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【プレイ動画付き】史上最高のドラマー・ベスト100
優れたドラマーの条件とは何だろうか。この点については、ミュージシャンのあいだでもファンのあいだでも意見が分かれている。技術的な上手さがフィーリングよりも優先されるべきかどうか、あるいは派手なサービス精神よりも上品な控えめさの方が望ましいのかどうか、といった問題は常に論争の種となる。そのため、世界最高のドラマーのランキング決定版などというものは作れそうもない。それでも今回の記事では、それに挑戦してみた。
どうにも避けられないことだが、この最高のドラマー100人のリストではロック・ドラマーが大部分を占めている。とはいえここには、アート・ブレイキー、マックス・ローチ、シェリー・マン、ジーン・クルーパといったジャズ・ミュージシャンも含まれている。さらに言えば、ジャズ・ドラマーの中には今回のリストでトップ10に入った重要人物もいる (その名前は、どうかご自分の目でご確認いただきたい) 。
今回のリストでは、世界有数の大物バンドのメンバーだった超有名人の名前だけでなく、歴史に残る引く手あまたのスタジオ・ドラマーも何人か選んでいる。たとえばスティーヴ・ガッド、伝説のドラマーである故ジェフ・ポーカロ、ハル・ブレインなどだ。とはいえ、このリストから漏れてしまった人も間違いなくいるだろう (「この記事の筆者は、どうして”スタンピー”・ペピスを無視できるんだ!」といった不満の声が聞こえてきそうだ)。
もし今回のリストで最高のドラマーが選ばれていないと思う方は、いつでも下のコメント欄にその名前を書き込んでほしい。それでは、音楽史上に残る最高のドラマー100人を紹介しよう。
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第100位: レス・ビンクス
北アイルランド生まれのドラマー、レス・ビンクスは、ジューダス・プリーストでの活動で有名だ。ビンクスはエリック・バードンとの活動を経て、ジューダスの1977年のワールド・ツアーに参加した。そうしてジャズ風の複雑なスタイルをこのバンドにもたらし、スタジオ・アルバム『Stained Class』と『Killing Machine (殺人機械) 』では主役級の活躍を見せた (前者では「Beyond The Realms Of Death」も共作した) 。
さらに日本で録音されたライヴ・アルバム『Unleashed In The East』にも参加している。ビンクスは60代後半になっても元気に活動していた。2018年、このドラマーはレス・ビンクス・プリーストフッドという新しいバンドでジューダス・プリーストの名曲をライヴで再演している。
第99位: ロイ・ヘインズ
ロイ・ヘインズのニックネーム、スナップ・クラックルは、彼が叩くスネア・ドラムの音を表した擬音だと言われている。ヘインズは1950年代前半にハード・バップのドラマーとして活動を始め、その後はジャズであれば種類を問わず堂々と演奏できることを証明した。たとえそれがアヴァンギャルド・ジャズであろうと、彼は悠々とこなしてしまう。
彼のコラボレーションの相手を挙げていくと、さながらモダン・ジャズの人名録のようになるだろう。主な参加作の中には、アート・ファーマー、ソニー・スティット、ミシェル・ペトルチアーニ、フレディ・ハバードなどのアルバムが含まれている。彼は90代に入ってもまだ元気に演奏していた。
第98位: カレン・カーペンター
カレン・カーペンターは、「Please Mr. Postman」などのカーペンターズのヒット曲を歌う優しい声の歌手として知られている。とはいえ彼女の最初の音楽活動は、ジャズ・ドラムの演奏だった。結成当初のリチャード・カーペンター・トリオにドラマーとして参加していたのである。
