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【追悼】ブラック・サバスのオジー・オズボーンが76歳で逝去。その功績を辿る

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Photo: Martyn Goodacre/Getty Images

ブラック・サバス(Black Sabbath)の共同創設者で、ソロ・アーティストとしても数々の伝説を残した“プリンス・オブ・ダークネス”こと、オジー・オズボーン(Ozzy Osbourne)が2025年7月22日に76歳で逝去した。

その彼の追悼として、彼の生涯と功績をご紹介しよう。

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“悪魔”であり“神”でもあった“悪童”

1970年に発表されたブラック・サバスのセルフタイトル・アルバム『Black Sabbath』で、後に“ヘヴィ・メタル”として知られることになるアグレッシブな音楽スタイルの先駆けとなったもっとも、“ヘヴィ・メタル”というジャンル名がブラック・サバスや他のバンドに広く受け入れられるようになるのは、それから約10年後のことだった。それでも、ブラック・サバスによる初期6作は現在でも“ヘヴィ・メタル”の代表作として評価され続けている。

ソロ・アーティストとしてのキャリアにおいても大成功を収めたオジーは、立て続けに3作のヒット・アルバムをリリースし、「Crazy Train」「Flying High Again」「Mr. Crowley」「Bark at The Moon」など、ハード・ロックやメタルの名曲を生み出していった。晩年には、「Perry Mason」「Mama, I’m Coming Home」「No More Tears」といったメロディアスな楽曲でも高い評価を受けた。

エンターテインメントにおける彼の功績は、他のアーティストを凌駕している。アルバムの総売上は数千万枚にのぼり、ツアーは常に高収益を記録。グラミー賞を3度受賞(うち2つはブラック・サバス、1つはソロ名義)、さらにMTVで放送されたオズボーン一家のリアリティ番組『オズボーンズ』ではエミー賞も受賞している。

ロックの殿堂入りも果たし、自身の名を冠したメタル・フェス「オズフェスト(Ozzfest)」も開催するなど、その影響力は計り知れない。優れたソングライターであり、卓越したパフォーマーであり、多くの後進に影響を与えたリリシストであると同時に、“プリンス・オブ・ダークネス”の異名でも知られ、数々の破天荒な言動でも伝説となった。

ブラック・サバス時代、そしてソロ活動の大部分を通して、オジー・オズボーンは薬物とアルコールへの依存、そして過激な言動によって“悪魔”のように扱われる一方、“神”のように崇拝されてもいた。その破滅的なライフスタイルは、ツアーの欠席や公演キャンセル、複数回に及ぶリハビリ施設への入所といった代償を伴った。

モトリー・クルー、メタリカ、ヴァン・ヘイレンといったバンドのメンバーたちと同様に、彼もホテルの部屋や車を破壊する騒動を幾度となく起こしたが、その“常軌を逸した”度合いは群を抜いていた。そして1979年、予測不能な振る舞いが原因で、ついにブラック・サバスを解雇される。しかしその後、当時ブラック・サバスのマネージャーを務めていたドン・アーデンの娘であるシャロン・アーデンの支えを受け、更生への道を歩み始める。シャロンはやがて彼の新たなマネージャーとなり、そして妻ともなった。

ソロとして復活を遂げたオジーは、かつて自分を解雇したブラック・サバスを人気面で上回るほどの存在となった。そして、ランディ・ローズ、ジェイク・E・リー、ブラッド・ギルス、ザック・ワイルド、ガス・Gといったギター・ヒーローを次々と見出し、育て上げた。だがそのキャリアの復活は、彼の“ワイルドマン”としての側面を落ち着かせるどころか、むしろさらに拍車をかけた。

ファースト・ソロ・アルバム『The Blizzard of Ozz』の発売記念パーティではハトの頭を噛みちぎり、セカンド・アルバム『Diary of a Madman』のツアー中にはコウモリの頭を噛みちぎるという事件も起こした。また、妻のドレスを着たままサンアントニオのアラモ記念碑に放尿して逮捕され、同地でのライヴが1992年まで禁止された(のちに、謝罪とともに記念碑保存のために1万ドルを寄付している)。さらには、アルコールによる記憶喪失状態のなかで妻シャロンの首を絞め、精神病院に入院させられたこともあった。

