(function(h,o,t,j,a,r){ h.hj=h.hj||function(){(h.hj.q=h.hj.q||[]).push(arguments)}; h._hjSettings={hjid:104204,hjsv:5}; a=o.getElementsByTagName('head')[0]; r=o.createElement('script');r.async=1; r.src=t+h._hjSettings.hjid+j+h._hjSettings.hjsv; a.appendChild(r); })(window,document,'//static.hotjar.com/c/hotjar-','.js?sv=');
Join us

uDiscoverlist

史上最高のレゲエ・シンガー20人:ボブ・マーリーからジャネット・ケイ、デニス・ブラウンまで

Published on

ボブ・マーリーのように多才な声から、ゴスペルの影響を感じさせるスタイルのトゥーツ・ヒバート、そして明確な社会意識と圧倒的に説得力のあるメッセージ性を持ったウィンストン・ロドニーまで、時代を超越した最高のレゲエ・シンガーたちは、レゲエという音楽が、ありきたりのステレオタイプより遥かに多様性に富んでいることを証明してきた。バンドのフロントマン、もしくはソロ・アーティストとして名を成した史上最高のレゲエ・シンガー20人をご紹介しよう。

[関連記事]

ボブ・マーリー:人知を超えた天賦の力

数え切れないほどの学生たちの部屋の壁に飾られている、あのお馴染みの写真。彼の曲は愛だけでなく、葛藤や贖罪についても歌っている。ボブ・マーリーには預言者としての使命があった。レゲエを、それまで耳にしたことがない人々の住む土地へと携え、広めて行くという役割だ。彼は、いわゆる「第三世界(開発途上国)」からやってきた最初のグローバルな“ロック”・スーパースターという唯一無二の称号の持ち主だった。ボブ・マーリーに関して、しばしば忘れられてしまうことだが、彼の声は実に多彩だったのは、ひとえに彼が史上最高のレゲエ・シンガーのひとりであったゆえである。

ボブ・マーリーは60年代初期から、1982年に不慮の死を遂げるまでの間に、ジャマイカから生まれたありとあらゆる音楽スタイルを征服した。ザ・ウェイラーズでスカのスターとなった彼は、シルクのようにスムースなソウルを歌い、彼らが尊敬し目標としていたアメリカのヴォーカル・グループ、ジ・インプレッションズやザ・ムーングロウズと肩を並べるくらいの成功を収め、ゴスペルも歌った。厚かましいほど淫らかと思えば、時にロマンティック、はたまた強い政治色を持っているなど、彼が創り出すロックステディの楽曲は幅広い能力を見せつけた。ジャマイカのフォーク・ソングを歌い、70年代初期になるとファンキーな方向性を打ち出し始めた彼は、ジャマイカの声を世界へ届けられることを証明してみせたのだった。

これだけのことを成し遂げ、かつ商業的成功を収めるにあたって、彼に必要不可欠だったのはその天賦の素晴らしい声であろう。その声によって世界中に信者たちを生み、敬意の的となったのは誰にでも出来ることではない。ボブ・マーリーは驚嘆すべきシンガーであり、一度聴けば決して忘れられない声の持ち主であり、その歌声には誰もが惹き込まれた。

“ジャミング”と呼ばれた誰もが飛び入り参加OKの賑やかなパーティーに快く迎え入れる時も、“ナチュラル・ミスティック”と呼ばれる宇宙との超自然的な交流に耽溺する時も、彼は常に自らの作品や音楽、そしてリスナーの魂をも完全に掌握していた。彼の作品は大勢のシンガーたちによってカヴァーされているものの、史上最高のレゲエ・シンガーのひとりという彼の極めた高みにはこれから先も誰ひとりとして到達することはないだろう。彼はまさしく全てを兼ね備えた人物なのである。

必聴曲: ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ「Sun Is Shining」

Sun Is Shining

 

ウィンストン・ロドニー:ラスタの親善大使

ウィンストン・ロドニーは、その音域でガラスを割ったりすることはないし、優しい愛の歌を歌うことも、その歌で女の子たちを失神させることもまずなかった。ましてや、アメリカのソウル・シンガーたちと張り合おうという発想などはさらさらなかった。けれど、ジャマイカならではのヴォーカリストをお求めなら、その発する言葉ひとつひとつに心と感情を込めることができ、そして音楽を通して自分が何を伝えているのか、何故それを伝えるべきなのかを余すところなく把握している歌い手を求めているなら、バーニング・スピアーのリード・ヴォーカリストであるウィンストン・ロドニーこそが史上最高のレゲエ・シンガーのリストの一番上に来るべきなのだ。

静かで、囁くような歌い方からむせび泣くような絶叫まで、その50年にも及ぶキャリアの大部分を、ラスタファリアンとガーヴィーの教義[訳注:ジャマイカの黒人運動指導者マーカス・ガーヴィーが説いた、国内の黒人を分離し、アフリカに黒人自治国家を築くことを提唱する考え]を広めることに費やし、熱心でひたむき、そしてどこまでも魅惑的なその歌声や主張はデビュー当時から変わることがない。

必聴曲:「Throw Down Your Arms」

Throw Down Your Arms (Live At Rainbow Theatre, London, England1977)

 

トゥーツ・ヒバート:生ける伝説

彼はフォーク・アイコン、ソウルマン、そしてゴスペル・シンガーとして知られている。全て間違ってはいないが、フレデリック・“トゥーツ”・ヒバートがとてつもなく偉大なレゲエ・シンガーであることは紛れもない事実だ。彼の声は、50年代後期のジャマイカのチャーチ・ミュージックの片鱗を感じさせ、結婚式を祝う声、牢獄に繋がれた受刑者たちの嘆き、緑豊かな田園風景の音が聴こえてくるようだ。彼の作品には、多くの人々で賑わうダンスホールの汗と騒音を感じさせるような、ありとあらゆるジャマイカ人の日常が詰まっているのだ。

トゥーツ・ヒバートはラリー・ゴードンとジェリー・マティアスと共に組んだヴォーカル・トリオ、ザ・メイタルズのリード・ヴォーカルとして名を挙げた。1963年から64年にかけて、彼らはコクソン・ドッド(プロデューサー)の下、スタジオ・ワンで数々のスカ・ヒットをレコーディングし、その後移籍したBMNではバイロン・リーとロニー・ナスラジャの下で幾つものヒットを飛ばした。

一時は法的問題を乗り越えるために活動を休止してたが[訳注:1966年にマリワナ所持で18か月の禁固刑を受けた]、1968年に復活、レズリー・コングの下で「54-46 That’s My Number」「Monkey Man」「Pressure Drop」等々、最も記憶に残る名曲の大部分をレコーディングし、世界中のレゲエ・ファンを熱狂させた。

1971年にレズリー・コングが急逝すると、グループはダイナミック・サウンズに移籍し、「Louie Louie」や「It Was Written Down」、更に1974年の傑作アルバム『Funky Kingston』をリリースする。ザ・メイタルズは70年代末に解散したが、トゥーツ・ヒバートは現在もザ・メイタルズと名乗るバンドを率いてツアーを続けており、今も史上最高のレゲエ・シンガーのひとりとして君臨し続けている。まさしく生ける伝説そのものだ。

