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音楽業界を支えてきたミュージック・ジャーナリズムの歴史

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Know Your Writes

1977年、故フランク・ザッパはトロント・スター紙のスタッフ・レポーター、ブルース・カークランドによるインタヴュー中、音楽評論家に対する考えを刺々しく率直に語った。「ロック・ジャーナリズムの大半は、まともに文章を書けないヤツらが、まともに話せないヤツらにインタヴューして、まともに読めないヤツらに提供しているものだ」。

フランク・ザッパの辛辣なコメントは、後にローリング・ストーン誌のコラム‘Loose Change’に掲載され、賛否両論を巻き起こした。しかし、ロック・ミュージック・ライターや、彼らの能力に対する世間一般の考えは、ここ数十年の間で大きく揺らいでいる。音楽記事の執筆をロマンティックなヴァケーションだといまだに考えている人々もいる。幸運なライターが、ロック・スターと側近に無条件で近づくことを許される、というのだ。しかし、経験豊かなライターならば、華やかさとは程遠いと語るだろう。

それでも、音楽について書きたいという先天的な欲求は、個人的な利益や、時には自身の健康にすら優先するようである。抑えつけることのできないこの衝動に突き動かされ、ライターは何世代にもわたってペンを手に取ってきた。それどころか、インターネットの到来により、さらに多くのライター志望者がオンラインで意見を述べるようになった。そして、肝心な問題はいまだ解決されていない。そもそも、音楽について書きたいと我々を掻き立てるこの力の正体は、何なのだろうか?

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尊敬されるガーディアン紙の音楽コラムニスト、アレックス・ペトリディスは、音楽の内容そのものが、人々を駆り立てると考えている。「音楽が重要なんだと思う。音楽には、人々が論じ合い、適切に評価するだけの価値がある。そして、それを行うよりより優れた方法を誰も思いついてはいない」と彼は記している。「インターネットの発達にともない、アルバム・レヴューの決定版はもはや存在しなくなったかもしれないが、それは問題にならない……音楽について論じ・音楽を評価する人々が多ければ多いほど良いのだから」。

音楽ジャーナリズムには、偏りがあるかもしれない。また、使い捨てかもしれない。最悪の場合、我儘な自己満足にもなりかねないが、ジャンルとしては鋭敏かつ博識なライターを数多く輩出してきた。そして、彼らの多くが本を執筆すると、音楽の聴き方を変えただけでなく、より大きな文化的環境の中で、ポピュラー・ミュージックがいかに重要であるかを説明してきた。

しかし、ロック史そのものと同様に、音楽ジャーナリズムについては、誤りを正すべき神話が存在する。例えばに、20世紀のロック・ジャーナリズムはザ・ビートルズの成功後、本格的に発展したと一般に考えられているが、先進的で知的に偏った音楽ジャーナリズムは、ほぼ間違いなく19世紀のクラシック音楽評論を起源としている。実際、タイムズのジェイムズ・ウィリアム・デイヴィソンや、フランスのロマン派音楽の作曲家、ヘクター・ベルリオーズ(パリのマスコミでフリーランスの評論家としても活動していた)といった一流ライターは、早くて1840年には、影響力を及ぼしていた。

 

それでも、評論家と消費者の両者の状況が激変したのは、トーマス・エディソンが蓄音機(1887年、グラモフォンとして商標登録された)を発明した後である。20世紀初頭に10インチ盤、12インチ盤が登場すると、増大する音楽ファンが、録音された音楽を自宅で観賞するという考えが現実になりはじめた。

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アメリカのBillboard誌が設立されたのは1894年だが(当初はサーカスやフェア、バーレスク・ショウの取材で評判を確立していた)、現代音楽評論がしっかりとした足場を築いたのは、『Whisky Galore』の著者でスコットランド国民党の共同創立者だったコンプトン・マッケンジーが1923年にグラモフォン誌を創刊した時である。内容はクラシック音楽に限定されていたが、この実用的な月刊誌は、すぐさまレコード評論というアイディアを取り入れた。多数のレコードがリリースされはじめたため、評論家が消費者のために手引きと推薦を行うことが理に適っていたのだ。

