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ザ・ビートルズのジャケット写真大解説:20枚以上の作品をメンバーや関係者のコメントで振り返る

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Image: Courtesy of Apple

そもそも最初の頃から、ヴィジュアルの要素はザ・ビートルズの大きな魅力の一つだった。『ビートルズとヴィジュアル・アート(The Art Of The Beatles)』の著者であるマイク・エバンスはその著書の中でこう説明している。

「彼らのイメージは常にユニークだった。音楽シーンにおける他のアーティストたちのスタイルがその時代を反映しているのと異なり、ビートルズは常に時代の流行を作り上げる側にいた」

彼らは名声を獲得する前から、ある意味彼らのユニフォーム的な独自のルックスを持っていた。バンドが最初登場した時、マスコミは彼らのマッシュルーム・カットの髪型、キューバンヒールのブーツや襟無しジャケットに目を奪われていた。自分たちをどう見せるかが、彼らが他のアーティストと中身も違うことを示すのに重要だったのだ。

そしてこうした要素が最も一貫して反映されていたのが彼らのアルバムジャケットだった。写真、イラストレーション、グラフィック・デザイン…ザ・ビートルズのアルバムジャケットはそのいずれについても大きな変化をもたらしたのだ。

ビートルズ以前のアルバムジャケットは、アーティストのキラキラしたイメージに、歌のタイトルとセールスのためのメッセージが表示されているなど、レコードを売るためのデザインだった。しかしわずか数年の間に、ザ・ビートルズのアルバムジャケットはそれ自体で立派なアート作品になった。

メンバーの顔半分だけが照らされた『With The Beatles』、サイケデリックなノスタルジアたっぷりの『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』、そしてシンプルに道路を横断している『Abbey Road』。そういったアルバムのジャケットは、最も影響力があり今でも評価され続ける20世紀のアートとしてランク付けされる作品であり、ザ・ローリング・ストーンズやデヴィッド・ボウイ、ピンク・フロイドらを始めとする数々の他のアーティストたちがよりアートを意識したジャケットを作り出すための筋道となった。

それでは、ザ・ビートルズのいくつかの象徴的なアルバムジャケットにまつわる物語をご紹介しよう。

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『Please Please Me』

(1963年、アンガス・マクビーン撮影)

ザ・ビートルズが紹介された1963年のデビュー・アルバム『Please Please Me』のアルバムジャケット用の写真はアンガス・マクビーンが撮影したもので、その写真を使うことを決めたのはジョージ・マーティンだった。

当時、マーティンは彼らのレコードのプロデューサーであったと同時に、彼らの所属レーベル、パーロフォン・レコードの社長でもあり、当時マーティンとマクビーンは、既にいくつかのコメディ・レコードのジャケットで一緒に仕事をしていた。

当初、写真撮影は、ロンドン動物園の昆虫館の外で行う予定だったが、動物園に撮影を断られたため、結局ロンドンのマンチェスター広場にあるEMIのオフィスが1963年3月5日の撮影場所に選ばれた。ちょうど同じ日に、彼らは「From Me To You」をレコーディングしたところだった。

「音楽のレコーディングと同じように、撮影もえらく大急ぎだった」とマーティンは当時を振り返った。ジャケットを飾った写真には、地上から何階か上のバルコニーから、地上にいるカメラマンのマクビーンを見下ろしながら笑みを浮かべるデビューしたてのザ・ビートルズが写っている。

「あの日は普通のポートレート用のレンズしか準備してなかったので、あの写真を撮るにはビルの入り口で仰向けに寝転んで撮るしかなかったんです。何枚か撮ってみて言ったもんです。『これなら使えるだろう』って」

『Please Please Me』を聴くならここから


『With The Beatles』

1963年、ロバート・フリーマン撮影

彼らの最初のアルバムは急いでリリースされたが、彼らが2作目のアルバム『With The Beatles』を1963年11月22日(アメリカの歴史においては全く別の意味で重要な日、ケネディ大統領暗殺の日だったが)に出した頃には、ザ・ビートルズがすぐに消えてしまうような泡沫スターではないことはすでに明らかだった。

彼らの友人、アストリッド・キルヒャーが撮った写真にヒントを得たロバート・フリーマンは、このアルバムジャケットの写真をスタジオではなく、ザ・ビートルズのメンバーがツアー中だったイギリス南部のボーンマスにあるパレス・コート・ホテルの廊下で撮影した。

