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ブルーノート栄光の歴史:1939年創立、ジャズの最高峰レーベル

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Photos: Francis Wolff/Mosaic Images (Wayne Shorter, Herbie Hancock), Mathieu Bitton (Robert Glasper)

ポピュラー音楽史上最も重要なレコード・レーベルの1つとして、ブルーノートは愛され、崇拝され、尊敬され、高い評価を受けている。創設は1939年。ナチス体制の圧政から逃れるため、その数年前に母国ドイツから米国に移住してきたばかりのアルフレッド・ライオンが設立したブルーノートは、音楽とデザインの両面で絶えず革新的な道を切り開いてきた。このレーベルが世に送り出してきた数々の偉大なアルバム、LPレコード、そしてSPレコードや7インチ・シングル/EPレコードは、多くの人々にとってジャズの“聖杯”(至高の目標)となっている。

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ブルーノート・レコードの始まり

全てが始まったのは、クリスマスを数日後に控えた1938年12月、ニューヨークのカーネギー・ホールで行われたコンサート『スピリチュアル・トゥ・スウィング』にアルフレッド・ライオンが足を運んだことからだった。それから1週間程経った頃、ライオンはカーネギー・ホールで観たアルバート・アモンズおよびミード・ルクス・ルイスと話をするため、開業したばかりのナイト・クラブ<カフェ・ソサエティ>に赴いた。彼はこの2人のピアニストに報酬を保証し、レコーディングの話を持ちかけたのである。彼らが合意すると、アルフレッド・ライオンは1939年1月6日に、あるスタジオを予約。そこはマンハッタンのウエストサイドにあったラジオ局「WMGM」だと考えられている。アルバート・アモンズとミード・ルクス・ルイスを除けば、この歴史的瞬間を目撃することになったのは、担当エンジニアとアルフレッド・ライオンだけであった。

アルバート・アモンズとミード・ルクス・ルイスに支払うギャラに加え、このピアニスト達の指の滑りを良くするためにアルフレッド・ライオンはウイスキーを持ち込み、その夜に重ねたテイクは計19回。セッションが終了し、彼らにギャラを支払うと、アルフレッド・ライオンの手元には、時間貸しのスタジオ利用料を支払うのに十分な現金が残っていなかった程であった。手ぶらのままスタジオを出た起業家志望のアルフレッド・ライオンが、代金を持って原盤を受け取りに来たのは、それから数週間後のことだ。その後、このマスター・ディスクを自宅アパートで聴いていた彼は、この音楽はより幅広い人々の耳に届くべき価値があると確信。ライオンの言葉を借りれば、「これをレコード化して、音楽ビジネスに参入することを決意」したのである。

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ブルーノートの最初のレコード

2人の同僚と共にアルフレッド・ライオンが「ブルーノート」と命名したこのレーベルから、最初の2作品がリリースされたのは1939年3月3日金曜日。カタログ番号[BN 1]には、2曲のスローなブルース曲「Melancholy」と「Solitude」を収録。[BN 2]には、アルバート・アモンズのアップテンポなナンバー「Boogie Woogie Stomp」と「Boogie Woogie Blues」が収録されていた。流通の環境が整っていなかったため、アルフレッド・ライオンは各レコードを1枚1.50ドルという価格で通信販売。これは当時の10インチ・レコード標準小売価格の2倍の値段で、当初は限定25枚ずつしか製作していなかったことからすれば、野心的なリリース計画とは到底言えなかった。

Melancholy

初期のブルーノートのSPレコードは、一般的な10インチ盤ではなく、通常クラシック・アーティスト用に使われる12インチ盤であった。「10インチ盤ではあまりに短かったんだ。サビを2回か3回繰り返せば、レコードは終わってしまう。『何てこった、この男達にはもっと伸び伸びやれる余地が必要だぞ』と、私は常々思っていた」というのがアルフレッド・ライオンの見解であった。

その後アルフレッド・ライオンは、ブルーノートが直面した大きな課題について次のように回想している。

「1939年には何も存在していなかったんだ。状況を確認できるような(音楽業界の)本などなかった。全くね。自分の才覚だけが頼りだったんだよ」

アルフレッド・ライオンは、ミルト・ゲイブラーとの交友を通じてマンハッタンのレコード店「コモドア・ミュージック・ショップ」を説得し、ブルーノートのレコードを販売してもらうことに成功。その後、他の幾つかのレコード店が後に続いた。