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しかし、20世紀の音楽ジャーナリズムは、1930年代にジャズが台頭した頃、本領を発揮しはじめた。フランスでは、フランス・ホット・クラブ五重奏団がジプシー・ジャズのヨーロッパ的スタイルの開発に勤しんでいた。そして、同楽団と付き合いがあった評論家のユーグ・パナシエと興行主のシャルル・ドロネーは、2人でジャズ・ホット誌を設立。同誌は、第二次世界大戦の前後に、学術的なジャズ評論を推進した。一方アメリカでは、息長く刊行されているダウン・ビート誌が1935年にシカゴで創刊された。スウィング・ジャズから、カウント・ベイシー、デューク・エリントン、グレン・ミラーといったスターが生まれようとしていた頃である。

ニューヨークでは、1939年にベルリン出身のアルフレッド・ライオンがジャズ界で最大の影響力を誇るとされるレーベル、ブルーノートを設立した。同レーベルの先駆的な75年の歴史は、リチャード・ヘイヴァーズによる『Uncompromising Expression』(2014 年にリリースされた5枚組CDのボックスセット)の中で鮮やかに描かれている。アイコニックなジャズ・トランペット奏者/バンド・リーダーのマイルス・デイヴィスは、50年代前半から半ばのハードバップ期にブルーノートに音源を残した。またマイルス・デイヴィスは、故イアン・カー(スコットランド人ジャズ・ミュージシャンで、『The Rough Guide To Jazz』というジャズのガイド本の共著者でもある)による『The Definitive Biography』(その名にふさわしく決定的な伝記だ)というジャズの名著の題材ともなっている。

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第二次世界大戦後、Billboard誌の記者でスタッフ・ライターのジェリー・ウェクスラーは、1948年に初めて‘リズム・アンド・ブルース’という言葉を使った。ブラック・コミュニティから派生した音楽に対して使われていた‘レイス・ミュージック’という言葉には異論が多かったため、同語に代わる言葉として登場した‘リズム・アンド・ブルース’は、Billboard誌が1949年6月に最初のホット・リズム&ブルース・シングルズ・チャートを掲載すると、広く使用されるようになった。

しかし、ジェリー・ウェクスラーの功績は、‘リズム・アンド・ブルース’という言葉を作り出しただけでは終わらない。ジェリー・ウェクスラーの『Rhythm & Blues: A Life In American Music』(アレサ・フランクリンやB.B.キングの伝記執筆者、デヴィッド・リッツとの共著)では、その60年に渡るキャリアが詳細に記されており、アトランティック・レコードとパートナーシップを結んだエピソードや、ダスティ・スプリングフィールドの『Dusty In Memphis』や、ボブ・ディランが‘生まれ変わった’ことで賛否両論のアルバム『Slow Train Coming』などの名盤をプロデュースしたエピソードなどが記されている。

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英国では、当時創刊したばかりのニュー・ミュージカル・エクスプレス誌がBillboard誌の後を追い、1952年11月14日に初めてUKシングル・チャート(アル・マルティーノの「Here In My Heart」が第1位)を掲載した。しかし、50年代はエルヴィス・プレスリーやジョニー・キャッシュ、ジェリー・リー・ルイスといったロックン・ロールのスターが大きな名声を獲得した革命的な時代だった一方で、現代音楽の評論は、相対的に過小評価されたままだった。それでも、50年代後半から60年代初頭にかけての進歩的な音楽評論は存在する。英国の建築史学者、ポール・オリヴァーによる名著がその例だ。1965年に初刊行された『ブルースと話し込む』は、細部にわたるリサーチと、著者によるルーズヴェルト・サイクス、ライトニン・ホプキンス、オーティス・スパン等の草分け的ミュージシャンへのインタヴュー(当時、アメリカ南部ではまだ人種が隔離されていた)から構成されている。

ポール・オリヴァーは、革命的なことではいまだこれを越える例を見ない『Jazz Book Club』の執筆陣でもあった。この出版プロジェクトは、音楽学者のアラン・ロマックスによる『Mister Jelly Roll』を1956年にリリースしてスタートした。10年にわたって続いた同インプリントは、ルイ・アームストロングの伝記『Satchmos』等、ジャズとブルース(当時、一般には2ジャンルの違いについて、ほとんど認識されていなかった)に関する書籍を刊行した。中でもリロイ・ジョーンズによる名著『Negro Music In White America』は必読である。

 

