“マジックのような何か” 80年代、止めようのないパワーを誇ったクイーンの伝説

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70年代はクイーンにとって重大な年代となった。アルバムは何百万枚ものセールスを記録し、「We Are the Champions」「We Will Rock You」「Bohemian Rhapsody」といったヒット・シングルは、文化的に重要な意味を持つアンセムとなった。しかし、80年代のクイーンは、さらにレベルを上げ、同年代を象徴するポップ・ロック・サウンドによって、世界最大のロック・バンドへと変貌を遂げた。

1979年夏、クイーンのメンバーである、ブライアン・メイ、ロジャー・テイラー、ジョン・ディーコン、フレディ・マーキュリーの4人は、これまでとは違う新しいサウンドを作ろうと、ミュンヘンに引っ越した。ミュージックランド・スタジオで彼らは、“マック”の愛称で親しまれていたドイツ人プロデューサー/エンジニアのラインホルト・マックと仕事を始めた。彼はバンドが新たな道を見つける手助けをすることになる。エレクトリック・ライト・オーケストラの傑作でエンジニアを務めたマックは、楽器販売を営む家庭に生まれたため、幼少時代から音楽に浸っていた。彼はまた、セッション中にブライアン・メイを説得し、彼自作のギターで有名なレッド・スペシャルではなく、テレキャスターを弾かせたほどだった。

クイーンが80年代最初のアルバム用にレコーディングした楽曲は、最も聴きやすくポップ志向なものだった。『The Game』は商業的に大成功し、マックはプロデューサーとしてグラミー賞を獲得した。

当時34歳のフレディ・マーキュリーは、幼少時代の大半をインドで過ごし、リトル・リチャードやファッツ・ドミノといった賑やかな音楽を愛していた。同アルバムにおける彼のソングライティングは、ロック黎明時のパイオニアが持っていたエネルギーを反映している。フレディ・マーキュリーがミュンヘンのホテル・バイエリッシャー・ホフでバブルバスに入りながら書いた「Crazy Little Thing Called Love」は、モンスター・ヒットを記録し。「僕は愛情深い人間だ。愛こそがあの曲のインスピレーションだった」と後に彼は語っている。

スタジアム・ロックで知られたクイーンは、シックのようなベースラインに、ロカビリー・テイストを加えた、これまでとは違ったサウンドで全米を魅了しはじめた。「Crazy Little Thing Called Love」を収録した『The Game』が1980年6月30日にリリースされると、アメリカで400万枚のセールスを記録。クイーンはバンド初の全米首位を獲得した。

 

「これ、いいじゃないか……」

ロサンゼルスで行われたクイーンのコンサートを見たマイケル・ジャクソンは、ベーシストのジョン・ディーコンが書いた曲がポップ・チャートで必ずヒットすると思っていたそうだ。ドラマーのロジャー・テイラーは当時をこう振り返っている。「楽屋では、マイケルと彼の兄弟が、‘Another One Bites The Dust’についてずっと語っていた。シングルとしてリリースするべきだって言い続けていたんだよ」。1980年10月、『The Game』からのサード・シングルとしてリリースされた同曲は、3週連続でナンバーワンに輝いた。「自分たちが世界最大のバンドになった瞬間があるって、いつも思っていた。’Another One Bites the Dust’でそうなったような気がする。いきなりR&Bマーケットにクロスオーヴァーしたんだからね」と、ブライアン・メイは回想する。

 

クイーンは、キャッチーな歌詞を書くだけでなく、ヴォーカルのハーモニーにおいても秀でており、メロディでも新しいことをやろうとしていた。同アルバムでは、初めてシンセサイザーを導入したことからも、バンドの音楽性の変化が予兆された。ブライアンはこう思い返す。「あれは僕のせいだ。オーバーハイムのポリフォニック・シンセを購入してフレッドに見せたら、彼はすぐにこう言った。“おお、これ、いいじゃないか……”って」

「Dragon Attack」をはじめとするファンキーな楽曲で、バンドの実験は続いた。より複雑な楽曲が70年代のギターメインのアンセムに取って代わり、大衆は新しい楽曲を大いに気に入ったのだ。「それまでアルバムのセールスは100万枚だったのに、突如として300万枚から400万枚売れるようになったんだ。当時、これは最高レベルの売り上げだった。モンスター級のセールスになった“Thriller”が出る前の時代だからね」とロジャー・テイラーは語っている。

