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【全曲試聴付】史上最高のジャズ・シンガー・トップ50

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ジャズ界はサクソフォニスト、トランペッター、ピアニスト、ギタリスト、そしてドラマーといった、非常に優れたミュージシャンを切れ目なく送り出してきたことで知られるが、それと同時に、人の声という、その中でも間違いなく最も古く最も個人的な楽器の、素晴らしい主導者を数多く輩出してきた。検討しなければならない才能溢れる人があまりにも多い為、史上最高のジャズ・シンガー50人のリストを作り上げるのは不可能に近いだろう。

ジャズの物語に彩られた長い歴史の中には、多種多様な(そして非常に並はずれた)歌手が数多く存在し、皆が史上最高のジャズ・シンガーのリストに入ろうと競い合っている。ベッシ―・スミス、ジョー・ウィリアムス、ジミー・ラッシング等ブルースに影響を受けた大声で叫ぶビッグでラウドで逞しい人達から、少女っぽい声のブロッサム・ディアリーが良例の繊細で上品な歌姫まで多方面に渡る。

そしてこの彼等のような極端な人達の間には、見事な歌いぶりを聴かせるヴォーカリスト達(すぐに思い浮かぶのは、ジョン・ヘンドリックス、アル・ジャロウ、ボビー・マクファーリン)と共に、官能的な表現を得意とする黄金の声のバラード歌手(例えばペギー・リー、ジュリー・ロンドン、ジョニー・ハートマン、チェット・ベイカー、クリス・コナー、カサンドラ・ウィルソン)がいる。

それからフランク・シナトラ、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、ナット・“キング”・コール、マーク・マーフィーといった、多分野をカヴァーし、力強くエネルギッシュな表現と柔らかで艶めかしい歌い方を組み合わせることが出来る為、アップテンポな素材もバラードもそのどちらも得意とするシンガーもいる。それから取り憑かれたような人々もいる(例えばビリー・ホリデイ、ニーナ・シモン、アニタ・オデイ)。私生活の問題を抱えた彼等は、そのパフォーマンスに胸を刺すような感情的な面を吹き込み、聴き手にカタルシスを与えた。

というわけで、史上最高のジャズ・シンガー50人の下記リストが裏付けるように、ジャズは何年にも渡り、魅力的で多種多様なタイプのヴォーカリスト男女を大量に産出している。彼等は皆それぞれに個性的であり、その多くは、セシル・マクロリン・サルヴァントやジャズメイヤ・ホーン等若手新人スター達によって現在も進化し続けるこの芸術の発展に大いに貢献した。この新人達もまた何年か後には、きっとこのようなリストにその名を連ねることになるだろう。

前置きはこれくらいにして、史上最高のジャズ・シンガー50人を順にどうぞ。

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50: ジャッキー・パリス(1924-2004)

幼年期にタップ・ダンサーとして活躍した、ニュージャージー州のイタリア系アメリカ人音楽一家に生まれたカーロ・ジャッキー・パリスは、自らが率いるジャズ・トリオのギタリスト&シンガーとしてその音楽キャリアをスタートさせた。50年代初期にはチャーリー・パーカーとツアーし、その頃の10年間でアルバム数枚をレコーディングし、数多くの賞を獲得した。その活動は1962年から劇的に減っていったが、死の直前にカム・バックを果たした。チャールズ・ミンガスは、過小評価され殆ど忘れ去られたこのミュージシャンを、自身のお気に入りのシンガーとして挙げたことがある。

Jackie Paris "Detour Ahead" His last gig at the Jazz Standard (NYC)

 

49: マデリン・ペルー(1974年生まれ)

ジョージア州アセンズ出身のマデリン・ペルーは、十代の頃にフランス・パリへ移住し、そこでストリート・ミュージシャンとして歌いギターをプレイするパフォーマンスを行ないながら、その特徴的なボヘミアンっぽいレトロ・ジャズを確立していった。そのフレージングやトーンには、ビリー・ホリデイの響きが感じられるが、一連の見事なアルバムを通してマデリン・ペルーは独自のスタイルを築いていった。

Madeleine Peyroux- Don't wait too long (live)

 

48: モーズ・アリソン(1927-2016)

ミシシッピー州ティポ出身のシンガー・ソングライターのモーズ・アリソンは、魅力的なブルース色が吹き込まれた、そのウィットに富みエレガントに作り上げられた音色で、ジャズ界で独自の居場所を見出した。見事な歌いぶりを聴かせるタイプではないものの、その声の調子は明るく、取り組み方はカジュアルで、その南部の軽快さも相まって、他者よりも抜きん出た存在として、ベスト・ジャズ・シンガーの中で自分の場所を確保した。