1963年8月22日に行われた撮影についてポール・マッカートニーはこう語っている。

「ホテルで一時間かかったんだ。廊下の突き当りに、小さな窓があって、そこからの自然光が11時の角度から差し込んでいるところをフリーマンが見つけた。彼は『君は前に座って、そう…』という感じで僕らを座らせたんだ」

その結果は、4人の若者がお揃いの髪型とタートルネックで、顔の半分が照らされて白黒のツートーンで、にこりともしていない(それ自体当時のポップ・スターとしてはかなり異例だった)という象徴的なイメージとなった。ジョージ・ハリスンは後にこう語っている。

「あのジャケットが、僕らがビートルズのアートワークに積極的に関わるようになった最初だったんだ」

『With The Beatles』を聴くならここから


『A Hard Day’s Night』

1964年、ロバート・フリーマン撮影

彼らのそれまでのLP同様、1964年の『A Hard Day’s Night』(ビートルズ初の主演映画のサウンドトラック盤)のアルバムジャケットも、ビートルズのメンバーがお揃いのタートルネックと髪型で写った白黒の肖像写真で構成されていた。ただ今回は彼ら一人一人がカメラに向かって遊び心満点の、様々な表情をしてみせている写真だ。20枚の肖像写真(うち一枚はジョージの頭を後ろから撮ったものだ)を撮影したのはまたしてもロバート・フリーマンだったが、今回は彼のロンドンのスタジオでの撮影だった。

この時までには、4人はフリーマンと親しくなっていて、彼はジョンと同じアパートメントの区画に住んでいたくらいだった。フリーマンはその当時を思い出しながらこうコメントしている。

「ザ・ビートルズの連中と一緒にいるのは、まるで台風の中心みたいなクレイジーな状況のど真ん中にいることだった。まったくもってにぎやかで楽しい時間だったよ」

写真のフィルムを模したデザインのアルバムジャケットは、一人一人のメンバーが、記者たちの質問に責め立てられたり、カメラマンにフラッシュを浴びせられたりといったシーンを想定したものだった。

『A Hard Day’s Night』を聴くならここから


『Beatles For Sale』

1964年、ロバート・フリーマン撮影

1964年10月にロンドンのハイド・パークでロバート・フリーマンが撮影した『Beatles For Sale』のアルバムジャケット写真には、にこりともしていない、疲れた表情のロックンロール・バンドが、またしてもほとんどお揃いの格好で写っている。ポール・マッカートニーはこう振り返る。

「カメラマンは僕らに『ちょっと来てくれ』って言うだけでいいんだ。だって僕らはいつも同じような服を着てたから。簡単なもんさ。僕らはただハイド・パークのアルバート記念碑のところに集まればよかったんだ。あの時のジョージの髪型にはやられた、って感じだったね。てっぺんを小さいカブの頭みたいにしちゃってたから」

このアルバムは彼ら初の見開きジャケットで、内側にはフリーマンによる別の肖像写真が配されていたが、それは往年のハリウッド女優、ジェーン・マンスフィールドや映画スターのヴィクター・マチュアといったハリウッドや音楽劇場のスターたちのコラージュ写真の前で、ザ・ビートルズの4人がポーズを取っているといったものだった。このコンセプトは3年後に彼らが『Sgt. Pepper’s Loney Hearts Club Band』で再び使うことになる。ビ

ザ・ビートルズの広報担当でジャーナリストのデレク・テイラーはライナーノーツにこう書いている。

「西暦2000年の子どもたちがこの音楽を聴いても、我々が今感じているのと同じ幸せと暖かさを感じることだろう」

『Beatles For Sale』を聴くならここから


『Help!』

1965年、ロバート・フリーマン撮影

彼らの二作目の主演映画に合わせてリリースされた1965年の『Help!』のアルバムジャケットには、映画で着ていたスノースーツで身を固めたザ・ビートルズの4人が写っており、手旗信号で悲痛なシグナルを送っているかのように見える。

