“ショパンの再来”ブレハッチが語る、ショパンとマズルカの奥深い魅力
ポーランド出身のピアニスト、ラファウ・ブレハッチは、2005年のワルシャワ国際ショパン・ピアノ・コンクール優勝以来、同郷の作曲家フレデリック・ショパンの音楽と深く向き合い続けてきた。
そのブレハッチが満を持して発表した作品『ショパン:マズルカ集 第1巻』について話を聞いた。音楽ライター・高坂はる香さんによるインタビュー。
—ついにショパンのマズルカの録音第1弾をリリースされました。ブレハッチさんの中でその準備がようやく整ったということなのでしょうか。
そうですね。ショパンのマズルカならではの特別な構造を通じ、パーソナルでユニークな表現ができるという手応えを感じたので、マズルカの全曲録音を決心しました。このあと順次残りを録音して全集をリリースする予定なので、今はマズルカの冒険の真っ只中です。
そういう地点に到達するまでの道のりには、多くのプロセスがあります。それは長い冒険で、時間もかかりましたが、私は急ごうとは思いませんでした。ここから、感情豊かなショパンの世界をみなさんと共有していきたいと思っています。
—初めて弾いたマズルカはどの曲ですか?
Op.17-4、今回リリースしたディスクに収録されている、イ短調のマズルカです。そのハーモニーと繊細なメランコリーに強く惹かれ、とても特別なものだと感じました。哀しみや痛みだけでなく、それ以上の深い何かが込められています。
中間部には、典型的なマズルカらしいポーランドのダンスのリズムが現れ、それはどこか光と希望に満ちていますが、その後突然、メインテーマが再び現れます。その部分を聴くととても悲しくなりました。ドラマチックなマズルカです。
—何歳のときのことですか?
11歳か12歳の頃ですね。バッハ・コンクールというポーランド全国規模のコンクールを初めて受けたあと、ショパンの曲を前よりもたくさん弾くようになりました。
自分でスコアを読んで弾くようになる前から、他のピアニストの演奏を聴いたことはもちろんありました。特に、パデレフスキの弟子だったポーランドのピアニスト、ヘンリク・シュトンプカ(注:1927年第1回ショパンコンクールでマズルカ賞を受賞)の印象はとても強かったです。彼はマズルカの全曲録音も行っていて、その解釈は特別です。
—ショパンの時代から脈々と続くポーランドの伝統的な奏法や音楽性を引き継ぐピアニストということですね。
はい、すばらしい伝統です。パデレフスキやルービンシュタイン、そしてヘンリク・シュトンプカなどと、ずっと受け継がれてきたものです。ショパンをはじめさまざまな作曲家の演奏に関して、我々は強い伝統を受け継いでいます。そこから受け取るインスピレーションは大きなものです。
—2005年にショパンコンクールに優勝されたときは、マズルカ賞、コンチェルト賞、ポロネーズ賞とすべて受賞して、ショパンの再来だとみんなが喜んでいました。一方その後のコンクールでは複数の入賞者が特別賞を分け、優勝について論争が起きることが普通で、振り返ればむしろブレハッチさんのときのような満場一致といえる結果は特別だったのだと知ることになりました。
私は運がよかったんです。ただ、あれはとても自然に起きたことだったのだろうとも思います。
でも私自身はコンクール中、優勝などという結果は予想していませんでした。ご存知かもしれませんが、当時の私はコンクール中の“戦略”として、自分の気持ち、レパートリー、練習と、自分自身にだけ集中することにしていました。
コンクールに参加している他のピアニストの演奏は一切聴きませんでしたし、新聞も読まず、テレビも観ず、ラジオも聴きませんでした。インタビューなど取材もすべて避けました。音楽とショパンに自分の解釈だけで向き合うため、誰かからの提案も耳に入れないようにしました。そしてそのことが、良いムード、気持ちを保つうえで役立ちました。
でもそのため、他のみなさんの演奏がどんなものか、レベルがどの程度なのか、最初から最後まで全然わからない。つまり自分の演奏が一番良いのかどうかわかるはずもなかったということです。そんなわけで全く予想していなかったので、結果はとても良い驚きとともに受け止めました。
—あるレパートリーをコンサートで演奏するところから、録音として残すところにはまた一歩進んだ状態になっているのだろうと思います。どのようにそこまで進めてきたのでしょうか?
