ウッドストック以降:現代のミュージック・フェスティバルはいかに変貌を遂げたか

7月 29, 2017


ウッドストック以降:現代のミュージック・フェスティバルはいかに変貌を遂げたか

音楽フェスティバルは、これまでに一度も消えたことはない。ヘッドライナーの名前は時代と共に変化するが、音楽を愛する者たちは常に野外での静養を熱望している。自分たちのお気に入りのバンド、そして10万人のオーディエンスと共に。

約50年が経った現在でも、この世で最も伝説的な音楽フェスティバルは、1969年8月に3日間に渡るピース(平和)、ラヴ(愛)、ミュージック(音楽)、マッド(泥)の祭典であったウッドストックだろう。史上最高の最も有名なフェスティバルとして知られているだけでなく、ウッドストックは恐らく最も優れた形で記録されてきた。例えば、1970年の春までの時点で、その前年のウッドストックを見逃した誰もが彼らの時代では大作だったウッドストックを記録した3時間に及ぶ映画とLP3枚組のサウンドトラックで、このフェスの興奮を体感することができた。そして、2009年に公開された同映画の最新記念版では、更に新たに2時間分の映像を追加し、同年には6枚組ボックス・セット『40 Years On: Back To Yasgur’s Farm』も発売された。このボックス・セットでは当時ステージ上に登場したアーティストの順番通りに楽曲が収録されているため、50’sリバイバル・バンドのシャ・ナ・ナがジミ・ヘンドリックス登場の前の枠で演奏した滑稽な箇所も収録されており、今やすっかり喜ばれている。

Black-Sabbath-California-Jam_V2

当時の大規模なフェスティバルは必ずしもウッドストックだけではなかったが、ウッドストックは試金石として今の時代にも残っている。ウッドストックが人々の人生を変え、世界を変形させたという神話に、異議を唱えるプロモーターがいるだろうか? 1974年4月に開催されたカリフォルニア・ジャムのような大規模なライヴ・イベントは、文化面におけるインパクト、そして少なくとも商業面においてウッドストックを超えること目指した(その結果、商業面に関しては容易に成功を残した)。

そして、アップル社の共同創業者のスティーヴ・ウォズニアックが1982年~1983年に企画したUSフェスティバルはユートピア的なハイテク系未来への方向性を示し(このフェス名は‘個人主義(me)’世代の終焉への示唆を意図した)、ウッドストックがそうであったように彼らの世代を定義することを目指した。彼らがこれを成し遂げたかどうかは議論の余地があるが、少なくともポリスとトーキング・ヘッズは最高のライヴ・セットを披露したのである。

その後、90年代前半はクラブ・レベルでの偉大なバンドとMTV周辺における新たな文化をもたらし、野原へと(オーディエンスが)殺到した昔の日々をまるで時代遅れのように思わせた。だが、ちょうど音楽フェスが下火になったように見えた頃、ウッドストックが再びやって来た。

1969年にオリジナル版のウッドストックの舵取りをしたマイケル・ラングが共同プロデュースしたウッドストック’94は、ある意味ではオリジナル版の復活であった。ジョー・コッカーさえも1969年と同様に初日に登場し、かつて彼自身のウッドストック’69での演奏がアンセムとなったザ・ビートルズのカヴァー 「With A Little Help From My Friends」の演奏で幕を開けた。1994年開催の同フェスは、1969年のオリジナル版の車で1時間は要するベセルにあるマックス・ヤスガーの農園の会場よりも実際にウッドストックの街に近いニューヨーク州のソーガティーズにて行われた。そして、この1994年版ウッドストックでは、溢れかえった観客が会場のフェンスを簡単に飛び越えられることを知り、またもやミスによって無料フェスティバルになってしまった。また、オリジナル版ウッドストック同様に大勢の裸になった観客たちが芝生の上で浮かれ騒ぎ(ペイ・パー・ヴューのテレビ・カメラは映像に押さえることができ、とにかく喜んだ)、その後には嵐から泥んこのダンスへと続いた。1994年のウッドストックのステージに登場したデヴィッド・クロスビーは、クロスビー、スティルス&ナッシュによる60年代後半のアンセム曲を演奏する前に「また最初からやり直しているみたいで、こりゃまるでデジャヴだな」とジョークを飛ばした。

