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史上最高のレゲエ・プロデューサー10人:ジャマイカの音楽遺産を築いた先駆者たち

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史上最高のレゲエ・プロデューサーたちは、新しいサウンドやレコーディング技術を開拓しただけでなく、ジャマイカが世界的スターを生む能力を備えた国として認識されていくために尽力した。ヒップホップの種を蒔き、“ヴァージョン”を取り入れ、他の国の誰にも真似できないような、非常に個性的な音楽を創造するのに一役買った史上最高のレゲエ・プロデューサーたちは、音楽史を代表する音楽の革新家らと肩を並べて讃えられるべきなのだ。

ここに史上最高のレゲエ・プロデューサーをご紹介しよう。皆さんの大好きな人物が入っていなかったとしたら、コメント欄までご一報を。

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1. デューク・リード

典型的なサウンドマンからプロデューサーへと転身を遂げたデューク・リードは、キングストンの警官としてのキャリアを経て、音楽の世界へ進み、世界屈指のレゲエ・プロデューサーの座に昇りつめていった。そんな彼がレゲエ・ビジネスが投げ掛けてくるものを何でもこなしていく逞しさを持っていたことは明らかで、警察の職を離れた後、デューク・リードと彼の妻は酒屋“トレジャー・アイル”の経営を始め、50年代半ばからは自らの情熱を追い求め、サウンド・システムを立ち上げた。

彼のシステム“デューク・リード・ザ・トロージャン”は、潤沢な資金のお陰で高性能を誇り、デューク・リードはアメリカへ行っては、ライバル達が一度も耳にしたことのないようなR&Bナンバーを買い付け、新たなビジネスの最前線に立つようになる。50年代後半、洗練されたR&Bサウンドがソウルへと移行していくと、デューク・リードは“トレジャー・アイル・レーベル”を立ち上げ、自らが選ぶサウンドのファンが喜ぶであろうスタイルで独自のレコードを制作し始めた。その後酒屋と同じ建物内にレコーディング・スタジオを併設すると、彼の店に並んだレコードはミュージシャン達の心を満たしていった。彼はグルーヴィーで、巧みなアレンジが施されたメロディックな作品を好んだ。アレンジャーとして、ギタリストのリン・テイトとサックスマンのトミー・マクックを雇い、レコーディング・エンジニアのバイロン・スミスは、彼が理想としたクールで華やかなサウンドを創り出していった。

スカ時代には、デリック・モーガン、ザ・テクニクス、ドン・ドラモンドらの素晴らしい作品を世に送り出していったトレジャー・アイルが本領発揮したのは、デューク・リードと彼のレーベルに所属するミュージシャン達の価値観が合致し、そのスロウで優しいなサウンドが誕生した60年代半ばからだった。その勢いにのって、1967年にはそのサウンドにちなんで名づけられた“トロージャン・レコード”が、彼の作品をイギリスでリリースするために設立された。彼はザ・パラゴンズ、ザ・メロディアンズ、ザ・センセーションズといったヴォーカル・グループのレコーディングにおいて優れた才能を発揮し、アルトン・エリス、フィリス・ディロン、ジョン・ホルトらの魅力的なレコードを制作していった。

一方で、屈強な男として有名だったデューク・リードは、銃を携帯しながら金銭交渉を行なったり、自分のスタジオで聴く音楽を気にいらない時には、この武器を発射し、自らの思いをみんなに知らしめたと言われている。その実、感傷的で、甘くロマンティックな音楽を好んだ彼は、暗い歌詞や、ラスタ哲学に傾倒した楽曲はスタジオ内で認めず、日常的に却下していたという。

しかしながら、彼がレゲエの先駆者としての貢献を果たし、史上最高のレゲエ・プロデューサーとしての地位を容易に手に入れたのは、ラスタ系DJであるユー・ロイと、キング・タビーのサウンド・システムでレコーディングするようになってからだったという事実は、皮肉な話でもある。デューク・リードの後に続いたプロデューサー達はこぞって彼を真似てレコーディングを試みたが、彼の技を正確に捉えることは出来なかった。デューク・リードは、ユー・ロイに独自のリズムを創り出す自由を与え、結果的にそれが1970年から1971年にかけてジャマイカで大評判を呼び、ヒップホップの原点となった“ロックステディ”へと発展した。