1975年の『プレイボーイ』誌の読者投票では、カレンはその年の最優秀ロック・ドラマーに選ばれていた。この投票では、カレンの得票数がレッド・ツェッペリンのジョン・ボーナム、ザ・フーのキース・ムーン、ビートルズのリンゴ・スターをわずかな差で上回っていた。彼女はテレビのインタビューでこう語っている。
「こういった素晴らしい評価をいただいて、恐縮すると同時に恥ずかしい気持ちもあります。ジョン・ボーナムがかなり気分を害しているという話を聞きました。ジョンが私に対して怒っていないといいのだけど。だって、私はこの投票と何の関係もないわけですし」
そう話した後、彼女は、ドラムを叩きながらツェッペリンの「Babe I’m Gonna Leave You」の素晴らしいカヴァー・ヴァージョンを歌った。
第97位: メグ・ホワイト
グラミー賞を4度受賞しているメグ・ホワイトがプロのドラマーになったのは、ほぼ偶然の成り行きだった。1990年代半ば、夫だったジャック・ホワイトがギターを弾いていたとき、ドラム・キットに座って原始人のようなビートを叩き始めたのである。
ジャックは、自分の才能と妻の素朴なスタイルを組み合わせれば勝利の方程式になるとすぐに悟った。こうしてホワイト・ストライプスが誕生し、メグはロック・ミュージックの世界で最も魅力的な女性ドラマーのひとりとして高く評価されることになった。
第96位: トニー・アレン
トニー・アレンは独学で学んだナイジェリア出身のドラマーだ。そのドライブ感あふれるポリリズム的な演奏スタイルは、「アフロ・ビート」の基盤を形づくった。それはファンク、カリプソ、ナイジェリアの伝統的なリズム、そしてアメリカ人ドラマー、アート・ブレイキーのビバップを融合させた驚異的なリズムだった。彼は、時代を先取りしたマルチ・インストゥルメンタリスト、フェラ・クティと組んでアフリカ’70というグループを結成し、アフロ・ビートの開拓者となった。
この先進的な西アフリカのグループは膨大な数のレコードを録音しており、1960年代から1970年代にかけて『Gentlemen』や『Zombie』といった画期的な作品を発表している。またアレンは晩年にデーモン・アルバーンの『The Good, The Bad & The Queen』でドラムを担当したほか、ブルーノート・レーベルでもアルバムをいくつか録音して高い評価を得た。
第95位: ケニー・クラーク
ピッツバーグ生まれのケニー・クラーク (ニックネームは「クルック」) は、モダン・ジャズ・カルテットの創設メンバーだった。クラークは、1940年代半ばにビバップの誕生に一役買ったミュージシャンだと自ら称することもできただろう。
彼の特徴は、推進力のあるシンバル・ビートを打ち鳴らしてスウィングのグルーヴを保ちつつ、バス・ドラムにシンコペーションのアクセントをつけるという演奏法を確立したことにある。クラークはモダン・ジャズのドラミングのお手本を作った立役者のひとりなのである。
第94位: クリスチャン・ヴァンデ
フランス人ドラマーのクリスチャン・ヴァンデは、強烈で特異なスタイルの持ち主として有名だ。そうしたスタイルは、1970年代にプログレ・バンド、マグマを率いていた頃に形成された。
本人は、自分のスタイルを編み出す上でジョン・コルトレーンのドラマー、エルヴィン・ジョーンズから影響を受けたと語っている。ヴァンデはピアノの演奏やファルセット・スキャットのヴォーカルでも知られる。また近年では、自らのトリオやカルテットでも活動している。
第93位: ジョヴァンニ・イダルゴ
サルサ・スタイルのドラミングは時には日陰の存在になることもある。とはいえ、最高のリズム・テクニシャンといえば、プエルトリコ人ドラマーのジョヴァンニ・イダルゴを忘れてはいけない。たくさんのコンガ・ドラムを叩くときも、鋭い音色のティンバレスを叩くときも、その演奏スピードは驚くべき速度になる。