必聴曲:「Louie Louie」

Louie, Louie

 

バニー・“ラグズ”・クラーク:サード・ワールド、ファースト・クラス

サード・ワールドは70年代から80年代にかけ、クロスオーバーで成功を収めたレゲエ界屈指のグループで、オージェイズのカヴァー曲「Now That We’ve Found Love」をはじめ、「Try Jah Love」 「Cool Meditation」などのヒットを次々に飛ばし、ルーツ・ミュージックやアメリカのディスコ・ファンク、そして脈打つようなダブを手際よくひとつのパッケージに仕立ててみせた。

彼らは“ゲットー”に対して“アップタウン”と呼ばれ、音楽的にもよりスムースではあったものの、とりわけ南北アメリカでは、純然たるレゲエの大原則を尊重したグループとして認識されていた。そういった点において、多くの批評家たちが彼らのリード・シンガー、バニー・ラグズにあの時代屈指のレゲエ・シンガーとしての評価を与えていなかったことは、いささか驚きを禁じ得ない。

ソウルを求めるなら、他を探す必要はない。時に優しく、時にパワフルに、彼ならアメリカのどんな優れたR&Bグループでもフロントを務めることができたはずだ。現に、彼は自らのバンドの素質を非の打ちどころのないレベルまで磨き上げた。サード・ワールドの海外進出の展望は、ニューヨークとジャマイカのキングストンで暮らした経験を持つバニー・ラグズにはおあつらえ向きだった(ちなみに彼は70年代半ばに両方の都市でソロとして数作のアルバムを出し、高評価を得ていた)。しかし、もしも彼がソロ・アーティストとして活動を続けることを選んでいたらどうなっていただろうか?

いずれにせよ、グループに加入したおかげで彼の美しい歌声を70年代後期最大のレゲエ・ヒットの数々で聴くことができる。その曲を愛聴していても、彼の名前は知らない、という人々は少なくないかも知れないが。

必聴曲:「Now That We’ve Found Love」

Now That We've Found Love

 

デルロイ・ウィルソン: クールな策士

デルロイ・ウィルソンがレコーディング・アーティストとしてのキャリアをスタートさせたのは1963年、まだ声変わり前の13歳の時だった。彼には歌を届ける天賦の才があったが、自らの歌唱能力がどれほど高度なものであるかを理解させるだけの技術はまだ持ち合わせていなかった。そんなわけで、「Oppression」や「I’ll Change My Style」といった名曲たちの存在はほとんど世に知られてはいなかった。だが「Dancing Mood」や「Impossible」を聴けば分かる通り、1966年になるとデルロイ・ウィルソンは既に大人の声を手に入れていた。彼のアルバム『Good All Over』(1969年) はそのタイトル通りの内容で、デルロイは聴き手を歌に引き込むエキスパートとなり、その抜群のフレージングは今も多くのジャマイカのシンガーたちに影響を与え続けているのである。

ロックステディ全盛時代から70年代にかけて、一連の名曲たちを途切れることなく発表し続けてきた彼は、全ての時代を通じて史上最高のレゲエ・シンガーのひとりである。あまりに儚く終わった恋人たちを歌った珠玉の「Cool Operator」、荒々しいルーツ・チューンの「There Will Be No Escape」、あるいはシルキーで大人のためのレゲエとも呼ぶべきボブ・マーリーのカヴァー「I’m Still Waiting」、どの曲をとってもデルロイ・ウィルソンは完全に自分のものにしてしまっている。

必聴曲:「Dancing Mood」

Delroy Wilson – Dancing Mood

 

ケン・ブース: Mr. ロックステディ

奇妙なレゲエの世界においては、称賛と見過ごしが同時に起こりうる。ケン・ブースはシュープリームスの「You Keep Me Hangin’ On」のカヴァーや優美な「The Girl I Left Behind」、さらにはケニー・リンチのパワフルな「Moving Away」のカヴァーにより、ロックステディ界で最も偉大なヴォーカリストのひとりして名を馳せた。1967年のアルバムのタイトルが『Mr Rock Steady』だったのは決してハッタリではない。

ケン・ブースはかつて、そして今も変わらず、南部のソウルマンのような絶大なパワーを備えた声の持ち主だったが、その力を駆使することはごく稀で、どちらかと言えばひとつひとつの歌詞を理解してもらうために心を砕き、ひとつひとつの曲が敬意を持って受け止められることを好むヴォーカリストだった。

プロデューサーのロイド・チャーマーズとの出会いが、彼にデヴィッド・ゲイツの「Everything I Own’」のカヴァーと、オリジナル曲「Crying Over You」という70年代初期の全英ポップ・チャートにおける2曲のスマッシュ・ヒットをもたらす。その一方で「Artibella」や「Black Gold And Green」のような曲からも分かる通り、ケン・ブースはそれでも草の根の活動と縁を切ることはなかった。

70年代末にロッカーズの時代が到来すると、彼の星は徐々に輝きを失っていったが、彼はその後も良作を作り続けており、先頃のリバイバルで遅まきながら、彼が本来もっと早く受けるはずだった世界最高のレゲエ・シンガーのひとりという称号を与えられることとなったのである。

必聴曲:「Is It Because I Am Black」

Is It Because I'm Black?

 

ジャネット・ケイ:太陽も顔を出す

70年代、ラヴァーズ・ロックに対するメディアの扱い方は二種類しか存在しなかった。悪口か、一切取り上げないかのどちらかだ。この音楽を買っていたのは、のぼせ上がった女子高生たちか、救い難いロマンチストばかりで、その本質的な奥深さには殆ど目を向けられることがなかったのである。レゲエのオーディエンスがいわゆるルーツ・レゲエに踏み込もうとしなかった70年代に英国で生まれたこのサウンドは、圧倒的に女性ヴォーカリストたちの主戦場おいて、デニース・ウィリアムスやマージー・ジョセフが歌っていたようなソウルの要素を、レゲエの脈絡の中に採り入れることが狙いだった。

デニース・ウィリアムスのような高いヴォーカル・スキルの持ち主を見つけることはいつの時代も容易ではないが、幸いラヴァーズ・ロックは10代のジャネット・ケイという史上最高の女性レゲエ・シンガーを見出すことができた。彼女には桁外れの高音域に加えて、同世代のソウル・ミュージックのライバルたちに勝るとも劣らない甘いヴォーカル・スタイルがあった。

ジャネット・ケイによるミニー・リパートンの「Loving You」のカヴァーは強力だった。さらに豊かな表現力が発揮された「You Bring The Sun Out」や、ビリー・ステュワートの「I Do Love You」のカヴァーは素晴らしい成果を発揮し、全英1位を獲得した「Silly Games」は多くのリスナーたちにとってラヴァーズ・ロックの頂点だった。彼女の飛翔ぶりを是非お聴きいただきたい。そして、ラヴァーズ・ロック界が誇る最高のレゲエ・シンガーの作品をもっと聴いてみたければ、ルイザ・マークとキャロル・トンプソンをお試しあれ。

必聴曲:「Silly Games」

Silly Games

 