ウッドストック’69が精神的に反戦運動と足並みを揃えていた一方で、ウッドストック’94は正式にグリーンピースと手を組み、企業の強欲さをこの時代における最大の不正と明らかにした。グリーンピースは同フェスの会場に‘エコ・ヴィレッジ’を設置し、太陽熱暖房とリサイクリングの可能性を立証した。だが、更に肝が据わったことに、同団体は企業の困り者たちを直接非難した。まず、フェス開催前のプレス・リリース内で、グリーンピースは米タイム誌が汚染された製紙工場を使用していることを狙い撃ちした。非難の矛先は同フェスティバルのスポンサーであったペプシ社にまで飛び火し、リサイクル活動を主張していた同社が実際はペットボトルをリサイクルせずにアジアのごみ埋立地に送っている事実を暴いた。このような直接的な行動主義はその後登場したロラパルーザやその他フェスにも組み込まれた。それは部分的にウッドストックのカウンター・カルチャー的ルーツに賛同するものだったが、革新的な団体等に対してコンサート会場のロビー・スペースを無償で貸したり、ステージ上から彼らに賛辞を送っていたU2やブルース・スプリングスティーン、R.E.M.等の現代のスター達の影響も示していた。

Woodstock-94-Crowd

また、ウッドストック’94は、観客側が期待する内容の変化を露呈した。例えば、彼らが好んで選んだドラッグである悪名高きブラウン・アシッドは、主としてアルコールに代わった。また、約35万人のオーディエンスは、何処かにステージがあるというような大まかすぎる情報だけではもはや満足せず、少なくともバンドのライヴを観たり、聴いたりするための努力次第の可能性を望んだ。ウッドストック’94では、ステージを2つにすることでそれらの機会を倍にし、出演アーティスト達が登場する間の長い遅延を最小限に減らした。また、1969年以降には野外コンサート用のアンプも登場した。この他、ライヴ会場前の通りを隔てた向かい側に並んだ地元の屋台からハンバーガーを買うこともなくなり、音楽ファンたちは高価な食事とミネラル・ウォーターを購入するためにクレジット・カードをライヴ会場に持参した(そのカードが泥まみれの裸で踊っている間に一体何処へ消えたのかは、誰にもわからなかったが)。

Woodstock_1994_CD_Cover

当時の皮肉屋たちは、ウッドストック’94のことを単なる金儲けであり、観客の収拾がつかなくなるだろうと文句を言った。ところが、大まかにはそんなことにはならなかった― 少なくとも、1999年に再度ウッドストックが企画されるまでは。差し当たり1994年版ウッドストックでは、平和(ピース)と愛(ラヴ)がなおも流れ、コンサートに訪れた2世代のオーディエンスたちはお互いの音楽的趣味について問題なく語り合っていた様子だった。例えば、ベビー・ブーマー(*訳注:第二次世界大戦後の出生率が上昇した時期に生まれた世代)にはボブ・ディランやトラフィックが、ジェネレーションX勢(*訳注:1960年初頭から1970年台に生まれた世代)にはメタリカナイン・インチ・ネイルズが、そして全員にピーター・ガブリエルエアロスミスというように。だが、このフェスで突然ブレイクしたスターは、暴風雨が降り始める中で演奏し、ライヴ・セットを泥を投げ合う狂態へと変えたグリーン・デイであった。そして、この光景はそれから何年もグリーン・デイのライヴで繰り返し続いた。

一方、もうひとつのフェスティバルが新世代のウッドストックとなろうとしていた。全く控えめではなかったジェーンズ・アディクションのフロントマン、ペリー・ファレルが、自身のバンドにきちんとした別れを告げるために(解散に合わせて)ロラパルーザを立ち上げたのだ。1991年に開催された初のロラパルーザは、ジェーンズ・アディクションのラスト・ツアーも兼ねていたのである(その6年後の再結成で再び出演するまで)。その初回ラインナップは、ジェーンズ・アディクションにインスピレーションを与えたバンドや彼らが過去にツアーしたバンド、それから彼らがただ好きなバンドだ。例えば、当時はまだスーパースターではなかったが、急速にスターダムに近づいていたナイン・インチ・ネイルズ、アイス-Tが結成した悪名高きメタル・バンド、ボディ・カウント、リヴィング・カラー、スージー&ザ・バンシーズ、ヴァイオレント・ファムズ等が集結した。

