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デラム・レコードの歴史:サイケデリック・ロックをプログレッシヴ・ロックへと発展させたレーベル

ヒュー・メンドル(Hugh Mendl)は、音楽業界にあって稀有な人物の一人だった。彼はレコード会社の経営に携わる人間でありながら、商業性より芸術性を重視していたのである。
1960年代から1970年代にかけてデッカ・レコード傘下のデラム・レーベル(Deram Records)を率いた彼は、サイケデリック・ロックが成熟しプログレッシヴ・ロックへと発展していく上で大きな役割を果たした。
メンドルはトニー・クラーク、デヴィッド・ヒッチコック、デニー・コーデル、マイク・ヴァーノンといった先進的な考えを持ったプロデューサーたちの力を借りながら、イングランドを代表する数々のプログレッシヴ・ロック・バンドの誕生を後押ししたのだった。また、その中でデラムからは、ほかのレーベルではチャンスすら与えられなかったであろうアーティストたちによる“失われた名作”といえるような作品も数多く生まれた。
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デラム・レコードの理念と成功しなかったボウイ
1966年、当時のロック/ポップ・ミュージックはスウィンギング・ロンドンのカルチャーを中心に回っていた。そのためデッカには、高揚感に満ちた新たなサイケデリック・サウンドの流行に対応できる新しいレーベルが必要だった。そうして9月30日、メンドルをトップとするレーベル、デラムが設立されたのである。そのコンセプトは、活力や自由な発想力を武器とする独立系レーベルと、資金力やコネクションに強みを持つメジャー・レーベルの長所を兼ね備えたレーベルを作ることにあった。
レコード・コレクター誌にリチャード・モートン・ジャックが寄稿した記事には、一つの象徴的なエピソードが記されている。設立の数年後、プロデューサーのデヴィッド・ヒッチコックは、わずかな売上しか見込めないにもかかわらずデラムが前衛的なジャズ・サックス奏者のジョン・サーマンの作品を扱う理由について問うたのだという。するとメンドルは「私たちにやれるなら、それはやるべきことなんだ」と答えた。この言葉は、デラムというレーベルの理念を表しているといえるだろう。
デラムはその歴史の中でさまざまなアーティストと契約を結んできたが、中でも設立間もないころの (現在の視点で) 特に有名な契約は、この方針にピタリと適合するものだった。当時まだ10代だったデヴィッド・ボウイはアーティストとしての成功を目指してもがいていたところを、メンドルとプロデューサーのマイク・ヴァーノンに見出されたのである。歌唱の面でボウイに多大な影響を与えたアンソニー・ニューリーとも仕事をしたことがあったメンドルは、若手シンガーだったボウイとも数多くの共通項があった。
そうしてデラムは「Rubber Band」「The Laughing Gnome」「Love You Till Tuesday (愛は火曜日まで) 」といったボウイの一連のシングルや、デビュー・アルバム 『David Bowie』 (1967年) をリリース。キャリアの初期に当たるこの時期のボウイの作風は、彼のブレイクのきっかけとなった1969年の楽曲「Space Oddity」の壮大なサウンドとはほど遠いものだった。
それは遊び心を感じさせるサイケ・ポップや、キャバレー風のサウンド、オーケストラの演奏を背景にしたニューリー風の芝居がかった歌唱などを、風変わりで、結局のところコマーシャルとは言い難い楽曲に落とし込んだ作風だったのである。
そののちメンドルは、まだ無名だった早熟の若手バンドを、デラムの親会社であるデッカと契約させた。そうすることで、自らも先進的な考えの持ち主であることを示したのである。そしてそれが、ジェネシスのキャリアのスタートとなった。
また、ザ・ムーヴの最初の二つのシングルもデラムからリリースされた。1966年の「Night Of Fear(恐怖の夜)」と翌年の「I Can Hear The Grass Grow(みどりの草原[自然の音が聞こえる] )」である。これらのシングルはデラム・レーベルからそれまでにリリースされたレコードと異なり、英国のヒット・チャートの上位にランクインしている。