Mose Allison – Everybody Cryin' Mercy (Later Archive 2005)

 

47: ダコタ・ステイトン(1930-2007)

1955年にダウンビート誌で“最も期待される新人”の栄誉を勝ち取った後、このペンシルヴァニア州出身のシャンテュ―ズ(女性歌手)はキャピトル・レコードと契約を交わし、1957年に名作アルバム『The Late, Late Show』を発表し、最初の期待に応えた。アルバムはアメリカのポップ・チャート・トップ5入りを果たした。その芝居がかった逞しいスタイルと、歯切れの良さはダイナ・ワシントンにおうところが大きいが、ダコタ・ステイトンは独特のサウンドを築いた。

Dakota Staton – Broadway (1965 – Live Video)

 

46: キャブ・キャロウェイ(1907-1994)

スキャット・シンガーの本家本元のひとりである、このニューヨーク州ロチェスター出身のカリスマ性のある、派手やかなバンド・リーダーは、1931年発表の名曲「Minnie The Moocher」で最もよく知られている。この曲がチャート・トップに躍り出た後も、ウィットに富んだ洒落とイカした町の隠語が散りばめられた、ユーモラスな歌詞を特徴とするスウィング・ナンバーを数多く発表した。

Cab Calloway Minnie The Moocher Live Apollo Theatre

 

45: ヘレン・ヒュームズ(1913-1981)

地元ケンタッキー州ルイズヴィルの教会で、ゴスペル・ミュージック・シンガーとしてスタートを切ったしなやかな声の持ち主へレン・ヒュームズは、早い段階から才能を開花させ、14歳の時に初レコーディングを行なった。ハリー・ジェイムスとのレコーディング後、1937年にシンシナティのコットン・クラブで歌っているところを、ビリー・ホリデイの後釜を探していたカウント・ベイシーに見出された。またヘレン・ヒュームズは、サクソフォニストのデクスター・ゴードンとヴィブラフォニストのレッド・ノーヴォともレコーディングを行なっている。

Count Basie & Helen Humes – I Cried for You

 

44: レオン・トーマス(1937-1999)

マイルス・デイヴィスの生まれ故郷イリノイ州イースト・セントルイスで、レオン・トーマスはブルースに夢中になったが、このベスト・ジャズ・シンガー・リスト中ではアヴァンギャルドなひとりとして登場する。彼は60年代にヨーデルと震えるような雄叫びが特徴的な、他とは異なる独特なヴォーカル・スタイルを培った。最初はカウント・ベイシーとレコーディングしたレオン・トーマスだが、最も知られているのはファラオ・サンダースとの作品であり、またサンタナともレコーディングしている。

Freedie Hubbard Quintet Featuring Leon Thomas , Warsaw Polland 1979

 

43: カサンドラ・ウィルソン(1955年生まれ)

官能的でスモーキーな声のミシシッピー州生まれのカサンドラ・ウィルソンは、80年代にサクソフォニストのスティーヴ・コールマンのエクスペリメンタルなM-ベースの一員として、そのキャリアをスタートさせたが、実際に開花したのは1993年にブルーノートと契約を交わした後で、その個性的なスタイルとクラシック・ロックとポップ・ソングの印象的な再構築により、彼女の音楽はより広いオーディエンスへと届けられた。

Cassandra Wilson – Don't Explain (Performance Video)

 

42: アンディ・ベイ(1939年生まれ)

現在もレコーディング活動中のニュージャージー州出身のアンディ・ベイは、ジャズ界で独自の声を誇り(かつてジョン・コルトレーンは彼をお気に入りのシンガーとして挙げた)、50年以上にも渡り我が道を歩み続けてきた。表面上は豊かでよく響くバリトンだが、その声は4オクターブ届くと言われている。アンディ・ベイはこれまでマックス・ローチ、ゲイリー・バーツ、スタンリー・クラーク、ホレス・シルヴァー等とコラボレートしている。

Andy Bey

 

41: エタ・ジョーンズ(1928-2001)

ビリー・ホリデイを僅かに思わせる鼻にかかった声を持つ、サウスカロライナ州出身のこの南部音楽の歌姫は、1944年、16歳の時に初作品をレコーディングしたが、ファースト・アルバムをリリースしたのは1957年のことだった。スウィングするアップ・テンポなナンバーもバラードも得意とする多才なヴォーカリストのエタ・ジョーンズの、最も商業的に成功した作品は1960年にプレスティッジからリリースされ、タイトル・トラックがポップ及びR&Bヒットとなったアルバム『Don’t Go To Strangers』だ。

I Thought About You ….. Etta Jones

 

40: グレゴリー・ポーター(1971年生まれ)