ロラパルーザが90年代における‘オルタナティヴ’カルチャーの類義語となった一方で、その定義は包括的なものだった。そこには常にメタル・バンド、ラップ・アクト、そして駆者的なパンク・バンド(1996年開催のロラパルーザに参戦するために解散を数か月遅らせたラモーンズを含む)が大抵いた。恥ずかしいことに、ブラック・アーティスト系の楽曲オンエアがまだ手薄かった90年代中盤のオルタナ系ラジオ局においては恐らくジョージ・クリントンを聴くことはできなかったかもしれないが、1994年開催のロラパルーザではジョージ・クリントンとPファンク・クルーを、ジョージ・クリントンのスピリットを受け継ぐような後継者、ビースティー・ボーイズと同じステージで観ることができたのだ。ロラパルーザには独自のドラマと陰謀があり、その多数は1995年の一番ワイルドだった時代にホールのメンバーだったコートニー・ラヴに関わる事件だった。同ツアーにおけるコートニー・ラヴの偶発的事故には、ビキニ・キルのキャスリーン・ハンナとの殴り合い(後にキャスリーン・ハンナはコートニー・ラヴを告発)、ヘッドライナーのソニック・ユースとの口喧嘩、そして何をしでかすかわからない危険なパフォーマンスの数々が含まれる。また、問題を抱えたシネイド・オコナーのツアー中盤における突然の降板も、ロラパルーザ’95を最もドラマティックなフェスティバルにした出来事だった。

だが、ロラパルーザは単に音楽のフェスティバルという訳ではなかった。すなわち、ペリー・ファレルは、相当エッジの利いたX世代の美学に対して十分鋭く、この世代に向けてそれを映し出し、マーティングを上手く成し遂げたのである。例えば、ロラパルーザはコンサートへ出かけるオーディエンスがヴァーチャル・リアリティ・ゲームを発見する最初の場所のひとつであったため、どれだけ多くの未来のテック系リーダーたちにインスピレーションを与えたかを推測できるだろう。また、同フェスのプロデューサーたちも革新的な社会的大義を抱いており、各公演先で様々な団体が使用するテーブルや、地元のインディー・バンドが初ブレイクを果たせるような小ステージを設置した。また、観客にショックと気味の悪さのどちらか、もしくは両方を与えたジム・ローズ・サーカス・サイドショーの過激なサーカス芸人たちのことを忘れられる者は僅かだろう。 断続的な数年間を経て、現在でもロラパルーザは儲かるフェスティバルとしてシカゴ及び海外で続いている。そして、90年代においては人生の節目となるような本格的なイベントだった。

Merry-Prankers-Further-Bus
一方、一部のオーディエンスにとって90年代はオルタナティヴ・カルチャーが全てはなく、ジャム・セッションの時代であった。例えば、グレイトフル・デッドのファンたちは、コンサートがコミュニティ体験の場であるという概念に当時から既に親しんでいた。つまり、デッドヘッズたちには、駐車場でのパーティーはグレイトフル・デッドのライヴ・パフォーマンス同様に重要なイベントだった。グレイトフル・デッドの世界は、1995年のジェリー・ガルシア他界後は決して同じではないが、だからといってパーティーが終わった訳ではなかった。1996年の夏までに、残りのメンバーたちは一時的にバンド名をジ・アザー・ワンズと再命名し、ケン・キージーとメリー・プランクスターズ(訳注:ケン・キージー率いるサイケデリック集団)の伝説的なヒッピー・バスの看板に書かれたスペル・ミスから名付けられたファーザー・フェスティバルで再びツアーに出ることになった。ジェリー・ガルシア亡き後に新たに始めた苦しみが幾分あったものの、ファーザー・フェスティバルは生き続けるデッドの音楽と駐車場での集いを正式に世に知らせた。

Phish-Big-Cypress

多くのデッドヘッズが選ぶ現代のバンドとして知られるヴァーモント出身バンドのフィッシュは、一連のフェスティバルをハイ・コンセプト(=分かり易く聴衆に訴える内容)で進め、大抵の場合は空軍基地やネイティヴ・アメリカンの保護地区といった風変りな場所で開催した。様々なバンドが参加するスタイルではなく、フィッシュは週末にかけて自分たちのライヴを何セットも披露し、エア・ショー、巨大なアート・インスタレーション、サーカス団をはじめとした沢山の環境的ハプニング(訳注:現代芸術において予定されていた効果と偶然的効果を結合しようとする聴覚的、視覚的な表現方法)でライヴ会場の雰囲気を変えた。更に、フィッシュはフロリダ州でビッグ・サイプレスという名のミレニアル・フェスティバルで、彼らの史上最長ライヴを超えるフェスを開催した。1999年大晦日に行われた彼らの年末カウントダウン・ライヴでは、1つのバンドが(そして、恐らくどのロック・バンドより)史上最長の演奏時間を記録したのだ。彼らは大晦日の深夜0時になる少し前からライヴをスタートし、夜が明けるまで7時間半ぶっ通しで演奏を続けたのだ。ちなみに、このライヴは、この週末に彼らが演奏した5セット分の単なる1ステージであった。