オジーは著書『Louder Than Hell: The Definitive Oral History of Metal』のインタビューの中で次のように語っている。

「俺は“やるか、やらないか”の人間として生まれてきた。俺にとっては、“1つ”は多すぎるし、“10”では足りない。俺は本当にたくさんのバカなことをしてきた。でも学んだことが一つある。バカなことをすれば、必ずバカな結果が待っているってことだ。バカなことをして違う結果が出るわけがない。飛び降りて、“あ、これはバカだな”って思った瞬間にはもう手遅れで、墜落して燃え尽きるしかなかったりするんだよ」

その生涯:バーミンガムでの生い立ち

1948年12月3日、オジー・オズボーンことジョン・マイケル・オズボーンは、ジョン・トーマス・オズボーンとリリアン・オズボーンの6人の子供のひとりとして、英バーミンガムのマーストン・グリーン産科病院に生まれ、第二次世界大戦の爪痕が色濃く残る同市にあった二部屋だけの小さな家で貧しい幼少期を過ごした。

彼は、のちにブラック・サバスのギタリストとなるトニー・アイオミと同じ小学校に通っていた。オジーより1歳年上のトニーは、年下だった彼の同級生に威圧的だったことから、当時のオジーにとっては少し怖い存在だったという。ふたりが音楽でつながるのは、それから約10年後のことだ。

学校では、流行遅れのお下がりの服を着ていたことや、診断こそされていなかったもののディスレクシア(読み書き障害)により学習に苦しんでいたことから、周囲からからかわれることが多かった。学業は決して優秀ではなかったが、ミュージカルの舞台に出演したり、観劇するのが好きだった。そしてある日、ラジオから流れてきたザ・ビートルズの「She Loves You」を聴いたとき、彼の中でプロのミュージシャンになりたいという思いが芽生えた。

She Loves You (Remastered 2009)

15歳で高校を中退したオジーは、建設業、配管工、金型工場、そして屠殺場など、さまざまなブルーカラーの仕事に就き、屠殺場では実際に牛を屠殺する作業も担当していた。1967年、彼はベーシストのギーザー・バトラーとともに最初のバンド、レア・ブリード(Rare Breed)を結成。

程なくしてこのバンドが解散すると、オジーは地元の楽器店に「OZZY ZIG NEEDS A GIG(オジー・ジグ、ギグ求む)」と書いたチラシを出した。この広告に応じたのが、ドラマーのビル・ワードとThe Rest や Mythologyといったバンドを組んでいたギタリストのトニー・アイオミだった。

 

ブラック・サバス時代:結成から解雇まで

簡単なジャム・セッションの後、オジー・オズボーン、ギーザー・バトラー、トニー・アイオミ、ビル・ワードは、スライド・ギタリストとサックス奏者を加えて“ポルカ・タルク・ブルース・バンド(The Polka Tulk Blues Band)というバンドを結成したが、より洗練された編成と統一感あるサウンドを求めていた4人は、バンドを解散し、アース(Earth)として再出発することになる。

当初はプログレッシブ・ブルース・バンドだったが、そこから生まれた「Wicked World」という楽曲が、それまでの曲よりもはるかに陰鬱で不吉な雰囲気をまとっていたことから、アースはよりヘヴィなロック・スタイルを探求するようになる。重々しいビート、歪んだパワーコードのリフ、マイナー調のフック、そしてオジーの鼻にかかった歌唱がその核をなしていた。

Earth – Wicked World

アースは定期的にライヴを行っていたが、ある日ブッキング担当者が彼らと同名の別バンドと混同したため、(間違ってブッキングされたアースは、憂さ晴らしにダンスを楽しみたい着飾った客でいっぱいのクラブを大いに落胆させた)、彼らはバンド名をブラック・サバス(Black Sabbath)へと改名する。この名は、ボリス・カーロフ主演の1963年の同名のホラー映画『ブラック・サバス 恐怖!三つの顔』(原題:Black Sabbath)に由来している。