1972年頃になるとレゲエは変貌を遂げ、トレジャー・アイルは、よりヘヴィーでスカっぽいなサウンドに歩調を合わせるのに四苦八苦するようになる。そんな中、体調を崩していったデューク・リードが表舞台に出る機会は徐々に減っていき、その後1975年に癌により死去した。しかしながら、サウンドマンとして、その音楽に対する姿勢を世に知らしめ、レゲエがラップへと発展していく“ロックステディ”というサブジャンルを確立するのに一役買った彼のレガシーは偉大である。彼が成し遂げた功績はどれかひとつとっても、史上最高のレゲエ・プロデューサーと呼ばれるに相応しいものなのだが、彼はそれを3つもやってのけたのだ。

お勧めの1曲: ユー・ロイ「Wake The Town」

Wake The Town (1990 Digital Remaster)

 

2. コクソン・ドッド

クレメント・シーモア“コクソン”ドッドは、自らの作品を管理するためには、生産手段を徹底しなければならないことを悟った初のジャマイカ人プロデューサーのひとりだった。自身のスタジオを設立し、そこでレコードを制作し、レコード店も経営していたコクソン・ドッドは、自ら発掘した才能の作品のプロデュース、時にはミキシングまでを手掛け、そうして完成した作品を独自のサウンド・システムで聴いていた。

そんな中、マルチ・トラック・レコーディングのメリットを理解していた彼は、60年代半ばから別々のチャンネルでヴォーカルをミックスするようになり、結果、フレッシュなヴォーカルやインストゥルメンタルを起用した新たなレコードの制作に、広く知られたリズム・トラックを取り入れていく。こうして彼はダブ・ミュージック、DJミュージック、広くはヒップホップやリミキシングの先駆者のひとりとなり、史上最高のレゲエ・プロデューサーとしての地位を獲得していった。音楽業界で50年以上にも渡って多くの才能を発掘し、何千枚というレコードをリリースしていった彼が所有した多くのレーベルの中でも、とりわけ“スタジオ・ワン”は、しばし“レゲエのモータウン”と呼ばれている。レゲエ・ファンにコクソン・ドッドについて尋ねたなら、誰もが彼こそがレゲエの中心的人物だったと答えるだろう。

お勧めの1曲: マルシア・グリフィス「Feel Like Jumping」

Studio One Rockers – Marcia Griffiths – Feel Like Jumping

 

3. ダンディー・リヴィングストン

ダンディー・リヴィングストンは、70年代初頭のイギリスで「Suzanne Beware Of The Devil」と「Big City」をヒットさせたシンガーとしてよく知られているが、その後10年間は徐々に姿を消してしまったため、時代屈指のレゲエ・プロデューサーとしてもてはやされることになる人物としては、不運な道を辿ったといえる。彼は、レゲエ・ビジネスが事実上まだ存在しておらず、需要もなかった60年代から70年代にかけてのイギリスのレコード業界において一匹狼だった。

1943年、本名ロバート・リヴィングストン・トンプソンとして、ジャマイカで生まれ、15歳の時にイギリスへと移住した彼は、常に音楽に夢中な少年だった。60年代初頭に、プレーントーン・レーベルからリリースされたシングルの売れ行きは芳しくなかったが、シュガー・シモンとシュガー&ダンディー名義で制作したレコードはより良い結果を残し、ダンディー・リヴィングストンは様々なレーベルから自らプロデュースも手掛ける作品をリリースするようになる。その後1967年には、スカ・ビートと契約を交わし、自身にとっての代表作のひとつとなる「Rudy, A Message To You」を発表した。さらに彼はそれに続く「You’re No Hustler」、そしてボニーという名のシンガーによるこの曲のアンサー・ソング「Did You Get The Message」もプロデュースしている。