どちらかと言うと大器晩成型の(そのキャリア中これまでリリースしたアルバムは5枚)、カリフォルニア州出身のキャップを被ったジャズ・ミュージシャンは、ジャズ史上最も優れたヴォーカリストのひとりになるような勢いだ。シンガー・ソングライターとして自作を生みながらも、ザ・グレイト・アメリカン・ソングブックも利用することを厭わず、しかしそれに依存することのないグレゴリー・ポーターは、ゴスペル・ミュージックとナット・“キング”・コール作品に触れて育まれた、特徴のある声の持ち主だ。その胸躍るようなソウル・ジャズ・スタイルは、ジャズ・ヴォーカリスト界に新たな活気を吹き込んでいる。

Gregory Porter – Don’t Lose Your Steam (Magic Radio Presents…)

 

39: アル・ジャロウ(1940-2017)

音楽の為に心理学を生かした仕事を捨てた、見事な歌いぶりを誇るミルウォーキー州出身のアル・ジャロウは、ホルン・プレイヤーのようにインプロヴィゼーションが出来るジャズ・シンガーのひとりで、その声を駆使しながらパーカッションのようなサウンドを数々生み出した。彼の音楽的感性にはジャズが染み渡っていたものの、アルバムにはしばしばR&B、ラテン・ミュージック、ポップとフュージョンが取り入れられ、それぞれの異なるスタイルの境界は曖昧だった。

Al Jarreau 1976 -Take Five

 

38: ジョー・ウィリアムス(1918-1999)

偉大なソウル・シンガーには教会からスタートした人が多いが、世界で最も優れたジャズ・シンガーにもそういう人達が何人かいる。ジョー・ゴリードとしてジョージア州で誕生したジョー・ウィリアムスは、若い頃にゴスペル・グループのザ・ジュビリー・ボーイズで歌っていたが、最後には“悪魔の音楽”に惹かれていった(大ヒット作に名曲「Everyday I Have The Blues」等がある)。

彼はカウント・ベイシー・バンドと密接に関わり、1954年から`61年までの間この優れたジャズ・マンと歌った。その大きくハイデシベルなバリトン・スタイルを誇るジョー・ウィリアムスの雄々しい声は、背後で鳴り響くビッグ・バンドの音からも難なく聴くことが出来た。

JOE WILLIAMS FIVE O'CLOCK IN THE MORNING W/COUNT BASIE Live TV

 

37: シャーリー・ホーン(1934-2005)

柔らかく魅惑的な歌声を持つ、ワシントンD.C.出身の名ピアニスト兼シンガーは、ハワード大学卒で、20歳の時から自らのジャズ・トリオを率いていた。そのキャリアが大きな注目を集めたのは、1960年にマイルス・デイヴィスが珍しく仲間のミュージシャンに気前のよい態度を見せ、彼女を名指しで褒めた瞬間だった。にも拘らず、シャーリー・ホーンのレコーディング活動が本格化するのは80年代末以降、ヴァ―ヴ・レーベルと契約を交わし、アルバムをより定期的に制作するようになってからだった。

Shirley Horn in concert Bern 1990 part 3 Nice and Easy

 

36: マーク・マーフィー(1932-2015)

重要な影響を受けた人物としてナット・“キング”・コールとアニタ・オデイを挙げる、ニューヨーク州デッカ出身のこのシンガー時々俳優は、1956年にデッカからのデビュー・アルバムをレコーディングした。50年代末から60年代初頭のキャピトルとリヴァ―サイド時代に振り撒いた魅力により、マーク・マーフィーはジャズ界で最もイカした、最先端の男性シンガーとしての地位を築いた。彼が得意としていたのは、まるでホルン・プレイヤーのようにその声でスキャットとインプロヴァイズしながら、インストゥルメンタル・ジャズ・クラシックのヴォーカル・ヴァージョンを生むことだった。

MARK MURPHY sings Farmers Market and Again JAZZ LIVE!

 

35: アル・ヒブラー(1915-2001)

生まれつき目が見えないミシシッピー州生まれのアル・ヒブラーは、朗々とした、スムーズで甘く心地の良いバリトンで人々を惹きつけた。彼は1942年に、カンザス出身ジャズ・ピアニストのジェイ・マクシャンのバンドで歌った後、その翌年にデューク・エリントンとの仕事を手に入れる。1945年からはソロ・アーティストとしてレコーディングを始め、1955年に「Unchained Melody」でナンバー・ワンR&Bとトップ10ポップ・ヒットを記録した。またアル・ヒブラーはカウント・ベイシーとラサーン・ローランド・カークともレコーディングしている。

Al Hibbler & Count Basie Going To Chicago.wmv

 