ザ・ムーヴの面々は初期のこの時期から、キャッチーなサイケデリック・サウンドにクラシック風の装飾を加えていた。そしてこの手法は、フロントマンのロイ・ウッドがのちに進むこととなる路線をすでに示していたといえる。彼は70年代初頭、グループ後期のメンバーであるジェフ・リンとともにエレクトリック・ライト・オーケストラを結成したのである。
クラシックとロックの融合
メンドルは、デッカとデラムの方針の調整役を担うことも多かった。1967年、彼は前者の支援を得て、クラシックとロックの融合においてどんな業界人にも劣らぬほどの貢献をしてみせた。そうすることで、プログレッシヴ・ロックの誕生に向けた土壌を整えたのである。苦境に立たされたバーミンガム出身のビート・バンドの進化をバックアップししたことが、そのすべての始まりだった――。
ムーディー・ブルースのシンガー/ギタリストであったジャスティン・ヘイワードは、サンフランシスコ・クロニクル紙のJ・ポエットにこう話している。
「2作目のアルバムの制作に着手したとき、俺たちは自作曲をレコーディングしたいと思っていた。一方でデッカは、ドヴォルザークの『New World Symphony(新世界より)』のロック・ヴァージョンを俺たちにやらせて、ステレオ録音の魅力をロック・ファンに伝えたいと考えていた。だけど俺たちには、ヒュー・メンドルという素晴らしいエグゼクティヴ・プロデューサーがついていた。彼は (自作曲を録音するよう) 俺たちの背中を押してくれて、会社にはなんとか話をつけると言ってくれたんだ」
結果として誕生したのは、オーケストラを起用した画期的なアルバム『Days Of Future Passed』だった。同作は現在、史上初のプログレッシヴ・ロック作品として広く賞賛されている。
大物の原型と大ヒット曲
同時期にデラムでは、プログレッシヴ・ロック界の別の大物バンドの原型が形作られていた。レーベルはサイケデリック・サウンドの流行に乗って登場したザ・シンというグループとも契約を交わしている。短命に終わったこのバンドには、ベーシストのクリス・スクワイアとギタリストのピーター・バンクスが在籍。二人はのちにイエスを結成し、ザ・シンのヒッピー的な世界観に替えてジョン・アンダーソンの作り出す宇宙的なビジョンを楽曲に落とし込んでいくようになった。
さらにデラムでは同じ年に、サイケデリアからプログレッシヴ・ロックへの進化の架け橋となる楽曲も生まれた。ロック界屈指の不朽の名アンセムがこのレーベルから生まれたのである――。
プロコル・ハルムのデビュー・シングル「A Whiter Shade Of Pale(青い影)」は、バッハの影響を滲ませたオルガンのフレーズと、抽象的かつ詩的な歌詞を組み合わせた一曲だ。同曲は英米両国のチャートを大いに賑わせつつ、音楽の新たな可能性を示したのである。
1968年、マイケルとピーターから成るジャイルズ兄弟とその友人のロバート・フリップは、デラムから唯一作となる『The Cheerful Insanity Of Giles, Giles And Fripp』を発表。その作風からはほとんど想像がつかないが、彼らは程なくして英国プログレッシヴ・ロック界屈指のこだわりと影響力を持ったグループへと変貌を遂げることとなる。
ボーンマス出身の3人組だった彼らはキング・クリムゾンを結成するまで、野心に満ちたアート・ロック・バンドというより風変わりな英国のお笑いトリオと表現した方が適当なグループだったのである。ドラマー/シンガーのマイケルは、当時流行していたサイケ・ポップに一風変わった捻りを加えたGG&Fの作風についてこう話す。
「不条理で馬鹿馬鹿しい作品にしようと思って作ったんだ。とにかくあのころの俺たちは、そんな風に自己表現をしていた。イギリス人の生活を皮肉っぽく批判的に描き始めたのは、ピーター・クックとダドリー・ムーアや、 (”The Goon Show”の共同制作者の)スパイク・ミリガンだった。彼らは日常生活に目を向けて、それを新しい角度から切り取ってみせたんだ」
プログレの革命:デヴィッド・ヒッチコック
デヴィッド・ヒッチコックは、デラム・レーベルを音楽の新たな領域へと導く上でメンドルが頼りにしていた若手プロデューサーの一人だった。二人の交流が始まったのは、サイケデリア全盛のころだったという。ヒッチコックはこう回想する。
「最低でも一日一回はヒュー・メンドルに会いに行って、最近見たバンドや通っているクラブの話をしていたんだ」