ジャイアント・レーベルからリリースされた、ソロ・アーティストとしての一連のシングルと、彼がプロデュースを手掛けた他アーティストの作品を聴けば、ダンディー・リヴィングストンの音楽スタイルが進化を遂げていっているのは明確である。その後、トロージャン・レコードから数枚のシングルと、ダンディー&アンドリュー名義のオードリー・ホールのアルバムを発表後、自身が委ねられたダウンタウン・レーベルからは、「The Wild Bunch」などの素晴らしいインストゥルメンタル曲や「Can’t Help From Crying」といったバラード楽曲、トニー・トライブによる「Red Red Wine」のヒット・カヴァー、そしてレゲエ・ラッパーの先駆者としての自らの作品(ボーイ・フライデー名義でリリースした)等々、彼が望むものはほぼ全てリリースした。当時のレゲエ・シーンで話題になっていた作品の裏側にはダンディー・リヴィングストンいた。

自分名義の作品が2曲もチャート・ヒットしたにもかかわらず、トロージャンが金銭問題に見舞われていたことに不満を募らせたダンディー・リヴィングストンは、70年代末まで数々のレーベルの仕事をこなし、“コンシャス”ソングや驚くほどへヴィーなダブをレコーディングした。その後、70年代後半にイギリスを後にしていたが、この数年間はライヴを行なうために再びイギリスへ戻っている。では彼がなぜ、史上最高のレゲエ・プロデューサー達と肩を並べるに値するイノベーターなのか?それは彼が、レゲエの伝統も、黒人所有のスタジオもなければ、率直に言ってレゲエへの関心などほとんどなかった当時のイギリスにおいて、度重なる災難に見舞われる詐欺師や労働者、不安を抱えた恋人達が登場するブラック・ストリート・ライフを、機知に富んだ内容で表現した多くの作品を発表しているからだ。彼は過小評価されている人物でもある。

お勧めの1曲: ダンディー・リヴィングストン「Rudy, A Message To You」

Rudy, a Message to You

4. リー“スクラッチ”ペリー

60年代後半から70年代後半まで、レゲエ界の最先端に立ち、その後も流浪のパフォーマンス・アーティストとして、音楽シーンそのものの最先端で活躍してきたリー“スクラッチ”ペリーは、レゲエ界のみならず、音楽界きってのプロデューサーである一方で、がなり立てる少しばかりクレイジーなおやじだと思われている節もある。

60年代初期のスカ時代には、シーンの常識を覆そうと、スタジオ・ワンでわいせつな曲をレコーディングしたりと、活動当初から忙しい人物だった。1966年にスタジオ・ワンを離れてからは、他のプロデューサーと組み、ライバル達をこき下ろすような作品を発表した後、アップセット・レコードに続き、1968年にはアップセッター・レーベルを設立した。リー・ペリーの作品はスキンヘッド(1960年代にイギリスのロンドンの労働者階級の若者の間で生まれたサブカルチャーのメンバー)達に気に入られ、ホンキングなインストゥルメンタル曲「Return Of Django」がヒットしたが、彼の革新はこれが始まりに過ぎなかった。彼が手掛けたザ・ウェイラーズの作品は、どれも彼のセンスが光るファンキーなものばかりで、彼らが共作した曲の多くは、ボブ・マーリーのその後の名声の礎となった。まるでスクラッチするかように歌うボブ・マーリーの成熟したヴォーカル・スタイルは、リー・ペリー作品からの賜物と言える。

常に遊び心に溢れていたリー・ペリーは、自身の作品にジョークを織り交ぜることにこの上ない喜びを感じ、また、レゲエにドラム・マシーンを起用した先駆けだったことも彼が史上最高のレゲエ・プロデューサーのひとりに名を連ねた理由のひとつである。リー・ペリーが1973年に設立したスタジオ“ブラック・アーク”は、当初から唯一無二の雰囲気を醸し出していた。彼は、最初は原始的で、ほとんど楽器を使っているとは思えない不気味にも感じられるその霧がかったようなサウンドから、豊かな音色に溢れたレコードを創り出していった。