34: ディー・ディー・ブリッジウォーター(1950年生まれ)

数々の賞を獲得しているこのシンガーは(現在までで、グラミー賞3つとトニー賞1つを獲得)、デニス・ギャレットとしてメンフィスで誕生し、ミシガン州で育ち、幼い頃からジャズを聴いていた(父親はトランペッターだった)。ファースト・ソロ・アルバム発表後(当初1974年に日本のみのリリース)、70年代末の彼女はフュージョンに傾倒していった。一連のアルバムは高評価され、90年代以降ベスト・ジャズ・シンガーのひとりとしての地位を確立した。

House of the Rising Sun

 

33: ジョージ・ベンソン(1943年生まれ)

多くのベスト・ジャズ・シンガー同様(彼以前に有名なのはルイ・アームストロングとナット・“キング”・コール)、ジョージ・ベンソンはシンガーとして、より大きな名声を得た類い稀なる才能をもつインストゥルメンタリストだった(彼の場合は、ギタリストとして)。彼はアルバム『Breezin’』収録ヴォーカル・ナンバー「This Masquerade」がヒットした1976年まで、主にギター主導のジャズをプレイした。ジョージ・ベンソンはソウル・シンガーのダニー・ハサウェイとスティーヴィー・ワンダーから影響を受けたが、独自のスムーズ・ジャズ・ヴォーカル・スタイルを確立し、ギターでメロディを二重奏しながらスキャットを歌うことでよく知られている。

George Benson – On Broadway – LIVE

 

32: アーネスティン・アンダーソン(1928-2016)

温かくハスキーな声質に恵まれた、テキサス州生まれのアーネスティン・アンダーソンが最初にブレイクしたのは、1944年にシアトルへ移住後、未来の大スターのクインシー・ジョーンズレイ・チャールズをフィーチャーしたバンドでプレイした、10代の頃だった。その後ジョニー・オーティスとライオネル・ハンプトンのバンドで歌った後、50年代にニューヨークでソロ・アーティストとしての地位を築いた。

ERNESTINE ANDERSON "Big City"

 

31: メル・トーメ(1925-1999)

演技をし、曲を書き、ドラムスをプレイすることが出来、本を数冊書いたこともある、マルチな才能を発揮するこのシカゴ生まれの博識家は、“ヴェルヴェット・フォッグ(ヴェルヴェットの霧)”なる愛称の由来となった、その特徴ある声で最もよく知られる。メル・トーメは僅か13歳の時に、バンド・リーダーのハリー・ジェイムスの為に曲を書き、成人してから、シンガーとしてのキャリアを切り開き、40年代、50年代、そして60年代に幾つかのヒット作を生んだ。

Mel Torme – Stardust

 

30: ダイアン・リーヴス(1956年生まれ)

幾つかの異なるジャンルを気持ちよくこなし、フュージョンとR&Bもレコーディングしてきたデトロイト生まれコロラド育ちのシンガー(そして今は亡きキーボードの達人ジョージ・デュークの従姉妹)は、70年代まで遡るそのキャリア中、グラミー賞ベスト・ジャズ・パフォーマンス賞を5回受賞、間違いなく史上最高のベスト・ジャズ・シンガーとして挙げられる。説得力のあるスキャットもこなす、ジャズ・スタンダードの熟練した解釈者リーヴスは、優れたソングライターでもある。

Dianne Reeves & Russell Malone – You've got a friend

 

29: アビー・リンカーン(1930-2010)

シカゴ出身の素晴らしい才能を持った、シンガー・ソングライター時折女優のアビー・リンカーン(本名アナ・マリア・ウールドリッジ)の声はゴージャスでコクがあり、また非常に万能で、ストレート・アヘッドなバップ・スタイルのジャズから、よりアヴァンギャルド志向な音楽までを難なくこなした。政治活動家だったアビー・リンカーンの60年代作品には、公民権運動とアフリカの独立に対する関心が反映されている。

Max Roach 5tet wt Abbey Lincoln Driva Man 1964 HD

 

28: ビリー・エクスタイン(1914-1993)

ペンシルヴァニア州ピッツバーグ出身のビリー・エクスタインは、トランペット、トランボーン、そしてギターをプレイすることが出来たが、とりわけ印象に残るのは、格調高いベース・バリトンの囁くような甘い歌声で訴えかける、彼が得意とするロマンティックなバラードだった。また彼は著名なバンド・リーダーであり、40年代初頭には、売り出し中のビバップ奏者チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、そしてマイルス・デイヴィスの才能を育てるのに一役買った。

Billy ECKSTINE & His Orchestra " Rhythm In A Riff " !!!