これを撮影したロバート・フリーマンは最初、彼らに「H」「E」「L」「P」と書かれた旗を持たせようと考えていたが、絵としてうまくいったこの4人のポーズの方がいいということでその計画はボツにした。最終的なアルバムジャケットでメンバーが出しているサインは「N-U-J-V(あるいはC)」という風に読める。

1965年になる頃には、フリーマンは彼らのアルバムジャケット5作の写真を撮っていた上に、ビートルマニア時代のファンから愛された数々の写真を撮っていて、実質上ザ・ビートルズの公式カメラマンとなっていた。2019年11月、彼が死去した際にポール・マッカートニーはこう語っている。

「彼はビートルズ時代の僕らのお気に入りのカメラマンだったよ。僕らの一番象徴的ないくつかのアルバムのジャケットの写真も撮ってくれたし。彼はプロのカメラマンとしても素晴らしかったけど、想像力も豊かで本当の意味の独創的思想家だった」

『Help!』を聴くならここから


『Rubber Soul』

1965年、ロバート・フリーマン撮影

ザ・ビートルズが1965年にリリースした2枚目のアルバムは、「Nowhere Man」や「Norwegian Wood」といった楽曲を収録し、今日に至るまで音楽的に彼らが最も大きな飛躍を遂げた作品だ。アルバムジャケットはその実験精神をよく表していた。

まず、ジャケットにはバンドの名前は表記されておらず、ちょっと歪んだ彼らの4つの顔がタイトルの下からこのアルバムのリスナーの方を見つめている。ジョン・レノンはかつてこう言った。

「あれはポールが思いついたタイトルだよ。多分“Yer Blues”とかと同じで、“Rubber Soul”っていうのは英国の魂、って意味だと思う。ちょっとした言葉遊びさ」

アルバムタイトルのフォントも、ビートルズに関する多くのもの同様、時代を先取りするようなデザインだった。一年もしないうちに、このフォントはサイケデリック・ポスターのアートには欠かせないものになった。

縦に引き延ばされたような写真の効果はまったくの偶然の産物だった。ポール・マッカートニーはこう説明した。

「カメラマンのロバート・フリーマンは、ロンドン郊外のウェイブリッジにあったジョンの家で既に写真を何枚か撮っていたんだ」

ロンドンに戻ったフリーマンは撮った写真をアルバム・ジャケットのサイズのカードに映写して見せた。

「ちょうど使う写真を選んだ時、写真が映写されたカードが少し後ろに倒れて、写真が縦に引き延ばされて写ったんだ。そこで僕らは『それだ!ラバー・ソウルって感じだよ!そういう風にできない?』と言うと、彼は『ああ、そういう風にプリントできるよ』って言ったんだ。それがすべての顛末さ」

『Rubber Soul』を聴くならここから


『Revolver』

1966年、クラウス・フォアマンによるイラスト

それまでの5作のLPレコードジャケットをデザインしたロバート・フリーマンは、1966年のアルバム『Revolver』のために写真のコラージュによるデザインを作って提案した。しかしその提案は却下され、ハンブルグ時代からの古い友人、クラウス・フォアマンの描いたイラストが選ばれた。

1966年にロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館で開催された線描画の展覧会に多数の観衆が詰めかけたイラストレーター、オーブリー・ビアズリー(彼は後に『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』のジャケットに登場する)の作品におそらくヒントを得て、アルバム・ジャケットにはザ・ビートルズのメンバーの線描画と切り貼りされた写真があしらわれていた。

フォアマンは『Mojo』誌のマーティン・オゴーマンにこう語っている。

「とにかく彼らはアバンギャルドだったんで、ジャケも同じようにしなきゃと思ったんだ。普通のデザインよりもかなり違ったものにしたかった」

フォアマンが出来上がったジャケットのデザインを4人とプロデューサーのジョージ・マーティン、マネージャーのブライアン・エプスタインに見せたところ、最初の反応は沈黙だった。しかしすぐに彼らがそのデザインを気に入ったのは明らかだった。エプスタインはフォアマンにこう言った。

「クラウス、これこそが僕らに必要なデザインだ。ひょっとしたらこのプロジェクトはうまくいかないかもと心配してたけど、今はこのジャケ、そしてこのアルバムはうまく行くって確信したよ。ありがとう」

