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「バナナ・ボート」のヒットで知られるハリー・ベラフォンテが96歳で逝去。その功績を辿る

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Harry Belafonte - Photo: Michael Ochs Archives/Getty Images

世界的シンガー、俳優、活動家として知られるハリー・ベラフォンテ(Harry Belafonte)が2023年4月25日、NYマンハッタンのアッパー・ウエスト・サイドの自宅で96歳で逝去した。彼の長年のスポークスマンであるケン・サンシャインは、彼の死因について、うっ血性心不全だったと伝えている。

ニューヨーク・タイムズ紙はハリー・ベラフォンテについて、「1950年代、人種差別が蔓延っていた時代に、彼がショービジネス界の上流階級に上り詰めたことは歴史的なことだった。一方で、彼が最も重視していたのは公民権であった」と記しており、彼の功績について、Varietyは、「彼の音楽がアメリカにカリプソ・ブームを巻き起こし、アフリカ系アメリカ人のパフォーマーに新しい道を切り開いた」と称えている。

レコーディング・アーティスト、俳優のみならず、人道主義者としても比類なき功績を残したハリー・ベラフォンテは、アメリカの公民権運動における先導者の一人として率直な意見を述べ、マーティン・ルーサー・キング牧師に腹心の友とみなされた人物である。彼は、自身初のグラミー賞受賞から40年後となる2000年に授与された特別功労賞生涯業績賞を含む3つのグラミー賞に加え、エミー賞、トニー賞、ケネディ・センター名誉賞(1989年)、国民芸術勲章(1994年)など数々の名誉に輝いている。

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Banana Boat (Day-O)

 

歌手、俳優としての輝かしいキャリア

ハリー・ベラフォンテは、シンガーとして通算30枚のアルバムをリリースし、うち数枚はアメリカでゴールドに認定され、1956年には『Belafonte』(6週1位)と『Calypso』(11週1位)という2枚のアルバムが全米No.1に輝いた。

彼の代表曲で、キャリア最大のヒット曲である「Day-O (The Banana Boat Song)(バナナ・ボート・ソング)」は、アルバム『Calypso』の収録曲で、ジャマイカ人の港湾荷役夫の労働歌として知られる伝統的なジャマイカの民謡をアレンジした楽曲である。また俳優としては、『カルメン』(1954年)、『日のあたる島』(1957年)、『The World, the Flesh and the Devil』(1959年)、『拳銃の報酬』(1959年)などの映画作品に出演した1950年代がキャリア最盛期だった。

ハリー・ベラフォンテは、2011年に行われたmsn.comのインタビューの中で次のように語っていた。

「誰も私を何と呼べばいいのかわからなかった。フォーク・シンガーなのか、ジャズ・シンガーなのか、ポップス・シンガーなのか、そもそもシンガーなのか……皆がその答えを見つけようととしている中でやり始めたのが、異文化を反映した異なる言語の起用でした。宇宙は私の遊び場であり、一晩で、私は皆さんに世界を知るチャンスを与えたのです」

 

その生涯

1927年3月1日、ニューヨークのハーレムで、ジャマイカ出身の両親のもとに生まれたハリー・ベラフォンテは、祖母の1人と幼少期を過ごすためにジャマイカに移り住み、その後ニューヨークに戻った。1940年代、演劇への情熱を燃やしていた彼は、クラブで歌手として働きながら稼いだバイト代で、マーロン・ブランド、トニー・カーティス、ウォルター・マッソーらが在籍していたニュースクール・オブ・ソーシャル・リサーチのワークショップに通い演技を学んだ。

1949年、ルースト・レコードからポップ・シンガーとしてデビューし、音楽キャリアをスタートさせた彼は、その後、RCAビクターと契約し、1952年にリリースした 「Scarlet Ribbons (For Her Hair)」で自身初のチャート入りを果たす。

当時の米ビルボード誌は、この年の彼の成長を熱心に伝えており、同年2月にニューヨークで行われたショーについて「彼は覚醒した。丘、平原、川について歌った彼のバラードは、(ビリー・)エクスタインを超えてさらに進化を続けていくだろう」と記している他、同年11月にロングアイランドで行われたコンサートでのパフォーマンスについても「数年前、バップ・シンガーとしての細々とそのキャリアをスタートさせた長身でスリムなベラフォンテは、急速に業界トップのフォーク・シンガーへと成長を遂げている」と評していた。

