデビュー作は、彼自身とレーベル、そしてジャンルの基準を打ち立てた。カントリー・ヒット曲「Ida Red」をルーツに、ビッグ・ビート、ファジーなギター、非常に速いペース、そして速い車や速い女についての知性感じられる歌詞と、ロックン・ロールの素晴らしさを示す型が全て入っている。

■ボ・ディドリー「I’m A Man」
エリス・マクダニエルの“ボ・ディドリー・ビート”の起源を正確に突き止めることが出来なかったのは、恐らくはこれが多数のソースによる合成だったからだろう。とにかく彼は、1955年のチェッカーのデビュー・シングルに登場し、そうしてロックン・ロールの先駆者となり、その音楽は一変した。ボ・ディドリーはその後のヒット作でも、湿ったトレモロ・ギター・サウンドを絡めながら、これを再利用した。また、バディ・ホリー、ジョニー・オーティス、ザ・ローリング・ストーンズザ・フー、ブルース・スプリングスティーン等々、数え切れないほどの人々が採用しては作り変えたことで、このビートは生き続けた。B面でボ・ディドリーは、マディ・ウォーターズの「Hoochie Coochie Man」のビードを使用しながら、その独創的なペルソナを確立した。マディ・ウォーターズはその後「I’m A Man」を「Mannish Boy」としてリメイクし、その恩に報いた。

■ボビー・チャールズ「Later Alligator」
「See You Later, Alligator」ほどアイコニックな50年代ロックン・ロール・ソングはないだろう。ニューオーリンズでレコーディングされたオリジナルのR&Bシャッフル・リズムとバッキング・ホーン・セクションからは、ファッツ・ドミノにカヴァーされることを願う作家の意図が伺えた。結局実現することはなかったが、ビル・ヘイリー・アンド・ヒズ・コメッツが1956年にこの曲に取り組んだ。オリジナルは17歳のルイジアナ州出身のボビー・チャールズ・ギドリーが作曲し歌っている。因みに彼の芸名は、この曲を1955年に「Later Alligator」としてリリースした時にレオナード・チェスが命名したもの。

■ソニー・ボーイ・ウィリアムソンII「Don’t Start Me Talkin’」
ライス・ミラーかソニー・ボーイIIか、とにかくお好きな名で呼ぶがいい。彼のトレードマークである茶目っ気のあるヴォーカル、皮肉たっぷりの歌詞、剃刀のように鋭いハーモニカにより、1956年のチェッカー・デビュー・シングルは全米R&Bチャート第3位まで上昇した。この時彼の背後には、マディ・ウォーターズ、ジミー・ロジャーズ、ウィリー・ディクソン、オーティス・スパン、そしてフレッド・ビロウから成る、モンスター・バンドが控えていた。

■ハウリン・ウルフ「Smokestack Lightning」
ミシシッピ・シークスの「Stop And Listen」に負うところが大きいこの1956年シングルは、ごく簡単に言うと、ハウリン・ウルフが最もパワフルで、最高にハウリングしている、間違いなくチェス・レコードを代表するようなリリース。彼の苦悩に満ちた声、エコーするハーモニカ、バッキング・バンド(そして特にヒューバート・サムリンの断続的なリフ)が美しくブレンドする。ひとつのコードがこれほど素敵に聴こえたことはないだろう。

■チャック・ベリー「Too Much Monkey Business’/‘Brown Eyed Handsome Man」
チャック・ベリーの曲全てが、楽しく車や女の子の話ばかりだったわけではない。このベスト・チェス・レコード両面ヒット・シングル(1956年)では、あらゆる種の“面倒ごと”に対する嫌悪感と(これは間違いなくボブ・ディランの「Subterranean Homesick Blues」にインスピレーションを与えた)を表現したプロト・ラップの哀歌と、有色人種、彼等が直面する諸問題、更にはセックス・アピールとアメリカ大衆文化のヒーロー達(この場合は、野球場で)へのトリビュートを組み合わせた。この頃になると、チャック・ベリーもまた、歴史上の英雄になっていた。

■ボ・ディドリー「Who Do You Love?」
ボブがアイリーンを手に入れることが出来たのは、例のボ・ディドリー・ビートがあったからではなく、彼の音楽の土台であるカッコいいリズムに加え、アピール・ポイントであるブードゥー(マディ・ウォーターズの「Hoochie-Coochie Man」からくすねたと自身が認めるコンセプト)のお陰だった。アイリーンは彼を受け入れ、たびたびカヴァーされ高く称賛されたこのチェッカー・シングル(1956年)を聴き終えた聴き手もまた、同じ思いになった。