ブラック・サバスのデビュー・アルバム『Black Sabbath』は、1970年にわずか2日間で録音され、現在でもヘヴィ・メタルの金字塔と広く見なされている。アルバムは、雨音と鐘の音から始まり、重く歪んだギター・リフ、のしかかるようなビート、オカルトを題材にした歌詞、そして「トライトーン(減五度)」と呼ばれる不穏な音階によって、不気味で重厚な音の要塞のような作品に仕上がった。

Black Sabbath (2009 Remaster)

その後、急速に人気が拡大していた彼らは、同年9月にセカンド・アルバム『Paranoid』をリリース。ツアー中に書いた曲とスタジオで即興的に生まれたアイディアを組み合わせて短期間で完成させた同作からは「Paranoid」「Iron Man」「War Pigs」など、彼らの代表的なヒット曲が生まれた。

BLACK SABBATH – "Paranoid" (Official Video)

1971年、オジー・オズボーンはバーミンガムのナイトクラブでセルマ・ライリーと出会い、すぐに結婚。ふたりの間にはジェシカとルイスという2人の子どもが生まれた(ルイスは後に、オズボーンの2作目のソロ・アルバム『Diary of a Madman』のアートワークにも登場している)が、オジーのブラック・サバスへの全身全霊の献身により、この結婚は長く続かず、彼の収入の多くは養育費に充てられることになった。

アメリカでのツアーにおいては、デビュー作が全米12位を記録した成功を背景に、メンバーたちはコカイン、LSD、その他の薬物、グルーピー、そして浴びるほどの酒など、ロック界特有の奔放な享楽に触れ、とりわけオジーはそれらを貪るように享受した。それでも約5年間、この悪習が猛スピードで突き進むバンドの勢いを鈍らせることはなく、ブラック・サバスは作曲者・演奏者としてさらなる進化を遂げ、過酷なツアーをこなしつつ、さらに4作のメタルの名盤を生み出していった。

しかし1976年、過密なスケジュールが限界に達し、7作目の『Technical Ecstasy』がリリースされた頃には、バンドの集中力と結束力が明らかに失われていた。旧マネージメントに金を搾取され、商業主義やパンク・ロックが台頭する時代の中で、彼らはより大衆的な作曲スタイルに挑戦し始めた。軽快なキーボードやパワー・ロック風のリフ、そしてよりソフトなメロディを取り入れたものの、これらの変化はファンとの乖離を生む結果となった。

It's Alright (2009 Remaster)

皮肉にも、8作目のスタジオ・アルバム『Never Say Die!』がオジーとブラック・サバスの別離を決定づけることになる。1978年、このアルバムを制作していた当時、メンバーは自分たちの曲が良いのか悪いのかさえ判別できないほど混乱していた。やがて、ブルース風のリックやジャズっぽい装飾音をいくつかの無難な楽曲に散りばめてアルバムをまとめあげるが、印象にも残らず、説得力にも欠けた本作はすぐに忘れ去られてしまう。

その後のツアーも悲惨な結果に終わり、オジー・オズボーンはバンドから解雇を言い渡される。理由は、リハーサルに現れなかったことや、泥酔によりまともに歌えない状態が続いていたことだった。ブラック・サバスは後任に元レインボーのシンガー、ロニー・ジェイムス・ディオを迎えた。ロニーはその後30年にわたり、何度かバンドに出入りすることとなる。

Never Say Die (2009 Remaster)

ソロとしての再出発と妻シャロンの支え

オジー・オズボーンには、まだ大衆的な人気、ソングライティングの才能、そしてショーマンシップの技量があることを認識していたシャロン・アーデン(ブラック・サバスのマネージャー、ドン・アーデンの娘)は、オジーと親交を深め、彼を支えた。

彼の自虐的なユーモアのセンスにとりわけ心を打たれた彼女は、行き過ぎた生活をやめてステージに復帰するようにオジーを後押しした。彼はその助言を受け入れ、シャロンはオールスター編成のバンドの結成に尽力する。