『Revolver』を聴くならここから


『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』

1967年、ピーター・ブレイクとジャン・ハワースによるデザイン、マイケル・クーパー撮影

1967年発売『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』の、正装に身を包んだザ・ビートルズのメンバーが、60を超える彼らの友人やヒーロー、アイコン達の全身写真のモンタージュと、マッシュルーム・カットの彼ら自身の蝋人形の前に立っているというデザインは、おそらくサイケデリックというよりはノスタルジックなものだった。ポール・マッカートニーはこう説明した。

「僕らはこのアルバム全体を作るにあたって、何年も表ジャケットを眺めても飽きないようなものにしたかったんだ。そしてそこに写っている人達が誰なのかを調べてもらって、裏ジャケットに描いてあることもすべて読んでもらいたかった」

ザ・ビートルズのメンバーは、アーティストのピーター・ブレイクとジャン・ハワースにこれをまとめ上げるように依頼。史上最も有名なものとなったこのアルバムジャケットは、デザインにおける革命的な作品であり、そのパッケージ自体が一つのアート、特にポップ・アートの域に達している。リンゴ・スターはこう思い返す。

「『Sgt. Pepper』は特別なアルバムで、ジャケの撮影の時には僕らは着飾ってジャケに写真が載った僕たち全員、つまり‘ペッパー達’になりたかったんだ。当時は世界でフラワー・パワーが最高潮に達していて、愛と平和でいっぱいで、僕にとっても世界にとっても素晴らしい時期だったからね」

『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』を聴くならここから


『Magical Mystery Tour』

1967年、ジョン・ヴァン・ハマーズヴェルドによるデザイン

元々英国ではLPとしてはリリースされず、その代わりにTV映画のための2枚組EPと小冊子のセットが発売された1967年の『Magical Mystery Tour』のアルバムは、彼らのカタログを構成する正式な作品としては唯一のアメリカのみリリース作品となった。

ジャケットには、ザ・ビートルズのメンバーが映画の中の「I Am The Walrus」の場面での格好(ジョン・レノンが“Glass Onion”の歌詞に書いているのとは逆で、セイウチはジョンで、ポールはカバの格好だ)で写っている。これはザ・ビートルズのアルバムジャケットで、彼らの顔が一切登場しない初めての作品だった。

「I Am The Walrus」の曲を書くに当たって、ジョンはルイス・キャロルの詩『The Walrus And The Carpenter』にヒントを得たとジョンは1980年にプレイボーイ誌のインタビューで次のように語っている。

「ルイス・キャロルが資本主義者や社会制度についてコメントしていたなんて思いもしなかったよ。後で読み返してみると、セイウチが実は悪い奴で、大工がいい奴だったということに気が付いた。『くそっ、間違った奴を選んじまった』と思ったもんだ。あの歌ではセイウチじゃなくって“僕は大工だ”って歌うべきだったんだ。でもそうすると大分様子が変わるよね?(歌いながら)♪I am the carpenter…(僕は大工だ…)♪」

『Magical Mystery Tour』を聴くならここから


『The Beatles (The White Album)』

1968年、リチャード・ハミルトンによるデザイン

誰もが『The White Album』という名前で知っているアルバム『The Beatles』のジャケットのアートは『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』とは全く逆のシンプルなものになった。『Sgt. Pepper’s…』のアートはいろんなイメージがギッシリあって活気に溢れているが、『White Album』は、真っ白だ。しかし『Sgt. Pepper’s…』の時同様、彼らは当時既に定評のあったアーティストに依頼して、そのアイデアを結果に結びつけたのだ。

登場したのはポップ・アートのパイオニアの一人、リチャード・ハミルトン。ハミルトンは当時を思い返してこう語る。

「ポール・マッカートニーのリクエストは、デザインを『Sgt. Pepper’s…』の爆発的な派手さと可能な限りくっきりと対照的にしてほしい、というものだった。正にこれがそれだよ」

アルバムのパッケージには、ジョン・ケリーが撮影した4人の肖像写真と、ポールをアシスタントとしてハミルトンが作ったコラージュ・デザインのポスターが同封された。ポールはこう話す。

