ジャズのレコーディング、そしてレーベルの変遷の歴史

February 21, 2018


ジャズのレコーディング、そしてレーベルの変遷の歴史

我々の歴史の大半は、記録(*英語ではrecord)についての記述だ。我々は、ある特定のことを初めてやったのは誰かについて、興味を掻き立てられる。それでも、伝えられている歴史というものは、我々が思うほど正確ではないことが多々ある。「歴史は勝者によって記される」という有名な決まり文句があるが、ジャズの歴史にもこれと同じことが言える。ジャズについて記してきた人々のほとんどは、オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドが、1917年2月後半に初めてジャズをレコーディングしたバンドと言うだろう。

オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドは、白人ミュージシャン集団だ。彼らはニューオーリンズで、パパ・ジャック・レインのリライアンス・ブラス・バンドとして活動していた。ちなみに、このパパ・ジャック・レインは白人だけでなく、黒人ミュージシャンも擁していた。1916年、とあるプロモーターがパパ・ジャック・レインから数人を引き抜きいた。引き抜かれた彼らはシカゴで公演を行うと、1917年1月には、ニューヨークのライゼンウィーバーズ・カフェでギグを行った。

このニューヨークの公演がきっかけで、イギリス資本のコロンビア・グラモフォン・カンパニーが彼らの演奏を録音したのだが、同社は彼らの演奏に魅力を感じず、レコードをリリースすることを却下した。こうした意見の分裂は、常にジャズの中心に存在してきたのだ。

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オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドは、1917年2月26日にニューヨークでRCAビクター向けにレコーディングを行った時には、オリジナル・ディキシーランド・ジャ(Jass)・バンドと表記されていた。このレコーディングでのビクターにとっての課題は、バンドが実際に演奏しているそのままの音をレコーディングすることだったが、このバンドの演奏の音を録音することのできるぐらいの大きなピックアップが付いたホーンはたった一つしかなかったのだ。ここでビクターは斬新な解決策を取った。ドラマーは一番遠く、ピアニストは一番近くというように、ホーンから様々な距離にミュージシャンを配置したのだ。ジャズ・パフォーマーの演奏を聴こえるそのまま録音するという課題は、ハイファイ時代に入っても続いていく。

ビクターは1917年5月、「Dixie Jass Band One Step」と「Livery Stable Blues」をリリースしたが、この2枚は我々の知っているジャズのサウンドとは違うかもしれない。1917年から1918年の間、コルネット奏者のニック・ラロッカ率いる同バンドは頻繁にレコーディングを行い、その名を‘オリジナル・ディキシーランド・ジャ(Jazz)・バンド’へと変更した――こうしてグループは、ジャズ・レコードを作った初めてのバンドとして認知されることとなったが、そうなった理由は彼らが成功していたこと、そしてこれこそが真実だ、として伝えられていたことによる。

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しかし、実際のところは、自分が初めてジャズ・レコードを作ったと主張できるアーティストはこの他にも大勢いる。アーサー・コリンズとバイロン・G・ハーランは、1917年4月に「That Funny Jas Band From Dixieland」をリリースしており、この作品はODJB(オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド)と同等にジャジーである。ボービーズ・ジャス(Jass)・オーケストラは、ODJBがスタジオに入る2週間近く前に2曲をレコーディングしているが、楽曲は1917年7月までリリースされなかった。ODJBと同じく、どちらのアーティストも白人だった。

ジャズ・レコードを作った初めての黒人アーティスト候補としては、ピアニストのチャールズ・プリンスがいる。彼が率いるバンドは、1914年に「Memphis Blues」をレコーディングし、1915年に彼はW.C.ハンディの「St. Louis Blues」をレコーディングした初めてのアーティストとなった。そして1917年4月、チャールス・ブリンセズ・バンドは「Hong Kong」をリリース。この曲には「Jazz One-Step」というサブタイトルがついていた。これに負けじと、W.C.ハンディのバンドも1917年9月にレコーディングをしていた。さらに、1917年夏にはウィルバー・スウェットマンズ・オリジナル・ジャズ・バンドや、シックス・ブラウン・ブラザーズもいた。ただし、これらのレコードがジャズであるか、ジャズに近いラグタイムであるかについては議論がなされている。