黎明期のブルーノートには、アルフレッド・ライオンの他、ライターで後にヴォイス・コーチとなるマックス・マーグリスや、詩人でありニューヨーカー誌の演劇評論家/ライターでもあったエマニュエル・アイゼンバーグがいた。ジャズ愛好家の間でブルーノートの地位が高まったのは、同レーベルの音楽の提示の仕方のおかげだ。マーケティングという概念が殆ど認知されていなかった時代に、 アルフレッド・ライオンとマックス・マーグリスは優れたマーケティングの重要性を直感的に理解していたのだった。

マックス・マーグリスが同レーベルのマニフェスト(“ブルーノート宣言”)を執筆したのは、1939年5月のことだ。彼の共産主義寄りな傾向を思い出させるものの、この声明文には、ブルーノートが1939年に成し遂げようとしていたことが完璧にまとめられている。そのメッセージは以後、同社の中心に据えられており、 21世紀に入った現在も、レーベル社長ドン・ウォズによって大切にされている。

「ブルーノート・レコードの目的は、ホット・ジャズやスウィングによる妥協なき表現を提供することだ。直接的で正直なホット・ジャズは、ひとつの感じ方であり、音楽的および社会的な自己表明である。ブルーノート・レコードの関心事は、センセーショナリズムやコマーシャリズムの装飾抜きに、ホット・ジャズ本来の衝動を明らかにすることだ」

1940年代のブルーノート

レコードを2枚出したからといって、レーベルが成り立つわけではない。最初の2作をリリースしてから5週間後、ブルーノートの2回目のセッションを行うため、アルフレッド・ライオンはスタジオに戻った。そこにいたのは、アルフレッド・ライオンがベルリンで少しだけ会ったことのあるシドニー・ベシェで、彼はジョージ・ガーシュウィンの「Summertime」を録音。極めて美しい同曲を、極めて美しい演奏でベシェが解釈したこのヴァージョンは、この新興レーベルにとって歴史的な転機となった。 [BN 6]としてリリースされたこの曲は、単に素晴らしいレコードであっただけではない。コモドア・ミュージック・ショップだけでも1日に30枚も売り上げ、同レーベルにとって最初のヒットとなったのである。すぐにブルーノートはさらなるセッションに取り掛かったが、間もなく戦争が勃発すると、アルフレッド・ライオンは徴兵されてテキサス州に配属。その後、医学的な理由で名誉除隊し、レコーディングを再開したのは1944年のことであった。

1944年7月、ある新しい人物の名前がスタジオ日誌に登場した時、ブルーノートは近代化への最初の一歩を恐る恐る踏み出した。その人物とは、テナー・サックス奏者アイク・ケベック、25歳。アイク・ケベック率いるスイングテットは、その名の通り、スウィングを基盤とするバンドだが、何か新しいものが微妙に入り込んでいる。Billboard誌は、同誌がブルーノートに触れた最初期の記事のひとつで、アルフレッド・ライオンとブルーノートが「人種の垣根を超えたジャズを前途有望な勢力として」評価していることを認めていた。

当時ジャズ界の最新流行はビパップで、より伝統的なジャズに根差していたブルーノートの作品は、しばらくの間、時代の流れに合っていないように思われた。アイク・ケベックは同レーベルの非公式なA&Rになっており、ちょっとしたスカウト活動も行っていた。ブルーノートが契約した最初の“新人”アーティストは、シンガー(で、エロール・フリンの元運転手)のバブス・ゴンザレスだ。1947年に彼が3ビップス&ア・バップとして「Oop-Pop-A-Da」をレコーディングした際には、バップの基礎を取り入れていた。

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アルフレッド・ライオンとフランシス・ウルフにセロニアス・モンクの音楽を紹介したのもアイク・ケベックだ。フランシス・ウルフもアルフレッド・ライオン同様、ドイツからの移住者で、レーベルの共同運営者となり、ブルーノートのアルバム・ジャケットを数多く飾っている素晴らしい写真の撮影も手掛けた。セロニアス・モンクがブルーノートのためのレコーディングを初めて行ったのは、1947年10月15日、WORスタジオでのことだ。その時のセッションから制作された、彼の初のSP盤[BN 542]は、いみじくも「Thelonious」と名付けられている。ダウン・ビート誌は同作に2つ星を付け、「セロニアス・モンクから、我々はもっと良いものを期待している」とコメントしていた。数ヶ月後、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズは、同レーベルのために初レコーディング。以後15年間、ブレイキーはブルーノートの熱烈な支持者であり続けることになる。