それから程なくして、オジーは元クワイエット・ライオットのギターの名手、ランディ・ローズと共にスタジオ入りし、ソロ・デビュー・アルバム『The Blizzard of Ozz』をレコーディングした。「Crazy Train」「Mr. Crowley」「I Don’t Know」「Suicide Solution」といったヒット曲が収録されたこのアルバムは、イギリスでの発売から6ヶ月後となる1981年3月にアメリカでリリースされ、全米チャート21位を記録。その後数十年にわたりメタルの名盤として定着し、最終的に全米で500万枚以上を売り上げている。

Ozzy Osbourne – Suicide Solution (Live)

 

ハトとコウモリ事件

名声と共に、物議も巻き起こった。新しいレコード会社“ジェット”でのプロモーション・イベントに不本意ながら参加したオジーは、その“野獣”のイメージをさらに強めることとなった。彼は、著書『Louder Than Hell: The Definitive Oral History of Metal』の中で当時の出来事をこう振り返っている。

「建物に入った時、俺はひどく酔ってて、完全にラリってた。シャロンが、部屋に一人男がいて、平和の象徴として二羽の鳩を空に放つって言ってたんだ。俺は一羽を空に放って、もう一羽の頭を噛みちぎってテーブルの上に投げた。すると、彼らはパニックになった。そして、その日のうちにこの出来事が世界中のメディアで報じられ、俺は“その年一番の悪党”になっちまった。俺はそのビルから出入り禁止にされたよ。俺のレーベルがあるにも関わらずだよ」

レーベルの幹部たちは、オジー・オズボーンに近づくことを恐れていたが、彼が“金のなる木”であることには気づいていた。独特の歌声、圧倒的なステージでの存在感、そして優れたメロディ・センスを兼ね備えたパフォーマーとしての実力は明らかだった。

1981年11月、ジェット・レコードはオジーの2作目となるアルバム『Diary of a Madman』をリリース。このアルバムは全米アルバム・チャート(Billboard 200)で16位を記録し、「Flying High Again」「Over the Mountain」「Tonight」などのヒット曲を生み出した。そしてこのアルバムを引っ提げてのツアー中、オジー・オズボーンは再び世間を騒がせる事件を起こす。1982年1月20日、アイオワ州デモインでの公演中に起きた、いわゆる“コウモリ事件”である。彼は後のローリング・ストーン誌の取材で、当時の様子をこう明かしている。

「ツアー中は、客が肉やら何やら変なものをステージに投げてきたんだ。ツアーが進むにつれて、肉から死んだ動物、猫なんかにエスカレートしていった。ある日、ハロウィン用に作られたゴム製コウモリをステージに置いていて、それを口に入れて噛みついた。そうしたらバキッて音がしたんだ。本物のコウモリだったんだよ。病院に行って狂犬病の予防接種を受ける羽目になった。俺みたいなバカな真似をするなら覚悟しとけ。狂犬病の注射はマジでシャレにならない。クソみたいに痛い。まるでゴルフボールを60個ケツに詰められたような感じだ。あれは地獄そのものだったよ。その日の出来事は新聞の一面を飾ったけど、ベッドから起き上がることも、記事を読むことすらできなかった」

Ozzy Osbourne Bites Bats Head Off!

 

友との悲劇的な別れ

しかし、その身の毛もよだつ出来事も、2ヶ月後に起きた彼の人生を一変させた悲劇には比べものにならなかった。

バンドは深夜、テネシー州ノックスビルからフロリダ州オーランドへ向けてバスで移動していたが、途中で運転手がフロリダ州リーズバーグ近郊でバスを止めた。運転手のアンドリュー・エイコックはパイロットでもあり、近くの飛行場でバンドを飛行機に乗せたがっていたのだ。オジーとシャロンは深い眠りについていたため、ツアー・マネージャーともう一人の乗客が最初に搭乗し、無事着陸した。