1992年、イダルゴはボストンのバークリー音楽院に非常勤講師として採用され、プエルトリコ、キューバ、ドミニカ、レゲエ、アフリカ、ジャズのリズム・メソッドを教えることになった。彼はアート・ブレイキー、ポール・サイモン、スティーヴ・ガッドなどと共演したこともあり、アルバム『Planet Drum』への参加によってグラミー賞を受賞した。
第92位: ブライアン・ブレイド
ブライアン・ブレイドはモダン・ジャズ・ミュージシャンから非常に尊敬される存在であり、ケニー・ギャレットやジョシュア・レッドマンのアルバムで脚光を浴びるようになった。
自らのバンド、ブライアン・ブレイド・フェローシップでは、ブルーノート・レーベルから印象的なアルバムを2枚リリースしている。どちらのアルバムも、ペダル・スティール・ギターを風変わりなかたちで使っているため、独特なカントリー・ミュージック風の雰囲気を醸し出している。また、ジョニ・ミッチェルやボブ・ディランのレコーディングにも参加したほか、ウェイン・ショーターのカルテットでも演奏している。
第91位: デイヴ・クラーク
ロンドン生まれのデイヴ・クラークは、まずスタントマンとして活動を始め、100本以上の映画に出演した。やがてドラム・キットを買って演奏方法を学ぶことになった。いくつかのスキッフル・バンドでドラムスを叩いたあと、彼は自らのグループ、デイヴ・クラーク・ファイヴを結成する。このグループは1964年から1970年までのあいだにヒット・シングルを連発し、1億枚以上のレコードを売り上げ、主演映画もヒットさせた。
クラークは技術的に優れたドラマーではなかったが、そのエネルギッシュなスタイルはポップ・ミュージシャンの世界に影響を与えた。「ビートルズが後ろを振り返って目にしたのはストーンズではなかった。背後に迫っていたのはデイヴ・クラーク・ファイヴだった」とローリング・ストーンズのマネージャー、アンドリュー・ルーグ・オールダムは語っている。
第90位: デイヴ・ウェックル
ミズーリ生まれのドラマー、デイヴ・ウェックルは、2000年にモダン・ドラマーの殿堂入りを果たした。ウェックルは重要な教育者であると同時に、マドンナ、ジョージ・ベンソン、ポール・サイモンなど数多くのトップ・スターと共演してきた。
彼の名演は、1985年から1991年まで在籍していたチック・コリア・エレクトリック・バンドで聴ける。また、ウェックルはGRPオールスター・ビッグバンドの主要メンバーでもあった。近年の彼はデイヴ・ウェックル・バンドでレコードをリリースしている。
第89位: ジェームス・ギャドソン
ジェームス・ギャドソンが最初に注目されたのは、1960年代のワッツ・103rd・ストリート・リズム・バンドで活動していたときだった。やがてビル・ウィザースに引き抜かれた彼は、アメリカ西海岸の腕利きスタジオ・ミュージシャンとして非常に多くの作品に参加した。その飛び抜けて安定したテンポと音楽センスは、ジャクソン5、テンプテーションズ、マーヴィン・ゲイの作品にはっきりと表れている。
第88位: フィル・ラッド
キッスのエリック・シンガーは、フィル・ラッドを「AC/DCの肝心要の心臓部」と称賛している。ラッドはバスター・ブラウン&ザ・カラーズ・ボールスをはじめとするメルボルンのバンドで腕を磨いたあと、1975年にオーストラリアのハード・ロックを代表するAC/DCに加入した。
1983年にいったん脱退したものの、1994年から2015年まで再びAC/DCに参加している。ラッドはステージの外では私生活の面で物議を醸すこともあった。とはいえライヴやスタジオでは、彼の一貫した揺るぎないバックビートが数々の名曲で主役となった。その例としては「It’s A Long Way To The Top (If You Want To Rock’n’Roll) 」、「TNT」、「Dirty Deeds Done Dirt Cheap」などが挙げられる。
第87位: トニー・トンプソン
