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フランク・シナトラとクインシー・ジョーンズ:40年にわたる友情と音楽の軌跡

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Photo: Frank Sinatra Enterprises

シカゴ出身のトランペッターだったクインシー・ジョーンズ(Quincy Jones)は、1950年代にダイナ・ワシントン、ディジー・ガレスピー、サラ・ヴォーンのアレンジャー兼指揮者として頭角を現し、その後、フランク・シナトラ(Frank Sinatra)との仕事を機に国際的な名声を獲得した。

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Fly Me To The Moon (In Other Words)

 

最初のコラボレーション

フランク・シナトラとクインシー・ジョーンズが初めてタッグを組んだのは、1958年6月、国連難民基金のチャリティー・コンサートのためだった。

母国アメリカよりも先にヨーロッパで成功を収めていたクインシーは、当時パリのバークレイ・レコードの仕事をしていた。そんなある日、モナコ公国のグレース公妃の事務所から一本の電話が入る。フランク・シナトラが、モナコのスポーティング・クラブで開催されるチャリティー・コンサートのために、オーケストラを編成してほしいと望んでいるという内容だった。

音楽界の憧れの存在だったシナトラと仕事ができることに胸を躍らせたクインシーは、自ら厳選した55人のミュージシャンを率い、列車でフランス南部のコート・ダジュールへと向かった。

クインシーはシナトラと初対面した日を回想し、彼がごくわずかな指示しか出さなかったと語っている。

「その時のフランクは、私に10回も話しかけなかったと思う。リハーサル・ルームに入ってくると、あの鋭いブルーの瞳で私を見つめてこう言ったんだ。“レコードはもう聴いているだろう。何をすべきかは分かっているはずだ”ってね」

 

『It Might As Well Be Swing』のセッション

そのコンサートは大成功を収め、シナトラはクインシーに「うん、いい仕事だったよ、Q」と賛辞を送った。それでも、その後ふたりが再び仕事を共にするまでには6年の歳月が流れることになる。

1964年、シナトラはクインシーに突然電話をかけ、偉大なるカウント・ベイシーとそのバンドとのスタジオ・セッションで、アレンジと指揮を担当してくれないかと依頼した。スタジオにおけるシナトラのプロ意識と仕事ぶりに感銘を受けたクインシーは、彼がビッグバンド・ジャズ、そしてその演奏を支えるミュージシャンたちに心から敬意を抱いていることを間近で知ることになった。アレンジャーを務めたクインシーはこの現場をこう振り返っている。

「トミー・ドーシーやハリー・ジェイムスの楽団で活動していた頃は、主役は演奏家であり、シンガーはあくまで脇役だった。そんな時代を経験したシナトラは、ビッグバンドとの演奏をほとんど信仰にも近い神聖なものとして捉え、常に深い敬意を払っていた」

クインシー・ジョーンズがアレンジを手がけたこのセッションは、アルバム『It Might As Well Be Swing』としてリリース。収録曲には「Fly Me To The Moon」も含まれ、このバージョンは発表と同時に名演として高く評価された。クインシーにとって、シナトラとの仕事は自身のキャリアを新たな次元へ押し上げる転機となった。彼は2001年に当時を振り返り、「今振り返ると、フランクからのあの電話は、私のキャリアだけでなく人生そのものにおける大きな転機だった」と語っている。

Fly Me to the Moon

このレコーディング・セッションを通じて、シナトラとクインシーは親交を深めていった。ある朝には、シナトラがクインシーのために朝食を作って驚かせたこともあったという。二人の友情はその後も続き、1998年にシナトラが亡くなるまで親しい関係を保ち続けた。クインシーはシナトラを人生の師と仰ぎ、2001年の自伝『Q: The Autobiography Of Quincy Jones』の中で次のように記している。

「フランクは、私にとってまさに理想の存在だった。粋で、正直で、まっすぐな人。そして何より、とてつもない音楽家だった」

Frank Sinatra – The Good Life (Audio) ft. Count Basie And His Orchestra

 

さらなるコラボレーション

1966年、2人はカウント・ベイシー楽団とともに、ラスベガスで録音されたシナトラ初のライヴ・アルバム『Sinatra At The Sands』で再びタッグを組んだ。だが、2人が再びスタジオで仕事をするまでには、さらに20年近い歳月が流れることになる。それが、シナトラの最後のソロ・アルバムとなった1984年の『LA Is My Lady』である。

この作品では、クインシーが豪華なゲスト・ミュージシャンたちを招集。当時51歳だった彼は、1982年にマイケル・ジャクソンの歴史的ヒット作『Thriller』をプロデュースしたことで、地球上で最も熱いレコード・プロデューサーの地位を確立していた時期だった。

L.A. Is My Lady

 

寛大なフランク・シナトラ

2001年にシナトラとの友情を振り返ったクインシー・ジョーンズは、自分に“Q”というニックネームを与えたその人物を惜しみなく称賛した。「フランクは私を新しい世界へ導いてくれた。夢と華やかな暮らし、そして僕たちが心から愛する音楽に満ちた世界へね」と彼は語っている。

またクインシーは、シナトラの人柄についても、その真価はあまり語られていないと強調した。

「500ドルのチップを気前よく渡していたことや、底なしの寛大さ、生活に困窮した演奏家たちの住宅ローンや葬儀費用を肩代わりしていたこと、重病だったジョー・ルイスをテキサスの心臓専門医のもとへ運ぶため、自家用機を貸したこと、そうした話はほとんど語られない。それこそが、彼という人間の本質なんだ」

Written By Charles Waring



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