ジャム・バンド族には、彼ら独自の旅するフェスティバルがあった。ロラパルーザへの返答としてブルース・トラヴェラーが1年後の1992年に立ち上げたHORDE (Horizons Of Rock Developing Everywhere)ツアーは、オルタナティヴの中の更なるオルタナティヴとなった。ジャム系ムーヴメントのシーンに関連していた大半のバンドはHORDEフェス・ツアーの7公演で演奏したが、その中にはフィッシュやワイドスプレッド・パニックのような自由な流れに身を任せる即興演奏者たちから、メリッサ・エスリッジやブラック・クロウズのようなトラディショナルなロッカー勢まで様々なジャンルを網羅していた。HORDEにおける音楽の定義に関しては、そのラインナップにベックニール・ヤング など何処にでも調和し、そして何処にも調和しないような2人の特異なアーティストが加わった1997年に白紙に戻った。

90年代中盤には、今日までずっとパンク系フェスとしてお馴染みのワープド・ツアー(現在の正式名はヴァンズ・ワープド・ツアー)も誕生した。ワープドは比較的雰囲気がゆったりとしており、ファミリー向けに設定されたフェスティバルで、新人からベテラン勢までのパンク系とスカ系バンドを同様に披露することでニッチなマーケットを見出した。スタートから22年が経過した現在、これは現在存在するツアー系フェスティバルの中で最も長く続いているものであり、90年代に親たちを引きずってライヴ会場に来ていたかつての若いパンクスたちは、今や自分の子供たちを連れて同フェスに来場している。

Lilith-Fair-1997

もし上記ラインナップの男濃度が重いようであれば、これに対する解毒剤もあった。あまりにも長い間、女性たちが音楽業界で隅に追いやられてきたと感じたカナダ人ソングライターのサラ・マクラクランは、1997年にリリス・フェアを立ち上げた。3年間に渡りツアーが開催された同フェス(2010年に一時的に復活)は、女性アーティストや女性メンバーが率いるバンド、例えば、スザンヌ・ヴェガ、シェリル・クロウ、トレーシー・チャップマン、インディゴ・ガールズのように、その多数は当時商業的成功を得ていたグループのみをフィーチャーし、複数のステージ、順番に登場するアーティスト・ラインナップ、一日中開催のイベント等のロラパルーザ式モデルを駆使した。サラ・マクラクランの直覚による参加アーティスト選びは静かなシンガーソングライター系に傾いていたため女性パンク・バンド勢からの文句を受け(特にバンドのL7 はリリス・フェアのパサデナ公演会場で「もうウンザリ?飽きた?なら、L7を聴いてみて」と書かれたバナーを翻した。それによって1997年から1999年にかけてトップクラスだった全米ツアーの興行収益を保持できなくなり、後半のリリス・フェアでサラ・マクラクランはリズ・フェアやザ・プリテンダーズ、ルシャス・ジャクソン等のよりエッジのあるアーティスト勢を呼び込んだ。

そして、1999年にはウッドストックがもう一度復活したが、残念ながらこの時は、その30年前に開催されたザ・ローリング・ストーンズの悪名高きオルタモント・フリーコンサートに近いものとなった。出演アーティストのラインナップはこの時もワイルドなほど多岐に渡る内容であったが、その大半がKORNやブッシュ、リンプ・ビズキット、メタリカ、メガデス等のヘヴィ系アーティストだった。そして、ウッドストック’99では昔のヒッピー・マジックは効かなかったのである。混み過ぎた会場や壊れたトイレ設備、そして気温が37.7度以上に急上昇する中、観客はその怒りを会場施設、そして互い同士にぶつけた。暴動が起きた他、熱射病での死亡が1件、そして少なくとも2件の性的暴行事件が報告された。公平のために言うと、暴力に関わった人達はフェスに来場した40万人のうちの恐らく数百人のみかもしれないが、数百人で大きな損害を与えることもあり得る。その犠牲となったひとつがウッドストックそのものであり、それ以降もう一度でウッドストックが実現することは決してなかった。そして、まさに間違ったタイミングで 「Break Stuff」を演奏していたリンプ・ビズキットの評判にもダメージを与えてしまった。