トニー・トンプソンは、1970年代にシックのメンバーとして「Le Freak (おしゃれフリーク)」といった輝かしいヒット曲を録音した。そうした曲で記憶に残るディスコ・グルーヴを作り上げたことで、有名なドラマーとなった。
ニューヨーク生まれのトンプソン (母親はトリニダード出身) は、2003年に48歳という若さでガンで亡くなった。彼が遺した偉大なるドラミングの代表的な例は、ロバート・パーマーの「Addicted To Love (恋におぼれて) 」やマドンナの「Like A Virgin」などで聴ける。
第86位: グレッグ・エリコ
ドラマーでレコード・プロデューサーのグレッグ・エリコは、多彩なキャリアの持ち主だ。共演相手も、ジャズ・フュージョン・グループのウェザー・リポート、デヴィッド・ボウイ、サンタナ、グレイトフル・デッドなど多岐に渡っている。
とはいえ、その名声を不動のものにしたのはスライ&ザ・ファミリー・ストーンのドラマーとしての活動だった。このバンドはソウル、ファンク、サイケデリック・ロックを見事に融合させていたが、エリコもそうした音作りに貢献していた。彼のドラムスは、完璧なシンコペーションとダンス向きのグルーヴが持ち味だった。
第85位: ハーヴィー・メイソン
ハーヴィー・メイソンは、最も重要なモダン・スタジオ・ドラマーのひとりだ。彼はタムタム・フィル、ハイハット・シンバル、スネア、バス・ドラムを巧みに使いこなすことで、同業者から尊敬を集めている。雑誌『モダン・ドラマー』の読者投票では、スタジオ部門で4回も最優秀ドラマーに選ばれている。
またバーブラ・ストライサンド、ジェームス・ブラウン、メアリー・J・ブライジ、ハービー・ハンコック、フランク・シナトラ、ジョン・レジェンドなどのレコーディングに参加し、ロンドン交響楽団とも共演したことがある。
そうした経歴からもわかるように、メイソンは実に多芸多才なミュージシャンだ。それゆえチェット・アトキンスのカントリー・アルバムであろうと、ボビー・ハッチャーソンやドナルド・バードといったブルーノートの巨匠のジャズ・アルバムであろうと、ジャンルを問わず難なくこなすことができるのである。
第84位: マックス・ワインバーグ
アルバム『Born In The USA』が大成功を収めた後、ブルース・スプリングスティーンはドラマーのマックス・ワインバーグに賛辞を送った。「マックスはこのアルバムで最高の存在だった」とスプリングスティーンは語っている。このアルバムのタイトル曲のスネア・ドラムを聴けば、ワインバーグが創意工夫にあふれた技巧の持ち主であることがよくわかる。
このニュージャージー出身のドラマーは、その後テレビ番組『The Tonight Show With Conan O’Brien』のハウス・バンドのリーダーとなった。また彼はスリップノットのドラマー、ジェイ・ワインバーグの父親でもある。
第83位: チコ・ハミルトン
チコ・ハミルトンはジェリー・マリガン・カルテットの初期録音に参加している。そうした初期のレコードは、彼の実験的なキャリアを代表する作品となった。ハミルトン自身のクインテットは1955年にファースト・アルバムをリリースし、瞬く間に成功を収めた。その2年後、このクインテットは映画『成功の甘き香り』で重要な役割を果たした。この映画では、主人公のひとりがクインテットのギタリストに扮している。
1965年、ハミルトンはロマン・ポランスキー監督の映画『反撥』の音楽を作曲・指揮した。彼は21世紀に入っても、さまざまなスタイルや楽器編成のバンドを率いていた。若い才能の発掘と育成という点では実に優れた業績を残しており、そうした面で彼の記録を上回ったのはアート・ブレイキーぐらいしかいない。ハミルトン自身の演奏は、さまざまな音色で曲を彩るところが特色となっている。
第82位: アラン・レン