卓越したサウンド・エンジニアでもあったリー・ペリーは、計り知れない奥深さを秘めた立体的で厚みのあるサウンドを切り開いていく。最初の数年間は、テープに収録された仮タイトルしかないナンバーをわずか3曲しか生まなかったスタジオだったことを考えると(彼はこれらを「Father, Son and the Holy Ghost」と呼んだ)、これはかなりの離れ業だ。70代半ばの絶頂期に手掛けたザ・ヘプトーンズ『Party Time』、ジュニア・マーヴィン『Police And Thieves』、ジョージ・フェイス『To Be A Lover』といった素晴らしいアルバムは、イギリスではアイランド・レコードからリリースされた。しかしながら、過剰なものを求める自身の傾向は大きな負担となり、より拘った作品を生もうとするばかりに、リー・ペリーは実際に作品をリリースする時間よりも、完璧なものを追求することに果てしない労力を費やすようになった。そして70年代末には燃え尽きてしまった彼は、スタジオを閉め、その数年後に世界を飛び回る現在のキャリアをスタートさせた。リー・ペリーがブラック・アークで魔法のように作り出したあの神秘的な音楽を、多くの人が再現しようと試みてきたが、それを完全に成し遂げた者はひとりもいない。

お勧めの1曲: ボブ・マーリー・アンド・ザ・ウェイラーズ「Smile Jamaica (Single Version)」

Smile Jamaica (1978) – Bob Marley & The Wailers

 

5. キング・タビー

キング・タビー(オズボーン・ラドック)が名を上げたのは、プロデューサーとしてではなく、リミックス・エンジニアとしてだった。70年代には、キングストンはウォーターハウスのゲットーに自ら建てた小さなミキシング設備で、他のプロデューサーのためにテープのヴォイシングkからリミックスまでを担う、事実上のプロデューサーとして活躍しつつ、60年代から70年代にかけては、自身のサウンドシステム“ホームタウン・ハイファイ”を運営しながら、大音量の音響品質な提供する重要なサウンド・システム・オペレーターでもあった。

彼は、エフェクト満載でレゲエ・ミュージックの基本的要素となるダブ発明において中心的役割を果たし、トースティング技法を完成させた人物で、しばしば“ラッパーの元祖”と評されるユー・ロイが、彼の創り出すサウンドのMCを担当した。たが、キング・タビーが史上最高のレゲエ・プロデューサーのひとりとなる理由はこれだけではない。80年代半ばには、スチームパンクで別世界のものとも思える非常にエッジーなエレクトロニック・ラガを専門に扱う、自身初のレーベル“ファイヤーハウス”を立ち上げている。彼の革新的な活動がプロダクションとして評価されてなかったとしても、80年代において彼が成し遂げた偉業だけで、このリストに入るに値するものだ。

お勧めの1曲: アンソニー“レッド”ローズ「Tempo」

Anthony Rose – Tempo (Jamaica, 1985)

 

6. キング・ジャミー

キング・ジャミーことロイド“ジャミー”ジェームスは、サウンド・システム・オペレーターとしてその音楽キャリアをスタートさせ、一時期はアメリカで働いていたが、70年代半ばに、キング・タビーの見習いとしてタビー・スタジオで働くために帰国。そこで“プリンス”の肩書を手に入れ、人目を引く刺激的なダブ・リミキサーとして活躍した。70年代末にジャミーズ・レーベルを立ち上げたキング・ジャミーは、ヤビー・ユーとの仕事によって、ブラック・ユフルが世に知られるきっかけを作っていく。たが実際に彼がレゲエ界の先頭に立ち、時代を代表するレゲエ・プロデューサーとしての地位を確立したのは、1985年になってからだった。