情報豊富な今日の基準では、60年代前半のポップ・アーティストに関する記事は、良い意味で古風だ。音楽評論の大半は、ゴシップ・コラムと既定のニュース記事に限定されていたが、ザ・ビートルズが大英帝国勲章を授章したニュースや、さまざまな有名人とのいさかい、‘バッド・ボーイ’なザ・ビートルズのライヴァル、ザ・ローリング・ストーンズが1965年3月にガソリンスタンドの壁に立小便をした記事などで、タブロイド的な大騒動を巻き起こした。

Ray Coleman Brian Epstein

もちろん、物議を醸す内容やセクシャルな内容は、常に書籍や新聞の売上を伸ばしてきた。そのため、ザ・ビートルズとザ・ローリング・ストーンズの歴史を語る本は無数に出版されてきたが、伝説的な2バンドに関する書籍で特に反響が大きかったのは、それぞれのマネージャーに関するものだったというのも、意外なことではないだろう。メロディ・メーカー誌の元編集長、レイ・コールマンが題材としたのは、都会的でミステリアス、かつ極めてプライヴェートだったザ・ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインだ。『The Man Who Made The Beatles』は、悲痛ながらも読者を魅了してやまない。一方、ザ・ローリング・ストーンズのマネージャーだったアンドリュー・ルーグ・オールダムによる自叙伝『Stoned』では、‘スウィンギング・ロンドン(1960年代半ば~後半の若者主導による文化革命)’前夜の光景、サウンド、匂いまでもが見事に回想されている。

ブリティッシュ・ビートや、それに続いたブリティッシュ・インヴェイジョンの頃、より大きな文学的な野望を抱いていた評論家も少数ながら存在した。例えば、ザ・ビートルズの‘ロイヤル・コマンド・パフォーマンス’についてウィリアム・マンが書いた評論はその先駆けで、1963年12月にザ・タイムズ紙に掲載された評論には、「パンダイアトニックスケールのクラスター」や「ノンダイアトニックスケールの使用」等の記述的メタファーが使われている。ウィリアム・マンは、ザ・ビートルズの音楽を単なる使い捨てのポップ・ミュージックではなく、永続する重要性を持つ高尚な芸術であると考えていたことが分かる。

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ウィリアム・マンの直感は正しかった。ここから数年の間に、ポピュラー・ミュージックは、作曲の洗練度、文化的な影響度といった点で、急速に発展したのだ。1965年までには、ザ・ビートルズやボブ・ディランといった先見の明のあるアーティストは、『Rubber Soul』や『Bringing It All Back Home』等、かつて‘ポップ’と呼ばれていたものとはかけ離れた圧倒的なアルバムをリリースしていた。ジョン・サヴェージの名著『1966年:60年代が爆発した年』が示すように、1966年はポップ、ファッション、ポップアート、急進的な政治の世界にとって転機の年となり、‘60年代’を象徴する年となった。

 

ザ・ビートルズとザ・ローリング・ストーンズの台頭に大いに助けられ(どちらのバンドも頻繁に表紙を飾った)、ニュー・ミュージカル・エクスプレス誌とメロディ・メーカー誌(1926年の創刊当初は、ダンス・バンド/ミュージシャンのための雑誌だった)は1964年から1965年の間で大幅に売上を伸ばした。しかし、現代のロック・ミュージック評論の黄金時代は、1966年から始まったとされている。同年2月に、アメリカ初の本格的な音楽誌クローダディ!第1号がニューヨークで出版されたのだ。

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クローダディ!誌の設立者で、スワースモア大学1年生だったポール・ウィリアムズは、‘60年代半ばに新しい音楽を聴くことによって、人生を変えるくらいにパワフルな経験を若者が分かち合える’と構想し、この新雑誌を創刊した。評論家の面々は、ポール・ウィリアムズの展望を幾度となく称賛している。ニューヨーク・タイムズ紙は後年、クローダディ!を‘ロックン・ロールを真剣に論じた初めての雑誌’と称している。程なくして、ポール・ウィリアムズの画期的な雑誌は、ジョン・ランドー、リチャード・メルツァー、後にブルー・オイスター・カルト/ザ・クラッシュのプロデューサーとなったサンディ・パールマン等、多数の著名ロック・ライターにとっての稽古場となった。