「僕にとっては、リチャード・ハミルトンみたいな人から大きな学びを得る機会だった。一週間、彼の考えにどっぷり浸ったんだ。最高な先生だったよ!」

アートな感じのテーマにこだわって、当初リリースされたアルバムには、ちょうど限定発表のアート作品や詩集を思わせるような、それぞれ個別の通し番号が振られた。2015年にオークションにかけられた、リンゴ・スターが個人的に所有していた0000001番のアルバムは、79万ドル(約9,000万円)で落札され、世界一高価なレコードとなった。

『The Beatles (The White Album)』を聴くならここから


『Yellow Submarine』

1969年、ジョージ・ダニング監督、ハインツ・エーデルマンによるイラスト

1968年のアニメ映画『イエロー・サブマリン』のサウンドトラック・アルバムは、レコードの片面にしかザ・ビートルズの音楽が収録されていないという意味で彼らのアルバムの中でもユニークな存在で、アルバムB面にはこの映画のためのオーケストラ音楽が収録されている。LP全体でもビートルズの新曲は4曲しか収録されていない。

1969年1月、まだ『The White Album』がチャートの1位にいて、彼らが『Get Back』プロジェクトに取りかかろうとしていた頃、イラストレーターのハインツ・エーデルマンが作った各メンバーのアニメ版のサイケデリックなキャラクターは、当時の彼らの風貌とはかなりかけ離れたものとなり、映画全体にノスタルジックな雰囲気を加味することになった。

ザ・ビートルズ自身が創り出したものではないにもかかわらず、『Yellow Submarine』のアートワークは今でもノートやトート・バッグ、トランプや靴下などあらゆるものに、象徴的に使われていて、イエロー・サブマリン・バージョンのモノポリー・ゲームがあるくらいだ。リンゴ・スターはこう思い返す。

「『イエロー・サブマリン』の映画は大好きだったな。アニメーションは最高でとっても先進的だと思った。穴だらけの海、青鬼症候群…今でも素晴らしいと思うし、僕らがあの映画に関係できてうれしかったよ」

『Yellow Submarine』を聴くならここから


『Abbey Road』

1969年、イアン・マクミラン撮影

1969年夏に完成された『Abbey Road』はビートルズがレコーディングした最後のアルバムであり、制作中の仮題が『Everest(エベレスト)』(エンジニアのジェフ・エメリックが吸っていたタバコのブランドにちなんでいる)だったため、世界最高峰エベレストの前、場合によっては頂上にメンバーがいるというジャケットが検討されていた。しかしそのアイデアがボツになると、彼らはほとんどその正反対の発想でスタジオの玄関から飛び出し、EMIのスタジオがある通りの名前にちなんでアルバムを『Abbey Road』と名付けたのだ。

1969年8月8日に撮影されたこの写真のおかげで、この横断歩道は世界で最も有名な横断歩道になった。当時ポール・マッカートニーは実は既に死んでいて、ソックリさんが代わりを演じているという噂があったため、ファンたちは新作アルバムのアートワークにその手がかりを求めた。ある者は、ポールが裸足で写っているのがその証拠だと考えた。ジョン・レノンは後にその考えをバッサリ切り捨てている。

「ポールは裸足で道路を歩いていたね。ポールが考える“人と違うこと”は、見た目はほぼまっすぐだけど、耳だけ青く塗るという、ちょっと微妙なことなんだ。だからポールはその日、裸足で道を渡ることにしたんだ」

『Abbey Road』を聴くならここから


『Let It Be』

1970年、イーサン・ラッセル撮影

ザ・ビートルズがレコーディングした最後のアルバムではなかったが、『Let It Be』が最終的に編集されて1970年にリリースされる頃には、ザ・ビートルズは既に歴史の一部となっていた。一部の地域でリリースされた初期の盤は、イーサン・ラッセルによる豪華な写真集を含む贅沢なボックス・セットの一部としてリリース。アルバム・ジャケットには、黒の背景に4人のビートルズのメンバーの写真が、それぞれ個別のボックスに入ってシンプルに配されていた。

しかしそのデザインは最初から予定されたものではなかった。このレコードの最初のアイデアは『Get Back』と名付けられ、彼らのデビュー・アルバム『Please Please Me』を模したジャケットが使われる予定だった。カメラマンのアンガス・マクビーンは1963年に彼が撮影したものを、多大な費用をかけてコピーするよう依頼された。しかし、このアイデアが最終的にボツになった理由は、流れる歳月の中で失われてしまった。