そうですね、コンサートと録音は少し違いますし、私の意見では、コンサートの経験なしに録音することは不可能です。
まず、練習を始めたばかりの曲をすぐにコンサートで弾くことはできません。曲に近づくためには、多くの時間をかけてその曲と過ごす必要があります。さらに観客と共有するという冒険、舞台経験を積むことで、私の中で音楽がより成熟し、作品の感情の世界について、一層特別なものが届けられるという自信を持てるようになります。これこそが、作品が私の血や心、指先に深く刻まれていくプロセスです。
こうしたコンサート経験があることでより自由になり、その自由さが演奏の解釈に表れてくる。そうしてようやくスタジオで録音するタイミングだと感じる時が訪れるのです。
スタジオでは、ディレクターやエンジニアという2人の人間が隣の部屋でひっそり私の演奏を聴いているマイクしかない空っぽのスペースで、聴き手がたくさんいるホールと同じ雰囲気を作り出そうと試みることになります(笑)。
©Stefan_Hoederath
—多くのピアニストにとって、普通、マズルカは適切に演奏するのが難しいものです。ブレハッチさんは、マズルカのあるべき姿をどう説明しますか。
この質問はよくされますが、数学的に説明するのは難しいです。私にとっては、このマズルカの特定のフレーズはこう響くべきだということは、いつもごく自然と感じられるからです。
よく問題になるショパンの適切なテンポ・ルバートについても、どう弾いたらいいかを説明するのは難しい。彼の音楽は、その時によって古典的、もしくはロマン派寄りに感じられて、
それはその日の気分や雰囲気によって変わるからです。
ホールによっても変わります。それは音響的な話だけでなく、ホールの見た目の美しさにも影響されます。もちろんピアノの状態も影響します。ヴォイシング、ハンマーの状態、鍵盤の調整については、ピアノ技術者との話し合いが大切です。
瞬間ごとの適切な解釈は、こうした多くの異なる要素がからみあって生まれるのです。だからこそ毎回の演奏が少しずつ変わります。
ショパンの音楽、特にマズルカには大きな自由があります。ただもちろん、スタイルを尊重しなければなりません。マズルカのリズムの知識は必要ですし、マズル、クラコヴィアク、オベレクという複数の種類のマズルカの間にあるわずかな違いも理解していないといけません。
この3つは異なる感情とシチュエーションを表現しています。クラコヴィアクはメランコリックで、オベレクはヴィヴィッドで生命力があります。 均等に3拍をとるワルツとは違って、2、3拍目の間に特別なスペースをとることもよくあります。
私は少し踊ることもできますが、演奏するうえで、必ずしも踊れる必要はありません。
…ポロネーズはいつでも踊って見せられますよ、マズルカより簡単なので(笑)。
いずれにしても、こうしたスタイルについて、私はなぜか理解できると自分で感じるのです。それはもう最初から! だから私にとってマズルカを理解することはそれほど難しくありません。
—ポーランド語の抑揚やリズムとショパンの音楽に関係はあると思いますか?
もちろんあると思います。ショパンの音楽言語は、私たちポーランド人の言語と強い結びつきがあります。そのため、ポーランド語を理解していることはマズルカをより良く演奏するうえの助けになりますが、必須ではありません。ポーランド人でないピアニストのマズルカにも、見事なものがありますよね。例えば、中国のフー・ツォンさんなど。
最も重要なのは、感性です。感性があれば、マズルカをはじめとする作品のロジックに深く入り込み、その感情の世界をフレッシュに再現できると思います。
—ショパンの楽譜に修辞学的な表現を感じますか?
楽譜を見ていて、そこに大なり小なり、言語のようなセンテンスを感じ、連想するときがあります。
だからこそ、音楽は言葉なしに音だけで何かを伝え、時には、言葉よりも音の方がはるかに多くのことを伝えられるのでしょう。
—ポーランドの自然の影響は感じますか?
それもあるでしょう。ポーランドの風景にはどこかメランコリックな雰囲気があります。特に秋になると、木々の色彩が豊かになります。春もいいですね。春はどちらかというと、恋をする季節といえるかな!
私は今もビドゴシチから近い田舎に住んでいて、そこから近いシャファルニアで少年時代のショパンが休暇を過ごしています。
私が住む場所は典型的な村より都会的ですが、風景はとてもいいですよ。家の近くにとても美しい森と湖があって、そこで過ごすことはマズルカへのインスピレーションになります。
—シンプルに楽譜を読めば、自分なりの音楽を見つけられるのですね。
はい、自分のやり方を見つけたら、次に重要なのは自然であることです。
もし不自然なものを感じるとしたら、それは作曲家と自分の関係においてなにか問題があるということでしょう。
私自身、一部の作曲家について、100%共感できないと感じることもあります。それはまだ、作品や作曲家と時間をかけて向き合う必要がある段階です。
大切なのは、100%解釈の準備ができ、自分の音楽だと感じられるときだけ演奏するということです。そうでなければ、聴衆も自然だとは感じず、どこかフェイクの要素を感じてしまうでしょう。
—ポーランドという国のなかで、ショパンの時代から変わらないものはあるのでしょうか。もちろん、多くのことが変化していると思いますが。
はい、不変の要素がいくつかありますよ。
—それは何でしょうか?
ポーランド人であるというアイデンティティですね。ポーランドの文化、民族音楽は、ショパンにとって大きなインスピレーションでした。ショパンはその手で、この世界の美しさを後世に残したのです。
—ショパンの他の作品と比べて、マズルカは特別だと感じますか?
