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グレン・キャンベルが語るビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンの代役だった時代

グレン・キャンベル(Glen Campbell)は、その黄金の歌声で「Wichita Lineman」「Gentle On My Mind」「Rhinestone Cowboy」「By The Time I Get To Phoenix」といった不朽の名曲をカントリー界に刻んだ。しかし、もし仮に彼がソロ・アーティストとしてマイクの前に立つことがなかったとしても、音楽史に名を残した存在であることに疑いはない。
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ソロ活動初期とビーチ・ボーイズでの転機
1936年4月、アーカンソー州の小作農一家のもとに七男として生まれたグレン・キャンペルは、幼い頃から叔父のブーにギターを勧められ、10代の頃には叔父のウエスタン・スイングのバンドに参加していた。
1960年、ミュージシャンとして成功を夢見てロサンゼルスに移住したグレンは、同年10月、1958年のヒット曲「Tequila」で知られるザ・チャンプスのツアーに帯同。1962年にはキャピトル・レコードと契約し、数作のソロ作品をリリースしたが、ほとんど注目されることはなかった。
ソロ活動の傍ら、一流セッション・ミュージシャン集団“レッキング・クルー”のギタリストとして、エルヴィス・プレスリーの「Viva Las Vegas」、フランク・シナトラの「Strangers In The Night」、ライチャス・ブラザーズの「You’ve Lost That Loving Feeling」といった不朽の名曲の数々でその才能を発揮していた彼は、ブライアン・ウィルソンが指揮したビーチ・ボーイズ(The Beach Boys)の数々のセッションにも参加した。
彼はそこで「I Get Around」「Dance, Dance, Dance」「Help Me, Rhonda」などのヒット曲、そして1966年の傑作アルバム『Pet Sounds』の「You Still Believe In Me」「Don’t Talk」「I Know There’s An Answer」「I Just Wasn’t Made For These Times」「Caroline, No」にもリード・ギターで貢献した。
ブライアンの代わりに
1964年12月18日、当時のツアー生活に強い不安を抱えていたブライアン・ウィルソンは、ヒューストン公演へ向かう機内で神経衰弱を起こした。ビーチ・ボーイズはその日から短期間のツアーをスタートさせる予定だったが、到着後のブライアンはホテルの部屋に閉じこもり、なんとかその夜のステージをやり遂げたものの、不安はすぐさまぶり返した。
この出来事についてブライアンは後に、作家アール・リーフに「翌朝、胃が締めつけられるような感覚で目覚めた。気が狂いそうだった」と語っている。ブライアンはすぐにカリフォルニアへ戻ることになり、その後1976年までバンドのツアーに本格復帰することはなかった。
そして、バンドの中心人物だったブライアン不在のままツアーを続行することを決断したビーチ・ボーイズが白羽の矢を立てたのが、それまで彼らの数々の名演を陰ながら支えてきた“腕利き”グレン・キャンベルだった。グレンは1970年のNMEインタビューで当時をこう振り返っている。
「ビーチ・ボーイズのすべてのセッションに参加してきたし、曲も知っていた。ある日、電話があって“ブライアン・ウィルソンが病気だからダラスでのコンサートに代わりに出てくれないか”と言われたんだ。もちろんOKしたよ」
ビーチ・ボーイズとしてのグレン・キャンペル
その数日後、グレン・キャンベルはビーチ・ボーイズのツアー・メンバーとなり、その証拠としてストライプのシャツも与えられた。彼にとっての初公演は1964年12月22日、ダラスのメモリアル・オーディトリアムだった。1995年の自伝『Rhinestone Cowboy』で、グレンはブライアン・ウィルソンの代役としてステージに立った際に直面した最初の困難についてこう回想している。
「ビーチ・ボーイズとしての初公演では、初めてベースを弾きながら高音のハーモニーを歌わなければならなかった。あのショーでは100回くらいミスをしただろうけど誰も気づかなかったよ」
しかしそんな困難も、ビーチ・ボーイズの熱狂的なファンたちを前に直面したカルチャー・ショックに比べれば取るに足らなかった。グレンはNMEのインタビューで、当時のファンの熱狂ぶりについて次のように証言している。
「ダラス公演では、200万回くらい間違えたけど、1万7千人のファンの叫び声と歓声に、誰もそんなミスに気づいていなかった。コンサートの直後、ビーチ・ボーイズのメンバーは急いで車に向かって走っていったけど、僕はのんびりしていたよ。誰も僕のことなんて気にしないだろうって思っていた。何しろ、僕はビーチ・ボーイズのメンバーではなかったからね。でもあの子たちは僕にも飛びついてきて、髪を引っ張り、時計を奪い、シャツを破る始末。それ以来、僕はいつも真っ先に車に乗り込むようになったんだ」
貴重な教訓を学んだグレン・キャンベルは、短いクリスマス休暇の後、再びバンドのツアーに参加することに同意した。おそらくこの年のクリスマス・ツリーの下には、彼のために新しい腕時計が置かれていたことだろう。
その後数ヶ月、ブライアン・ウィルソンが断続的にステージへ復帰する場面こそあったものの、グレン・キャンベルは事実上レギュラー・メンバーとしてツアーに同行することになった。特に伝説的な一夜として語り継がれているのが、1965年1月29日にバンクーバー・エキシビション・フォーラムで行われたビーチ・ボーイズ初のカナダ公演だ。観客がステージへよじ登ろうとするほどの異常な熱気に包まれたこの公演は、当時のバンドの人気ぶりを象徴する出来事として記録されている。