重要なモダン・ドラマーと言えば、マンチェスター生まれのアラン・”レニ”・レンも忘れてはいけない。彼が叩く複雑でオフ・ビートなリズムはインディー・ロックとダンス・ミュージックの融合に影響を与え、そうしたサウンドは1990年代初頭のマッドチェスター・ムーブメントの大きな土台となった。また彼の非常に技巧的なドラミングは、ストーン・ローゼズが人気を得るうえで欠かせない要因のひとつだった。
1995年にローゼズを脱退した後の彼は、1998年から2001年までザ・ラブのヴォーカルとギターを担当していた。2012年には、再結成したストーン・ローゼズに復帰している。
第81位: ジョー・モレロ
デイヴ・ブルーベックのバンドは変拍子や不規則な拍子で実験を重ね、新たな高みに到達した。そうした試みに貢献したのがドラマーのジョー・モレロである。やがてモレロは、普通ではあまり見られない拍子の演奏を得意とするようになった。
ブルーベックの代表曲「Take Five」で彼が披露したドラム・ソロは、4分の5拍子での演奏方法を教えてくれる上級セミナーと言っていい。彼は「Blue Rondo ÀLa Turk」でも優れた演奏を聞かせてくれた。子供のころから部分的な視野の欠落に悩まされていたモレロだが、後半生においては引く手あまたの教師となった。教え子の中には、高名なドラマーであるダニー・ゴットリーブもいた。
第80位: エリック・カー
エリック・カーは、1991年にガンで亡くなった時、まだ41歳という若さだった。キッスから創設メンバーのピーター・クリスが脱退した後、その後釜として1980年に加入したのがカーだった。
彼は、リバーブを効かせて低くチューニングしたスネア・サウンドを採用した最初のパワー系ドラマーのひとりとして名声を確立した。そうしてキッスの活動に大きく貢献し、このバンドで8枚のアルバムをレコーディングしている。彼が参加したアルバムは1981年の『Music From “The Elder” (エルダー~魔界大決戦) 』から1989年の『Hot In The Shade』までだ。
第79位: デニス・デイヴィス
2016年4月に亡くなったデニス・デイヴィスは、その多芸多才な演奏ぶりで知られていた。それは決して意外なことではない。なぜなら彼の師匠は、ビ・バップの伝説的ドラマー、マックス・ローチとエルヴィン・ジョーンズだったからだ。デイヴィスはクラーク・テリーのビッグ・バンドやロイ・エアーズなどのジャズ・バンドで輝きを放ち、さらにはロック界でも活躍した。たとえばデヴィッド・ボウイのアルバム『Heroes』での演奏は、記念碑的なものとなっている。
「『Blackout』のドラム・ブレイクを聴いてほしい。彼はドラム・キットの中にコンガ・ドラムを組み込んでいた。そのおかげで、まるでミュージシャン2人がそれぞれドラムとコンガを叩いているように聴こえたんだ」とプロデューサーのトニー・ヴィスコンティは語っている。
デイヴィスを度々起用したボウイは、彼の「絶妙なテンポ」を褒め称えている。デイヴィスはスティーヴィー・ワンダーのアルバムにも参加しており、その中には『Hotter Than July』や2枚組のサウンドトラック『Stevie Wonder’s Journey Through The Secret Life Of Plants』などが含まれる。
第78位: グレン・コッチェ
イリノイ州生まれのドラマー、グレン・コッチェは、エネルギッシュで想像力豊かなパーカッション奏者として高く評価されており、人気ロック・バンド、ウィルコのリズムの要となっている。コッチェの活動はこのシカゴ出身のグラミー賞受賞バンドだけにとどまらない。
彼は、アンドリュー・バード、イーディス・フロスト、ニール・フィン、レディオヘッドのフィル・セルウェイのレコーディングなどにも参加している。彼のソロ活動は実験的で、たとえば『Next』 (2002年) では工夫を凝らしたドラム・キットで即興的なリズムを探求していた。コッチェはこう語っている。