フランキー・ポール:Mr. 多作

ダンスホールがジャマイカの音楽シーンを席巻していた80年代前半、ベテランのレゲエ・シンガーたちはその変化への適応を余儀なくされ、まだキャリアの浅かった者たちはほとんどがヴォーカル面の個性を発揮するよりも、リズムに乗っていく必要性に迫られていた。しかしながら、リロイ・ギボン、ジュニア・リード、ジャック・ラディクスなどの一部の傑出したシンガーたちは、確実にエレクトロニクスを超えてその才能を世に知らしめていた。中でも際立っていたのが、フランキー・ポールである。

生まれながらに盲目だったフランキー・ポールの才能が明らかになったのはまだかなり幼い頃で、1980年、彼が15歳の時にファースト・シングルをレコーディングすると、その並外れた声はスティーヴィー・ワンダーの影響を受けた初期のスタイルから、驚くほど多才な楽器へと磨き上げられていった。彼はアメリカのラジオDJスタイルで自らのレコードを紹介することと、パワフルなコーラスを切々と歌い上げることを心から楽しんでいた。彼はヒットを量産し(例えば1987年にはその一年だけで実に30枚ものシングルをカットした)、「Worries In The Dance」(1983年)、「Pass The Tu-Sheng-Peng」(1984年) 、そして「Shub In」(1986年)など、彼の作品の大半は勇ましく聴く者を鼓舞するものだった。

80年代後期、彼はプロデューサーのキング・ジャミーの下で、「Sara」「Casanova」「I Know The Score」等、数々の優れた、自信に満ち溢れた作品をデジタル・ロックステディ・スタイルで作りあげた。一時はモータウンとの契約の話が持ち上がったものの、結局締結には至らなかったため、より広い世界においては、80年代を代表する最高のレゲエ・シンガーのひとりだった彼の存在を知らない人々もいるかも知れない。さらに、彼のリリースがあまりに頻繁だったために、やがて彼は飽きられ、時代遅れとみなされてしまったのである。90年代の間はやや成功から縁遠くなってしまったが、それでも彼は数多くのレコードを発表し続けていた。2010年代に入ると、フランキー・ポールは様々な健康問題を抱えるようになったが、マイクを取れば相変わらずの美声を聴かせていた。2017年没。

必聴曲:「I Know The Score」

I Know the Score

 

ドーン・ペン:カムバックの女王

日常の多くの場面同様、レゲエの世界における女性の扱いは不平等だ。才能はあっても、チャンスは与えられない。そして、ほとんど金もなく、“子供の父親”からの家族に対する支援もない中、多くの女性たちは我が子を育てるために自分の夢を犠牲にするほかないのだ。

ドーン・ペンは性別を超えて最高のレゲエ・シンガーのひとりとして知られているが、世界が彼女の素晴らしさを認識されるまでに、2つの全く異なるキャリアを要した。彼女の音楽の世界における冒険が始まったのはまだ可愛らしい声だったティーンエイジャーの頃で、プリンス・バスターをプロデューサーに迎えて「Long Day Short Night」で華々しいデビューを飾り、バニー・リーの下で「To Sir With Love」を繊細に歌い上げ、さらに1966年のウィリー・コブのブルーズのカヴァー「You Don’t Love Me (No, No, No)」は、彼女にとって過去最大のヒットを記録すると同時に、既に幾度となく演奏されてきたリズム・トラックを使ったレゲエの定番曲となった。このレコードの最大の売りは、彼女の呻くような、ソウルフルで若々しい声である。

60年代末までレコーディング活動を続けた彼女だったが、その成功はごく限定的で、努力に対してなかなか思うような経済的な見返りが得られることはなく、やがてジャマイカを離れた彼女は、音楽業界からほぼ引退したかと思われていた。ところが90年代に入って、彼女は何の前触れもなくレゲエの世界にカムバックを果たす。全く新しい視野を得た彼女は、デジタル時代の先端をゆくプロデューサー・チーム、スティーリー&クリーヴィーと組んだアルバム『Play Studio One Vintage』で自身最大のヒット曲をリメイクし、レゲエの金字塔的作品を最新スタイルでもって仕立て直してみせたのだった。

彼女の「You Don’t Love Me」の新ヴァージョンは1994年を代表するレゲエ・ヒットとなり、ドーン・ペンは遂に世界屈指のレゲエ・シンガーという地位を手に入れたのである。以来、彼女はジャマイカン・ソウル界での自身のブランドとスタイルを、リー・トンプソン率いるのスカ・オーケストラに提供し、グランストンベリー・フェスティバルにも出演して絶賛を浴びた。2015年の物憂げなモダンR&B調の「Chilling」を含め、彼女は現在も定期的に優れた音楽を世に出している。

必聴曲:「You Don’t Love Me (No, No, No)」

Dawn Penn – No, No No (Official Video)

 

ジョン・ホルト:達人

グレゴリー・アイザックス がもっぱら得意とするクール路線の先駆者とも言うべきジョン・ホルトは、レゲエ界の巨人であり、ありとあらゆる音楽スタイルの達人だった。彼がキャリアをスタートさせたのはスカ全盛時代だったが、それから40年後、彼はロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで、交響楽団を率いて満員の観客を前にステージに立っていたのである。彼はケタ外れな才能の集まりだったヴォーカル・グループ、ザ・パラゴンズと共に、「Riding High On A Windy Day」や「Happy Go Lucky Girl」といった定番曲をレコーディングし、ジャマイカでその名を馳せるようになる。また彼が書いたオリジナル曲「The Tide Is High」は、後にブロンディやアトミック・キトゥンがカヴァーし、いずれも全英チャートの頂点に輝いた。

ザ・パラゴンズはジャマイカで最も洗練されたヴォーカル・グループとして他の追随を許さず、中でもジョン・ホルトはレコーディングでフロントを務めるが多かった。60年代終盤になると、ソロ・アーティストとしても活動を始めた彼は、「Ali Baba」や「OK Fred」「Tonight」他、多数の名曲をリリースし、70年代には当代屈指のシンガーと謳われるまでになった。

ジョン・ホルトにはどんなものでもいとも簡単に歌いこなす力量があり、彼のアルバム『Time Is The Master』ではヘヴィなレゲエのリズムとオーケストラの両方を見事に使いこなし、その後も同様のスタイルでトロージャン・レーベルから数多くのアルバムを発表している。『1000 Volts Of Holt』、『2000 Volts Of Holt』などの作品で知られる同シリーズは何年も続いた。1974年にはクリス・クリストファーソンの「Help Me Make It Through The Night」のカヴァーを全英TOP10に送り込み、ジャマイカのアップタウンを代表する声としてその評価を不動のものにした。

しかしながら、ジョン・ホルトの華々しい経歴はそこで終わりではない。70年代半ばにパンチの効いた「Up Park Camp」がヒットを記録し、1977年のアルバム『Roots Of Holt』はヘヴィでありながら粋な音づくりの好例となった。1983年に、ダンスホールの草分け的プロデューサー、ジュンジョと組み、ガンジャ(大麻)栽培農家と取締当局との終わりなき戦いを描いた「Police In Helicopter」を発表すると、世界各地のレゲエ・ファンから支持され、この曲は大ヒットとなった。