ある日、彼が仕事を共にしていたダンスホール・シンガーのウェイン・スミスが、カシオ・エレクトロニック・キーボードをいじっている時に、ロックンロール・ビートにも似た、自動プログラミングされたリズムに辿り着いた。ウェイン・スミスはこのリズムを軸にした曲を書き始め、出来たものをキング・ジャミーに持って行ったところ、彼はそれをよりレゲエ調にする為にペースを落とし、そこへパーカッション要素を取り込んだ。ジャマイカから生まれたどのレコードとも異なる、その「Under Me Sleng Teng」サウンドは、センセーションを巻き起こしていく。こうして“デジタル”音楽に注力していったキング・ジャミーは、自らをプリンスからキングへと昇格させ、80年代のレゲエ界で最も活躍したプロデューサーとしてその名を馳せていった。彼の洞察力と取り組みなくしては、シンセティックなサウンドが主流になりつつあった当時の音楽シーンの中で、レゲエは置いて行かれてしまったに違いない。

お勧めの1曲: ウェイン・スミス「Under Me Sleng Teng」

Under Me Sleng Teng

 

7. ハリー・ムーディー

デビューから数十年が経つ現在も音楽業界で活躍しているハリー・ムーディーだが、だからと言って彼が多作なプロデューサーだというわけではない。このリストに登場する何人かとは異なり、彼の作品が市場を埋め尽したことはなく、そのリリース頻度もごく控え目で、次から次へと作品を制作するよりも、ひとつひとつの作品にじっくり取り組むことを好んだ。それでもハリー・ムーディーは、なぜレゲエが他の音楽と同等の音楽的、作品的価値を持たないのかと、思い切って自問した人物として、史上最高のレゲエ・プロデューサーのひとりに数えられるに相応しいのだ。

ハリー・ムーディーは60年代末にの自身のレーベル“ムーディスク・レーベル”を設立した。彼はデニス・ウォークスやロイド・ジョーンズといったシンガーと素晴らしいレコードを制作し、70年代を代表する重要トーキング・アーティストであるアイ・ロイの作品を初めてレコーディングしたプロデューサーでもあった。次第にベーシックなリズムや、スカンク・レゲエを制作するだけでは物足りなくなったハリー・ムーディーは、自身の録音テープをイギリスへと持って行き、アレンジャーのトニー・キングにそこにオーケストレーションを足すように依頼する。結果、ヘヴィーなボトムエンドに支えられたシルキーで贅沢な音楽が誕生した。それも、レゲエに必要不可欠な要素を何ら失うことなく(ロイド・ジョーンズの「Rome」を、何千人ものスキンヘッド達が購入したことでも分かるように…)。

また、ハリー・ムーディーが手掛けたジョン・ホルトのアルバム『Time Is The Master』の入念に練り上げられたサウンドには、天才的ひらめきが詰まっており、ジョン・ホルトはこの作品でイギリスのポップ界で名声を得ることになる。更に70年代半ばには、アルバム『Dub Conference』3部作をキング・タビーにミックスして貰い、いま聴いても感心するようなサウンドを生み出し、ストリングスとへヴィー・ルーツは噛み合わないと思っている人々に対し、それが可能なことを証明した。ハリー・ムーディーはリズム・トラックの権威として今も現役でリミックスとヴォイシングを手掛け、このいわゆる音楽のリサイクリングで、“ヴァージョン”のキングのひとりとして知られる。そんな彼の座右の銘は「我々は音楽を作っている、騒音ではなく」である。

お勧めの1曲: ハリー・ムーディー・ミーツ・キング・タビー「Dub With A Difference」

Dub With a Difference

 

8. レスリー・コング

同時代のプロデューサーたちが騒々しく、より個性を前面に出した奇抜なレコードを作り、輝かしい成功を手にしようとしていた中、レスリー・コングは違っていた。彼は単純に、ジャマイカという国が、世界のポップ・チャートで競い合い、それに足る本物のスターたちを生み出すだけの人材が揃っていることを証明することに日々切磋琢磨していたのだ。とはいえ、彼が創り出していたのは純粋なレゲエに他ならなかった。