その頃、クイーンはディノ・デ・ラウレンティス製作による映画『フラッシュ・ゴードン』サウンドトラックも制作しており、同サントラからはヒット・シングル「Flash」が生まれた。このシングルには、俳優のブライアン・ブレスドによる「ゴードンは生きている!」という印象深い台詞が収められている。同サントラで大半のソングライティングを手掛けたブライアン・メイはシンセサイザーも演奏している。

ノー・プレッシャー

1981年の後半、ブエノスアイレスでの30万人を動員した公演を含む、南アメリカでの記録破りなツアーの後、クイーンはヨーロッパ(スイスとドイツ)に戻り、ニュー・アルバム『Hot Space』のレコーディングに入る。今回も、マックが共同プロデュースで参加した。今作のハイライトは、何と言ってもデヴィッド・ボウイとコラボしたシングル「Under Pressure」である。このコラボレーションは、その場の成り行きで誕生した。デヴィッド・ボウイは、モントルーのマウンテン・スタジオでクイーンのバック・ヴォーカルのためにやって来たのだが、即興のジャム・セッションを行っているうちに、歴史的な同曲が誕生したのだった。

 

こうしてクイーンのメンバー4人とデヴィッド・ボウイがソングライターとしてクレジットされた同曲は、英国で首位に輝き、ローリング・ストーン誌の「史上最高のコラボレーション」において第2位に選ばれた。『Hot Space』でその他に特筆すべき楽曲は、フレディ・マーキュリーが暗殺されたザ・ビートルズのスター、ジョン・レノンに捧げた「Life Is Real (Song For Lennon)」だ。

幅広くディスコ/ファンクへのアプローチをとった『Hot Space』は、初期のハード・ロック・サウンドへの回帰を願う70年代のクイーン・ファンにとって、評価が分かれるアルバムでもあった。フレディ・マーキュリーは1982年、ミルトン・キーンズ・ボウルでの公演で、観客に刺激されこう訴えたほどだ。「大半の皆さんは、僕たちが新しいサウンドを出したことを知っているだろう。こんなことを言っても仕方ないかもしれないけど、いくつかファンクでブラックなカテゴリーの曲をやるつもりだ。だからと言って、僕たちがロックンロールのフィーリングを失くしたわけではない。いいかい、単なるレコードじゃないか! みんな、こうしたことに大騒ぎしすぎてる。僕たちはただ新しいサウンドをいくつか試したいだけなんだ」 

「みんな、すごくショックを受けていた」

ブライアン・メイ曰く「アメリカ最大どころか、おそらく世界で最大のグループとなった」時、バンドは山場を迎えた。金も称賛も、向こうからやって来た。クイーンは世界で4,500万枚以上のレコードを売り上げ、1982年にはイギリスで最も稼いだエグゼクティヴとしてギネスブックにも登場した。

しかし、彼らは実験を続けた。ロジャー・テイラーがソングライティングを手掛けたドラムマシーン主導の「Radio Ga Ga」は、活気に満ちたミュージック・ビデオにも助けられ、19カ国で1位を獲得。同曲は1984年のアルバム『The Works』に収録されているが、おそらく同アルバムで最も印象深い1曲は「I Want To Break Free」だろう。こちらは、北米以外の大半の国でヒットを記録した。デヴィッド・マレット監督によるミュージック・ビデオは、メンバーがイギリスのテレビ番組『コロネーション・ストリート』をパロディにして女装しているものなのだが、ブライアン・メイは後年、MTVによる放映禁止をはじめ、このビデオによって予想外の反発を受けたことを明かしている。「プロモーションをすると、みんながすごくショックを受けていた。司会者も顔面蒼白になって、関わりたくないって感じだったね」

 

だが、転機はすぐそこまで来ていた。ボブ・ゲルドフは、1985年7月13日に開催を予定していたライヴ・エイドのコンサート出演をクイーンに持ちかけた。これは、エチオピア飢饉への支援金を募るために開かれたコンサートだ。日中のパフォーマンスを好まず、音質にも懸念を抱いていたクイーンは不安を感じつつも出演を決意した。