その後パリッシュやジャミーといったレーベルに移籍してからも、続々と良作をリリースし続けたジョン・ホルトは、デジタル時代における最高のレゲエ・シンガーのひとりという評価をますます揺るぎないものにしていった。もう少し巧くマーケティングしてもらえれば、彼はもっと長くポップ・ヒットを出し続けられたのではないかとも思われるが、実のところ彼はそんなものを必要としていなかった。彼はすでに伝説になっていたのだ。

必聴曲「Police In Helicopter」

Police In Helicopter

 

バニー・ウェイラー:ルーツ・レゲエの元祖

1981年にボブ・マーリーがこの世を去った後、一部のファンたちは誰が彼の王位を継承するのだろうと訝った。その候補者のひとりが、ザ・ウェイラーズがまだバッキング・バンドになる以前に、ヴォーカル・グループとして活動していた当時からボブ・マーリーの盟友だったバニー・ウェイラーである。商業的にもアーティスティックな意味においても、バニー・ウェイラーは最高の80年代初期を過ごしていた。彼は我々に、ウェイラーズの定番曲を新たな時代のサウンドでアップデートした素晴らしいカヴァー・アルバム『Sings The Wailers』や、ルーツ・ミュージックとダンスホールとの過渡期に当たるラブ・ア・ダブに自らのサウンドを上品に融合させた堂々たる『Rock And Groove』を届けてくれた。

それでも、ボブ・マーリーの王座を手中に収めた者はなく、バニー自身もそれを望んではいなかった。ネヴィル・リヴィングストン同様、彼は活動開始当時からザ・ウェイラーズの一員であり、「Let Him Go」「Dancing Shoes」「Sunday Morning」といった素晴らしいロックステディのナンバーでフロントを務め、グループを60年代のジャマイカ音楽シーンの第一線に君臨させる原動力となった。

バニー・ウェイラーはザ・ウェイラーズがアイランド・レコードで出した最初の2作のアルバム、『Catch A Fire』と『Burnin’』に参加後、70年代には自らが設立したソロモニック・レーベルにおいて、この上なく内省的かつスピリチュアルなルーツ・ソングを創り続けた。彼には亡くなった同志の地位など必要なかったのである。何の権利を主張する必要もなければ、誰かに実力を証明してみせる必要もなかったのだ。

バニー・ウェイラーがザ・ウェイラーズを去ったのはピーター・トッシュと同じ1973年のことだったが、ボブ・マーリーと活動を共にしていたミュージシャンたちは70年代に入ってからも、彼がソロモニック・レーベルから発表した珠玉のシングル作品で演奏を続けた。バニー・ウェイラーは「Life Line」「Bide Up」「Arab’s Oil Weapon」といった、ゆったりとした曲調ながら非常に知的でメッセージ性の強い楽曲を立て続けにリリース後、1976年には、70年代の最も偉大なレゲエ・アルバムのひとつに数えられる『Blackheart Man』を世に送り出した。

彼は。大いなるダブディスコ・コレクションの第一弾に当たる「Protest』や『Struggle 』などのアルバムや、そして「Rockers」や重量級の「Rise And Shine」といったファン垂涎のシングルをはじめとする音楽の爆弾を次から次に落とし続けた。またスライ&ロビーやザ・ルーツ・ラディアックス・バンドとの共演や交流を通して、ザ・ウェイラーズを昔ながらのサウンドから脱却させ、80年代の『Sings The Wailers』や『Rock And Groove』へとシフトしていった。『Tribute』はボブ・マーリーの代表曲を彼なりの解釈でカヴァーした秀作である。「Back To School」や「Electric Boogie」などのシングルでは、エレクトロとラップの世界に踏み込み、特に後者は後にバニーのプロデュースの下、マーシア・グリフィスによるカヴァーが全米大ヒットを記録した。常に時代と連動しつつも、彼の本質は決して失われることはなかった。

『Rule Dance Hall』や『Liberation』などのアルバムは永遠に色あせることのない彼の品格の証明であり、彼は90年代だけで3度のグラミー賞を獲得し、2016年にはジャマイカのメリット勲位[訳注:軍人及び民間人の功労者に贈られる名誉勲位]を授与された。2009年以降は表舞台でのレコーディング活動のペースはスローダウンしたものの、バニー・ウェイラーはずっと入手困難になっていた自らの過去の作品のキュレーションに携わっており、現在もルーツ・レゲエの元祖として君臨し続けている。まさに唯一無二である。

必聴曲:「Dreamland」

Dreamland

 

ピーター・トッシュ:ラスタの薬草師

ヴォーカル・トリオだったザ・ウェイラーズの3人目のメンバー、ピーター・トッシュは遊び心に溢れたボブ・マーリーやメロウでソウルフルなバニー・ウェイラーとは違い、鋼のようにタフでシャープな切れ味を持っていた。彼が「Stepping Razor」(カミソリステップの意味)を歌っていたのは単なる偶然ではない。楽器の腕においては3人の中でおそらく最も高い能力を持っていたピーター・トッシュであれば、たとえその素晴らしい声を持ち合わせてなかったとしても、ギターを弾いたりキーボードやパーカッション、メロディカを演奏して音楽の世界で生計を立てられたに違いない。だが彼の場合はハーモニーを歌わせてもピカイチだったことに加え、その誰よりも好戦的な雰囲気通りに、強烈でパンチの利いたヴォーカル・スタイルの持ち主だった。

60年代のスカ全盛期、ザ・ウェイラーズの“ヤンチャ坊主時代”に、ピーター・トッシュは「I’m The Toughest」や「Treat Me Good」、強情な魂を咎める「Maga Dog」などのシングルを通して抜群の信頼感を獲得していた。また「Jumbie Jamboree」や「Shame And Scandal」といったトラディショナルなナンバーにおいても自身の持ち味を発揮し、粗いノド声のトーンを巧みに扱いながら邪悪で辛辣な薄笑いを演出した。さらにレゲエ界において早々にラスタファリアニズムを採り入れた人物でもある彼は、1967年に「Rasta Shook Them Up」をレコーディングしており、その信念に基づいた道義心はニーナ・シモンの「Sinner Man」のカヴァーにも表れていて、後には好戦的なシングル「Downpresser」のインスピレーションにもなった。

ザ・ウェイラーズがアイランド・レコードと契約を交わした1973年、ピーター・トッシュは彼らのキャリアにおいて最も名高い革命を呼びかける歌のひとつ「Get Up, Stand Up」を共作し、その後もザ・ウェイラーズは彼の昔の楽曲「400 Years」や「Stop That Train」をレコーディングするに至った。しかしながら、ボブ・マーリーのカリスマ性を引き立てるためにグループが犠牲になっていると感じたピーター・トッシュはザ・ウェイラーズを離れ、彼の脱退はザ・ウェイラーズの鋭い部分がほぼ失われてしまうことを意味した。

その後インテル・デュプロ・レーベルを起ち上げた彼は「Burial」や「Legalise It」といった優れたシングルを次々に発表し、後者は1976年にヴァージン・レコードから発売された彼の著名なデビュー・アルバムのタイトル・トラックになった。続く1977年には前作に匹敵するほど獰猛な『Equal Rights』を発表した。