「ジャズ・バンドがどのように生まれたのか、どこから来たのかを断言するのは非常に難しい。ジャズは1916年から1917年の冬の間にニューヨークに届き、それがブロードウェイに伝わると、そのまま根づいた。今でもニューヨークに存在し、“タンゴ・パレス”の名所は、ジャズなしではあり得ないとさえ考えられている。フリスコ・ジャズ・バンドは徹底的に‘ジャジー’だ。ジャズは現代音楽の中で、最も新しく、最も粋である。“ジャズ”で踊ったことがない御仁には、これから格別な楽しみが待ち受けているだろう」――1917年5月にエディソンからリリースされたフリスコ・ジャズ・バンドのスリーヴより。

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ジェリー・ロール・モートン

20世紀を通じて、ごく初期のジャズはニューオーリンズ、シカゴ、カンザス・シティ、その他の工業都市で発達してしっかりと根を下ろし、そしてニューヨークはレコーディングに関して世界の首都となった。これはジャズに関しても世界の首都ということでもあった。当初はブラック・スワン・レコード、ARCレコード、ジェネット、オーケー、パラマウントをはじめ、多くのレーベルがレコードを出すために、ジャズ、ブルース、カントリーのアーティストをスタジオに招いていた――業界の大物たちが「売れるかもしれない」と思ったパフォーマーは皆、レコーディングに招かれただけともいえるが。

ルイ・アームストロングは、1922年8月初頭、シカゴにやって来ると、キング・オリヴァーズ・クレオール・ジャズ・バンドと演奏をした。そして翌年4月、彼らはスター・ピアノ社の工場にあったジェネット・レコードのスタジオに赴きレコーディングを行った。これはルイ・アームストロングにとって初めてのレコーディングとなっただけでなく、黒人バンドによる初の真正ジャズ・レコードとなった。ルイ・アームストロングのジャズは、シカゴのリンカーン・ガーデンで毎晩、観客を喜ばせていた本物のジャズである。同年の後半、ジェリー・ロール・モートンもリッチモンドへと向かい、初期の名曲をいくつかレコーディングした――彼は常々、自分がジャズをレコーディングした初めてのアーティストだと皆に話していた。

1924年6月、ルイ・アームストロングはキング・オリヴァーのバンドを脱退すると、それから数か月後の9月、全米随一の黒人バンドを率いていたフレッチャー・ヘンダーソンにより、ニューヨークへ招き入れられる(フレッチャー・ヘンダーソンのオーケストラは、1921年夏に初のレコードを制作している)。ルイ・アームストロングが加入してわずか1週間後、11人編成のバンドはニューヨークのスタジオでレコーディングを行った。

フレッチャー・ヘンダーソンのオーケストラとのレコーディングに加えて、ルイ・アームストロングはセッション・プレイヤーとしての仕事で副収入を得るだけでなく、貴重な経験も積んでいった。彼がセッション・プレイヤーを行ったのは、アルバータ・ハンター、ヴァージニア・リストン、マギー・ジョーンズ、そして‘ブルースの女王’として評判を上げていたベッシー・スミスらである。ルイ・アームストロングは、1925年1月にレコーディングされたベッシー・スミスの「St. Louis Blues」で、印象深いトランペットのリフレインを演奏している。

当初はジャズもブルースも、南部の州に住んでいる人々の大半にとって、そして北部の工業都市で仕事を探していた人々にとってのポップ・ミュージックだった。‘キング・オブ・ジャズ’を自称していたポール・ホワイトマンは、ビッグ・バンドを率いていた。ビック・バンドは、その後20年間で、着実に人気を高めたタイプのバンドである。ポール・ホワイトマンは1920年に初のヒットを出し、その後1932年までで100枚以上のベストセラー・レコードをリリースしている。

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Louis Armstrong and His Hot Five

1920年代の後半、ドーシー・ブラザーズ・オーケストラはオーケー・レコードとデッカ・レコードでビッグ・セラーとなっていた。その後、兄弟2人が別々の道を歩むと、ジミー・ドーシー・オーケストラとトミー・ドーシー・オーケストラはどちらもチャートの常連となる。これに負けじとばかり、ホット・ファイヴ、ホット・セヴンを率いていたルイ・アームストロングは、自身のバンドをルイ・アームストロング・オーケストラと呼ぶようになった。これと同じ頃、デューク・エリントンはニューヨークで名高いコットン・クラブでレジデンス公演を開始すると、同時に名曲を次々とリリースし、大きなセールスを上げていた。