■ジミー・ロジャーズ「Walking By Myself」
不可解なことだが、この曲がチャートインしたのは、1957年に全米R&Bリストで1週間だけ第14位になった時だけだったが、これ以上良いシカゴ・ブルースの手本はないだろう。ジミー・ロジャーズのイージー・ヴォーカルとハープ奏者ビッグ・ウォルター・ホートンの傑出した伴奏による「Walking By Myself」がリリースされたのは、ジミー・ロジャーズがマディ・ウォーターズのバンドでプレイ後何年も経過し、自身のバンドを率いていた頃だった。

■デイル・ホーキンス「Suzie Q」
この1957年のチェッカー・シングルに針を落とした瞬間、デイル・ホーキンスのクリーン・ヴォーカルが入り込む前の、ドラムス、カウベル、そしてジェームズ・バートンのスワンピーなギターにきっと心を奪われるだろう。デイルが励ましの言葉を叫ぶ中、バートンが奏でるソロは絶品で、このベスト・チェス・レコードのロカビリー・ナンバー中で必ず取り上げたい一作だ。デイル・ホーキンスはあるルイジアナ・ラジオ局に$25を支払い、グループは局の営業時間外にレコーディングを行なった。この適切な投資もあり、曲はロックの殿堂が発表した“ロックン・ロールを作ってきた500曲”に選出された。

■ハーヴィー&ザ・ムーングロウズ「Ten Commandments Of Love」
ドゥーワップ時代の末期、ザ・ムーングロウズはすったもんだの状況にあったが、1958年に何とか最後のチャート・ヒット作を生むことが出来た。ハーヴィー・フークワのリードの背後で見事なハーモニーを見せる本作は、デヴィッド・ヒューストン&バーバラ・マンドレルからボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズまで、多数からカヴァーされるスタンダード・ナンバーになった。よく聴くと、モーゼの十戒が含まれていることに気づくだろう。

■チャック・ベリー「Johnny B Goode」
彼の、あるいは他の人達のロックン・ロール・アンセムの中で、チャック・ベリー自身の「Roll Over Beethoven」を含め、ザ・ビートルズもカヴァーしたこの1958年のシングルほど、心に強く響き渡る曲は他にはないだろう。ルイ・ジョーダンの1946年ヒット作「Ain’t That Just Like A Woman」から取られたギター・イントロから聴き手を鼓舞するコーラスまで、この曲はあらゆる若きギター・プレイヤー達の大切な夢や願望を体現している。最高のチェス・レコード・リリースであるだけではなく、史上屈指のロックン・ロール・ナンバーだ。

■エタ・ジェイムス「All I Could Do Was Cry」
エタ・ジェイムスは見事なアーゴ・デビュー・アルバム『At Last!』(1960年)の収録曲で、哀しげな歌声を堂々と披露した。曲を書いたのは、この後まもなくチェスのA&Rボスになり、彼等をソウル・ミュージックへと導くことになるビリー・デイヴィス、モータウン・レコードをスタートしたばかりのベリー・ゴーディ、それからベリーの姉で、ビリー・デイヴィスとアンナ・レコードをスタートさせたグエン・ゴーディーの強力トリオ。「All I Could Do Was Cry」は当初、アンナへと誘導する為にアーマ・フランクリン(アレサの姉)に提供された。しかしアーマ・フランクリンがジャズに傾倒していた為、彼等は曲をチェスに売り、曲を与えられたエタ・ジェイムスは、その後チェスで成功を収めた。

■ハウリン・ウルフ「Spoonful」
ブルースマン達は少なくとも20年代から、いやもしかしてそれ以前より、“スプーン一杯欲しい”と歌い続けてきたが、ウィリー・ディクソンがこのテーマとハウリン・ウルフのワン・コード作品に対する強い思いを結びつけた結果、彼等の最も強力なコラボレーションが誕生した。この1960年の名作はチャート・インこそしなかったが(チェスからリリースのエタ・ジェイムスとハーヴィー・フークワのヴァージョンはエントリーした)、最高のチェス・レコードとして影響力が大きい作品であり続けている。

■エルモア・ジェイムス「Madison Blues」
大きな影響力を持つこのブルース・ギタリスト、シンガー、そしてコンポーザーは、チェスで二度仕事をしている。一度目は50年代前半、そうして二度目はこのシングルを生んだ1960年代頃。彼がチェスとレコーディングした曲はチャートインすることはなかったが、作品は後年フリートウッド・マックやジョージ・サラグッド&ザ・デストロイヤーズに見事にカヴァーされたりした。