ローリング・ストーンズ・レコードと契約を交わしたピーター・トッシュは、ミック・ジャガーのバッキング・ヴォーカルをあえて際立たせてフィーチャーしたザ・テンプテーションズの「You Gotta Walk) Don’t Look Back』の見事なカヴァーをTOP50に送り込んだ。この曲はアルバム『Bush Doctor』に収録されているが、タイトルはトッシュのニックネームから採られたものだ(ブッシュ・ドクターとは自然の薬草等を提供する賢者のこと)。同作は彼がザ・ローリング・ストーンズのレーベルからリリースしたパワフルな4枚のアルバムの第一弾で、その4作はいずれもアメリカのアンダーグラウンドでヒットとなり、中でも1983年発表の『Mama Africa』は全米アルバム・チャートでTOP50入りを果たした。

ピーター・トッシュの最後のアルバムは生命力に満ちた1987年の『No Nuclear War』で、彼はこの作品でグラミー賞を獲得している。しかし、全てが順風満帆かと思われた矢先、1987年9月に、偉大なるシンガーは自宅で間の悪い強盗に遭遇し射殺されるという悲劇に見舞われた。彼もまた、ジャマイカの理不尽な暴力の犠牲者のひとりである。

必聴曲:「Legalise It」

Peter Tosh – Legalize It (Audio)

リロイ・シブルズ:感動を呼ぶために生まれた男

何という声だろう。ある時はソウルフルでパワフル、時に優しく、軽やかにもヘヴィにもなれる、リロイ・シブルズには全てがその備わっている。しかも彼のグループ、ザ・ヘップトーンズには彼以外にも素晴らしいシンガーが何人もいた。アメリカのソウル・シンガーたちの張り合える歌い手では飽き足らないかのように、リロイ・シブルズは60年代から70年代の大部分を引っ張りだこのセッション・ベース・プレイヤーとして過ごし、その印象的なベースラインで人々の記憶に数々の曲を刻んでいった。

リロイ・シブルズは文字通り何十ものヒット曲で演奏し、同時にバリー・ルウェリンやアール・モーガンらバンド・メンバーと共にソングライティングも手掛けた。ザ・ヘップトーンズがスタジオ・ワンで名を挙げたのは60年代後期のことで、猥褻な「Fatty Fatty」や純粋無垢なサム・クックのカヴァー「Only Sixteen」がヒットし、その後もシリアスな「A Change Is Gonna Come」「Soul Power」「Heptones Gonna Fight」、さらにはザ・インプレッションズ「Choice Of Colours」の見事なカヴァーなどで彼らの真のスタイルが顕在化していった。

グループは4枚のアルバムと数々のシングルのリリースを経て、1971年にスタジオ・ワンを離れ、多くの70年代レゲエの偉大なプロデューサーたちとフリーランスで仕事をするようになる。リロイ・シブルズの声はこの頃には完全に成熟しており「Love Won’t Come Easy」「Party Time」「Born To Love You」そして「Cool Rasta」といった楽曲の中で展開されるジャマイカ屈指のハーモニー歌唱を通して、その魅力は余すところなく披露された。

ザ・ヘップトーンズは70年代半ばに2枚のアルバムをリリースしている。『Night Food』にはシングルとなった名曲「Country Boy」や激しい「Deceivers」を収録。またバリー・ルウェリンが1890年に書いた詩を引用して哲学的な論文調に仕立てた「Book Of Rules」は、後にオアシスが「Go Let It Out」で拝借した元ネタである。アイランド・レコードからの2作目『Party Time』には、重量級の「Storm Cloud」と「I Shall Be Released」の素晴らしいカヴァーが収録されている。

一度聴けば決して間違えようのないリロイ・シブルズの歌声は、クレジットこそないものの、ジ・アップセッターズの意欲的なダブ・アルバム『Super Ape』に収録されている「Dread Lion」でも聴くことができる。彼は1978年にソロとしてのキャリアを求めてザ・ヘップトーンズを脱退し、その後リリースした「This World」「Garden Of Life」、そして「Choice Of Colours」のリメイクは、このルーツ・ヴォーカリストの技を結集した完璧な標本だ。カナダのマイクロン・レーベルからリリースされた『Now』と『Strictly Roots』、A&Mで制作された『Evidence』は、名匠による至高のモダン・レゲエと呼ぶべきだろう。

シブルズはその後も度々ザ・ヘップトーンズに復帰し、今も世界中に熱狂的なファンを抱えている。彼らが讃える彼の輝かしい声と画期的なベースラインは、世代を超えたレゲエ愛好家たちにとっての礎石となっているのである。

必聴曲:「Deceivers」

Deceivers

 

ベレス・ハモンド:新時代の勢力

モダン・ソウルフル・レゲエを定義するベレス・ハモンドは、ほとんどのシンガーたちが望んでも決して手に入れることのできないレベルの権威へと登り詰め、幅広い層から受け入れられているジャマイカの音楽界では孤高の存在だ。いまや60代に差しかかり、そのレコーディング・キャリアは多少ペースを落としつつあるものの、彼にはいまだ多数のファンが存在し、いざアルバムやシングルをリリースするとなれば、それが及ぼすインパクトは即効かつ絶大なのである。

ベレス・ハモンドがミュージシャンとしてキャリアをスタートさせたのは70年代、まだ10代の時で、数枚のシングルをリリース後、1975年に腕利きたちが集まったザップ・パウに加入した。サム・クックやボビー・ウーマックといったアメリカのヴォーカリストから影響を受けていた彼は、そのソウルフルなスタイルですぐにグループで突出した存在感を発揮し、彼らの個性が詰まったザップ・パウのアルバム(アイランドから1978年にリリース)は彼らの決定的な音楽的ステートメントとなった。

バンドは実に6曲の長尺トラックの中で伸び伸びとした演奏を披露し、そのうちの1曲、華麗な「Last War」にはベレス・ハモンドも作者に名を連ねている。70年代末にザップ・パウのメンバーたちが袂を分かつと、ベレス・ハモンドはすでに芽が出始めていたソロ・キャリアに専念するようになった。彼のファースト・アルバムのタイトルが『Soul Reggae』となったのはいかにもらしい。

彼がソロに転向したのは予測不能な時代だった。80年代のジャマイカの音楽シーンでは急成長を遂げたダンスホールが主流となり、黒人特有の鋼のような、あるいはむせび泣くようなヴォーカル・スタイルのシンガーたちではなく、DJ(ディー・ジェイ=レゲエ・ラッパー)たちが専ら幅を利かせていた。そんな中、ベレス・ハモンドは自主レーベル、ハーモニー・ハウスを設立し、彼のメロディのセンスと新しいダンスホール・サウンドを融合させた3曲の魅力的なヒット「Groovy Little Thing」や「What One Dance Can Do」 そして「She Loves Me Now」を、1985年から86年のかけての長期にわたって、世界中のレゲエ・チャートの頂点へと送り込んだ。