レスリー・コングはボブ・マーリー、デスモンド・デッカー、ジミー・クリフ、ジョン・ホルトといったジャマイカで最も高く賞賛されるアイコニックなシンガーたちを輩出していった。中国系ジャマイカ人の中流家庭に生まれ、“ベヴァリーズ”というアイスクリーム・パーラーを共同経営していたレスリー・コングは、若く希望に満ち溢れたジミー・クリフが「Dearest Beverley」という名の曲を彼に持ち込んできたことがきっかけで、同名のレーベルを立ち上げた。

その後は、ジミー・クリフがパーラーに連れて来たボブ・マーリーと共に、数枚のシングルをレコーディングし、それらの作品は当時創設されたばかりだったイギリスのアイランド・レコーズとライセンス契約を交わしていた。その後もデスモンド・デッカー&ザ・フォー・エーシズのレコーディングを手掛け、「007」、「It Miek」、「Israelites」等々、レスリー・コングが手掛けたデッカー作品は、1967年から、自身が共同経営していたイギリスのピラミッド・レーベルにヒットをもたらした。

その後も、彼が手掛けたデリック・モーガンの作品が、レゲエ市場で好セールスを記録し、ザ・メイタルズのシングル「Monkey Man」や「54-46 That’s My Number」がイギリスで何千枚ものセールスを記録。ザ・パイオニアーズの「Long Shot Kick The Bucket」、ザ・メロディアンズの「Sweet Sensation」と「Rivers Of Babylon」、そしてジミー・クリフの「Wonderful World, Beautiful People」はじめ、1967年から1970年の間に世界的にヒットしたレゲエ・レコードの多くは、レスリー・コングがプロデュースしたものだった。レゲエ・ヒットが世の中的にはまだ珍しかった時代に、レゲエが他の音楽同様に優れていて商業的だということを証明したレスリー・コングは、世界屈指のレゲエ・プロデューサーという名誉を手に入れた。彼はレゲエの価値が線香花火のように消えるものではなく、持続的であることを知っていたのだ。彼が創り出すサウンドはこざっぱりしていて、ファンキーで、ピクルスの蓋くらいにタイトだった。その勢いを止めるものなど何もないと思われていた矢先の1971年、レスリー・コングは39歳の若さで、心臓発作により悲劇的な死を遂げた。

お勧めの1曲: トゥーツ・アンド・ザ・メイタルズ「Pressure Drop」

Pressure Drop

 

9. キース・ハドソン

ミステリアスなバックグラウンドを持つキース・ハドソンは(過去の職歴のひとつに“ゲットーの歯医者”がある)、若い頃からレコード制作を始めた。ユー・ロイを初めてレコーディングしたプロデューサーだった彼は、ファンキーな音楽を生み、オーソドックスなヴォーカリストと呼ぶには程遠かったが、自身も歌を歌った。彼のレコード・レーベルには、“リバインド”や“インビディミィッツ”等、ほとんどの人が理解出来ないような名がついていた。彼はプロデューサーのキース・ホブソンと共に活動していたが、実際に2人一緒の写真が公開されるまで、関係者はその名を単純にキース・ハドソンのペンネームだと信じ込んでいたそうだ。

しかし何より、素晴らしいレコードを作り、世界屈指のレゲエ・プロデューサーとして、レゲエ音楽の心と魂と骨身を引き出す為のアーティスティックな探究に熱中していたキース・ハドソンは、『The Black Morphologist Of Reggae』(モーフォロジー/形態論とは、言葉を構成する仕組みの研究)という名のアルバムまでリリースした。これは『From One Extreme To Another』というぴったりのタイトルでも知られていた。

また、常々感情を極限まで押し上げる音楽を探究していた彼は、パワー・コードをプレイするファズボックス・ギターを展開させ(デルロイ・ウィルソンの「Adisababa」)、レコーディング時にシンガーをマイクの間近で歌わせ、まるで耳元で囁いているようなサウンドを創り出した(アルトン・エリスの「You Are Mine」)。また自身の「Satan Side」やホレス・アンディの「Don’t Think About Me」等、70年代初期の最もディープでヘヴィーなレコードも世に送り出している。