 

27: オスカー・ブラウン・Jr.(1926-2005)

多作なソングライター、そして脚本家であり熱心な人権活動家の、シカゴ生まれのオスカー・ブラウン・Jr.は、50年代にシンガー兼作曲家になる以前は、弁護士、広告マン、そして軍人を経験した。そのクールな歌い方と屈折したモノの見方で知られる彼は、名作「Work Song」「Afro Blue」「Dat Dere」等の歌詞を手掛け、ジャズのレパートリー拡大に貢献した。

Work Song

 

26: ヘレン・メリル(1930年生まれ)

黄金色の蜂蜜が掛かったような声を持つ、このクロアチア系ニューヨーカー(本名はイェレナ・ミルチェティッチ)は、ティーンエイジャーの頃にプロに転向し、50年代初頭にアール・ハインズと印象的な歌声を披露した後、輝かしいソロ・キャリアに乗り出した。数年間住んだことのあるイタリアと日本では、今でも非常に愛されている。

Helen Merrill – You'd Be So Nice To Come Home To – live 1960

 

25: カート・エリング(1967年生まれ)

コンテンポラリー・ジャズ界で最も優れたジャズ・シンガーのひとりである、シカゴ生まれのカート・エリングは、1995年にブルーノートからデビュー・アルバムを発表し、瞬く間に重要人物としての地位を確立した。その声を楽器のように使いながらスキャットとインプロヴィゼーションが出来るカート・エリングは、スタンダードを的確に解釈し、力強いオリジナル作品の作曲家でもある。

'Norwegian Wood' Live Kurt Elling & The Aarhus Jazz Orchestra

 

24: ジューン・クリスティ(1925-1990)

ジャズ黄金期の多くの女性シンガー同様、テキサス生まれのジューン・クリスティ(本名シャーリー・ラスター)は、最初はビッグ・バンドのスイング時代に頭角を現した。1945年、スタン・ケントン・オーケストラのアニタ・オデイ後任オーディションに見事合格し、ラテンの影響を受けたミリオン・セラー「Tampico」を含む、バンドのヒット作数曲を美しく飾った。1947年にファースト・ソロ作品をリリース後、順調に歩み続けた。その朗々とした声、繊細なヴィブラート、そして強くもニュアンスのあるフレージングで知られるジューン・クリスティの歌唱術は、ウェスト・コースト・“クール・スクール”・ジャズを象徴していた。

June Christy sings Something Cool, live, 1959

 

23: ブロッサム・ディアリー(1924-2009)

少々取り澄ました、子供のような音色を誇る、ニューヨーク生まれのブロッサム・ディアリー(彼女の本名)は、このベスト・ジャズ・シンガー・リスト中で最も繊細な声の持ち主のひとりだ。独立する以前は、50年代にパリを拠点としていたヴォーカル・グループ、ザ・ブルー・スターズの一員として名を馳せた。多くの作品を残したレコーディング・アーティストのディアリーは、著名なソングライターでもあり、70年代には、自らのレコード・レーベル“ダフォディル”をスタートさせた。

Blossom Dearie – I wish you love + Impro blues (Live french TV 1965)

 

22: アニタ・オデイ(1919-2006)

50年代に大麻所持で投獄された彼女を批判した新聞社説を非難し、“ジャズ界のイゼベル”(訳注:イゼベル。旧約聖書に登場する王妃)の異名をとったアニタ・オデイ(アニタ・コルトンとしてカンザス・シティに生まれる)は、バンド・リーダーのジーン・クルーパ、ウディ・ハーマン、そしてスタン・ケントンとの仕事で経験を積んだ後、ソロ・キャリアを開始し、鋭気に満ちたスウィング・リズムに、ホルンに似たビバップ・フレージングを組み合わせた。

Stella By Starlight

 

21: ボビー・マクファーリン(1950年生まれ)

グラミー賞10回受賞のスキャットとヴォーカル・パーカッションの大御所である、この革新的マンハッタン・シンガーは、1988年のチャート1位曲「Don’t Worry Be Happy」で世界中に認められた。彼は1980年にファラオ・サンダースと演奏を始め、その2年後にソロ・キャリアの道を歩み出し、今日でもそのヴォーカルの凄技の数々で観客を驚かし続けており、結果当然のように、世界のベスト・ジャズ・シンガーのひとりとして迎え入れられた。まさにワンマン・ヴォイス・オーケストラだ。

Bobby McFerrin – I've Got a Feeling

 

20: クリス・コナー(1927-2009)