1987年にジャマイカの自宅で悲惨な強盗事件に巻き込まれことがきっかけでニューヨークへと拠点を移した後も、彼は決してジャマイカという島国のヴァイブを失うことはなかった。1989年、マキシ・プリーストとのデュエットによる「How Can We Ease The Pain」が全米TOP50に入るヒットとなり、90年代初期にはジャマイカのペントハウス・レコードと契約を交わし、そこからリリースした「Tempted To Touch」「No More Pain」「Is It A Sign」などのレコードで成功を手にした。

90年代から2000年代にかけての彼の代表曲といえば「Call On The Father」「They Gonna Talk」、そして「I Feel Good」だろう。ベレス・ハモンドが長年に及ぼしてきた影響力がより広く世界に認められたのは、彼が2007年にクリケットのワールドカップ開会式でパフォーマンスを披露した時で、2013年には彼のジャマイカの音楽業界への貢献がジャマイカ勲章として讃えられた。ベレス・ハモンドはこの何十年もの間、変わらずファンを魅了し続けてきた。そして今尚何も変わることなく音楽に全身全霊を捧げ続けているのだ。

必聴曲: 「Call On The Father」(またの名を「Serious」)

Call On The Father

 

ジョセフ・ヒル:気持ちを高めてくれる男

カルチャーのリード・シンガー、ジョセフ・ヒルは、70年代に発表した数々のアルバムでパンクスやヒッピー、そしてルーツ・ミュージックの愛好家たちまでをも熱狂させ、世界中にレゲエ人気を広める立役者となった。ジョセフ・ヒル、ケネス・デイズ、そしてアルバート・ウォーカーの3人によって構成されたヴォーカル・トリオのカルチャーは、1977年のアルバム『Two Sevens Clash』で、レゲエの故郷から遥かに離れた各地でセンセーションを起こし、一躍ブレイクを果たした。

プロデューサーのジョー・ギブスとエンジニアのエロール・Tが作り出したパワフルなリズムに乗って、グループは純然たるラスタを主題にした歌を歌い、中でも「I’m Not Ashamed」や「Natty Dread Taking Over」は当時のアンセムとなった。ジョー・ギブスと共にアルバム3枚分に相当する音源をレコーディングしてしたカルチャーだったが、直後にプロデューサーのソニア・ポッティンガーが所属するヴァージン・レコードと新たな契約を交わし、『Harder Than The Rest』(1978年)、『International Herb』や『Cumbolo』(どちらも1979年)と、時にザ・カルチャーズという名前でクレジットされた数々の気持ちを浮き立たせるようなアルバムを次々に発表していった。リミックス・アルバム『Culture Dub』もこの時期に発表された作品である。

彼らの魅力はどこにあったのだろう?大部分はやはりジョセフ・ヒルの声とアティテュード、彼のエナジーとソウルだろう。苦しみについて歌っている時でさえ、彼の声には奮い立たせるような力があり、彼の感じたままを感じるよう促し、気分を向上させてくれるのだ。誰よりも洗練されたヴォーカリストというわけではなかったし、カルチャーというヴォーカル・グループ自体が決してジャマイカいちスムースというわけでもなかったが、彼らにはそうした精神が備わっていた。彼らのパフォーマンスには、辛い時を生き抜いてより良い世界を見つけようという飽くなき意志が厳然と存在していた。そしてカルチャーを聴く度に、その思いは確実に少しずつ増していくのである。

グループは80年代半ばまでアルバムを発表し続け、彼らがヴォーカル・グループでなくなってからも、ジョセフ・ヒルはその名前を使い続けた。自らのマテリアルをセルフ・プロデュースし、彼は自らのルーツ重視のスタンスを維持しながら、台頭してきたダンスホールに対してもしっかり持ち堪え、数々のアルバムのレコーディングと並行して、自身のプロダクションの旗印の下、シングルの制作を続けていった。

2006年に亡くなるまで、彼はレコーディング・アーティストとして現役を貫いた。カルチャーはこの傑出したシンガーの才能溢れる息子、ケニャッタ・ヒルをフロントマンに迎え、現在も活動を続けている。ただ単に他の誰よりハードなだけではない、ジョセフ・ヒルとカルチャーは誰より聡明で、賢く、生気に溢れていた。

必聴曲:「Stop The Fussing And Fighting」

Stop The Fussing And Fighting

 

マーシア・グリフィス: 私生活でも一緒

レゲエ界において女性が活動する上で何が悩ましいかと言えば、アーティストとしてではなく、あくまでターゲット・マーケット[訳注:市場細分化によって特定化された商品]として扱われることだ。レゲエの世界で生き残るにはひたすら精力的に骨を折り続けるしかなく、第一線に息長く踏みとどまることができた女性アーティストは過去にほんのひと握りしかいない。マーシア・グリフィスはそのひと握りの中のひとりであり、長年、その地位を守るために内なる強さと信念を持ちあわせた女性である。そして、言うまでもなく、彼女は素晴らしいシンガーである。

ジャマイカが生んだ多くの偉大なヴォーカリストたち同様、マーシア・グリフィスは10代になるかならないかの年齢で、スタジオ・ワンでキャリアをスタートさせた。「Funny」「Mark My Word」、そして素晴らしい「Melody Life」と、彼女の初期のレコードはいずれもハイスタンダードな作品ばかりだが、そのどれをもってしても、1968年の大ヒット・シングルで永遠の名曲「Feel Like Jumping」には敵わない。

1969年にハリー・Jレコードに移籍以降は、彼女はより鮮烈さを増した。担当プロデューサーは彼女にザ・ビートルズ の「Don’t Let Me Down」の煌めくカヴァーや、茶目っ気溢れる「Band Of Gold」のカヴァーなど、極上のシングルを与えてはレコーディングさせ、彼女がスタジオ・ワンで一緒に仕事をしていたソウルフルなシンガーソングライター、ボブ・アンディとのコラボレーション作品を継続させた。このデュオは「Young, Gifted And Black」で 1970年に全英チャートNo.1を獲得し、さらにタムラ・レコードがアメリカ国内でのリリースに乗り出すと、アメリカでも飛ぶように売れた。二人は翌年も「Pied Piper」でも大ヒットを記録する。また2人は恋人同士でもあったため「Really Together」のようなロマンティックな作品には彼らの親密さがそのまま表れていた。

1973年、キャリアアップへの意欲に溢れていたマーシア・グリフィスは、プロデューサーのロイド・チャーマーズの下で、「Sweet Bitter Love」や「Play Me」といったソウルフルな良曲をリリースした。その後も全く毛色の違う2人の人物との継続的な関係性が、彼女がそれぞれの道を導いていく。70年代レゲエ界では極めて稀少な存在だった女性プロデューサー、ソニア・ポッティンガーと組み、その成果の賜物である2枚のアルバム『Naturally』と『Steppin’』はいずれもロングセラーとなり、マーシア・グリフィスはボブ・マーリーのサポート・シンガーだったジ・アイスリーズに加入することになる。

これはマーシア・グリフィスにとって世界各地をツアーできるというのみならず、初めて安定した収入を確保し、さらに自分の仕事が正式にクレジットされることを意味していた。加えて、ジ・アイスリーズはグループとしても優れたレコードを作り上げた。