「ウィルコと演奏するときは、ただ単にビートを刻むだけで終わらない。頭の中では、音色や雰囲気について考えているんだ」
第77位: ジョセフ・”ジガブー”・モデリステ
ジガブー・モデリステのスタイルは、生まれ故郷ニューオーリンズのセカンド・ラインの伝統にどっぷりと浸っていた。ミーターズの創設メンバーとして有名になった彼は、「Cissy Strut」や「Just Kissed My Baby」といったレコードでファンク・ドラムの新しいスタイルを作り上げた。ロック・バンド、リトル・フィートにも大きな影響を与えている。
彼が共演したミュージシャンは実に多彩な顔ぶれで、その中にはプリンス、ドクター・ジョン、キース・リチャーズ、ロニー・ウッド (ミーターズはローリング・ストーンズの前座を務めることもあった) が含まれている。モデリステは「グルーヴのゴッドファーザー」と呼ばれ、彼のグルーヴは何百ものヒップホップでサンプリングされてきた。
第76位: ジョン・デンズモア
10代のころ、ロサンゼルス生まれのジョン・デンズモアはジャズに夢中になり、偉大なるエルヴィン・ジョーンズのスタイルで演奏しようとした。やがてインドのシタール奏者、ラヴィ・シャンカールに師事したあと、彼はロックに引き寄せられていく。そうしてドアーズのドラマーとして有名になり、このジム・モリソンが率いたバンドの全レコーディングに参加している。
2010年、『モダン・ドラマー』誌は、デンズモアのライド・シンバルの演奏をクラシック・ロックの最も特徴的なサウンドのひとつとして賞賛した。ドアーズ解散後、彼はしばらくロック・バンドでの活動を続けたが、その後はダンスや俳優業、映画音楽の作曲が主な仕事になっている。
第75位: ラス・カンケル
ピッツバーグ生まれのラス・カンケルは、繊細なドラミングを持ち味としている。それゆえアコースティック系のトップ・スターたちの御用達ミュージシャンとなっており、そうしたスターの顔ぶれ中には、クロスビー・スティルス&ナッシュ、ジョニ・ミッチェル、キャロル・キング、ジャクソン・ブラウン、ジェイムス・テイラーなどが含まれている。
カンケルの叙情的な演奏とリラックスしたグルーヴは、テイラーの『Sweet Baby James』やミッチェルの『Blue』といったアルバムで重要な役割を果たしていた。また彼は、ボブ・ディラン、ビージーズ、リンダ・ロンシュタット、サイモン&ガーファンクルのバックでも演奏している。
「私は耳を澄ませる。歌い手の視点を理解し、それを引き立たせることができないだろうかと考える。”俺はドラマーだから、俺がビートを刻めばみんながついてくる”と考えるのとはまるで正反対だ」とカンケルは語っている。
「曲の中にドラムを入れる余地がないように聞こえることもある。その曲にはちょっとした動きが必要かもしれない。でも、必ずしもドラム・キット全体を叩かなくてもいい。ジョニ・ミッチェルの“Carey”はそういう感じだった。必要なのはシンプルなコンガのパートぐらいだった」
第74位: バーナード・パーディー
もしもあなたがドラムスを操り自分ならではの演奏を編み出し、それを他のドラマーが真似するようになったら、あなたにも自分に影響力があるということが実感できるだろう。バーナード・パーディのいわゆる「パーディ・シャッフル」は、まさにそういう演奏だった。
プリティ・パーディというニックネームを持つこのアメリカ人ドラマーは、スティーリー・ダンの1977年のアルバム『Aja』に収録されている「Home At Last」でこの演奏を編み出した。15人兄弟のひとりであるパーディーは、まだよちよち歩きをしていた頃に母親の鍋やフライパンを叩いた。そのとき、ドラマーになりたいと思ったという。
「彼はいつも唯一無二の独特なスタイルで演奏していた。こちらが事前に予想もしないような、他の誰もやりそうもない演奏だった」とスティーリー・ダンのウォルター・ベッカーは語る。