他のバップスター勢がブルーノートのために曲のレコーディングを開始したのは、それから間もなくのこと。そこには、トランペット奏者のハワード・マギーやファッツ・ナヴァロ、ピアニストのバド・パウエルやウィントン・ケリーがいた他、1952年にはマイルス・デイヴィスが同レーベルでレコーディングを行った。また、同じく1952年、24歳のホレス・シルヴァーがブルーノートでレコーディング。彼はその後30年間にわたり、同レーベルに在籍し続けることになる。さらにもう1人のスター、クリフォード・ブラウンの名前がそこに加わった。彼は若くして非業の死を遂げたが、その前にブルーノートから一連の名盤をリリースしている。

1940年代後半から1950年代初頭にかけ、大手レコード会社が33回転のLPレコードをリリースし始めると、ブルーノートがそれと競い合うことは難しくなっていた。一方、シングルの新たなフォーマットになろうとしていたのが、45回転の7インチ盤だ。ブルーノートが独自のスタイルや自然なリズムを見出し、創設を主導した人々の期待を真に果たし始めたのは、1950年代のことである。それは、ジャズの最先端を行く若手ミュージシャン達による、“妥協なき表現”が実現した10年であった。アルフレッド・ライオンのヴィジョンは夢となり、彼の夢が現実のものとなったのである。同社のひたむきな取り組みにより、ブルーノートのあらゆる側面を通じてジャズは自己改革を果たしたのだった。

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ルディ・ヴァン・ゲルダーの登場

1953年1月末日、同レーベルから発表された作品に驚天動地の変化が起きた。テナー・サックス奏者のギル・メレは、ニュージャージー州ハッケンサックのとあるスタジオで録音した4面分の曲をアルフレッド・ライオンに聴かせ、彼の関心を引いていた。結果、アルフレッド・ライオンはそれをシングルとしてリリースすることに同意し、ギル・メレにレコーディング契約をオファー。彼がそのレコーディングを行ったのは、エンジニアのルディ・ヴァン・ゲルダーのスタジオで、その後12年間、ブルーノートのほぼ全ての音源が、ルディ・ヴァン・ゲルダーによって録音されることになる。当初、彼のスタジオが設置されていたのは、彼の実家のリビングルームだった。ブルーノートのプロデューサーで音源発掘者のマイケル・カスクーナによれば、“ルディ・ヴァン・ゲルダーの実家のリビングルームに設置されたスタジオ”というコンセプトは、言うほど突飛なものではなかったそうだ。「彼らは家を新築しているところだったんだ。ルディは当座しのぎの装備で録音していたけれど、本当は録音スタジオを作りたいと言っていた。それで彼らは、リビングルームに自分達でデザインしたあらゆる種類のアルコーブ(壁面の窪みを利用した小部屋)や、隅の小スペース、アーチ形の入り口等を設けたんだ。ルディが音響の面から、そういったものの構想を持っていたからだ。リビングルームの端に、彼は防音ガラス付きのコントロール・ルームを設置した。だから、そのスタジオはプロ仕様だったんだよ」。

1955年には、ホレス・シルヴァーの7インチ・シングル(45回転盤)「The Preacher」が大ヒット。その後間もなくして、オルガン奏者のジミー・スミスがブルーノートと契約し、アルバムは好調なセールスを上げた。彼のシングル群がジュークボックスを賑わせていたことも、その理由のひとつであった。

The Preacher

1960年代のブルーノート

1950年代、ブルーノートからレコードをリリースしたアーティスト勢のリストは正に壮観だ。そこに名を連ねているのは、ルー・ドナルドソン、J.J. ジョンソン、ソニー・ロリンズケニー・バレル、ハンク・モブレー、カーティス・フラー、ジョン・コルトレーンら。ジョン・コルトレーンがブルーノートから発表した唯一のアルバム『Blue Train』は、彼の最高傑作の1枚となっている。1950年代後半から1960年代初めにかけてリリースされた、ソニー・クラーク、ザ・スリー・サウンズ、キャノンボール・アダレイ、ディジー・リース、ジャッキー・マクリーン、フレディ・ハバード、スタンリー・タレンタイン、デクスター・ゴードン、ティナ・ブルックス、そしてグラント・グリーンのアルバムには、ブルーノートのロゴが入っていた。

アルフレッド・ライオンにとって、ブルーノート・レコードが儲かるかどうかは問題ではなかった。音楽業界における数多くの他の先駆者同様、彼がしていたことは音楽への愛ゆえであったからだ。確かに彼は成功を手にし、一財産を築いたが、メインストリーム寄りの分野で事業を展開している他の人々が挙げた利益には程遠い。アルフレッド・ライオンが自ら認めたところによれば、音楽的に「何もかもを受け入れる余裕」があると彼は感じており、大量に売れることはないだろうと自分でも分かっていたレコーディング・ワークを続けていた原動力は、そういった哲学であった。売り上げの高いレコードから得た利益で補うことにより、商業的な魅力に乏しいレコードの制作を可能にするというのが、彼の理念だった。しかし1960年代に入ると、彼独特の直観力、育成力、ひたむきさ、そして何よりも生来のクラス感が組み合わさった結果、ジャズ史上最高傑作と目される作品の幾つかが、ブルーノートからリリースされることになる。