■エタ・ジェイムス「At Last」
1941年にグレン・ミラーがオリジナル・ヴァージョンをレコーディングしたが、その20年後にアーゴからリリースされたエタのしなやかな解釈は(アレンジはライリー・ハンプトン)、最強のパフォーマンスとして知られ、最終的にはグラミー賞殿堂入りを果たし、ベスト・チェス・レコード・シングルのひとつとしての地位を確かなものにした。「At Last」は幾度となくカヴァーされ、結婚式のダンスで流され、映画やコマーシャルで使われ、2009年バラク・オバマ就任式でビオンセが披露したのは有名な話(彼女は映画『キャデラック・レコード 音楽でアメリカを変えた人々の物語』でエタ・ジェイムスの役を演じている)。しかしエタ・ジェイムスのヴァージョンは全てを凌ぐ。

■ジャン・ブラッドリー「Mama Didn’t Lie」
シカゴの小さなレーベルを経営していたダン・タルティーが、カーティス・メイフィールドの元にジャン・ブラッドリーを連れてきたのは1963年、自身のインプレッションズ以外のアーティストの曲を書こうとしていた頃だった。カーティス・メイフィールドは彼女の若々しいソプラノ・ヴォーカルにぴったりの曲を書き、ダン・タルティーがプロデュースし、チェスが作品を全国規模のヒットにすることを約束した。その結果この曲はキャッシュボックスR&Bチャートで第4位、そしてBillboard誌・ポップ・チャートで第14位まで上昇した。

■サニー・ボーイ・ウィリアムソンII「Help Me」
ブッカー T&ザ MG'sのヒット曲「Green Onions」が基になっているこの1963年チェッカー・シングルは世界中でヒットしたが、サニー・ボーイの初ヨーロッパ・ツアーと、その後彼がイギリスに留まり地元ビート・クラブでプレイしたことで、とりわけイギリスで大成功を収めた。彼が初めてオルガンを背後にレコーディングしたこの作品は、ブルースの殿堂入りを果たした。

■ミッティ・コリア「I Had A Talk With My Man」
この1964年チェス・シングルはゴスペル・ミュージック(特にジェイムス・クリーヴランド&ザ・アンジェリック・クワイアの1962年作品「I Had A Talk With God Last Night」)が基になっている。キーボーディストのレナード・キャストン・ジュニアはクリーヴランドのレコードをチェス・スタジオに持ち込み、プロデューサーのビリー・デイヴィスと共に、ストリングス、フレンチ・ホルン、そしてゴスペル・ピアノのタッチで厚みを加え、ミッティの豊かなコントラルトの為に曲を書き変えた。

■チャック・ベリー「You Never Can Tell」
1964年のリリース当時はそこそこヒットしただけだったが、この地元の理念への賛歌は耐久力と持続力があり、あらゆるジャンルのあらゆるタイプのアーティストによってカヴァーされ、映画『パルプ・フィクション』で使用されたのは周知の通り。チャック・ベリーが歌っているように、“ これが人生さ’と年寄りたちは言う/人生なにが起こるか分からない”。

■ジャッキー・ロス「Selfish One」
チェスはエタ・ジェイムス等タフな女性シンガー達で大成功を収めたが、よりソフトなソウル・サウンドが流行り始めた頃、レーベルはジャッキー・ロスといったアーティストで対応した。この1964年の彼女最大のヒット作は、キャッシュボックスR&Bチャートで第4位を記録した。イントロにはふたつの楽器のファンファーレという、滅多に見られないものがフィーチャーされていた。そのひとつ目はこの後エドウィン・スターがヒット作「SOS」で使用し、一方ふたつ目のメロディは頻繁にレコーディングされているスタンダード「Tenderly」から拝借された。

■リトル・ミルトン「We’re Gonna Make It」
世紀半ばの公民権運動と経済の小幅成長は、それが一時的であったにせよ、アフリカ系アメリカ人により楽観的な物の見方を生み、自分達の音楽に反映された。ブルースの人気は衰え、1965年までには、このような曲が放送電波を埋め尽くすようになった。182cmの身長で108kgの体重だったイースト・セント・ルイスのミルトン・キャンベルは、その名前に付く“リトル”な人物とはほど遠く、実際の大きさに見合う大きな声の持ち主だった。

■ボビー・ムーア&ザ・リズム・エイシス「Searching For My Love」
当時レコーディング・メッカとして先端をいっていた、マッスル・ショールズでレコーディングされた初チェス・ヒット作。チコ・ジェンキンスの切々とした声とムーアの滑らかなテノールの共演が楽しめる。そのダブルタイム・ブリッジもまた、聴き手を強く捉える1966年チェッカー・シングルを、R&Bトップ10及びポップ・トップ30へと押し上げる一因となった。アラバマ州モンゴメリー出身の職人による唯一のメジャー・エントリー・ナンバー。