洗礼名メアリー・ローツェンハイザーの、この物憂げで柔らかな声を持つカンザス・シティ生まれのシンガーは、1949年に著名なバンド・リーダーのクロード・ソーンヒルとレコーディング・デビューを果たした後、50年代初頭にスタン・ケントンの革新的ポスト・スウィング・ビッグ・バンドに参加した。しかしながら、クリス・コナーがソロとして大躍進を遂げたのは、1954年、インディペンデント・レーベル“ベスレヘム”とだった。その2年後、彼女はアトランティック・レコードと契約、1961年まで活動を共にし、そこでベスト作品を生み出したと言って間違いないだろう。

Chris Connor – Angel Eyes

 

19: ジミー・ラッシング(1901-1972)

この小柄なシンガーは身長が僅か5フィート(約152cm)だったかも知れないが、ビッグ・バンドのスウィング・シンガーのまさしく巨人だった。オクラホマ・シティ生まれの威勢の良いラッシングは、20年代にプロとして歌い始め、1935年にカウント・ベイシー・バンドに加入し、そこで13年間活動した後に、ソロ・シンガーとして成功を収める。しわがれ声のバリトンから高く響き渡るテノールまで、自在に変化させることが出来る、音域の広い歌声で名高いラッシングは、ザラザラした声質を持ち、ビッグ・バンドにかき消されることなく歌うことが出来る、ヴォリュームを誇っていた。

Going To Chicago Jimmy Rushing

 

18: ジュリー・ロンドン(1926-2000)

カリフォルニア州出身の官能的なシャンテュ―ズ(女性歌手)であり女優のジュリー・ロンドンは、1956年、30歳の時に発表し300万枚を売り上げた、物悲しい代表作「Cry Me A River」(アーサー・ハミルトン作)の1曲で、才能ある人物としてベスト・ジャズ・シンガーの地位を手にした。彼女のセールス・ポイントは、そのスモーキーな音色と、物憂げなフレージングで親しみの情を表現する能力だった。

Cry Me A River

 

17: チェット・ベイカー(1929-1988)

50年代に“クール・ジャズ”の先駆者となった、オクラホマ州出身の彫りの深い美青年、チェスニー・ベイカーは艶のある音色を奏でる、偉大なトランペッターだっただけでなく、ロマンティックなバラードで特に発揮される、朗々とした、うっとりするような声の持ち主だった。

Chet Baker Live Belgium 1964) Time After Time – YouTube

 

16: ベティ・カーター(1929-1998)

ミシガン州フリント生まれデトロイト育ち、教会で成長したシンガーのリリ・メイ・ジョーンズはやがて、ジャズ界の名人のひとり、ベティ・カーターへと脱皮した。40年代末にビブラフォンの巨匠ライオネル・ハンプトンのビッグ・バンドの一員としてスタートを切った彼女だが、スウィングよりもむしろビバップの支持者で、50年代半ばには自分のアルバムをレコーディングしていた。1960年に(マイルス・デイヴィスの推薦により)レイ・チャールズと組んだことで、そのキャリアが後押しされ、出世への道を突き進むことになる。ベティ・カーターはその掠れた、ニュアンスのある歌い方と、スポンティニアスなスキャットのスキルと、歌詞の世界に深く入り込む能力で知られる。

In concert Betty Carter 1980 part 1

 

15: ジョン・ヘンドリックス(1921年生まれ)

ボーカリーズ・スタイル(訳注: “ボーカリーズ”=ジャズの歌唱法)の立役者のひとりである、オハイオ州出身の弾力性のある声のシンガーは、その創意溢れる洒落た歌詞で、“ジャズ界のジェイムズ・ジョイス”と呼ばれている。彼が最も有名になったのは、50年代末のジャズ界で一世を風靡した、革新的なヴォーカル・トリオのランバート、ヘンドリックス&ロスの一員としてだった。

Jon Hendricks – "Gimme That Wine" (featuring Wynton Marsalis) Live 1997

 

14: ニーナ・シモン(1933-2003)

ベスト・ジャズ・シンガーの中でユニークな存在のニーナ・シモンが、最初に夢見ていたのは、クラシック音楽界でコンサート・ピアニストになることだった。当時あったとされる人種差別により、このノースカロライナ州生まれのユニース・ウェイモンは、ナイト・クラブのシンガー/ピアニストのニーナ・シモンとして自己改革し、ジャズ、ブルース、ゴスペル、そしてフォークの影響を受けた、引喩に富んだ独自のスタイルを生み出した。ハスキーで表現力豊かなコントラルト・ヴォイスを持つニーナ・シモンは、取り上げるもの全てが、心の底からの個人的主張のように聴こえるように歌う能力に長けていた。

NINA SIMONE – Sinnerman (1965) [Video Clip]

 

13: ジョニー・ハートマン(1923-1983)