その頃のラジオはビッグ・バンドの人気を後押ししていた。ニューヨーク、シカゴ、その他大都市の一流ホテルやボールルームから、毎晩ライヴ中継を行っていたのだ。当時のジャズは好調で、真のメインストリーム音楽だった。レコーディング技術がODJBが使っていたアコースティックな手法からエレクトリックへと進歩したことによりレコードの音質が飛躍的に上がり、レコードの人気が高まったいった。

当時の映画館では、映画の上演とは別に、バンド、シンガー、コメディアン、手品師、曲芸師が登場する公演も行われており、そこでは白人的なジャズが紹介されており、ベニー・グッドマンやトミー・ドーシー、ウッディ・ハーマンらが率いていた特に大きなビッグ・バンドは、30年代後半までには1週間で5万ドルを稼ぎ出していた。アーティ・ショウやチャーリー・バーネットらが率いていた他のバンドは、ラジオで放送されていたホテル・サーキットを支配していた。どのバンドも、高まるファン(特にジュークボックスを聴くファン)の要求に応えるべく、その名声をフルに活かしてレコードを続々とリリースした。

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Charlie Parker and Miles Davis at The Three Deuces, New York, circa 1947

1920年にアメリカで始まった禁酒法は、ニューヨークの52丁目にクラブ・シーンが誕生した理由の一端を担っている。5番街と6番街の間の一角にあるブラウンストーンの建物は、地下にクラブを擁しており、そこではラジオでかかるジャズとは大きく異なるタイプのジャズが聴けた。これはほとんど‘アンダーグラウンド’ジャズとも言えるもので、ビック・バンドではなく、より小さな編成のバンドが演奏しており、中には編成の組み合わせで実験しているバンドもあった。30年代半ばまでに、フェイマスドア、スリー・デューシズ、ヒッコリー・ハウス、そして51丁目にあった元祖ケリー・ステイブルズは隆盛を極め、シドニー・ベシェ、アート・ホーディス、アール・‘ファーザー’・ハインズらのパフォーマーは、より小さくスモーキーなクラブで‘ホット・ジャズ’を演奏していた。ほどなくして、こうしたアーティストもレコードを作りはじめる。

クラブと同様、ボールルームも規模の大きさに関わらず、音楽ビジネス全体にとっては重要だった。レコード会社とパフォーマーにとって重要なことは、レコードを制作してジュークボックスがあるボールルームに対して売りつけることだったのだ。当時のミュージシャンは、印税やレコーディング料目当てで音楽活動をしていたわけではない。そうであれば、誰も大金を稼ぐことはできなかっただろう。レコードのリリースはあくまで、パフォーマーの認知度を上げて、よりギャラの高いギグをブッキングするためのものだった。より豊かな社会になりレコード・セールスが目もくらむほどの高みへと達した第二次世界大戦後の時代とは異なり、この時代はジュークボックスでかかるレコードを売ることに重点が置かれていたのだ。

1933年12月に禁酒法が終わると、全米中でジュークボックスがもっと増えるチャンスが到来した。バーやカクテル・ラウンジは至るところにオープンし、そしてどの店も音楽を必要としていたのだ。6カ月後、Billboard誌はネットワーク・ラジオでかかる人気楽曲の初の調査結果を発表。翌1935年4月には、NBCのラジオ番組『Your Hit Parade』が初放送された。同番組は楽譜とレコードの売り上げをもとに楽曲をランク付けしていた。そして同年11月、Billboard誌はレコード会社のベストセラーをまとめた新たなチャートを発表する。

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ウーリッツァーとロックオラといったジュークボックス製造業者は、需要に追いついていくことが難しくなるほどの人気で、1938年後半までに、アメリカで20万台以上のジュークボックスが利用されていた。その盛り上がりに目を付けたBillboard誌は、‘レコード・バイイング・ガイド(レコード購入ガイド)’という新たなチャートを発表。これは、全米のジュークボックスで人気の楽曲を毎週調査したものだ。同チャート初のナンバー・ワンは、ブランズウィック・レコードからリリースされたデューク・エリントンの「I Let A Song Go to My Heart」だった。