1962年、ちょうどジミー・スミスがブルーノートからヴァーヴ・レコードに移籍する寸前だった時、彼の「Midnight Special part 1&2」が全米ポップ・チャートで69位を記録。順位はそれより低かったものの、さらに数枚のシングルがチャート入りを果たし、より多くの人々が彼のサウンドに親しむきっかけとなった。また1964年には、トランペット奏者リー・モーガンの「The Sidewinder」がヒット。その他、ハービー・ハンコック、ジョー・ヘンダーソン、ウェイン・ショーター、エリック・ドルフィー、アンドリュー・ヒル、トニー・ウィリアムス、ドン・チェリー、ラリー・ヤング、グラント・グリーン、オーネット・コールマンら、錚々たる面々が、ブルーノートからレコードをリリースした。ジャズの名士録のように聞こえるとしたら、それは実際その通りだからだ。

The Sidewinder (Remastered 1999/Rudy Van Gelder Edition)

1966年5月、Billboard誌が“ジャズ界のキャデラック”と称していたものを、リバティー・レコードが買収した。アルフレッド・ライオンは、創設から26年が経っていた彼のレーベルを、設立から10年を迎えたばかりのレーベルに売却することを決意したのだ。リバティーは賢明にも、フランシス・ウルフおよび創業者アルフレッド・ライオンの2人と独占契約し、その後2年間は彼らにレーベル運営を任せることにした。アルフレッド・ライオン自身が認めたことによると、彼は売却先を探していたわけではなかったが、その頃、彼は軽度の心臓発作を起こした後で、二人目の妻ルースが心配していた時、ちょうどタイミング良くリバティーが現れたのだという。しかしアルフレッド・ライオンは新会社のブルーノートに長居することなく、翌年辞任した。

1970年代のブルーノート

1970年代までにブルーノートは数多くの変化を遂げたものの、ジャズ全般は総じて困難な時代に直面していた。ザ・ビートルズが先鋒となった“ブリティッシュ・インヴェイジョン”は、ジャズに直接影響を与えたわけではないかもしれないが、ジャズに代わって台頭してきた様々なカルチャーやアイデアのひとつであったことは確かだ。1969年に開催されたウッドストック・フェスティヴァル後に現れた、いわゆる“ウッドストック世代”は、一部のジャズ・アーティストのことも受け入れてはいたが、その中心となっていたのは彼ら独自の音楽、つまりプログレッシブ・ミュージックだ。ジャズは新たな家路を見つける必要に迫られたが、そこで見出したのは、実に好みの分かれるものであった。

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1956年からブルーノートでレコーディングを行っていたドナルド・バードは、新たな音楽の方向性を取り始め、それを気に入らなかった人も多かった一方、音楽賞受賞アルバム『Black Byrd』で、間違いなく一般大衆に受け入れられた。同アルバムは全米チャートにランクインし、表題曲も、順位はそれより下ではあったがシングル・チャート入りを果たしている。同じように、ボビー・ハンフリーや、ロニー・ロウズ、マリーナ・ショウのレコードは、R&Bチャート入りを果たすのに十分な売り上げを達成。これはジャズではないと言う人もいるだろうが、そのおかげで会社は大変な時期を乗り切り、生き延びることが出来た。この時代にリリースされたレコードの多くは、後に起きたアシッド・ジャズやヒップホップのムーヴメントに影響を与えている。

Black Byrd

 

80年代以降のブルーノート

休眠状態を経て、新社長ブルース・ランドヴァルのもと、ブルーノートが復活したのは1980年代初頭のことだ。レコード会社での豊富な経験を持ち、ブルーノートにとって何より重要なことに、ジャズ愛好家であるブルース・ランドヴァルは、売れるレコードを作ることに着手。彼がまず契約したアーティストの1人が、ボビー・マクファーリンだった。ブルース・ ランドヴァルの本能が正しかったことが証明されたのは、特に2年後、ボビー・マクファーリンの「Don’t Worry Be Happy」が世界的なヒットを飛ばした時だ。とはいえこのシングルは、(この頃までにEMIがブルーノートを買収していたため)ブルーノートというよりむしろ、EMからのリリースであった。

