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子供たちを助ける慈善団体のために資金集めの一環で1962年4月、初めて日本に降り立ったフランク・シナトラの日比谷公園野外コンサート

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1962年の春、当時46歳だったフランク・シナトラは、彼のキャリアの中で最も野心的な世界ツアーを決行した。10週間のスケジュールで予定されたこのツアーは、ホーボーケン出身のシンガーが世界を横断し、東京の日比谷公園やミラノのテアトロ・マンゾーニを含む9ヶ国でコンサートを公演するものだった。過酷で根気のいる活動は飛行機の移動距離だけでも相当なもので、うわさによればシナトラは旅が死ぬほど嫌いであるにもかかわらず、このツアーに全力を注いでいた。

「国と国の間の理解がより深まることを期待して、海外公演に行くことをしばらくの間、計画していたんだ。僕らはすべての国の子供たちを助けることから始められると思ったんだ。そしてもしかしたら、それが彼らの親たちを団結させるきっかけになるかもしれないと思ってね」と、シナトラがアメリカのテレビ番組の司会者、デイブ・ガロウェイに彼の意思を明らかにしたとき、彼は1955年にまで遡った計画をもくろんでいた。

シナトラのツアーの一番の目的は、様々な子供たちのための慈善活動の資金を集めることだった。公演に加えて、シナトラの旅程には児童養護施設や病院の訪問も含まれており、恵まれない子供たち、身体障害のある子供たちの窮状に関する国民の認識を高める手助けとなっていた。彼の決意がどれほど強いものかを示すために、シナトラは自分のポケットマネーでツアーを行った。彼と共に世界中にビッグ・バンドを同行させるという難易度の高い計画を与えられたシナトラは、代わりに厳選されたセッションのエースのみという少ないメンバーとツアーを行うことを決めた。1951年からシナトラと一緒に活動をしている長い付き合いのあるピアニストのビルー・ミラー率いる6人組である。

コンボはアルト・サックス奏者のハリー・クレー(フルートも担当)、ギタリストのアル・ヴィオラ、ヴィブラフォン奏者のエイミル・リチャード、ベーシストのラルフ・ペナ、ドラマーのアーヴィング・コトラーから構成された。ビリー・メイ(シナトラが頼りにするもう一人のアレンジャー)とミラーと一緒に、当時シナトラの新しく創設したリプリーズ・レコードにてスタッフ・プロデューサー兼アレンジャーとして働いていたニール・ヘフティが、シナトラの最も人気の曲を6人のために特別に書いてくれたアレンジを提供してくれた。ミラーはのちにこう思い出していた。「ツアー出発前にあまりリハーサルを行わなかったんだ。だが、最初の幾つかのギグをこなしたあとは、良い音を出す6人組になっていたよ」

1962年のツアーの目的は、子供たちの慈善団体のために資金を調達することであった

シナトラのツアーは最初、アメリカからメキシコ・シティ、そしてそこから太平洋を横断する1万1,000マイルの旅を経て、まだ第二次世界大戦による荒廃から復興して途中だった日本へと渡った。彼を乗せた飛行機は東京へ着陸、日本政府によって迎えられた。後日、政府はシナトラはヘリコプターに乗り、数百人もの孤児たちが鉄道貨車に住んでいる東京の一部へと行った。

1962年4月21日土曜日、シナトラは東京、千代田区にある日比谷公園にて午後の野外コンサートを行った。映像に収められたコンサートは、そのツアーの中でも最高のパフォーマンスのひとつだったことを示している。そして2016年には『World On A String』というタイトルで、5枚ディスク入りのボックスセットのDVDとして初めて公式にリリースされた。

桜の花びらが風に乗る日比谷公園を見渡す東京の皇居に囲まれ、米国空軍のバンドによる20分間の演奏と合わせて、コンサートは午後1時45分から始まった。シナトラは午後2時30分にステージに登場、完璧なパフォーマンスをこなした。彼はリラックスし、彼の背後にいる6人組のクールなサウンドを楽しんでいた。ラスベガスで務めてきたナイトクラブのショーよりももっとフォーマルなパフォーマンスであるにも関わらず、エイミル・リチャードのギラギラしたヴァイブはとりわけ音楽にジャジーな輝きを与えた。

音楽は通訳のいらない世界共通言語だ。そして日比谷公園の観客はシナトラのショーを満喫した。彼は物憂げなロマンチックのバラードの「My Funny Valentine」と「Embraceable You」から活気あるジャズ・スインガーまで18曲、すべて完璧に披露した。指をパチっと鳴らす「The Lady Is A Tramp」と「Night And Day」は注目を浴び、特に「Night And Day」では、彼の声が最高のコンディションであったことを表す最後の長い音をシナトラが歌い上げた。

Edwin O Reischauer 駐日大使から日本語で書いた彼の名前が贈られた。

ショーの間、シナトラはステージの端に座って「All The Way」を歌ったりとかなりリラックスしている。そして休憩し終わったらしたら、今度は「Chicago」の情熱的なカバーを歌い始める。そして心地よい「I Could Have Danced All Night」でコンサートを締めくくる。最後に、6人組がクールでジャジーなエンディングを演奏すると共に、シナトラは子供からのブーケを贈られた。

日本公演を終え、シナトラのツアーは韓国、香港、イスラエル、ギリシャ、イタリア、モナコ、スペイン、イギリス、そしてフランスへと続いた。彼はロンドンへと戻り、『Great Songs From Great Britain』のレコーディングを行い、そしてその後、アメリカの自宅へと戻った。疲労困憊していたにも関わらず、チャリティのためにシナトラは100万ドルの資金を集めその意味でも成功したツアーとなった。

しかしそれだけでは終わらなかった。“会長”とニックネームをつけられた男は、彼のスーパースターのステイタスを永遠にほかの利益のためにも使い続け、彼が亡くなった1998年には、彼が生きている間に、様々な慈善活動のために10億ドルを超える資金を集めていたのではないかと推定された。

Written By Charles Waring


TVドラマ「崖っぷちホテル!」 テーマソング「Strangers In The Night」


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