彼女はその後も80年代を通してレコーディング活動を続け、新たなエレクトロニックのリズムと彼女の力強い歌声は抜群の相性を発揮した。1990年にバニー・ウェイラーのプロデュースでリリースされた「Electric Boogie」は、全米シングル・チャートで51位まで上昇。また彼女は同世代の誰よりも多くのデュエット・ラガ・スタイルによる作品を残しており、ペントハウス・レーベルから発表された作品は次々と成功を収めていった。温かく愛らしい声と、強く明確な目的意識を併せ持つ彼女は、現在もレコーディングとツアー活動を続け、敬愛され続けている。

必聴曲:「Steppin’ Out A Babylon」

Stepping Out A Babylon

 

ジェイコブ・ミラー:失われたリーダー

ジェイコブ・ミラーはもしかすると史上最高のレゲエ・シンガーのリストに加えるには必ずしも誰もが認める選択肢ではないかもしれない。その理由は、彼のヴォーカル技術に疑念の余地があるからではなく、彼が1980年に僅か28歳の若さでこの世を去ったために、自身の使命を全うする時間を与えられなかったことにある。だがその残酷なほど短い生涯の間に、彼はポップ・ミュージックの世界に衝撃を与えると共に、この上なく高度なルーツ・チューンを歌いこなす能力があることを証明してみせた。ほとばしるような激情とエナジー、そして常にベストを尽くしていたが、もし長生きできていたなら、レゲエ界最大の国際的なスターになっていたかも知れない。

彼がデビュー・シングル「Love Is A Message」をレコーディングしたのは、まだ甲高い歌声の10代の時だった。1974年になるとアンダーグラウンドのレジェンド、オーガスタス・パブロと仕事を始め、彼のプロデュースによって、いつまでも耳に残る「Girl Name Pat」、思わせぶりな「Keep On Knocking」、そして色あせることのない名曲「Baby I Love You So」など、彼の若さに相反する成熟した魅力が際立つ、優れたレコードを次々に発表していった。「Baby I Love You So」のB面シングルは「King Tubby Meets Rockers Uptown」の強力なダヴ・ヴァージョンで、多くのファンはこれぞルーツ・ミュージックの定義とみなした。だがジェイコブ・ミラーはどこにも長居しようとはせず、ほどなくしてジョー・ギブス (「I’m A Natty」)、チャンネル1(「Bald Head」) とレコーディングの相手を替え、やがて最重要人物であるトミー・カーワンとの出会いから、インナー・サークルというグループと組んで、「Tenement Yard」、「Tired Fe Lick Weed Inna Bush」「Forward Jah Jah Children」などのルーツ・ミュージックの名曲をリリースしていった。

その後、トーター・ハーヴェイ率いるパワフルなファットマン・リディム・セクションを伴い、自らの兄弟であるイアンとロジャー・ルイスをバッキングに迎えた。ちなみにこの2人はジェイコブ・ミラーに引けを取らないほどの堂々たる巨漢だった。そしてインナー・サークルはレゲエ・ヒットを量産し、まさに留まるところを知らない快進撃ぶりだった。その頃までに完璧に成熟していたジェイコブ・ミラー歌声は、ステージで際立った存在感を見せ、アルバム『Jacob “Killer” Miller』は1977年を代表するレゲエ・レコードの一枚となった。

インナー・サークルがアイランドとの契約下でリリースしたゴールド・アルバム『Everything Is Great』からは、レゲエとディスコが完璧に融合と遂げたタイトル・トラックをヒットさせている。だが、レゲエ界の次世代を担う世界的アイコンというステータスを欲しいままにしようとしていた矢先、ジェイコブ・ミラーはボブ・マーリーのタフ・ゴングにほど近い、キングストンのホープ・ロードで、自動車事故により命を落としてしまった。彼の短い生涯には実に盛りだくさんの出来事がぎっしり詰まっていた。だが、生前の彼のとてつもないエネルギーから、もし何事もなく生きていたならどれほどのことを成し遂げただろうかと思いを巡らせざるを得ないのだ。

必聴曲:「Everything Is Great」

Everything Is Great

 

デスモンド・デッカー:ザ・パイオニア

レゲエ界が生んだ最初のメジャーな国際的ヒット・メイカーであり、60年代後期から70年代初期にかけて全英と全米の両チャートを賑わせたスター、デスモンド・デッカーは、成功のために妥協をするようなことは一切なかった。「Israelites」「007」、そして「It Miek」といった彼の曲は世界中の一般家庭の主婦や小学生たちにまで口ずさまれるほど親しまれたが、それはいずれもジャマイカ人の生活と文化の縮図であり、歌詞があえてジャマイカ訛りで歌われていたという端的な事実ひとつ取っても、デスモンド・デッカーがジャマイカの貧困のことなど何ひとつ知らないオーディエンスを購買層として獲得できていたことは、実に驚くべきことのように思える。

親しみやすさは時に侮りを生むもので、デスモンド・デッカーの声の素晴らしさは評価の対象となることなく聞き流されることも多かった。1967年、街の荒くれ者たちが暴力で混乱状態をつくり出し、兵士たちが彼らを排除しようとしている場面を客観的に見つめる視点から書かれた「007 (Shanty Town)」の諦めに満ちたトーン、そしてダークで何とも異様な雰囲気の「Fu Manchu」における、疼くようなハイ・テナーを、そして秩序を求める祈りを誰かに聞き入れて欲しいという「It Pays」での彼の懇願を、あるいは「Intensified」での歓喜を聴いてみて欲しい。デスモンド・デッカーはまさしくその道の達人と呼ぶに相応しかった。

彼の最高傑作は、1963年から彼のプロデュースを手掛けたレズリー・コングとの作品で、彼はこの年にキングストンにあるレズリー・コング所有のアイスクリーム・パーラーで行なわれたオーディションで見出されたのだった。初期の作品はアイランド・レーベルとの販売店契約によってイギリスでもリリースされ、その後1966年に系列レーベルのピラミッドへと移籍する。彼はここで一気にキャリアを開花させ、時にバッキング・ヴォーカル・グループのジ・エイセズを従えながら「Pickney Girl」「It Miek」「Israelites」といった数々のヒットを飛ばし、更にトロージャンに移ってからは、オリジナルが圧倒的に多い彼のカタログにおいては珍しいジミー・クリフの「You Can Get It If You Really Want」カヴァーをチャートへと送り込んだ。

ボブ・マーリーが全世界的なブレイクを果たすまで、「Israelites」で全米チャート9位、全英チャートで見事首位を獲得した彼は、レゲエ界随一の国際的スターだった。だが、レズリー・コングが1971年に38歳の若さで亡くなると、デスモンド・デッカーは彼と同じくらいに自分を理解してくれるプロデューサーにはなかなか巡り合うことができず、過去の名盤の再発はチャートインするも、新たなヒットは途絶えがちになってしまった。

スティッフ・レコードで挑んだ2トーン時代のスタイルをアップデートしようという試みも、残念ながらかつての栄光を取り戻すには至らなかったが、それでもライヴ・アクトとしての人気には根強いものがあった。レゲエには絶大な海外でのポテンシャルがあり、レコードを売るために自分の魂まで売る必要はないことを、その生涯を賭けて証明してみせたデスモンド・デッカーは、2006年にこの世を去った。