1993年、アススリーがブルーノートから発表したデビュー・アルバム『Hand on the Torch』には、セロニアス・モンクや、ドナルド・バード、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ、ホレス・シルヴァーらの曲から取った多種多様なサンプリングが用いられている。 1994年1月、同アルバムは全米アルバム・チャートで31位を記録。「Cantaloop (Flip Fantasia)」は全米シングル・チャートでトップ10入りを果たし、その過程でミリオン・セラーを達成した。

US3 – Cantaloop (Flip Fantasia) [Official Video]

レーベル設立から63年後の2002年、ブルース・ランドヴァルや他のブルーノートの役員達をも驚かせたあるアーティストが、物議を招いた素晴らしいアルバムを引っ提げて登場——だが、あれはジャズだったのだろうか? シタール奏者ラヴィ・シャンカールの娘ノラ・ジョーンズは、ジャズには程遠いと思った人もいる。だが、マイケル・カスクーナはこう語る。

「ノラ・ジョーンズがブルーノートと契約した時は、すごく興奮したよ。彼女はジャズ・アーティストで、ピアノを弾き、アコースティック・ベースとジャズ・ドラマーと共にスタンダードを歌っていたんだ。彼女のデモがポップスやカントリー寄りの方向性を示すようになった時、ブルースは、ブルーノート全体の整合性を懸念し、よりポップ志向のマンハッタン・レーベルと契約するよう提案した。だがノラはこう言ったんだ、『いいえ、私はブルーノートの一員になりたいんです。ブルーノートだから契約したんですよ。このレーベルを愛しているんです。ブルーノートを聴いて育ったから、そこに所属したいんです』とね」

彼女のシングル「Don’t Know Why」は全米チャートで30位を記録し、その後グラミー賞を受賞。彼女のアルバム『Come Away With Me(邦題:ノラ・ジョーンズ)』は、ブルーノート・レコードの新たな方向性の幕開けを告げる作品となった。

Norah Jones – Don't Know Why (Official Music Video)

2003年夏、マッドリブ名義でプロデューサーとして活動していたオーティス・ジャクソンJr.は、ブルーノートの古典時代の曲をリミックスしたアルバム『Shades of Blue』をリリース。ブルーノートの観点から言えば、恐らく同作はこのリミキサーの技の粋を極めた作品であり、贅沢なまでに聴き応えたっぷりなブルーノートの名盤の数々と出会う旅路に、多くのファンを誘うアルバムのひとつである。

 

ドン・ウォズの登場

2010年代に入ると、「物心がついてからずっと仕事に就くことを避けてきた。ミュージシャンになったのはそれが理由だ」と自認する一人の男が、ブルーノートが新設したチーフ・クリエイティブ・オフィサーという役職に迎えられた。だがこれは普通の仕事ではなく、ミュージシャン兼ソングライターでグラミー賞受賞プロデューサーのドン・ウォズが選ばれたのは、正に的確であった。ボブ・ディラン、イギー・ポップ、ボニー・レイット、アル・グリーン、B.B. キングザ・ローリング・ストーンズといったアーティスト達と仕事をしてきたドン・ウォズの、ロック界における業績は完璧なものだった。しかし彼の就任時、ジャズ界の人間には、ドン・ウォズが何者なのか、そしてそれまでの人生で何をしてきた人物なのか、実感していた人はほとんどいなかった。

ドン・ウォズの指揮のもと、ブルーノート・レコードは、 “妥協なき表現”の新時代に足を踏み入れた。このボックス・セットの最後の5曲は全て、ブルーノートのアーティストがリリースしたアルバムのプロモーションに使用されてきた曲である。音楽の多様性と全体の整合性の両立は、ドン・ウォズの創造的戦略の証だ。 ロバート・グラスパーホセ・ジェイムズジェイソン・モラングレゴリー・ポーターウェイン・ショーター、ボビー・ハッチャーソン、ロザンヌ・キャッシュ、デリック・ホッジらを一緒に難なくリリースできるレーベルは、真摯に受け止められるべきである。

“妥協なき表現”にさらなる定義が必要ならば、「いいから、とにかくやってみな」というのがそれに当たる。言葉で説明する必要はない。ドン・ウォズにとって、「素晴らしい作品を作ることは、社会に対する大きな貢献なんだ」と。それは正に、アルフレッド・ライオン、フランシス・ウルフ、ブルース・ランドヴァル、マイケル・カスクーナ、そしてこの四分の三世紀の間にブルーノートと密接に関わってきた全ての人々がやってきたことだ。

Written By Richard Havers




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