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クローダディ!後、アメリカのロック史と同義となる2つの新雑誌が創刊された。1967年11月にモンタレー・ポップ・フェスティヴァルの特集記事を擁して創刊したローリング・ストーンズ誌は、アメリカのロック誌の父とされている。また、1969年後半にはデトロイトのレコード店主、バリー・クレイマーが人気月刊誌クリームを創刊。通説では、同誌は1971年5月にクエスチョン・マーク&ザ・ミステリアンズに関する記事の中で‘パンク・ロック’と言う言葉を生み出したとされている。

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クローダディ!誌、ローリング・ストーン誌、クリーム誌は、過去50年で影響力の大きなライターを輩出してきた。アメリカ文化の評論家として最も尊敬されているサンフランシスコ生まれのグリール・マーカスは、ローリング・ストーンズ誌初のレヴュー編集者だった。その学術的なスタイルと文学的なアプローチは、読めばすぐに彼の文章であることが分かる。「おそらくポップ・ミュージックについて執筆された中で史上最高の本」とニューヨーク・タイムズ紙の批評家、アラン・ライトが記しているように、グリール・マーカスの最高傑作は1975年の『Mystery Train』だ。6人の伝説的アーティスト(エルヴィス・プレスリー、スライ・ストーン、ロバート・ジョンソン、ザ・バンド、ランディ・ニューマン、ハーモニカ・フランク)のキャリアを辿りながら、アメリカ文化というより大きな文脈の中で、ロックン・ロールの影響を調査した名著である。

ローリング・ストーンズ誌とニューヨーク・タイムズ紙に記事を書きながら、文学界の巨匠となったもう1人のライターは、ピーター・グラルニックだ。彼は、アメリカのロック、ブルース、カントリーに関する最も権威ある評論家の1人とされている。ハウリン・ウルフ、マディ・ウォーターズといった先駆的ブルース・アーティストについて素晴らしい洞察力で論じた初期の記事は、ピーター・グラルニックの第一作『Feel Like Going Home』(1971年)に収録されているが、おそらく音楽評論というジャンルに末永く残る傑作は、非の打ちどころなく見事に調査されたエルヴィス・プレスリーの伝記2巻『Last Train to Memphis』(1994年)と『Careless Love』(1999年)だろう。この2巻は、ロックの帝王の台頭と没落を描いており、総ページ数は1,300ページに及ぶ。2015年に出版されたピーター・グラルニックの最新作『Sam Phillips: The Man Who Invented Rock’n’Roll』も、学術的な調査と鮮烈な筆致の傑作だ。

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グリール・マーカスもピーター・グラルニックもその学術的なスタイルで名高く、彼らのアプローチはすぐに同年代のライターに影響を与えると、彼らも詳細にまでこだわった重要な伝記を執筆した。例えば、クリーム誌で長年記事を執筆していたデイヴ・マーシュが1987年に出版した『Glory Days』は、80年代のブルース・スプリングスティーンのキャリアを細部にわたって記しており、『Nebraska』や『Born In The USA』という傑作を批評家的に綿密に解釈している。

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しかし、この年代に名を成したその他のライターは、センセーショナルな話題作りを狙うことが多かった。ローリング・ストーンズ誌の元ライター、スティーヴン・デイヴィスの『レッド・ツェッペリン物語』は、非常に面白いものの、バンド非公認のレッド・ツェッペリン伝記として悪名高く、後にシカゴ・トリビューン誌の批評家グレッグ・コットは‘史上最も悪名高いロックの伝記’と評しており、メンバーは、同書の出版以来、その内容をこき下ろしている。しかし、ニック・トーシュによる息を飲むようなジェリー・リー・ルイス伝『Hellfire』や、ジャミング!誌の元編集者/TV司会者のトニー・フレッチャーによるキース・ムーン伝『Dear Boy』等、ロック・ミュージック界の伝説的な奇才の伝記なら他により優れた書籍があるが、驚きの不品行を暴露したという点では、『Hammer Of The Gods』が基準であり続けており、同書は何回か増刷された。

