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スーパートランプの創設メンバー、リック・デイヴィスが81歳で逝去。その功績を辿る
英ロック・バンド、スーパートランプ(Supertramp)の創設メンバーであり、ソングライター、シンガー、そしてキーボーディストとして知られるリック・デイヴィス(Rick Davies)が、現地時間2025年9月6日、多発性骨髄腫との10年以上にわたる闘病の末、81歳で逝去した。スーパートランプの公式管理組織であるスーパー・トランプ・パートナーシップは、次のような声明とともにこの訃報を伝えている。
「スーパートランプ・パートナーシップは、深い悲しみとともにスーパー・トランプの創設者、リック・デイヴィスが長い闘病生活の末に亡くなったことをお知らせいたします。私たちは彼と知り合い、50年以上にわたって彼と共演できたことを光栄に思います。(妻である)スー・デイヴィスに心よりお悔やみを申し上げます」
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その生涯
リチャード・デイヴィスは、1944年にウィルトシャー州スウィンドンで美容師の母ベティと商船の船員だった父ディックのもとに生まれた。彼の音楽への関心は、幼少期に両親が中古のラジオ付き蓄音機をプレゼントしてくれたことがきっかけで芽生えた。その蓄音機に残されていたレコードの中にはジーン・クルーパの「Drummin’ Man」があり、本人の言葉を借りれば、「その曲を聴いた瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けた」という。
家族の友人がビスケット缶で作った手製のドラムセットがきっかけで音楽の道を志すようになった彼は、12歳にして“ブリティッシュ・レイルウェイズ・スタッフ・アソシエーションズ・ブラス・アンド・シルヴァー・ジュビリー・バンド”に参加。当時のイギリス国鉄の職員協会に属するブラスバンドで、演奏活動を始めた。
1950年代後半、リック・デイヴィスはヴィンス&ザ・ヴィジランテスというバンドで活動し、その数年後、自身のグループ“リックス・ブルース”を結成。父が病気になると、芸術を学んでいたスウィンドン・カレッジを辞め、工場で働き始めた。1966年、彼がオルガン奏者として加入した“ザ・ロンリー・ワンズ”は、後に“ザ・ジョイント”と改名。ドイツ映画の音楽を手がける傍らツアーを行い、一定の成功を収めた。
やがてリック・デイヴィスは、オランダ人富豪の支援を受け、自らのバンドを立ち上げることを決意。1969年8月に音楽誌 Melody Makerに掲載したメンバー募集の広告をきっかけに出会ったロジャー・ホジソンとは、生い立ちや経歴の違いを超えて意気投合し、2人は曲作りを共に始めることとなった。
当初彼らは、“ダディ”というプログレッシヴ・ロック・バンド名義で活動していたが、後に“スーパートランプ”へと改名し、1970年8月にA&Mレコードからセルフタイトルのデビュー・アルバムを発表。続く1971年の『Indelibly Stamped』は商業的には失敗に終わったが、トップレスの女性をあしらったジャケット写真は話題を呼んだ。
1973年、ドラマーのボブ・シーベンバーグ(当時はボブ・C・ベンバーグと表記)、管楽器奏者のジョン・ヘリウェル、ベーシストのダギー・トムソンが加入し、スーパートランプはその後10年にわたって続くラインナップを確立した。一方で、リック・デイヴィスとロジャー・ホジソンの共作者としての関係は次第に薄れ、それぞれ独自に楽曲を手掛けるようになったものの、楽曲のクレジットは引き続き二人の連名で記されていた。
1974年、A&Mの若手A&Rだったデイヴ・マーゲレソンがレーベルを離れ、バンドの専任マネージャーとなると、メンバーは家族や友人、スタッフと共にイングランド南西部サマセットにあるサウスコームというコテージに移り住み、3作目のアルバムの制作を始める。1974年にリリースされた『Crime of the Century』からは、「School」、「Dreamer」、そしてリック・デイヴィスが手掛けた「Bloody Well Right」などのヒット・シングルが生まれ、全英チャートでTOP5入り、全米チャートでもTOP40入りを果たす成功を収めた。
ツアーの合間に制作され、わずか13か月という短期間で完成した1975年発表の4作目『Crisis? What Crisis?』は、現在では、バンド初期のプログレ作品と、商業的成功を収めた後期作品との橋渡し的存在と位置付けられており、前作『Crime of the Century』の制作過程でお蔵入りとなった楽曲のいくつかも収録されている。
1977年の『Even in the Quietest Moments…』からは「Give A Little Bit」がヒットを記録。スーパートランプはその後ロサンゼルスに拠点を移し、ポップ寄りのサウンドを取り入れたバンドの代表作『Breakfast in America』を完成させた。このアルバムからはリック・デイヴィス作の「Goodbye Stranger」を含む4曲のヒット・シングルが生まれ、全米で4×プラチナに認定。グラミー賞では2部門を受賞し、“年間最優秀アルバム”にもノミネートされた。
1980年には、1979年11月、パリのパヴィヨン・ド・パリでの公演を中心に収録した2枚組ライヴ・アルバム『Paris』を発表。続く1982年の『…Famous Last Words….』は、「It’s Raining Again」、「My Kind of Lady」といったヒット曲の後押しを受けて全米5位を記録したが、今作発表後、ロジャー・ホジソンがソロ活動に専念するためにバンドを脱退。
1985年、ロジャー・ホジソン脱退後初のアルバム『Brother Where You Bound』からは「Cannonball」がヒットを記録。続くシンセサイザーを導入した実験的アルバム『Free as a Bird』からは「I’m Beggin’ You」が全米ダンス・チャートで1位を獲得したものの、アルバム自体は評価が振るわなかった。
1988年、ダギー・トムソンの脱退を契機にスーパートランプは解散。リック・デイヴィスは、この解散を“年老いた兵士のように”姿を消したと振り返っている。
1993年、ロジャー・ホジソンとリック・デイヴィスはA&M共同創設者であるジェリー・モスの功績を称える式典で再会し、一時的に新曲のデモを録音したが、すぐにまた別々の道を歩むことになった。1997年には再結成ツアーの後『Some Things Never Change』を発表。2002年にはロジャー・ホジソン不在のまま最後のアルバム『Slow Motion』をリリースした。2015年に予定されていたスーパー・トランプのツアーは、リック・デイヴィスが多発性骨髄腫と闘病中であったため、中止を余儀なくされた。
彼の死後に発表された声明はこう続く。
「リック・デイヴィスの音楽とレガシーは、今もなお多くの人々にインスピレーションを与え続けており、彼の偉大な作品が決して色あせることなく、生き続けることを証明しています」
Written By Sam Armstrong
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