当時のレコード・ビジネスは、レコード制作に多大な資金が必要なため大企業によって支配されていた。大企業は、洗練されたニューヨークの人々からブルースを愛する南部の人々、キャロライナからケンタッキーに至るカントリー・ミュージック・ファンと、ありとあらゆる人々にアピールする流行の音楽を次々とリリースしていた。ラジオ・コーポレーション・オブ・アメリカ(RCA)は1929年、ビクター・トーキング・マシーン・カンパニーを買収し、バードランド・レーベルを設立。タンパ・レッドをはじめとするブルース・アーティスト、カントリーのスーパ―スター、ジミー・ロジャース、そして1935年以降はグレン・ミラーのバンドらのレコードを安価で販売した。

1938年にコロンビアがCBSに買収される。これをきっかけに同社はブランズウィック・レコードとヴォカリオン・レコードを売却すると、1941年にデッカ・レコードがこれらのレーベルを買収。イギリスを本社とするデッカは、1934年にアメリカ支社を設立する。同アメリカ支社が初期に契約したアーティストとしては、ルイ・アームストロング、チック・ウェブ・オーケストラと、チック・ウェブが擁していた若手ヴォーカリスト、エラ・フィッツジェラルドが挙げられる。

次に登場したのはコモドア・レコードだ。創設者のミルト・ゲイブラーは1930年代前半に、まずは父親のビジネスを手伝い始めた。彼の父親は、コモドア・ラジオ・コーポレーションというやや大仰な名前の店を42丁目で営んでいた。1935年、ミルト・ゲイブラーは家族経営の同店をコモドア・ミュージック・ショップへと改名すると、メジャー・レーベルから許諾を受け、古いジャズ・レコードのリイシューを始める。同店はまニューヨークのジャズ関係者、ファンやミュージシャンを引き寄せて、人気になる1937年には52丁目に新たな店をオープンした。

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コモドア・レコードは、コールマン・ホーキンス、シドニー・ベシェ、ベン・ウェブスターテディ・ウィルソン、ウィリー・‘ザ・ライオン’・スミスといった多彩なアーティストのレコードをリリースした。そして1939年4月、コモドアはレーベルにとってほぼ間違いなく最重要リリースとなったビリー・ホリデイの「Strange Fruit(邦題:奇妙な果実)」をレコーディングした。ビリー・ホリデイが所属していたヴォカリオン・レコードの幹部は、同曲のテーマであった南部の州で行われた黒人の青年のリンチがあまりにデリケートな問題だとして、レコードのリリースを拒否。こうしてミルト・ゲイブラーがリリースのチャンスを掴んだ。(「奇妙な果実」について詳しくはこちら

1939年1月6日、ドイツから移住してきた青年で、コモドア・レコードの常連だったアルフレッド・ライオンが、1人のスタジオ・エンジニアと2人のブギウギ・ピアニストと歴史を作ろうとしていた。彼らは、ブルーノート・レコードと呼ばれるようになるレーベルにとって最初のレコーディング・セッションを行おうとしていたのだ。アルバート・アモンズとミード・ルクス・ルイスは19テイクをレコーディングし、2カ月後にはBN1(ミード・ルクス・ルイスが演奏した2曲のスロー・ブルース・チューン「Melancholy」と「Solitude」)とBN2(アルバート・アモンズが演奏したテンポ早めの「Boogie Woogie Stomp」と「Boogie Woogie Blues」)がリリースされた。きちんとした流通経路を持っていなかったアルフレッド・ライオンは、通販にて1枚1.50ドルでレコードを販売した。これは、一般的な10インチ・レコードの販売価格に比べると、倍の値段である。アルフレッド・ライオンはこの2作品について、それぞれ25枚ずつしかプレスしなかった――大掛かりとは言えないリリース・スケジュールである。

ミルト・ゲイブラーと交友のあったアルフレッド・ライオンは、コモドア・ミュージック・ショップを説得し、ブルーノートのレコードの販売を取りつけた。しかし、たった2枚のカタログではレーベルは作れない。2枚のレコードがリリースされてから5週間後、アルフレッド・ライオンはスタジオに戻り、ブルーノートのセカンド・セッションをレコーディングした。今回は、トランペット奏者のフランキー・ニュートンとトロンボーン奏者のJ.C.ヒギンボサムが率いた本格的なレコーディングだった。アルバート・アモンズがピアノ、テディ・バンがギター、ジョニー・ウィリアムスがベース、‘ビッグ・シド’ことシドニー・キャトレットがドラムを演奏した。同グループは6月にもスタジオでレコーディングを行ったが、今回はミード・ルクス・ルイスがピアノを担当した。7人組を取りまとめたのはシドニー・ベシェで、彼は「Blues For Tommy」をレコーディングした後、ジョージ・ガーシュウィンの「Summertime」をレコーディングした。これはブルーノートの歴史にとって決定的な瞬間だった。「Summertime」が大ヒットしたおかげで、レーベルが存続したのだ。(*ブルーノートについて詳しくはこちら)