ロック・ミュージックの評論は、60年代後半のアメリカにおいて支配的勢力となったが、70年代には英国のロック・ジャーナリズムも黄金時代を迎えた。60年代後半、NME誌、メロディ・メーカー誌、ディスク・アンド・ミュージック・エコー誌、レコード・ミラー誌の人気は上昇し、1970年10月にサウンズ誌が創刊されると、英国のロック・ファンは5種類の週刊誌を選ぶことができた(ただし、1972年にディスク誌は廃刊)。また、月刊誌ジグザグ(1969年4月に創刊)がすぐに評判を確立した。インタヴュー、詳細に調査された記事に加え、初代編集のピート・フレイムによる系図を使った斬新な『ロック・ファミリー・ツリーズ』が評判を呼んだのだ。『ロック・ファミリー・ツリーズ』では、ザ・バーズからジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズに至るまで、アーティストに起こった出来事やメンバーの変遷が辿られた。ピート・フレイムズの『Rock Family Trees』第1巻は1979年、第2巻は1983年に刊行され、後に2巻は『The Complete Rock Family Trees』として1冊にまとめられ、1993年に刊行された。それ以来、同シリーズで3冊が出版されたが、どれも美しいデザインで、読み応えのある本である。

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60年代後半から70年代前半、メロディ・メーカー誌やNME誌に執筆していたはリチャード・ウィリアムズ、マイケル・ワッツ、クリス・ウェルチ等は、グラム・ロックやプログレッシヴ・ロックといった流行のスタイルを取材する過程で、英国のロック・ジャーナリズムに信頼性を持ち込んだ最初のミュージック・ジャーナリストである。しかし、パンクとニュー・ウェイヴの到来により、大きな変化が起こった。ジュリー・バーチルやトニー・パーソンズ等、より若い英国人ライターは、当時の政治情勢に加えて、クリーム誌やローリング・ストーンズ誌のライターだったレスター・バングズ(ポピュラー・カルチャーだけでなく、文学や哲学を引用して毒舌を吐いた)のような急進的で現代な批評家に影響を受けた。一方、ジョン・サヴェージ、ポール・モーリー、メリー・ハロン、クリス・ボーンといったその他の有望ライターは、70年代後半から80年代前半にかけて、ポスト・パンク・シーンの報道により芸術的で印象主義なエッジを加えた。

特にジョン・サヴェージとポール・モーリーは、著名な文化的コメンテーターとなり、前者の『England’s Dreaming』は、セックス・ピストルズの歴史とより広範なパンク現象を語った決定的名著と称賛されている。

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英国の音楽メディア出身で特に個性的なライターは、パンクの後に噴出した多数の音楽スタイルのひとつを追って本を執筆した。NME誌とガーディアン紙等に記事を書いていたフリーランス・ライター、ロイド・ブラッドリーは、『Bass Culture: When Reggae Was King』で、スカからロックステディ、ダブから70年代のルーツ・ン・カルチャーに至るまで、ジャマイカの音楽史を初めて集大成した。また、メロディ・メーカー誌のスタッフだったサイモン・レイノルズ(彼の高尚なスタイルは、批判理論や哲学の要素を使うことにより、他と一線を画していた)は『Rip It Up And Start Again: Post-Punk 1978-84』を上梓。ポストパンク時代のリーダー格となった革命的アーティスト(パブリック・イメージ・リミテッド、ジョイ・ディヴィジョン、トーキング・ヘッズ等)が、パンク元来の3コード・テンプレートをいかに未来的な形に変化させたか(そしてその変化は今日まで続いている)について見事に論評した書である。

80年代、NME誌の付録のカセットで最も影響力が大きかったとされているのは、1986年の英国インディ・シーンの多彩さを示したC86だ。NME誌のライターでインディ・ミュージックのサポーターだったニール・テイラーは、こうした影響力の大きなアイテムのコレクターだった。そんな彼が、『Document & Eyewitness: A History Of Rough Trade』を後に執筆したのも納得である。同書は、影響力の大きな英国のレーベル/レコード店の創設者、ジェフ・トラヴィスの非公式な伝記でありながら、1978年の設立以来、ザ・スミス、ザ・ストロークス、ザ・リバティーンズ等の非凡な才能を後援してきた彼のレコード店、レーベル、販売会社の歴史も綿密に記録している。