最終的にメンドルは、ヒッチコックにレーベルの専属プロデューサーのポストを与えた。そんな二人の当時のやりとりには、デラムの理念が色濃く反映されている。ヒッチコックはこう振り返る。
「俺は“スタジオに入ったこともないし、レコーディングをやったこともない”と言ったんだ。すると彼は“そんなの関係ないよ。そのためにエンジニアがいるんだから”と言ってくれた」
70年代、デラムのレコーディングの現場でプログレッシヴ・ロックの“革命”を主導していたのはヒッチコックだった。彼は1970年の一年だけでも、イースト・オブ・エデン、ウォルラス、アードヴァークをはじめとするプログレッシヴ・ロック黎明期のグループの作品をいくつもプロデュースしているのだ。
だがそれ以外にも、ほかのプロデューサーの下でプログレッシヴ・ロック風のアルバムを制作していたデラム所属のバンドは少なからず存在した。同じ年だけを見ても同レーベルからは、ガリアード、クラウズ、エッグ、サムワンズ・バンドらのアルバムがリリースされている。
そして、ヒッチコックとキャラバンの実りあるコラボレーションが始まったのは1971年のこと。両者はプログレッシヴ・ロック史に燦然と輝く名作『In The Land Of Grey And Pink(グレイとピンクの地)』から、1976年作『Blind Dog at St. Dunstans(聖ダンスタンス通りの盲犬)』まで長きに亘って手を組んだのである。
キャラバンはそれらのレコードを通じて、カンタベリー・ロックと呼ばれるプログレッシヴ・ロックのサブジャンルを確立。いかにも英国らしいクセのある作風や、ジャズの影響を取り入れた爽やかなサウンド、他の追随を許さない演奏の正確性などがその特徴である。
プログレッシヴ・ロックのサブジャンルという観点で言えば、ヒッチコックはアイルランドでカルト的な人気を誇る同国出身のメロウ・キャンドルが1971年に発表したデビュー作『Swaddling Songs(抱擁の歌)』も手がけている。
このアルバムは、アート・ロックの特徴である複雑な演奏とフォーク・ロックのような柔らかな雰囲気が融合した一作。シンガー/キーボーディストのクローダ・シモンズは、のちにシン・リジィやマイク・オールドフィールドの作品にも参加している。
このほかにも、デラムからは70年代プログレッシヴ・ロック界を代表する重要作が数多く生まれた。その中にはカーンの1972年作『Space Shanty(宇宙の船乗り歌)』 (のちにゴングのギタリストとして名を馳せるスティーヴ・ヒレッジや、エッグのキーボーディストであるデイヴ・スチュワートが参加) のように、あまり知られていない傑作もある。
他方、広く愛される名盤も存在し、ヒッチコックがプロデュースしたキャメルの1974年作『Mirage(蜃気楼)』はその好例といえる。同作はグループのキャリアのみならず、プログレッシヴ・ロックというジャンル全体を代表するアルバムとみなされているのである。
『Mirage』のようなアルバムは長い年月をかけて高く評価されるようになったが、リリース当時に全英チャートを賑わすことはなかった。その点を認識しておくのは重要だ。デラムが収益性にさほど縛られることなく優れた芸術に出資することができたのは、聡明なリーダーと協力的な親会社の存在があったおかげだろう。メンドルはレコード・コレクター誌にこう明かしている。
「誰と契約するかという点について、上層部から口を出されることはほとんどなかった。そうしたグループの大半は、少ない費用でレコーディングをすることができた。だから私たちは、契約すべきだと考えたグループとは自分たちの裁量で好きなように契約できたんだ」
そうした判断が商業的な成功に結びつく (ムーディー・ブルースやプロコル・ハルムなど) こともあれば、そうでないこともあった。だがいずれの場合も、従来的な音楽スタイルから大きく飛躍し、ロックの新たな可能性を切り開く作品の誕生へとつながったことは確かだ。
キャラバンの『In The Land Of Grey And Pink』や、メロウ・キャンドルとサムタイムズ・バンドのデビュー・アルバムなどは、デラムがプログレッシヴ・ロック界に多大な功績を残したことの証左なのである。
Written By Jim Allen
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