極めてカリスマ的なフレディ・マーキュリーは、ウェンブリー・スタジアムで見事なパフォーマンスを披露した。まず、「Bohemian Rhapsody」をピアノで弾き語りし、それからはヒット曲を続けざまに歌い上げた。72,000人の観衆がひとつになって歌い、手を叩き、体を揺らした。ステージ上の彼は、目もくらむような存在感だった。「生まれてこのかた、あんなものは見たことなかったし、計算されたことでもなかった……あの日は、僕たちの人生で最高の1日だった」とブライアン・メイは語る。

同コンサートへ出演したスーパースター・ミュージシャンたちも、クイーンのステージのインパクトの大きさを理解していた。エルトン・ジョンはトレイラーの中で4人を見つけると、「このろくでなしめ、主役の座を奪いやがって!」と冗談めかして言った。

Queen at Live Aid. Photo: Queen Productions Ltd

「ベン・ハー」すら「マペット」に見えてしまう

2ヶ月後、4人はアルバム『A Kid Of Magic』の制作に着手し、翌年の夏には世界ツアーも予定していた。「僕たちはおそらく今、世界最高のライヴ・バンドだ。そしてそれを証明してみせる……このツアーは、“ベン・ハー”すら“マペット”に見えてしまうほどの凄さになるだろう」と当時、ロジャー・テイラーは語っている。

レコーディングは再びドイツとスイスで行われたが、彼らは英国の歴史的なスタジオ、アビイ・ロードでも数曲をレコーディングした。『A Kind Of Magic』は600万枚を売り上げ、タイトル・トラックが世界中でヒットすると、ツアーに対する需要が驚異的なまでに高まった。ツアー最終日の1986年8月9日、ネブワース・ハウスで行われた公演には、20万人ものファンが集まった。

こうして大成功を手にしたクイーンだったが、思いもよらぬ困難が待ち受けていた。1987年初頭、フレディ・マーキュリーがエイズと診断されたのだ。それから5年のうちに、彼はこの世を去ることとなる。亡くなるまでの間、彼は創造力を爆発させ、音楽に心血を注いで楽曲を制作し、そこからクイーンのアルバムが3作も生まれた。1989年の『The Miracle』、1991年の『Innuendo』 、そして死後にリリースされた『Made In Heaven』だ。フレディ・マーキュリーはまた、ソロ作品もいくつか制作した。その中の1枚に1988年のアルバム『Barcelona』があるが、今作の中でフレディは、スペインの大物オペラ歌手モンセラート・カバリェとデュエットしている。

感動的な「Was It All Worth It?」も収録されている『The Miracle』の制作が終わると、フレディ・マーキュリーは自身の病気についてバンドメンバーに打ち明けた。「彼はミーティングをするって、俺たち全員を家に招いたんだ」とロジャー・テイラーは当時を振り返る。フレディ・マーキュリーはこう言ったという。「僕の問題が何か、おそらく分かっているだろう。ご察しの通りだけど、だからと言って今までと変わらない。これについては知られたくないし、話したくもない。僕はただ、死ぬまでこのまま仕事を続けたい。それができるよう、サポートをよろしく頼む」

バンドメンバーが差し迫った彼の死について直接話しあったのは、この時だけだった。

「とにかく大事だったのは、オリジナルであること」

80年代が終わる頃、クイーンは英国音楽への貢献を認められ、英国レコード産業協会の賞を授与された。彼らの貢献は多大だった。1989年3月にアルバム『Innuendo』のレコーディングが始まったが、この頃までにフレディ・マーキュリーの病状はひどく悪化していた。それでも彼は、「These Are The Days Of Our Lives」(70年代のクイーンが得意としていた強力なハードロック・サウンドに立ち戻った1曲)のビデオで果敢にパフォーマンスを行った。

 

1991年11月24日、フレディ・マーキュリーはエイズによる気管支肺炎で死去。45歳だった。アレサ・フランクリンが葬儀で歌い、音楽業界全体が歴史に残るクイーンの偉業を讃えた。

クイーンは、誰にも真似できない彼らならではの方法で、80年代を定義した。フレディ・マーキュリーもこう語っている。「クイーンでとにかく大事だったのは、オリジナルであることだ」

Written By Martin Chilton


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