そんなプロデューサーとしての才能に恵まれていたキース・ハドソンが、他のアーティストと仕事をするのを止め、自身のレコーディング・キャリアに集中する決意をしたことはファンを驚かせた。彼の作品には、非常に親しみやすく、時には長閑で、実に独特な『The Black Breast Has Produced Her Best, Flesh Of My Skin Blood Of My Blood』(1974発表。ほぼ全編をロンドンでレコーディングした)や、1976年にヴァージン・レコードからリリースされた『Too Expensive』(メジャー・レーベルからの唯一のLP)等がある。

70年代の終わり頃になると、再び他のアーティストをプロデュースすることに強い興味を持ち始めた彼は、ミリタント・バリーのパンク調レゲエ・ナンバー「Pistol Boy」や、アルトン・エリスの「Rhodesia」などのプロデュースを手掛けた後、80年代初頭にニューヨークへ移住し、1984年に肺癌でその短い人生を終えるまで、数多くの作品を世に送り出していった。このリストにある他の素晴らしいレゲエ・プロデューサーたち同様に、キース・ハドソンが手掛けた作品の大半は、音楽的ファッションや特定の時代の流行とは無縁なサウンドだっため、決して時代遅れになることはなかった。常に新しいことに挑み続けた、キース・ハドソンの唯一の関心事は、その心の中にあるものを表現することだった。

お勧めの1曲:キース・ハドソン「Civilisation」

Civiliation

 

10. ルーピー・エドワーズ

60年代末から70年代半ばまでジャマイカ・レゲエの中心人物として、一連のレコード・レーベルを所有し、力強いヴォーカリスト、ピアノとパーカッションのプレイヤー、70年代初期にはジャマイカの音楽雑誌「Record Retailer」の出版者として活動していたルーピー・エドワーズが自身の販売店をキングストンの有名な音楽通り、オレンジ・ストリートで経営していたのは尤もらしい。

ルーピー・エドワーズはグレゴリー・アイザックスの初期のレコードをはじめ、ジョニー・クラーク、ドビー・ドブソン、ケン・パーカー、ジ・エチオピアンズ等々、多くのアーティストのビッグ・ヒットをプロデュースし、グラス・ルーツとアップタウン・リスナー達の両者を満足させるような、クールで歯切れの良いサウンドを得意とした。

しかし、この多作で音楽に非常に熟練したプロデューサー兼アレンジャーが、史上最高のレゲエ・プロデューサーのひとりに挙げられる理由はふたつある。彼名義のシングル「Ire Feelings (Skanga)」は、イギリスでヒットを広くした初の(そして多くの人は唯一の、と言うだろう)ダブ・レコードであり、多くのファンはこの時初めてこのディープでヘヴィーな音楽世界に触れた。更に彼は、レゲエ・プロデューサー達が新しいミックスを使い、ヴォーカルやラップやエフェクトを足しながら、同じリズム・トラックで異なるカットを作り出す、“ヴァージョン”の台頭において極めて重要な役割を担った。

抜け目のないプロデューサーだったルーピー・エドワーズは、ザ・ユニークスの「My Conversation」のためにバニー・リーからリズム・トラックを買い取り、試行錯誤しながら全編で「My Conversation」のリズムを採用し、極めて多様な楽曲のみで構成されたアルバム『Yamaha Skank』をプロデュースした。この形態のアルバムは、その後“リズム・アルバム”としてレゲエのスタンダードとなった(特にダンスホール時代には)。ルーピー・エドワーズは、時代の少なくとも10年先を行っていた(彼は1974年に『Yamaha Skank』をリリースしている)。現在ではゴスペル音楽と、レゲエ史を世に紹介することに力を注いでいる彼の活動については、是非彼の公式ウェブサイトwww.rupieedwards.comを訪れてみてほしい。

お勧めの1曲: ルーピー・エドワーズ「Irie Feelings (Skanga)」

Ire Feelings (Skanga)

Written By Reggie Mint



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