必聴曲:「007 (Shanty Town)」

Desmond Dekker – 007 (Offical Music Video)

 

アルトン・エリス:快進撃は止まらない

ロックステディがスカを一掃した60年代半ば、スロウでよりソウルフルなこのダンス・スタイルには2人の重要人物が存在した。ひとりはケン・ブース、そしてもうひとりがアルトン・エリスである。どちらもこの上なくソウルフルだったが、慎重で抑制的で、自らの感情をしっかりと掌握していたケン・ブースに対し、アルトン・エリスのアプローチは感情剥き出しで粗削り、痺れるほどに刺激的だった。それはまるで彼が自分の感情を表現するために与えられた時間はほんの数分で、だからこそ毎回伝えるべきことを余すところなく伝えきろうという必死の決意にも思えた。

アルトン・エリスがそのキャリアをスタートさせたのはエディ・パーキンスとのデュオで、バラード・ナンバー「Muriel」はジャマイカ国内でヒットを記録した。「Dance Crasher」や「The Preacher」といった、ストリート・ギャングを非難するスカを歌う時もパワフルだったが、彼が本格的に個性を発揮し始めたのは、66年にロックステディがレゲエ・シーンに台頭してきてからのことで、トレジャー・アイルとの契約後はソロとして、またバッキング・シンガーにザ・フレイムスを迎えて、レーベルきっての稼ぎ頭として育て上げられた。「Cry Tough」 「Rock Steady」「Can’t Stop Now」「Ain’t That Lovin’ You」 「Girl I Got A Date」「Breaking Up」などはいずれもジャマイカの音楽界では長く歌い継がれている定番曲である。

トレジャー・アイルとスタジオ・ワンという、60年代ジャマイカを代表する2つの偉大なライバル・スタジオの間を行き来しながら、自らの魂を自由に解き放ちたいという癒えることのない欲望を叫んで次から次へとヒットを飛ばすアルトン・エリスは常に引っ張りだこだった。更に切迫感のあるレゲエのビートが台頭してくると、彼は「La La Means I Love You」「Live And Learn」、そして「Tumbling Tears」を立て続けにチャートに送り込み、70年代に入っても快進撃が続いた。彼のセカンド・アルバム『Sunday Coming』(1971年)は、最初から最後まで一切捨て曲がなく、当時の彼のライヴ・アクトの素晴らしさが伝わる、アメリカ人アーティストたちに引けを取らないくらいの素晴らしいエンターテイメントに溢れる作品に仕上がっていた。

70年代前半、彼は「Lord Deliver Us」「Arise Black Man」そして「Back To Africa」など、自らの思想と情熱をたっぷりと盛り込んだ文化的なレコードを何枚もリリースした。イギリスへ拠点を移してからは、レゲエの中心からは少し外れてしまったように感じられるところがあったものの、「Rasta Spirit」や、素晴らしくゆったりとした「Reggae With You」といった優れた作品を幾つも世に送り出し、デジタル・ラガが台頭してくると、いち早くそのスタイルを採り入れたチューンをレコーディングした。

90年代から2000年代になると、彼のライヴは彼自身とジャマイカの音楽がこれまで経験してきた全ての粋を集めた祝祭と同義となった。彼は2008年に70歳でこの世を去ったが、その生涯をかけて多くのファンに人生最高の音楽体験を与え続けた。

必聴曲:「I’m Still In Love 」

I'm Still In Love

 

デニス・ブラウン:レゲエ界の王位継承者

レゲエ界の王位継承者という肩書を与えられるべきシンガーはこの世にたったひとりしかいない。それはデニス・ブラウンである(誰が王様かはお察しの通り)。彼のキャリアが始まったのは12歳の時、スタジオ・ワンで行われたタレント・コンテストでプロデューサーのデリック・ハリオットに見出されたことがきっかけだったが、デリック・ハリオットは彼をすぐにスタジオに入りさせず、実際にデニス・ブラウンにとってのデビュー・シングルは、デリック・ハリオットが彼に教え込んだヴァン・ダイクスの「No Man Is An Island」で、それを皮切りに、彼はまだその幼さの残る声で一人前の大人の歌を歌いこなし、スタジオ・ワンで「Easy Take It Easy」「Perhaps」「If I Follow My Heart」といった数々のヒットの実績を積み上げて行く。

当時アメリカにはマイケル・ジャクソンという若きスターがいたが、ジャマイカにはデニス・ブラウンがいた。そんな中、仕事に没頭するようになったデニス・ブラウンは、ルーツ・ミュージックにも果敢に挑むようになる。彼の3作目のアルバム『Super Reggae And Soul Hits』は、彼が本領発揮した良曲の宝庫だ。

デニス・ブラウンは瞬く間にレゲエ界で引っ張りだこになり、「Money In My Pocket」の最も初期のヴァージョンをヒットさせると、フリートウッド・マックの「Black Magic Woman」の見事なカヴァーをレコーディング後、「Cassandra」をはじめ、アル・グリーンがメンフィスでウィリー・ミッチェルのプロデュースによって生まれたグルーヴをベースにした「Westbound Train」等、プロデューサーのナイニー・ジ・オブザーバーの下で制作した 焼けつくような作品を次々にチャートへ送り込んだ。

こうしてデニス・ブラウンは、70年代を通して、後の時代も不朽の名盤と称されることになる、『Visions Of Dennis Brown』『Words Of Wisdom』『Just Dennis and Wolf And Leopards』といったアルバムを残していく。さらにDEB(彼のイニシャル、デニス・エマニュエル・ブラウン)の刻印入りの自らのプロデュース作品を発表したり、他のアーティストたちの作品のリリースにも乗り出した。デニス・ブラウンが全英チャートでようやくスマッシュ・ヒットを記録したのは1978年、「Money In My Pocket」のセカンド・ヴァージョンでのことだったが、もっと多くのヒットが出ていても不思議ではなかった。

80年代に入っても、デニス・ブラウンは相変わらず最高の作品をつくるための努力を惜しまず、忠実なファンたちが集まるライヴ・ショウでも常にベストを尽くしていた。時代の趨勢と共に、デジタル・ダンスホールが幅を利かせるようになっても、プロデューサーのキング・ジャミー(The Exitまたの名をヒストリー)とガシー・クラーク(グレゴリー・アイザックスの「Big All Around」も手掛けたゴールデン・コンビ)の助けも借りながら見事に乗り切って見せた。

90年代に入ると健康問題が影を落とし始めたものの、彼は仕事量を減らすことを拒み続け、1999年、肺炎から肺気胸を併発して命を落としてしまった。直接の死因が心不全と聞いて、驚くファンはいなかった。何しろ彼は長年ファンのために、文字通り心臓も張り裂けんばかりの声で歌い続けてくれていたのだから。彼に続こうとするジャマイカのシンガーは少なくないが、デニス・ブラウンは後にも先にもただひとりなのである。

必聴曲:「Here I Come」
https://www.youtube.com/embed/Kf_EhIH2Yt8

 

Written By Reggie Mint



Share this story
Share
日本版uDiscoverSNSをフォローして最新情報をGET!!

uDiscover store

Click to comment

Leave a Reply

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Don't Miss