パーディは、1960年代のソウル、ファンク、ジャズの偉人たちとツアーやレコーディングを共にした。そうした偉人たちの中には、ジェームス・ブラウン、アレサ・フランクリン、ルイ・アームストロングなどが含まれる。パーディの参加作品の総計は、4,000枚以上にのぼっている。
第73位: フレッド・ビロウ
元陸軍兵のフレッド・ビロウは、シカゴのロイ・C・ナップ・スクール・オブ・パーカッションでジャズ・ドラムを学んだ。しかし彼はチェス・レコードの専属ドラマーとなり、1950年代から1960年代にかけてシカゴのエレクトリック・ブルース・ムーヴメントの中心人物となった。
チェスでは、エルモア・ジェームス、チャック・ベリー、マディ・ウォーターズ、ジュニア・ウェルズ、バディ・ガイ、エタ・ジェイムズ、ボ・ディドリーなどの録音に参加している。彼のドラム・スタイルを真似する者はおびただしい数にのぼった。ビロウ本人は、1967年に国務省の企画でジュニア・ウェルズとアフリカをツアーしたことがキャリアの中で最高の経験だったと語っている。
「私はドラムの国にいた。目も耳も指も、どんなことだろうと吸収してやろうと準備万端だった」
第72位: ソニー・ペイン
ソニー・ペインはドラムの血を受け継いでいる。彼の父親はワイルド・ビル・デイヴィスのドラマーだった。そしてペインはアースキン・ホーキンスのビッグ・バンドで演奏したあと、1954年にカウント・ベイシーのバンドに加入して大きなチャンスを手にする。
ベイシー楽団には10年以上在籍し、ツアーとレコーディングの日々を過ごした。彼を尊敬していたフランク・シナトラは、1960年代にベイシー楽団で歌うときはいつも「ドラムスはペインで」と注文していた。1979年に亡くなったペインは、自らの演奏にリズミカルな小粋さと威勢の良さを加えていた。
第71位: ロジャー・ホーキンス
ロジャー・ホーキンスはマッスル・ショールズ・リズム・セクション (愛称は「ザ・スワンパーズ」) の主要メンバーだった。ホーキンスは卓越したテクニックの持ち主でありながら、エゴがなかった。そして、さまざまなミュージシャンのニーズに合わせて、自らのスタイルを適応させていた。彼の演奏のおかげで良い録音を仕上げることができたアーティストはたくさんいる。
その例としては、アレサ・フランクリン、ウィルソン・ピケット、パーシー・スレッジ (ホーキンスは「When A Man Loves A Woman」で演奏している) などが挙げられる。またポール・サイモンが「Kodachrome」で何か特別なものを求めていたとき、ホーキンスが取り出したのはテープの箱だった。それを叩くと、曲にぴったりのサウンドになったのである。
第70位: ジミー・コブ
ジミー・コブはジョン・コルトレーンと共演した経験を持つドラマーで、ジャズ界では引く手あまたのスタジオ・ミュージシャンだった。コブはキャノンボール・アダレイ、ウェス・モンゴメリー、ジョー・ヘンダーソンのバックでも演奏している。
彼はマイルス・デイビスのドラマーとしても有名で、このトランペット奏者が1959年に出した画期的なアルバム『Kind Of Blue』に参加している。彼のドラミングはパワフルかつ繊細で、上品さのあるスウィングが特徴だった。
第69位: ボビー・エリオット
イギリス人ドラマー、ロバート・ハートリー・エリオットは1941年12月8日にバーンリーで生まれた。ホリーズの活動で有名なエリオットは当時最高のポップ・ドラマーのひとりに数えられ、特にチャーリー・ワッツに影響を与えた。
派手な演奏と巧みなスネア・ロールで知られるエリオットは、自分が尊敬していたドラマーはジャズの巨匠ジーン・クルーパだと語っている。
第68位: トニー・ロイスター・ジュニア
ドイツ生まれのトニー・ロイスター・ジュニアは、ヒップホップ・スターのレコーディングに参加したスタジオ・ミュージシャンとして知られている (そうしたスターの中には、ジェイ・Zのようなスタジアム級のコンサートを行うアーティストも含まれている)。