シカゴ育ちだがルイジアナ州生まれの、豊かでふくよかな声のトーンを持つ、このほぼ無名のバリトン・シンガーは、第二次世界大戦後にピアニストのアール・ハインズのバンドで歌い始めた後、ビバップ・トランペッターのディジー・ガレスピーとの共演を果たした。ジョニー・ハートマンが自身のレコードを制作したのは、1955年になってからだった(最初はベツレヘム、その後はサヴォイから)。そのキャリアが一気に動き出したのは、サクソフォニストのジョン・コルトレーンに、インパルス!から発売されるアルバムの制作に誘われてからだった。ジョニー・ハートマンが得意としたのは、ストーリーテラーとしての彼の才能を引き出すバラードだった。

I Get A Kick Out of You-Johnny Hartman

 

12: カーメン・マクレエ(1922-1994)

ハーレム生まれのカーメン・マクレエは、有能なピアニストであり目を見張るようなシンガーだった。多くの戦後のベスト・ジャズ・シンガー同様、最も影響を受けたヴォーカリストはビリー・ホリデイであり、彼女のルバートな〔訳注:テンポに捕らわれず自由に感情表現を行なうこと〕 、“ビハインド・ザ・ビート”フレージングを拝借しながらも、すぐにそれと分かるような独自のスタイルを早い段階で確立した。カーメン・マクレエは50年代に世に知られるようになり、そのしなやかな声と、皮肉な展開を盛り込んだ歌詞で定評があった。

Carmen McRae – Round Midnight

 

11: ベッシ―・スミス(1894-1927)

我々が選出した史上最高のジャズ・シンガー50人中で唯一19世紀生まれの、チャタヌーガ出身のベッシー・スミスは、最も稼ぐアフリカ系アメリカ人エンターテイナーのひとりとなった20年代には、“ブルースの女帝”と呼ばれていた。パワフルで甲高い声と低音の唸るような声質を誇るベッシー・スミスは、初期ジャズ・スターのルイ・アームストロングやフレッチャー・ヘンダーソンとレコーディングした。ビリー・ホリデイとダイナ・ワシントンのふたりは、大きな影響を受けた人物として彼女を挙げている。

Bessie Smith – ST Louis Blues (Live Queens NY 1929)

 

10: ジミー・スコット(1925-2014)

「僕の場合、歌詞は何か意味がなければならない。何か物語がないとね」とはオハイオ州生まれの“リトル”・ジミー・スコットの弁。彼は著名なバラード歌手であり、その天使のようであり、中性的ともいえるようなハイ・テノール・ヴォイスは、心に強く残る、この世のものとは思えないような音色を持っていた。その個性的な声は、カルマン症候群からくる遺伝子疾患により、変声期を迎えることがなかった結果によるものだった。ジミー・スコットは40年代に頭角を表わしたが、60年代には世間から忘れ去られた。そして90年代に輝かしいカム・バックを果たし、史上最高のジャズ・シンガーとしての地位を固めることになる。

Jimmy Scott – 'Time after time'

 

9: ペギー・リー(1920-2002)

シングル・ノートを歌うだけで、それが誰だか分かってしまう稀なタイプのシンガーのひとり、ペギー・リー(ノーマ・デロリス・エグストロームとして、ノースダコタ州ジェームズタウンの農場で生まれる)は、気持ちの良いミニマリズム術をマスターした。ベニー・グッドマンのバンドのメイン・シンガーとしてそのキャリアをスタートさせたが、まもなくソロ・アクトとしての依頼を受け、名作「Fever」(1958年)等ヒット・シングルを大量に重ねた。

Peggy Lee – Fever . TV live 1963

 

8: レイ・チャールズ(1930-2004)

R&Bシンガーと言われることが多く、やがてはソウル・ミュージックとなる音楽の創始者のひとりとして迎えられたレイ・チャールズ・ロビンソン(ここに敢えて彼のフルネームを記そう)だが、彼はまた熟達したジャズ・ミュージシャンとして、歌うことは言うまでもなく、サクソフォンとキーボードもプレイ出来た。チャールズ・ブラウンとナット・“キング”・コールを足して2で割ったようなシンガーとして出発した例・チャールズだったが(あだ名は“ザ・ジーニアス”)、50年代には自らのヴォーカル・スタイルを見出した。

Ray Charles "Georgia on my Mind" live 1960

 

7: ダイナ・ワシントン(1924-1963)