その後、ランディ・ローズとオジーの衣装・メイク担当であるレイチェル・ヤングブラッドがアンドリューと共に搭乗した。飛行機はバスの上を3回旋回したが、4回目の旋回で左翼がバスの屋根に接触し、機体は近くの家のガレージに激突。ランディを含む搭乗者全員が死亡した。

オジーはこの日の事故に打ちのめされ、深い悲しみに沈んだ。ツアーは延期され、マネージメントは新たなギタリストを探し始めた。ランディ・ローズは、今なお史上最高のネオクラシカル・メタル・ギタリストの一人と称されている。オジーは後のペントハウス誌のインタビューで、この日の出来事をこう振り返っている。

「ランディにはきっと、素晴らしい未来が待っていたはずだ。時々考えるんだ。もし自分も飛行機に乗ってたらって。もしあの時起きてたら、間違いなく俺も乗ってたよ」

OZZY OSBOURNE – "Mr. Crowley" 1981 (Live Video)

オジー・オズボーンとバンドは、元ギランのブルース系ギタリスト、バーニー・トーメを迎えてステージに復帰し、数公演を行ったが、音楽的な相性が合わず、残りのツアーはナイト・レンジャーのブラッド・ギリスがギタリストを務めた。

このツアーの音源は、1982年にリリースされたディオ時代のブラック・サバスによるライヴ・アルバム『Live Evil』への対抗策として、『Speak of the Devil』というタイトルで発表された。同作は意図的に全曲ブラック・サバスのカヴァーで構成されており、オジーがかつて在籍していたバンドへの自身の存在感を誇示する形となった。

 

シャロンとの結婚

1982年7月4日、オジーとシャロンはハワイ州マウイ島で結婚式を挙げた。彼がこの日を選んだのは、結婚記念日を忘れないようにするためでもあったという。シャロンはペントハウス誌のインタビューの中で混沌と愛情が入り混じる当時の二人の関係性についてこう明かしている。

「業界の人間にとって、私たちのケンカは伝説よ。お互いをたくさん傷つけあったわ。ニューヨークのハード・ロック・カフェで大ゲンカしたこともある。お互いをボコボコに殴り合ったのよ。でも次の日には、ラブラブでキスしてるの。私は、殴られたからって “ああ、警察に電話しなくちゃ” なんて言う女じゃない。もし誰かが私を殴ったら、三倍にしてやり返す。オジーが何か投げてきたら、私はその部屋を破壊してやるの」

スタジオでの制作作業に戻ったオジーは、新たなギター・ヒーロー、ジェイク・E・リーを迎えた。彼が参加した1983年の『Bark at the Moon』、1985年の『The Ultimate Sin』は、いずれも成功を収めたが、バンドとの金銭面の取り決めに不満を抱いたジェイクはその後脱退する。

Ozzy Osbourne – Bark at the Moon (Official Music Video)

代わって、若く才能あるギタリスト/ソングライター、ザック・ワイルドが加入した。彼はその後、オジーの信頼を得て、オジーの活動休止、ブラック・サバスの再結成、ブラック・レーベル・ソサエティのアルバムの間に4度、数年にわたってオジー・バンドのギタリストを務めている。

 

依存症でのトラブル

オジーのドラッグとアルコールへの依存はその後も何十年にもわたって続いたが、仲間やマネージメントの支え、そして時折リハビリ施設に通いながら、彼はおおむね“機能する依存者”として作曲、レコーディング、ツアー活動を続けていた。

ひとたびステージを離れると、彼は小悪魔のような悪戯好きで、自らを“悪魔”というより“いたずら小僧”に喩えていたが、1989年9月2日、アルバム『No Rest for the Wicked』の大成功を受けたツアー終了後、酔い潰れてパンツ一丁でベッドにいた彼は、突如として階下にいたシャロンを「絞め殺したい」という衝動に駆られた。

この事件により、彼は一時的に刑務所に収監され、その後、強制的にリハビリ施設へ送られることになる。シャロンはペントハウス誌のインタビューで当時のオジーについて次のように証言している。

「彼が何でも調合して酒と一緒に飲むような時期があって、1週間はとんでもない調子で、7日目には私を殺そうとした。私の首を絞めようとしたの、本気でね。私がパニックボタンを押したら、警報システムが作動して、数分で警察が来たわ。それで終わりよ」