戦時中はブルーノートをはじめ、多くのレーベルにとって厳しい時代だった。アルフレッド・ライオンは陸軍への入隊を余儀なくされ、ブルーノートのリリースは断続的になった。同レーベルが本領を発揮しはじめたのは、1945年以降だ。アメリカ合衆国の反対側の西海岸では、1944年、移民の息子だったノーマン・グランツが、ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニックと題したコンサート・シリーズを興行していた。これが生演奏のジャズを変革しただけでなく、ブルーノートのようにジャズ・レコードの様相を一変させたレーベルを生み出すきっかけともなる。

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最初の『Jazz At The Philharmonic』と題されたレコードは1945年、78回転ディスクでアッシュ・レコードからリリースされた。その後、ノーマン・グランツはマーキュリー・レコード傘下でクレフ・レコードをスタートすると、デヴィッド・ストーン・マーティンの美しいアルバム・ジャケットを使って、フィルハーモニックでのライヴ音源を78回転のアルバムにまとめた。1949年、ノーマン・グランツはこうしたレコーディングを『The Jazz Scene』と題した78回転アルバムとしてリリース。同作品には、当時の音楽で何が起こっていたかが録音されている。これは初の‘デラックス’・アルバムで、個別番号が入っており、全てノーマン・グランツのサインが入っていた。

1947年に設立されたクレフ・レコードの目的は、『Jazz At The Philharmonic』に登場した多くのアーティストをレコーディングすることだった。6年後、ノーマン・グランツは‘よりクールな’ジャズの潮流を開拓するため、ノーグラン・レコードを立ち上げた。1950年代を通じて、全米のジャズ・レーベルは、1948年に誕生したLPレコードによって広がったチャンスに興奮を覚えると同時に、課題にも直面していた。興奮の源は、長尺の音楽をレコーディングできるという、新たに芽生えた自由だ。長い曲はジャズのライヴ・パフォーマンスの主流だったが、78回転のSPレコードでは、録音できる長さに制約があった。しかしながら、ブルーノートやヴァーブといった小さな独立系レーベルにとっては、既存の作品を10インチLPに再パッケージすることが大きな課題でもあった。LPには、アートワークやカラー・スリーヴが必要となったため、既に財政面で逼迫していた会社にさらなるコストが加わるのだ。

他の独立系レーベルは、LPレコードの誕生後に続々と誕生し、どのレーベルも、ジャズを愛する情熱的な人物によって運営されていた。ボブ・ウェインストックは、1949年にニューヨークでプレスティッジ・レコードを設立。同社は、ジョン・コルトレーンマイルス・デイヴィススタン・ゲッツジーン・アモンズセロニアス・モンクソニー・ロリンズを擁していた。同レーベルは、ノーマン・グランツのレーベルと同様に、その場で自然発生的に行われるライヴ演奏の録音が全てだった。一方ブルーノートは、ライブ録音ではなく、スタジオ・レコーディングに注力し、録音に先立ってミュージシャンにギャラを払いリハーサルを行うという方針を取っていた。

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マイルス・デイヴィス最初のレコードレーベル、プレスティッジ・レコードのオフィスの外

リヴァーサイドも初期の独立系レーベルのひとつで、1953年にオリン・キープニュースとビル・グラウアーによって設立された。当初、リヴァーサイドのアプローチは20年前のコモドア・レコードと同じで、パラマウント・レコードやジェネット・レコード(初期のアルバムには、ジェリー・ロール・モートンやキング・オリヴァーがフィーチャーされていた)の古いジャズ・レコードをリイシューしていたのだ。しかし翌年になると、新譜もリリースし始め、1955年にはプレスティッジからセロニアス・モンクの契約を買い取った。リヴァーサイドでレコーディングを行ったアーティストは他に、キャノンボール・アダレイビル・エヴァンスウェス・モンゴメリーがいる。