■ラムゼイ・ルイス・トリオ「Hang On Sloopy」
ルイスと彼のグループが音楽の世界に送り込んだトップ10ポップ・インストゥルメンタル・ヒット全3曲中の2曲目。彼等はチャートのトップを飾ったガレージ・バンド、ザ・マッコイズの大ヒット作を魅力的なライヴ・ジャズ・トラックに変えた。演奏は煙が蔓延するバーではなく、みんなで拍手し一緒に歌うフラットロック・コーラスのある、1965年ゴーゴー・ディスコテックで行なわれた。ベーシストのエルディー・ヤングとドラマーのレッド・ホルトがリズムをスウィングし、ルイスのピアノがそれに合わせて楽しそうに踊る。彼等はスルーピーが誰かという、昔ながらの疑問に答えてはいないかも知れないが、60年代を代表するチェス・レコード・シングルで、ロックン・ロールのブルージー・ルーツを明らかにしたのは確かだ。

■ビリー・スチュワート「I Do Love You」
あだ名はファット・ボーイだったが、友人達からはモーターマウスと呼ばれていた、ビリー・スチュワートのユニークなソウル・スキャットは、スタッカートの叙情的な繰り返しと高く舞うファルセットを誇り、それが作品中の感情の激しさを強めた。彼はバラードで本領を発揮したが、中でも自身の作によるこの1965年のチェス・ヒットが突出している。

■フォンテラ・バス「Rescue Me」
レーベル史上最も売れたレコード「Rescue Me」は、今でもチェス・レコード屈指のソウル作品として知られ、オールディーズをプレイするラジオや、数多くのカヴァー、そしてコマーシャルや映画での起用のお陰で、息の長い曲になった。フォンテラ・バス、ソングライターのカール・スミスとレイナード・マイナー、そしてプロデューサーのビリー・デイヴィスが手掛けた、1965年スタジオ・ジャム・セッションによるこの作品は、フォンテラ・バスの魅力的なヴォーカル、ルイ・サターフィールドの躍動するベースライン、そしてジーン・バージの妥協なきホルン・アレンジメントのお陰で異彩を放っている。

■ビリー・スチュワート「Summertime」
再考され、生き生きとしたシカゴ・ソウル・ナンバーへとすっかり様変わりした「ポーギーとベス」の気怠いディープ・サウス・バラードを、ジョージ・ガーシュウィンはどう受け止めるだろうかと考えてしまう。ビリー・デイヴィスがプロデュースし、フィル・ライトがアレンジした本作を、スチュワートがステージ中央に立ち、初めから終わりまで言葉に詰まりつつ叫び声を上げながら披露する。ポップ及びR&Bチャートのトップ10入りを果たしたので、ジョージ・ガーシュウィンは少なくともその印税小切手にほくほく顔だろう。

■エタ・ジェイムス「Tell Mama’/‘I’d Rather Go Blind」
エタ・ジェイムスの為によりディープなソウル・サウンドを探していたレナード・チェスが、1967年にマッスル・ショールズのフェイム・スタジオに彼女をブッキングした時、エタは4年間ビッグ・ヒットを出していなかった。リック・ホールは彼女の為に、クラレンス・カーターが作曲し当時「Tell Daddy」としてレコーディングした、「Tell Mama」を選んだ。シンガー、曲、そしてスタジオが完璧にかみ合い、その結果トップ10 R&B及びトップ25ポップ入りし成功を収めた。B面はエタ・ジェイムスとその友人エリントン・“フギ”・ジョーダンが刑務所に入っている頃に書かれたもの。チャートインはしなかったが、彼女の代表作になり、大西洋の両側で幾度となくカヴァーされた、これまたチェス・レコードが放ったソウル・ミュージック屈指のバラード。

■ザ・デルズ「Stay In My Corner」
イリノイ州のクインテットによる、この3年前のヴィージェイから出た初ヴァージョンは、ごく控え目な注目しか浴びなかったが、カデットからの1968年デビューLPの為に、よりスロウ・テンポな曲に変え、コンサートと同じエクステンデッド・ヴァージョンで歌い、ブリッジとアウトロ間を即興で長々と伴奏した。6分以上の長さにも拘らず、ラジオ・プレイに後押しされたチェスはこれをシングルとしてリリースし、曲はR&Bチャートで第1位、ポップ・チャートで第10位を記録した。

■アンドレ・ウィリアムス「Cadillac Jack」
その多くはラップを暗示する、ワイルドでファンキーなノベルティー・レコードの提供者、アンドレ・ウィリアムスはメジャー・ヒットを手にすることはなかったが、エネルギーに不自由することもなかった。彼は多数のレーベルでシンガー、ソングライター、そしてプロデューサーとして活躍したが、チェスからリリースされた、ユーモラスでありながらも教訓めいたこの1968年作品は、バッド・バッド・リロイ・ブラウンよりも酷い結末を迎えるサウスサイド・シカゴ伝説のストリート・ハスラーを描いたナンバー。

Written By Stu Hacke

チェス・レコードの楽曲がつまったチェス・レコード・エッセンシャル・プレイリストへ。

 


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