そうですね。とても親密な世界を作り出すことができる特別な音楽です。私は時々シャイになって言葉で伝えられませんが、そういうこともマズルカを通じてならたくさん話せます。音楽を通じて表現するときは、より思い切ったことができるのです。
音楽は私の言葉です。とても大切で親密なことを、届けたいと思う相手により楽に伝えることができます。
この言語を使えて幸せです。ユニバーサルな“音楽”という言語を世界中の人々と共有したいですね。
—マズルカを演奏する上で求められる特別な音やタッチはありますか?
とても重要な問題です。今回録音するにあたっても、適切なピアノを選ぶため、ベルリンのテルデックススタジオで多くの時間を費やしました。信頼できるピアノ調律技術者を見つけることも重要です。
そこで今回はアムステルダムのミシェル・ブランディスにマズルカの全曲録音の計画を伝え、お願いしたところ、全てのスケジュールを快く受け入れ、ベルリンで2〜3日かけて最適なピアノを準備してくれました。彼は天才で、レパートリーに合わせた特別なイントネーションやヴォイシングの作り方を熟知しています。その音は本当にすばらしいものでした。
—理想のマズルカ・サウンドですか。
そう、マズルカ・サウンド。明るすぎないけれど、いくらかの光を感じ、いろいろな影や色もあります。あと、ピアノとメゾピアノの間のダイナミクスがあることも大切です。このセクションのダイナミクスのなかにいろいろな色を見つけられるピアノは良いですね。
ある種の音の力強さも求められます。例えばマズルカOp.56-2のような作品では、民俗音楽特有のベースのクインタールを強調したかったので、深く豊かな低音が必要でした。そのため、親密であたたかい音だけでなく、倍音や力強さも求めました。
ブラームスやベートーヴェンのような力強い音とはまた違うのですけれど……力強いといえる種類の音です。
これは調律技術者にとってチャレンジングで、ときにピアノと格闘しなくてはならなかったかもしれません。力強い音と親密な音が両方出る良いバランスを見つけるのは、簡単ではありませんから。でも、優れた技術者なら実現は可能なのです。
—では、ショパンにとってマズルカはどんな存在だったと思いますか?
彼にとって、マズルカという形式は日記のようなものだったと思います。個人的で親密なことについて、特に晩年に至っては困難で痛みを伴う経験について、マズルカという形で書き記していたと私には感じられます。
マズルカは、音楽のようであり、詩でもあった。それは感情的でポリフォニックな詩です。晩年のショパンのマズルカ、Op.50、56、63には、多くのポリフォニックな構造が見られます。
そこにあるさまざまな空間やプラットフォームが、感情やテクニックで満たされているのです。これは、バッハにも見られるタイプのポリフォニックな思考ですね。
—いつかショパンが生前最後に書いたマズルカを録音することになりますよね。そこに特別さは感じるのでしょうか? やはりチャレンジングですか?
もちろんそうですね。ただ、今はまだ作品に向き会う時間がもっと必要な段階で、その準備の工程の秘密を全部さらけ出したくはないので、その話は少し時間を置いてから、また今度話しましょう!
いずれにしても、私にとってはすべてのマズルカが特別です。2005年のコンクールのために準備したOp.56には強い思い出がありますし、前述のとおり最初に弾いたマズルカを含むOp.17も大切な作品です。
—マズルカにこれほど深く関わった後、ショパンについて感じた新たな印象はありますか?
以前から感じていたことではありますが、今一層思うようになったのは、ショパンは非常に繊細で、心と頭の中にとても豊かな感情の世界を持つ人だったということです。
彼は39年の人生の中で、多くの苦しみ、メランコリックな出来事を経験し、家族や故郷を恋しく思い続けました。そして同時に多くの喜びも感じていました。そのすべてが彼の音楽に表れています。だからこそ、音楽が常に変化するのです。
マズルカは特に、パーソナルで親密な言語のおかげで、私たちにより多くの心の内を語りかけてきます。
私のピアニストとしての役割は、そんな作品の中のショパンの感情に触れて深く入り込み、新たに再現し、表現することです。
—世界のあちこちで紛争が絶えない昨今、マズルカにどんな価値や意味を感じますか。
多くの国での喜ばしくない出来事のニュースを見るにつけ、つらい気持ちになるかもしれませんが、この音楽を聴くことは、魂を少し柔らかくし、希望と光をもたらしてくれるかもしれません。人生の大変な出来事を束の間忘れさせてくれるでしょう。
—特にマズルカを聴くことは、故郷を失うかもしれない状況に思いを馳せ、国や家族を失った人の気持ちに寄り添う気持ちももたらしてくれそうです。
そうですね、ショパンは国を失い家族を失いましたが、諦めずに新しい何かを作り続けました。音楽が彼を助けたのです。同じように、彼の音楽は、私たちが希望と光を失わないでいることを助けてくれるでしょう。
Interviewed & Written by 高坂はる香
■リリース情報
ラファウ・ブレハッチ『ショパン:マズルカ集 第1巻』
2026年1月21日発売
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