ファンタジー・レコードは、マックスとソルのウェイス兄弟によって1949年に設立された。当初はデイヴ・ブルーベックの初期作品をリリースするためのレーベルだった。デイヴ・ブルーベックは自分が同社の利益の50パーセントを手にできると信じていたため、非公式なA&Rとして働くと、ジェリー・マリガンチャールズ・ミンガスチェット・ベイカー、レッド・ノーヴォを同レーベルに引っ張ってきた。しかし彼がもらえるのが、会社の利益の半分ではなく、自身のレコードの50パーセントしか所有していないことを知ると、ブルーベックはファンタジーを去り、コロンビアと契約した。

現在、プレスティッジ、リヴァーサイド、ファンタジーの全てがコンコード・ミュージック・グループの傘下にあり、多くのアイコニックな作品が『Original Jazz Classics』というシリーズでリイシューされている。ここまで名は体を表しているカタログ・リイシュー・シリーズは他にないだろう。

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長く輝かしい歴史を持つコロンビア・レコードは、50年代から60年代の間、極めてメインストリームなレーベルだったが、それでもジャズの名盤のリイシューは続けていた。ジョージ・アヴァキアンが監修の元、ルイ・アームストロングは50年代、同レーベルから名盤を多数リリースした。その他の作品では、ジム・フローラが見事なアートワークを提供しており、この時期のジャズ・アルバムのアートワークは時代の最先端を走っていたことが分かる。コロンビアは、デイヴ・ブルーベックと契約を結び、大人気となったアルバム『Time Out』(同アルバムは「Take Five」を収録)を1959年にリリースしたことに加え、マイルス・デイヴィスと契約し独創的なアルバムをリリースした。特に1959年にリリースされた『Kind of Blue』は、多くの人々にとって未だ史上最高のジャズ・アルバムであり続けている。

60年代後半から70年代前半にかけて、マイルス・デイヴィスはジャズとロックのフュージョンの先駆となると、1969年には『In A Silent Way』や、翌年には『Bitches Brew』をリリースする。1973年には、ピアニストのハービー・ハンコックもコロンビアと契約し、傑作『Headhunter』をリリース。その後20年にわたり、ハービー・ハンコックは名盤を相次いでリリースした。

今日、アトランティック・レコードはクラシック・ロックや、アレサ・フランクリン等の偉大なソウル・シンガーの作品を擁するレーベルとして知られている。しかし、レーベル設立当初は、ジャズがその成功に大きく貢献していた。40年代後半から50年代初頭にかけて、アトランティックはアート・ペッパーシェリー・マンエロル・ガーナー、ハワード・マギー、ディジー・ガレスピーサラ・ヴォーン、メリー・ルー・ウィリアムス、ジャンゴ・ラインハルト、アール・ハインズ、ミード・ルクス・ルイス、ジョニー・ホッジスのレコードをリリースしていた。1955年、アトランティックの設立者の1人だったアーメット・アーティガンは、兄のネスヒを説得し、同レーベルのジャズ部門の運営を任せた。ネスヒ・アーティガンは30年代、当時ティーンエイジャーだった弟のアーメットをデューク・エリントンのロンドン公演に連れて行ってくれた人物だ。ネスヒ・アーティガンはジミー・ジュフリー、ハービー・マン、レス・マッキャン等、西海岸のアーティストと契約を結び、後年はさらにチャールズ・ミンガス、ジョン・コルトレーン、モダン・ジャズ・カルテットをレーベルに加えていった。

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しかし何をおいても、ジャズのサウンドを方向づけたのは、ブルーノートとヴァーヴの2レーベルである。ブルーノートは1947年にセロニアス・モンク、その後はアート・ブレイキー、ハワード・マギー、ファッツ・ナヴァロをレコーディングし、サウンドの指標を作った。こうしてビバップはブルーノートの売り物となり、50年代になると、ブルーノートは最高のモダン・ジャズを提供するレーベルとしての地位を確立した。バド・パウエル、ソニー・ロリンズ、マイルス・デイヴィス、ジャッキー・マクリーンクリフォード・ブラウンホレス・シルヴァーハンク・モブレー、ソニー・クラーク、ジミー・スミス、キャノンボール・アダレイ、ドナルド・バード。彼らは皆、ブルーノートでレコーディングをしている。ジョン・コルトレーンですら、1957年に同レーベルに1枚限りのアルバム『Blue Train』をレコーディングしている。