その後、ニュー・ミレニアム、2000年の到来と共にトップに君臨するフェスティバルとしてボナルーとコーチェラが登場した。ボナルーのルーツはニューオーリンズにあり、もともとはこの街で毎年開催されるジャズ&ヘリテージ・フェスティバルの補助として、このフェスを始めたスーパーフライ・プロダクションのチームが夜遅い時間に行われるジャム・セッションに重点を置いたライヴを宣伝したところから源を発している。ボナルーはテネシー州にある広大な公園用地で開催されるが、2002年の同フェスティバル開始時にはニューオーリンズのインスピレーションが深く流れていた。初期のラインナップはクレセント・シティ(訳注:ニューオーリンズのニックネーム)のヒーローやジャズ・フェスお馴染みのアーティストを中心に構成され、フェスティバル名までもが愛すべきドクター・ジョンのアルバム名『Desitively Bonnaroo』から由来する、最高に楽しいことを表すドクター・ジョン語である。

Bonnaroo

ヘッドライナーが大物アーティストになっていくにつれて観客数は10万人単位まで増えていったが、ボナルーは舞台転換時にウォータースライドで水を浴びたり、ハッキーサック(訳注:豆などを詰めたお手玉のような袋をサッカーのリフティングのように足で蹴って遊ぶスポーツ。別名フットバッグ)で遊んだり、ゆったりした良いヴァイブスをなんとか守り続けた。しかも、ヘッドライナーが2008年度のメタリカや2009年度のナイン・インチ・ネイルズ等、ヒッピー系やジャム系の領域外から遠く離れていた時でさえも、そのヴァイブスは広がっていた。2015年に複合企業のライヴ・ネイションがボナルーの企業支配権を獲得し、ヘッドライナーがU2やレッド・ホット・チリ・ペッパーズ等メインストリームのスーパースター勢に一変した時は眉をしかめる者もいた。だが、アーティスト・ラインナップのずっと下の方を見ると、プリザヴェーション・ホール・ジャズ・バンドやルイジアナのロック・バンド、スウィート・クルードのように、このフェスティバルの音楽的ルーツに現在も応えているバンドの名前を見つけることができる。

しかしながら、現在アメリカで最も勢いのある最大のフェスティバルはコーチェラだ。毎回で9万人の集客力を誇り、大勢の音楽ファンにとって1年間で最も盛り上がるイベントである。何とも皮肉なことに、間接的に同フェスティバルは、大規模なイベントやロック・スターダムに関して昔から複雑な感情を抱いていたパール・ジャムによって始動した。90年代初頭に起きたパール・ジャムとチケットマスターとの争いの間、バンド側はカリフォルニア州インディオにあるエンパイア・ポロ・クラブを代わりのコンサート会場として使用した。これが非常に上手く行き、ウッドストック’99開催から3ケ月後の1999年10月には、ウッドストックよりも平和できちんと運営された対抗馬として、ウッドストックと同じ「会場でコーチェラが開催された(両フェスのヘッドライナーとして、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンがフィーチャーされたが)。そして、非常に人気の高いヘッドライナー(2017年は出産するビヨンセに変わって登場したレディー・ガガ、レディオヘッドとケンドリック・ラマ―の3名)の他に夜中のレイヴ・イベントや話題のイギリスやヨーロッパのアーティストをフィーチャーすることで、年月を経てコーチェラはメインストリームでありながら同時にカッティング・エッジであるという離れ業を見せた。

昨年コーチェラのプロデューサーたちは、同じ会場をベビー・ブーマー世代にとっての究極のフェスティバルを目指して立ち上げたデザート・トリップで使用し、かなりの成功を収めた。ザ・ビートルズのメンバー、ザ・ローリング・ストーンズ、そしてボブ・ディランを同じ週末に集めたら、ある層を象徴することだろう。懐疑派により茶化されて‘オールドチェラ’と揶揄されたデザート・トリップは、音楽史に残るちょっとした話題をいくつか提供して終えた。例えば、ニール・ヤングがポール・マッカートニーとジャムったり、ボブ・ディランが長いこと封印していた60年代の楽曲を引っ張り出したり、ザ・ローリング・ストーンズは最初で最後となるであろうザ・ビートルズのカヴァー「Come Together」を披露した。昨年10月に開催された同フェスはあまりにも成功したため、レッド・ツェッペリンの再結成の噂が飛び交うほどだったが、これは残念ながら実現しなかった。そして、デザート・トリップは2017年版は開催されないことを発表した。

フェスティバル・カルチャーは、今年バハマで開催されたファイアー・フェスティバルが歴史的な大失敗に終わった際に一時的に急降下した。チーズだけが挟まったサンドウィッチと未完成のステージのために熱帯地域までオーディエンスを移動させることを試みるフェスティバル開催者は、今後は決して出てこないだろう。だが、音楽的に多岐に渡り、きちんと運営されたフェスティバルは活動拠点となるので、外に出て是非大いに満喫して欲しい。そして、忘れちゃいけない点は、ブラウン・アシッドを避けることだ。

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