実際、1971年にメロディ・メーカー誌に掲載された、ポール・マッカートニーへの公開質問状の中でジョン・レノンはこう尋ねている。

「そういえば、僕らのファースト・アルバムのジャケのパロディを『Let It Be』のジャケに使おうっている僕のアイデアはどうなったんだっけ?」

『Let It Be』を聴くならここから


『The Beatles 1962-1966』『The Beatles 1967-1970』

1963年と1969年、アンガス・マクビーン撮影

ザ・ビートルズがお蔵入りにした、1969年のアルバム『Get Back』のジャケットは彼らの1963年のデビュー・アルバム『Please Please Me』を模したものにするというアイデアだった。しかし実際に、メンバーが全く同じ場所でわずか6年の月日を隔てて撮影された写真のドラマチックな違いを比べるには、後に赤盤、青盤として知られることになる2組のアルバムが1973年にリリースされるまで待たなければならなかった。

EMIのマンチェスター広場の本社での両方の撮影を担当したのはアンガス・マクビーン。しかし2回目の撮影は1回目に比べると厄介なことになった。6年の間に新しいポーチが造られていて、マクビーンが1回目の撮影をした場所からの撮影の邪魔になるため、最初の撮影は中止せざるを得なかった。結局一週間後に、そのポーチを取り除いて彼らは撮影を完了することができた。


『Yesterday & Today』

1966年、ロバート・ウィテカー撮影

ザ・ビートルズのアルバムジャケットの中でも最大のコレクター・アイテムとなっているのは、1966年7月アメリカでリリースされたLP『Yesterday and Today』の悪名高き「ブッチャー(肉屋)・カヴァー」だ。このコンセプチュアル・アートな一枚は、イギリス人カメラマンのロバート・ウィテカーが撮影した。

ザ・ビートルズの4人は肉屋の上着を着て、肉片とバラバラになった赤ん坊の人形に囲まれている状態で撮影に臨んだ。ジョン・レノンはこう主張している。

「もともとの僕のジャケのアイデアの方が良かったな。首をはねられたポールっていうアイデア。でも彼は賛成しなかったけどね」

しかし、USバージョンの最初の盤が出荷されると、ブッチャー・カバーにショックを受けた反応が多かったため、キャピトル・レコードはアルバムを回収せざるを得なかった。キャピトル・レコードの解決策は、元のジャケットの上に新しい写真を貼り付けるというものだった。ザ・ビートルズ公式自伝の『ザ・ビートルズ・アンソロジー(Anthology)』の中で、リンゴ・スターが当時を思い出しながらこう言っている。

「あのジャケは素行抜群の僕らには最高のアイデアで、“こういうのやろうぜ!”って感じだったんだ。呆れたのは、あのジャケが禁止されたんで、レコード会社はその上に紙を貼ったもんだから、みんな蒸気でそれを剥がしにかかったことだ」

現在、このオリジナルのジャケットのアルバムは最低数十万円で取引されている。


『Hey Jude』

1970年、イーサン・ラッセル撮影

ザ・ビートルズの4人がフォト・セッションのために集まったのはこれが最後だったろう。しかしリンゴ・スターが『ザ・ビートルズ・アンソロジー』の中で説明しているように、誰もがそうは思っていなかった。

「ただのフォト・セッションだったんだ。“これが最後のフォト・セッションになるんだな”なんて考えもしなかった」

撮影の結果できあがった写真の一枚は、1970年にアメリカでリリースされたベスト・アルバム『Hey Jude』のジャケットを飾った。イーサン・ラッセルによる写真の撮影は、1969年8月22日、イギリスはバークシャー州アスコットの郊外のサリーにある、ちょうどジョンとヨーコが買ったばかりのティテンハースト・パークのお屋敷で行われた。

アルバムジャケットの肖像写真は、敷地内のヴィクトリア調の集会場の前で撮影され、ザ・ビートルズの4人は『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』のジャケットで見られた色を少し配した服を着ていた。当時バンドを取り巻く状況は暗いものだったが、この写真には明るいところもふんだんに見受けられる。例えば、ジョージの帽子は、横にあるヴィクトリア調の胸像の上にちょこんと乗っているし、ジョージとポールの表情からは、彼らが共に皮肉っぽい気分だったことが容易にわかるからだ。