『Blue Train』には、ブルーノートの革命的なサウンドが収録されていただけではない。フランシス・ウルフが撮影した写真を使い、リード・マイルスがデザインしたそのカヴァー・アートは、多くのジャズ・ファンにとって金字塔的な存在となった。

1955年12月、ノーマン・グランツは自身が手掛けたレコーディングをひとつのレーベルにまとめるため、そしてエラ・フィッツジェラルドの画期的な『Songbook』シリーズをリリースするために、ヴァーヴ・レコードを設立。50年代後半、ヴァ―ヴはクレフ・レコード、ノーグラン・レコードのアルバム(傑作『Genius of Charlie Parker』シリーズも含む)をリパッケージしてリリースした他、ビリー・ホリデイ、アニタ・オデイ、ディジー・ガレスピー、ソニー・スティット、ジーン・クルーパ、ジェリー・マリガンオスカー・ピーターソン、ルイ・アームストロング(エラ・フィッツジェラルドとの名盤も含む)、ハービー・マン、スタン・ゲッツ、コールマン・ホーキンスベン・ウェブスターメル・トーメ、カウント・ベイシー、タル・ファーロウ、ブロッサム・ディアリー等、多数のアーティストの新譜もリリースしている。

ノーマン・グランツは、ヴァ―ヴをMGMレコードに売却し、1960年にはスイスに移住して引退。後年、ほぼ全ての独立系ジャズ・レーベルが、ヴァーヴと同じように大手メジャーに買収されることになる。ノーマンが去ったあと「ヴァ―ヴの偉大なイメージを保ち、高めること」を目的に、ヴァ―ヴの長に任命されたのはクリード・テイラーだ。クリード・テイラーは、インパルス!レコードから引き抜かれたが、その前はABCパラマウント・レコードで働いていた。さらにその前にはベツレヘム・レコードでも2年間働いており、チャールズ・ミンガス、ハービー・マン、J.J.ジョンソンとカイ・ワインディングのクインテットをレコーディングしていた。

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ABCパラマウントはクリード・テイラーのためにインパルス!・レコードの設立を許可。クリード・テイラーが最初にリリースした4作品のうちの1枚は、レイ・チャールズの『Genius + Soul = Jazz』だった。1961年初頭には、同アルバムから「One Mint Julep」をリリースし、これが全米シングル・チャートで第8位を記録した。しかしインパルス!にとっては皮肉なことに、クリード・テイラーは、より多くのアーティストをかかえた結果、より条件の良い契約に惹かれてそのアーティストと一緒にヴァ―ヴへと移った。その後、インパルス!は、ジョン・コルトレーンと契約を結ぶ。1965年のアルバム『A Love Supreme』もジャズにとって歴史的作品となった。

ヴァーヴに移籍した直後、クリード・テイラーはスタン・ゲッツのボサノヴァ・アルバムをレコーディングして大ヒットを生み出す。特に1964年にリリースされた『Getz/Gilberto』のLPは、ポップ・アルバム・チャートで第2位に食い込み、他のどんな作品よりもジャズ・ファンを増やしたアルバムとされている。

60年代の間に、ブルーノートも大きなレーベルに飲み込まれ、それ以降、ジャズのレコーディングで歴史のある小さなレーベルは、大きなレーベルによって買収・売却が繰り返されてきた。こうして今や、膨大なジャズのカタログは、メジャー・レコード・レーベル3社のうちのどこかに属すようになっている。この利点は、名盤を丁寧に編集したリイシュー盤がリリースされることだ。こうしたリイシュー盤には、過去に未発表の曲が収録されることも多い。

しかしそれでも、独立系レーベルは成功を続けている。ドイツのECMレコードは、マンフレート・アイヒャーによって設立され、今も彼によって運営されているが、同レーベルはその多岐にわたるリリースで、ファンから大いに愛されている。ノンサッチ・レコードも、通好みな小さなレーベルの中で注目に値するレーベルだ。一方、ヴァ―ヴ、ブルーノート、インパルス!はユニバーサル ミュージック グループ傘下の強力レーベルとなり、現在の若手アーティストや、未だ活躍を続けるベテランによる素晴らしいジャズをリリースし続けている。

Written By Richard Havers



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