さらに数週間後、モントリオールのモーリス・リチャード・アリーナで行われた2度目のカナダ公演では、ドラマーのデニス・ウィルソンを一目見ようとするファンが過激な行動に出て、思わぬ混乱が生じた。当日の騒然としたステージの状況を、グレンは後年のガーディアン紙の取材で次のように明かしていた。
「カナダでは、女の子が気絶しかかっていて、その子を僕が引き上げたんだ。そのあとも7、8人は引っ張り上げたよ。みんな“デニス、ああデニス!”って彼に向かって叫んでいた。女の子たちがステージに激しく押し寄せてきて、ショーを中断せざるを得なかったんだ」
そんな過熱するファンの熱狂に囲まれながらも、グレン・キャンベルは2011年のクラッシュ誌インタビューで、ビーチ・ボーイズのツアーメンバーとして過ごした日々を心から懐かしんでいる。
「ギターを演奏しながら歌うっていう、自分の好きなことを仕事にできる、最高に幸せな時間だった。本当に素晴らしいことだよね。人生で最も満ち足りた時期だった。それにギャラもすごかったんだ。あんな大金を稼ごうと思ったら、綿畑で1年は働かなきゃいけなかっただろうね」
当時、バンドメンバーとも良好な関係を築いていたグレンは、その年長者としての立場(彼はバンドの最年長メンバーであるマイク・ラブよりも5歳ほど年上だった)から、ツアー中における良識の代弁者の役割も担った。1997年に発行されたファンジン『Beach Boys Stomp』で、彼は当時をこう回想している。
「メンバーたちが口論を始めたら、僕はこう言ったんだ。“おい、子供たち、そろそろステージに出て歌う準備はできたかい?”ってね(笑)。そしたら彼らは“うるさい、奴が言い出したんだ”って言うんだ。だから僕は“大したことじゃないだろ”ってその場を収めていたよ」
それでもビーチ・ボーイズでフルタイムのツアー・メンバーを続けるつもりはなかったグレンは、バンドからのオファーを断り、長期的な代役が見つかるまでブライアンの代わりステージに立つことに同意した。マイク・ラヴは、2019年の自伝『Good Vibrations』の中で、こう振り返っている。
「ビーチ・ボーイズはグレンが求めていたバンドではなかった。彼はカントリーが好きだったから、ソロ・アーティストになることを望んでいた。だから5ヶ月後、自身のキャリアに乗り出したんだ」
その頃、ソングライター兼プロデューサーのブルース・ジョンストンが新たな代役として待機しており、1965年4月9日にニューオーリンズの公会堂でビーチ・ボーイズとして初めてステージに立った。数日後にグレン・キャンベルがツアーに復帰すると、ブルースは照明エンジニアとしてツアーに参加。グレン・キャンベルがビーチ・ボーイズとして最後の公演を行ったのは、1965年5月15日のコネチカット州ニューヘブン・アリーナ公演だったが、彼はその月の終わりまで、バンドのサポート・アクトとしてツアーに同行した。
「Guess I’m Dumb」とその後
グレン・キャンベルのソロ・キャリアは、当初こそ思うような結果が出ず行き詰まりを見せていた。しかし、彼に恩義を抱いていたブライアン・ウィルソンが“完成済みの名曲”を託したことで、状況は大きく動き出す。
ブライアンは60年代初頭にラス・タイテルマンと「Guess I’m Dumb」を共作し、1965年のアルバム『The Beach Boys Today!』のために、レッキング・クルーの演奏とザ・ハニーズのバック・ヴォーカルを録音したバックトラックまで制作していた。だが、どういうわけか、ビーチ・ボーイズはこの曲のレコーディングを見送り、その結果グレン・キャンベルにその魔法のような歌声を響かせるチャンスが巡ってきたのである。
洗練された音楽性、緻密なアレンジ、そして胸を締めつけるような自虐的な歌詞を備えた「Guess I’m Dumb」は、のちにビーチ・ボーイズが『Pet Sounds』で到達する栄光を予感させる一曲だった。リリース当時こそ大きなヒットにはならなかったものの、同曲はグレンのキャリアにおいて確かな道筋を開き、後の成功へとつながっていく。
グレンはビーチ・ボーイズのメンバーとして活動した短い期間を生涯忘れなかった。後年のライヴでは必ずビーチ・ボーイズの楽曲を披露するコーナーを設け、さらにマイク・ラヴ率いるビーチ・ボーイズのサポート・アクトとしてツアーにも参加。
2011年、グレン・キャンベルはアルツハイマー病の診断を公表し、2017年8月8日に81歳で逝去。しかし、彼とビーチ・ボーイズの物語はここで終わらない。2024年、彼の遺作アルバム『Ghosts On The Canvas Sessions』に収録された、ブライアン・ウィルソンとのデュエット曲「Strong」のリリースによって、長い時を経た“ひとつの円”が再び結ばれた。
本作のリリース時、ブライアンはグレンへの想いをこう語っている。
「グレンは素晴らしい歌手であり、素晴らしい人物だった。“Strong”を制作した意図は、“Guess I’m Dumb”や、彼と一緒に仕事をしたあの頃に立ち返ることだった。この曲には当時の雰囲気がちゃんと息づいていて、本当に気に入っている」
デュエット曲「Strong」でブライアンは、「僕は君が頼れる存在になる(I’m going to be the one you can count on)」と歌う。それは、かつて困難な時期に自分を支えてくれた友に贈る最上級の賛辞であり、二人が築いた深い音楽的関係を象徴する一節でもある。
Written By Jamie Atkins
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