『Anthology Vols. 1-3』

1995年、クラウス・フォアマンによる写真

ザ・ビートルズのメンバーが1995年に自分達の物語を語るという、アルバム『Anthology』シリーズに使われたアートワークは、彼らが有名になる前のハンブルグ時代からの友人であるクラウス・フォアマンのイラストによるものだ。

彼は、ジョン・レノンの『Imagine』やジョージ・ハリスンの『All Things Must Pass』を含むメンバーたちのソロ作品の多くにベーシストとして参加しており、彼は以前、1966年のLP『Revolver』のジャケットのイラストも担当していた。この『Anthology』の3作は横に並べると、一つの長いコラージュ作品になるようになっている。

フォアマンのイラストの中には、ファンが楽しめるよういくつもの「隠しアイテム」が潜んでいる。例えば1作目のアートワークには、彼らの非公式アルバム『The Savage Young Beatles』のアートワークが使われたが、オリジナルのドラマーだったピート・ベストの頭がちぎられて、そこに彼の後任だったリンゴ・スターの顔が置かれてこちらを覗いている、といった調子だ。

このおふざけに渋々同意するかのように、ピート・ベストは後にそのちぎられた部分を自身の2008年のアルバム『Haymans Green』のジャケットに使っている。その他、フォアマンの『Revolver』のジャケットに関連したより目立たない隠しアイテムとしては、彼は1966年の『Revolver』のジャケットに28歳当時の自分の小さなスナップ写真を忍び込ませていたのだが、1995年の『Anthology』のアートワークには描き直された『Revolver』のジャケットの中に自分の57歳の写真を隠している、というものがある。


アメリカでキャピトル・レコードがリリースしたアルバム

ザ・ビートルズのアメリカでのアルバムは、英国でリリースされたものと大きく異なっている。アメリカ盤に収録されていた初期のミックスや、ラフな編集バージョン、そしてエコーをたっぷり使ったバージョンなど、1980年代のCD再発の際にイギリス盤のバージョンで差し替えられるまでは、アメリカのビートルズ・ファンは、実際にザ・ビートルズが作っていた音楽とは非常に違ったものを聴いていたことになる。

また、1966年のアメリカ版コンピレーション『Yesterday & Today』が明確な例外だった以外は、セカンド・アルバム『With The Beatles』を模したアメリカ版『Meet The Beatles!』などのアルバムのデザインには、ザ・ビートルズのメンバーは殆ど関与していなかった。

実際、アメリカ盤のジャケットには、セールス促進のためのメッセージが書き込まれることが多かった。例えば『The Beatles Second Album』のジャケットでは、下記のような文字が躍っていた。

「イギリスから登場したポール・マッカートニー、ジョン・レノン、ジョージ・ハリスンそしてリンゴ・スターによる電撃的なビッグ・ビートのパフォーマンス!」

『Beatles ‘65』には誇らしげに「ジョン・ポール・ジョージ・リンゴによるグレートな新しいヒット曲をどうぞ!」と謳われていた。

Written By Paul McGuinness



ザ・ビートルズ『Let It Be』(スペシャル・エディション)
2021年10月15日発売
5CD+1Blu-ray / 2CD / 1CD / 4LP+EP / 1LP / 1LPピクチャーディスク


最新ドキュメンタリー
『ザ・ビートルズ:Get Back』

11月25日(木)・26日(金)・27日(土)ディズニープラスにて全3話連続見放題で独占配信

監督:ピーター・ジャクソン (「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズ、『彼らは生きていた』)
出演:ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター

伝説のロックバンド、ザ・ビートルズの3日連続6時間の時空を超えた《体験型ドキュメンタリー・エンターテイメント》が、ディスニープラスで独占配信。巨匠ピーター・ジャクソン監督によって、“Get Back(復活)”を掲げて集まった4人が名盤『Let It Be』に収録される名曲の数々を生み出す歴史的瞬間や、ラスト・ライブとなった42分間の“ルーフトップ・コンサート”が史上初ノーカット完全版として甦る。解散後、半世紀を超えて明かされる衝撃の真実とは?

配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン ©2021 Disney Enterprises, Inc. All Rights Reserved.
公式サイト

「ザ・ビートルズ:Get Back」|予告編|Disney+ (ディズニープラス)



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