オジーは禁酒期間中に行われたペントハウス誌のインタビューでこう語っている。

「酒を飲むと“ジキルとハイド”になってしまう。正直、自分が何をしてるのかわからなかった。ブラックアウト・ドリンカー(酔っ払って記憶を失う常習者)になるのが一番怖かった。目が覚めて、“今度は何をしでかしたんだ?”って思うんだ。血まみれで目覚めても、どこからその血が来たのかわからないんだ」

 

時代の波を超えた90年代

オジーは、1991年9月にリリースされたアルバム『No More Tears』のために、ザック・ワイルドとレミー・キルミスター(アルバムの4曲を手掛けた)に共作の協力を求めた。

同年、ニルヴァーナが『Nevermind』でロック界を一変させ、世間のメタル離れが進む中でも、「No More Tears」や「Mama I’m Coming Home」といったシングルを収録した『No More Tears』は400万枚を売り上げた(500万枚を売った『Blizzard of Ozz』に次ぐ大ヒットとなった)。

当時、何十年にも及ぶツアー生活に疲弊していたオジーは、“No More Tours Tour”を発表し、それをもってツアー活動から引退するつもりだった。しかし、結局家庭に落ち着く生活に馴染めなかった彼は、数年後にスタジオへと戻り、1995年に『Ozzmosis』を発表。このアルバムを記念して、“Retirement Sucks(引退なんてクソくらえ)Tour”を開催した。

OZZY OSBOURNE – "No More Tears" (Official Video)

時を同じくして、ロラパルーザなどの大型パッケージ・ツアーの成功を見てチャンスと捉えたシャロンと息子のジャック・オズボーンは、“オズフェスト”を立ち上げることを発表。

オジー・オズボーンがヘッドライナーを務め、スレイヤー、ダンジグ、セパルトゥラらが出演した同フェスは1996年に2都市で初開催。翌1997年末、オジー・オズボーンはブラック・サバスと再結成し、故郷バーミンガムのNECアリーナで2公演を行った。1998年に『Reunion』としてリリースされたこの公演の模様を収めたライヴ・アルバムには、オジーとトニーによる新曲2曲「Psycho Man」と「Selling My Soul」も収録された。

Psycho Man

翌1999年、“オズフェスト”は全米21都市へと開催規模を拡大し、再結成したブラック・サバス、オジー・オズボーン(ソロ)、パンテラ、タイプ・オー・ネガティヴらが出演した。ブラック・サバスとオジーは、フェスティバルの出演年を交代しながら活動し、ブラック・サバスは1999年のオズフェスト終了後に単独ツアーも行っている。

同フェスにブラック・サバスが最後に出演したのは2001年だったが、ブラック・サバスやオジーの出演がなくても、“オズフェスト”は2006年まで全米各地で商業的成功を収め、その勢いは北米、ヨーロッパ、極東へと拡大していった。

Black Sabbath – "War Pigs" Live at Ozzfest 2005

2000年代:次々と起こる試練

2006年、再びブラック・サバスを離脱したオジーはソロ・アルバム『Black Rain』の制作に取りかかった。同じ頃、オジーを除いたブラック・サバスのメンバーは、オジーの初期脱退後に発表し成功を収めた3作のアルバムでヴォーカルを務めたロニー・ジェイムス・ディオを迎え再結成する。

1980年のアルバム名にちなんで“ヘヴン・アンド・ヘル”名義でバンド活動を始めた彼らは、2009年にはアルバム『The Devil You Know』を発表し、精力的にライヴ活動を行った。しかし、ロニー・ジェイムス・ディオは2009年末に進行性の胃がんと診断され、2010年に死去。メンバーたちは打ちのめされ、友人でありヴォーカリストであった彼の死を深く悼んだ。

その後、彼らは再びオジーおよびシャロンと連絡を取り合い、2001年にオジーがソロ・アルバム『Down to Earth』のレコーディングに専念するためにバンドを離脱した直前に未完成のデモを共作していたプロデューサーのリック・ルービンと再び組むことに合意した。