Julian Cope Krautrocksampler

パンク/ポストパンクの第一教義は、DIY(自分のことは自分でやる)スピリットだ。そのため、同時代の型破りなパフォーマーは歌詞を書くという課題を取得し、アーティストとしての信頼を保った。70年代前半から半ば、当時ティーンエイジャーだったジュリアン・コープは、謎に包まれたドイツの実験主義者たちの音楽を寝室で聴いていた。そして彼は後にそのお返しとして、名著(しかし長らく絶版になっている)『Krautrocksampler』を執筆した。これは、第二次世界大戦後の西ドイツにおけるロックン・ロール文化を極めて主観的かつ情熱的に記した一冊で、タンジェリン・ドリーム、ファウスト、ノイ!といった一流バンドに焦点を当てている。

ジュリアン・コープ(その他、息の長いロック・ライターの数人もそうだ)と同様、ピーター・フックもジャーナリズムの正式な訓練は受けていない。しかし、彼は話し上手で、ジョイ・ディヴィジョンとニュー・オーダーという二大ポストパンク・バンドのベーシストでもあったため、語るべきことは多かった。彼は『The Haçienda: How Not To Run A Club』の中で、ニュー・オーダーとファクトリー・レコードが所有していたマンチェスターのクラブが、80年代後半にマッドチェスター・シーンのメッカとなり、その後ギャング、銃、ドラッグ、腐敗の嵐の中で崩壊した様を率直に記している。

1990年代、音楽ファンが音楽評論を消費する方法が変わり始めた。サウンズ誌とレコード・ミラー誌は1991年に廃刊し、セレクト誌、モジョ誌、さらにはメタル中心のケラング!誌(1981年にサウンズ誌の増刊として初登場した)といったより華やかな雑誌が英国市場に参入し、一時的ではあるものの人気を博した。

David Toop Ocean Of Sound

メディアは市場の変化に適応しようとしていたが、それでもトレンドが成熟を続ける中、2000年を目前に控えたポップ・ミュージックについて執筆するライターは、いまだ高い利益を上げることができたため、反響を呼ぶ本が数多く出版された。サウンズ誌/モジョ誌のライター、デヴィッド・キャヴァナの『The Story Of Creation Records』は、気まぐれなアラン・マッギーがいかに極貧生活から抜け出し、ブリットポップ全盛期にはダウニング街10番地で紅茶をたしなむようになったかを包括的に描いた1冊である。また、デヴィッド・トゥープの『Ocean Of Sound: Aether Talk, Ambient Sound And Imaginary Worlds』はドビュッシーからジミ・ヘンドリックスに至るまで、人類学的な精密さでアンビエント・ミュージックの進化を辿っている。さらに、マイケル・モイニハンとダーク・ソーデリンドの『Lords Of Chaos』は、ブラック・メタル・シーンの歴史を深く追求している。

新世紀を迎えようとする頃、インターネットが世界的な現実となると、多くのライターが今後のライター業の形についての懸念を抱くようになったようだ。そして今や、ロック・ミュージックの週刊誌は過去の遺物となり、オンラインの音楽ブロガーが中心となったが、新聞の音楽記事や、ローリング・ストーン誌、モジョ誌、アンカット誌といった月刊誌はいまだ存在感を失っていない。これは、プリント・メディアはいまだ音楽ジャーナリズムで重要な位置にあることを示している。

貪欲な読者の視点から考えると、いまだに質の高い本が数多く出版されているため、21世紀に入ってからも、音楽に関する名著が誕生していると思えるのは、心強い限りだ。

Mick Brown Tearing Down The Walls Of Sound

天才フィル・スペクターについて詳細に記したミック・ブラウンによる『Tearing Down The Walls Of Heartache』や、ロバート・ヒルバーンによる『Jonny Cash: The Life』、デヴィッド・ヴォウイのカメレオン的かつ壮大なキャリアを見事に描いたポール・トリンカによる『Starman』等の書籍は、20世紀に出版されたロック伝記の名著と肩を張る出来である。また、ジェフ・チャンの『ヒップホップ・ジェネレーション:スタイルで世界を変えた若者たちの物語』や、リチャード・ボールの『Be Still: The Stiff Records Story』は、革新的なジャンルについて概要を見事に記しながら、ジャンルがいかに進化しようと、音楽業界の異端児は常に観客を見つけ続けるということを示している。

Written By Tim Peacock


ガンズ・アンド・ローゼズ から ザ・ジャムパブリック・エネミーからソニック・ユース に至るまで、多くのミュージシャンが曲の中でロック・ライターを讃え、そして非難してきた。『Words On Music』をテーマにした独占プレイリストはこちら

 


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