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ジョージ・ハリスン『SOMEWHERE IN ENGLAND(邦題:想い果てしなく~母なるイングランド)』

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ジョージ・ハリスン『SOMEWHERE IN ENGLAND(邦題:想い果てしなく~母なるイングランド)』

1930年代は“低調なごまかしの10年間”と呼ばれていたが、音楽的な面で言えば、ほぼ間違いなく同じことが、1980年代に世に出てきた多くの音楽にも当てはまるだろう。 至る所で耳にするシンセサイザーの大挙到来、デジタルの登場と本格的普及、そしてMTV現象全体のおかげで、道を誤ったミュージシャンは若手からベテランまで少なからずいた。 しかしこの新たな10年間の始まりを迎えた時、ジョージの道を誤らせるものは何一つなかった……彼は発表間近の新作を既に完成させていたのである。

後に『Somewhere In England』となるアルバムのレコーディングが開始されたのは、1980年3月のこと。作業はそれから7ヶ月間、のんびりしたペースで、フライアー・パークにある自宅スタジオで続けられた。 ジョージの息子ダーニによると、父ジョージは当時、何かに少し取り憑かれたようになっていたという。 「彼は夜になると庭に出て、深夜までそこにいることがあったんだ」。夫人のオリヴィア・ハリスンは、著書『Living In The Material World』でこう語っている。「彼はよく外に出て目を細めていました。真夜中には月光と影が見えたからです。彼にとってはそれが、日中自分を悩ませていた不快なことや不完全なものを目にしないで済む方法であり、それによって事が終わった後どうなるかを想像することができたのです。庭にいたため、彼はほぼ毎晩夕食を忘れかけていたものでした。 朝一番から夜の最後まで、そこで過ごすこともありました」。

1980年9月、ジョージが新作をワーナーに最初に聴かせた時、あまりにレイドバックしすぎていると彼らは考えた。 新年代を支配していた風潮、つまりポスト・パンク熱に、彼らが捕らわれているのは明らかだった。

持ち込んだアルバムから4曲を外し、幾つかの新しい曲に取り組むことにジョージは同意。これらが完成したのは1981年2月のことだった。元ビートルズのメンバー達の世界で当時起きていたことを思えば、これがそもそも完成したこと自体、ある意味驚くべきことである。

ジョン・レノンが殺害されたのは1980年12月のこと。この恐ろしく辛い事件に促され、ジョージは自身の曲「All That Years Ago(邦題:過ぎ去りし日々)」に再び取り掛かった。 彼とリンゴ・スターはこの曲を11月にレコーディングしており、1981年リリース予定のリンゴのアルバム『Stop And Smell The Roses(邦題:バラの香りを)』に収録することを視野に入れていた。

だがジョージは矢も楯もたまらず、ジョンに捧げる曲として、過去を懐かしむ新たな歌詞を書かねばならない気持ちに駆られた。同曲は、ジョージのリード・ヴォーカル、リンゴのドラムス、ポール&リンダ・マッカートニーのバッキング・ボーカル、そしてレイ・クーパーや、デニー・レイン、アル・クーパー、そしてハービー・フラワーズといった友人達の参加を仰いで再レコーディング。1981年6月発売の『Somewhere In England』に先駆け、5月にリリースされた「All Those Years Ago」は、全米チャートで3週間2位の座を維持した。

後にジョージは、レコード会社の要請で、アルバムのオリジナル・ジャケットの変更を余儀なくされた。元のジャケでは、英国の国土を写した航空写真の上にジョージの顔が重ねられていたが、変更後は、彼が‘ホランド・パーク・アヴェニュー・スタディ’の前に立っている写真に。 オリジナルのジャケットは、ボックス・セット『Dark Horse Years』に含まれていた2004年の再発盤で復活している。

本作でジョージが特に気に入っている曲の1つが、皮肉たっぷりのオープニング曲「Blood From A Clone」だ。トレードマークの暗いユーモアを交え、自身の音楽には明らかに時代にそぐわないものがあるという事実を彼は認めている。 「彼らが言うには/気に入ってはいるが/今の市場では/売れないかもしれないんだとさ」と彼は歌っていた。「ウンパッパってのを入れないと/フランクザッパみたいなのはお呼びじゃない/それにニュー・ウェイヴはダメだ/あんなくだらないものはプレイしない/レンガの壁に頭を打ちつけてみなよ/石のように堅い壁に/.……音楽に割いてる時間なんてないんだ/彼らが求めてるのはクローンの血」。

彼は後にクリーム誌にこう説明している。「そういうことを彼らに言われていたんだよ、『まあ、我々はそれを気に入ってはいるが、あまりシングル向けの曲がないな』ってね。また他の人達には、「ちょっと聞いてくれよ、ヒット・シングルの構成要素を解明しようと、ラジオ局が街で世論調査をしているんだけど、それによるとヒット・シングルというのは、14〜20歳向けのラヴ・ソングもしくは失恋ソングなんだそうだ」とも言われた。 それで僕は言ったんだ、『ちくしょう、それじゃ僕にどんな勝算があるっていうんだ?』ってね。

それで……僕はちょっとしたフラストレーションの解消に、この曲を書いたんだよ。『そこに意味など全くない/純粋にカネのことだけさ/あまりにガツガツしていて/驚かされる」

本作の中でも特に傑出している曲に、叙情的で哲学的な、想像力を刺激する「Writing’s On The Wall(邦題:神のらくがき)」がある。これはシングル「All Those Years Ago」のB面であった。またジョージは、ホーギー・カーマイケルが書いた2曲、「Baltimore Oriole」と「Hong Kong Blues」をカヴァー。後者は1960年代にスパンキー&アワー・ギャングもカバーしていた。 両曲共、1940年代に書かれているにも拘らず、まるでハリスンのオリジナル曲のように聴こえる。 「Life Itself」こそ本作のベスト・トラックだと言う人も数多いが、その理由は分かりやすい。スピリチュアルであると同時に想像力を掻き立てるこの曲には、正に典型的なジョージらしさが溢れているからだ。

『Somewhere In England』は、1981年6月13日付の全英チャートで初登場12位を記録。翌週もトップ20圏内を維持した。全米では13週連続チャートインを果たし、最高位11位まで上り詰めている。1年半後、ジョージは『Gone Troppo』を引っ提げて還ってきた。その後、彼が自身の名の下に制作するアルバムは、大成功を収めた1987年の『Cloud NIne』まで待つことになる。

- Richard Havers

ジョージ・ハリスン アーティストページ

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George Harrison - Somewhere In England

 

 

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