2000年代に入り、オジーの制作活動はややペースダウンし、2001年から2010年にかけてリリースされたソロ・アルバムは3作にとどまった。しかし、それは彼の世間への露出が減ったことを意味するものでなく、実際に2002年には彼の私生活を赤裸々に映し出すリアリティ番組『オズボーンズ』がMTVで放送開始され、オジーをはじめ、彼の家族全員が一躍時の人となった。

エミー賞も受賞したこの番組は、下品で言い争いの絶えない、型破りな一家の日常を追った内容で、批評家やファンだけでなく、好奇心旺盛な視聴者からも熱狂的に支持された。

We Love You Ozzy! | The Osbournes TV

だが、その成功の陰では数々の試練が待ち受けていた。妻シャロンは大腸がんと診断され、がんの転移により化学療法を受けることに。長い闘病の末に回復したものの、その後、予防措置として両乳房の切除を余儀なくされた。一方、息子のジャックは突如として有名人になったことに戸惑い、さらに母の病状への不安も重なって、オキシコンチン中毒に陥るなど、家族には困難な時期が続いた。

さらに2003年、オジーは禁酒中だったにもかかわらず、自身が所有するバッキンガムシャーの150エーカー(東京ドーム約13個分)の農場で四輪バギーに乗っていた際、起伏の激しい地形で命にかかわる事故を起こす。段差に乗り上げた車体が前方に回転し始めた瞬間、彼の脳裏には「やばい、何かとんでもないことが起きるぞ」という声が響いたという。そして「ウーッ、オー」とつぶやいたのが最後の記憶だったと、彼はジャーナリストのダイアン・ソーヤーとのインタビューで語っている。

オジーはハンドルから投げ出され、地面に激突。さらに、600ポンド(約270キロ)のバギーが彼の上に覆いかぶさり、そのまま転がり続けた。さらに彼はヘルメットを着用していなかった。ボディガードが車体の下から彼を引きずり出し、2度の人工呼吸を行ったことで、ようやく呼吸を取り戻したものの、すぐに病院へ緊急搬送された。

診断は、首の骨の骨折、肋骨8本の骨折、肺の一部の虚脱、左鎖骨の粉砕骨折と深刻なものだった。さらに血管にも損傷が見つかり、血流を回復させるため緊急手術が行われた。骨の安定性と可動域を確保するため、背中と首にはボルトが埋め込まれた。この一連の事故と、同時期に行われていたシャロンの抗がん剤治療の様子は、MTVのカメラクルーによって記録され、リアリティ番組『オズボーンズ』で放送された。

 

キャリア後期:ブラック・サバス最後のアルバム

2006年、ブラック・サバスは最初の音源のリリースから25年というロックの殿堂入りの資格を得てからさらに11年の時経て、遂に殿堂入りを果たし、2024年にはオジーがソロ・アーティストとして2度目の殿堂入りを受けている。2010年には、自叙伝『I Am Ozzy』がニューヨーク・タイムズのベストセラーとなり、翌年にはその続編となる『Trust Me, I’m Dr. Ozzy: Advice From Rock’s Ultimate Survivor』も発表している。

2012年、オジー、トニー・アイオミ、ギーザー・バトラーの3人のオリジナル・メンバーは、再びプロデューサーのリック・ルービンと再会し、最後のアルバムの作曲とレコーディングに着手した(ドラマーのビル・ワードは契約上の問題でアルバム不参加)。そうして2013年にリリースされたアルバム『13』は高い評価を受け、破滅的なサウンドに彩られたバンドの黄金期を呼び覚ますものとなった。

2012年には、トニー・アイオミが悪性リンパ腫と診断されたが、ツアーの合間に抗がん剤治療を受けながらも、ブラック・サバスのツアーを続行。病を抱えながらも2012年から2014年にかけて行われた同ツアーを耐え抜いたトニーは、その後も治療を継続し、2016年には完全寛解を発表。ちょうどそのタイミングで、伝説的なバンドとしての最後のワールド・ツアーに出発することとなった。

Black Sabbath – God Is Dead?