Harry Belafonte "Scarlet Ribbons" on The Ed Sullivan Show

「バナナ・ボート・ソング」とブロードウェイでの成功

1954年にRCAからリリースされたデビュー・アルバム『Mark Twain’ and Other Favorites』にも彼の音楽的進化は投影されており、その後も「Jamaica Farewell」、「Mary’s Boy Child」といったシングルで全米TOP20入りを果たした彼は、1956年にリリースした3作目のスタジオ・アルバム『Calypso』からのシングル「Day-O (The Banana Boat Song)」で全米チャート5位を記録するなどキャリア最大の成功を収める。

1957年には、リリースの3年前に彼が出演したブロードウェイ・ミュージカル・レビュー『John Murray Anderson’s Almanac』でフィーチャーされた「Hold ‘Em Joe」が再びチャートイン。同年、彼のもう一つの代表曲である「Mama Look At Bubu」がリリースされている。

Harry Belafonte "Jamaica Farewell" on The Ed Sullivan Show

 

俳優や活動家として

一方で、俳優としてMGMと7本の映画契約を結び、1953年の『Bright Road』で映画デビューを果たしたハリー・ベラフォンテは、以降50年代にわたりハリウッドで俳優として活躍し続けたが、オファーされる役柄に飽き足らなくなったため、60年代から70年代前半にかけては、所属レーベルのRCAで精力的にレコーディング活動に取り組むようになり、1961年の『Jump Up Calypso』、翌年の『The Midnight Special』(タイトル曲で若き日のボブ・ディランが初めて登場する)、1964年の『Belafonte at the Greek Theater』で再び成功を収めていく。

また彼は、50年代から60年代にかけて、音楽活動と俳優業の傍ら、公民権運動に熱心にも取り組んでいた。反共産主義に基づく社会運動“マッカーシズム”時代にブラックリストに載った彼は、1963年にはアラバマ州バーミングハムでキング牧師を刑務所から救済し、同年のワシントン大行進でも重要な役割を担った。また、後にHIV/AIDS撲滅のスポークスマンとしても多大な貢献を果たしている。

彼はmsn.comのインタビューの中で当時を振り返りこう語っていた。

「私はアーティストになった活動家であり、活動家になったアーティストではありません。母の影響と、自分の人生で経験したすべてのことから、抑圧や人種差別の問題について声を上げなければならないと思っていました。演劇に出会ったとき、考えをまとめ、耳を傾ける人々に影響を与えるための素晴らしいプラットフォームだと思いました」

「We Are The World」とのかかわり

1985年、ハリー・ベラフォンテがアフリカの飢饉救済のための資金を集めるために構想したチャリティ・ソング「We Are The World」は全世界で数百万枚の売り上げ、グラミー賞に輝いた。「USAフォー・アフリカ」とクレジットされたこのシングルには、彼自身もコーラスで参加している。

U.S.A. For Africa – We Are the World

ヨハネスブルグで録音され、1988年にEMIからリリースされた『Paradise in Gazankulu』は、ハリー・ベラフォンテが社会変革への意欲を持ち続けていることを示した最後のスタジオ・アルバムとなった。元アニマルズのメンバーであるヒルトン・バレンタインがプロデュースを手掛けた同アルバムには、ブレンダ・ファッシーやユッスー・ンドゥールといったアフリカ出身のアーティストがゲスト参加している。また、1996年には、ロバート・アルトマン監督の『カンザス・シティ』で、ジェニファー・ジェイソン・リー、ミランダ・リチャードソンと共演し、俳優復帰を果たした。

1997年にライヴ・アルバム『An Evening With Harry Belafonte and Friends』がアイランド・レコードから発売した当時、70歳だった彼はサンフランシスコ・クロニクル紙の取材にこう語っている。

「私はメインストリームではないし、コンサートでは健全な聴衆の前で演奏していますが、権力者たちはカテコライズできない音楽に敵対しているのです」

 

最も重要な駆動力は希望というピストン

同じく2011年のmsn.comのインタビューの中で、ベラフォンテはこう明言していた。

「人生のエンジンにおいて、最も重要な駆動力は希望というピストンです。とりわけ、あなたに与えられた機会が限られている場合、信念と希望を持たなければなりません。私は常に、自分が存在している現在の時間と、自分をもたらした過去の時間を比較しています。人類の歴史において、奴隷制度の時代ほど暗い瞬間ないように思えますが、私たちはそれを生き抜いてきたのではないでしょうか?私はフレデリック・ダグラス(19世紀の社会改革主義者)や、歴史に記録されたさまざまな紛争に希望を見出した人々の言葉を頼りに、どこに進むべきかを感じ取っているのです」

Written By Paul Sexton



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