アラバマ州タスカルーサ出身のルース・ジョーンズは、ダイナ・ワシントンという名でよく知られるダイナミックなシンガーだ。その歯切れの良い歌い方と完璧な言葉遣いは、エスター・フィリップスやナンシー・ウィルソン等、彼女の後に続くベスト・ジャズ・シンガーの多くに強い影響を与えた。“ブルースの女王”の称号を持ち、その短くも華々しいキャリア中、R&Bと、それからポップ・ヒットまでをもカヴァーした、極めて多才なダイナ・ワシントンだが、その専門分野はジャズだった。

Dinah Washington Sings

 

6: ルイ・アームストロング(1901-1971)

ニューオーリンズ生まれのサッチモは、インプロヴィゼーションの才能に恵まれた、畏敬の念を起こさせるトランペッターとして20年代に活躍したが、そのガラガラした声により、他のベスト・ジャズ・シンガーとは異なる存在として、アメリカのメインストリームを制覇し、特に60年代、彼の最大の世界的ヒット・ナンバー「What A Wonderful World(邦題:この素晴らしき世界)」発表後、非常に稀なタイプのポップ・スターへと変化していった。

Louis Armstrong – Hello Dolly Live

 

5: サラ・ヴォーン(1924-1990)

“強くてカッコいい女性”や“ステキな人”と呼ばれた、ニュージャージー州生まれのシンガーは、豊かであり且つ軽く非常に生き生きとしたトーンとテクスチャーと、柔らかで震えるようなヴィブラートの、4オクターブの声で有名だった。ソロ・アーティストとして名を成す前に大ブレイクしたのは、40年代にアール・ハインズのバンドに加わった時だった。非常に才能溢れる、影響力の大きなシンガーだ。

Sarah Vaughan – Misty (Live from Sweden) Mercury Records 1964

 

4: ビリー・ホリデイ(1915-1959)

若い頃の苦難に満ちた人生(児童買春をし刑務所で過ごした時期がある)に加え、薬物中毒による消耗で、痛みと悲しみの感覚がビリー・ホリデイの声を染め、それが全てのレコーディングに染み渡り、痛切さを加えていたように思える。フィラデルフィア生まれのエリノラ・フェイガンは、ビリー・ホリデイ(あだ名はレディ・デイ)として、ビッグ・バンド時代に歌い始めたが、そのユニークな音色と声質で一気にソロ・スターダムを駆け上がり、やがてこの史上最高のジャズ・シンガーのリストに登場する女性のほぼ全員に、影響を与えることになる。

Billie Holiday: Strange Fruit (Live 1959)

 

3: ナット・“キング”・コール(1919-1965)

ナサニエル・アダムズ・コールは、スーパー・ジャズ・ピアニストだったが、その耳に優しく心地よい柔らかな声で、ポップ・ヴォーカリストとしての名声を築いていった。アラバマ州モンゴメリー生まれのコールは、40年代にジャズ・トリオ編成の先駆者として活動し、幾つかのR&Bヒット曲を放った後、50年代以降は上品なポップ・バラード歌手へと脱皮していった。しかし心の奥底では、熱心な生粋のジャズ・マンだった。

Nat King COLE & His Trio " Route 66 " !!!

 

2: フランク・シナトラ(1916-1998)

無比の“会長”〔※彼のあだ名〕フランク・シナトラは、40年代にティーンエイジャーの少女達に人気のアイドルとしてスタートし、その後ハリー・ジェイムスやトミー・ドーシーのシンガーとしてブレイクする。1953年にキャピトル・レコードと契約し、ジャズ・ホルン・プレイヤーのようなヴォーカル・フレージングを行ない、“ザ・グレイト・アメリカン・ソングブック”の曲をレパートリーに取り入れた、洗練したスウィンガーに自己改革後、そのキャリアは大きく進展する。その死から約20年経ったが、シナトラのようにスウィング出来る者はいない。彼は今でも誰もが認める“親分”だ。

Frank Sinatra – I’ve Got The World On A String

 

1: エラ・フィッツジェラルド(1917-1996)

我々の史上最高のジャズ・シンガー50人リストのポール・ポジションを飾るのは、ヴァージニア州ニューポート・ニューズ生まれの、比類なきシャンテュ―ズ(女性歌手)。“ザ・ファースト・レディ・オブ・ソング”と呼ばれたエラ・フィッツジェラルドは、30年代末にチック・ウェブのバンドでそのキャリアをスタートさせた。そして50年代にはジャズ界の興行主ノーマン・グランツと組み、ソロとして輝かしい成功を収める。その艶のある純粋な音色と、完璧な言葉遣いと稀有のスキャットの才能で(その結果ホルン・プレイヤーのようにインプロヴァイズが出来た)、エラ・フィッツジェラルドはジャズ・シンギング術の規範となるものを築いた。

Ella Fitzgerald and Joe Pass – Cry Me A River – Live 1975

Written By Charles Waring



 

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