ブラック・サバスのフェアウェル・ツアー“The End”は2016年1月20日から2017年2月4日まで行われた。また、このツアーにあわせて、バンドは、アルバム『13』のセッションからの未発表曲4曲と、2013年から2014年にかけて録音されたライヴ音源4曲を収めたツアーと同名のEP『The End』を発表。これが、オジー、トニー・アイオミ、ギーザー・バトラーによるスタジオ録音を収録したブラック・サバスの最後の公式作品となった。

“The End”ツアーはオジーの故郷であるバーミンガムで幕を閉じ、その模様はコンサート映画『Black Sabbath: The End of the End』として2017年9月に世界各国で劇場公開された。その2か月後には、最終公演を収録したライヴ・アルバム『The End: Live in Birmingham』がリリースされている。

BLACK SABBATH – "Paranoid" from The End (Live Video)

 

パーキンソン病の罹患と劇的な最終幕

ブラック・サバスでの活動を終えたオジーはソロ活動を再開。2018年には、冗談めかしたタイトルのツアー“No More Tours II”の開催を発表していたが、インフルエンザと気管支炎を患い集中治療室に入院したため、米国およびヨーロッパ公演をキャンセルし、次作アルバムのスタジオ・セッションも延期された。その後、自宅での転倒事故によりさらなる困難に見舞われた。2019年初頭、オジーは2003年にバギーの事故により首と背中に埋め込まれたボルトがズレるほどの重傷を負ったのだ。

この事故について彼は、「夜中にトイレに行こうとしてバランスを崩し、顔からまっすぐ倒れた」と英Daily Mail紙に語っている。そしてこれが、オジーがパーキン2という珍しいタイプのパーキンソン病を患っていたことを示す最初の兆候だった。2020年、オジーは米ABCの情報番組“Good Morning America”のロビン・ロバーツとのインタビューで自らの病を公表し、「腕に痺れがあって、脚がよく冷たくなる」と明かしている。

それでも創作意欲が衰えることのなかったオジーはアルバム『Ordinary Man』を完成させ、2020年にリリース。スラッシュ、トム・モレロ、チャド・スミス、ダフ・マッケイガン、チャーリー・プース、ケリー・オズボーン、ポスト・マローン、トラヴィス・スコット、エルトン・ジョンといった錚々たる顔ぶれがゲスト参加したこの華やかな作品とは裏腹に、オジーの健康状態は悪化の一途をたどっていた。

Ozzy Osbourne – Ordinary Man (Official Music Video) ft. Elton John

2022年4月、シャロンはオジーが新型コロナウイルスに感染したことを公表。その後さらなる不穏な事実が明かされた。同年6月8日、彼女は自身が司会を務める英TV番組“The Talk”の放送中に、「オジーは6月13日に非常に重大な手術を控えていて、私は彼のそばにいなければなりません。その手術は、彼の残りの人生を大きく左右することになるでしょう」と観客に語った。

長時間にわたる手術では、かつての転倒事故でズレたボルトが取り除かれ、再び正しい位置に固定された。この処置は、ある程度予想されていたものだった。
オジーは以前、Classic Rock誌の取材にこう語っていた。

「手術が必要だ。体力が落ちていてステージに立てない。今は首のさらなる手術を待っているところなんだ。最近はまともに歩くこともできない。毎朝リハビリを受けていて、多少はマシになったが、ツアーに戻るには長い道のりだ。まだ引退するつもりはないが、いつかその時は来る」

手術から数年、オジーは持ちこたえた。そして2025年7月5日、バーミンガムで開催された“Back to the Beginning”と銘打たれた最後の公演で、ついにヘッドライナーとしてステージに立った。ヘヴィ・メタルだけではなく、ロックの歴史にその名を刻んだ伝説的ミュージシャンによる、見事な別れの舞台となった。

Ozzy Osbourne – Crazy Train – Back To The Beginning Live at Villa Park Birmingham 05/07/25

Written By Jon Wiederhorn



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