とはいえ、ロイスターは才能豊かで多芸多才なドラマーでもある。彼はR&B、ポップ、ロック、ラテン、ジャズを演奏し、ノラ・ジョーンズからエミネムに至るまで実に多種多様なミュージシャンのバックを務めてきた。音楽シーンで注目を集めたのは1997年のことだ。
弱冠12歳にして、モダン・ドラマー・フェスティヴァルでドラム・ソロを披露したのである。ロイスターは素速い手さばきとフットワークで知られている。2009年にはバラク・オバマ大統領の就任記念舞踏会で演奏し、名誉あるルイ・アームストロング・ジャズ賞も受賞している。
第67位: アル・ジャクソン・ジュニア
アル・ジャクソン・ジュニアは、メンフィスを拠点とするスタックス/ボルト・レーベルのハウス・バンド、ブッカー・T&ジ・MGsのドラマーであり、印象的な安定したビートで1960年代を代表するソウル・レコードを支えていた。
その演奏が聴けるレコードの例としては、エディ・フロイドの「Knock On Wood」、オーティス・レディングの「Shake」、サム&デイヴの「Soul Man」、ウィルソン・ピケットの「In the Midnight Hour」などが挙げられる。1975年、ジャクソンはメンフィスの自宅で強盗に押し入られ、胸を銃で撃たれて亡くなった。
第66位: アート・テイラー
ニューヨークで活躍したアーサー・S・テイラー・ジュニアは、1950年代最高のジャズ・ドラマーのひとりだった。サックス奏者のジャッキー・マクリーンと活動したあと、1950年からはコールマン・ホーキンスのレコーディングに参加し始めた。その後、1952年にはピアニストのバド・パウエルと組むことが多くなった。
1950年代の終わりになると、テイラーは偉大な伴奏者のひとりとなっていた。プレステージやブルーノートといったレーベルでドナルド・バードのセッションなどをこなしたあと、彼はヨーロッパに移住し、ドラム演奏に関する本『Notes And Tones』を執筆した。
第65位: モーリン・タッカー
1944年8月26日生まれのニューヨークのドラマー、モーリン・アン・”モー”・タッカーは、先鋭的なロック・バンド、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのメンバーとして有名になった。
彼女は女性ロック・ドラマーの草分け的存在であると同時に、その演奏スタイルによっても新境地を切り開いた。ごく最小限のドラム・キットの背後に立ったまま、スティックではなくマレットを持って演奏していたのである。初期のライヴでは、ドラム・キットを盗まれたため、金属製のゴミ箱を使ったことさえあった。ヴォーカリスト/ギタリストでもあるタッカーは、かつて自らのソロ活動についてこう語ったことがある。
「ライヴではギターを弾くほうが好き。ギターの演奏に挑戦し始めたのは、ドラムを始めるずっと前のことだった」
彼女は、ある世代の若いドラマーたちに大きな影響を与えた。そうした影響を受けた中には、マーキュリー賞にノミネートされたグループ、グラスヴェガスの元メンバー、キャロライン・マッケイも含まれている。
第64位: ハニー・ラントリー
ギターも弾けて歌も歌えるドラマーと言えば、ハニー・ラントリーもそのひとりだ。彼女は1960年代に兄のジョン (ベース担当) とハニーカムズを結成し、有名になった。「Have I The Right?」では脈打つような4分の4拍子のリズムを叩き出し、そのおかげもあってこの曲は1960年代の大ヒット曲のひとつになった。ラントリーは2018年12月に亡くなっている。
第63位: ギャヴィン・ハリソン
ギャヴィン・ハリソンにとって、ドラム演奏で一番大事なのはグルーヴだ。19歳でプログレッシヴ・ロック・バンド、ルネッサンスのツアーに参加したこのイギリス人ミュージシャンは、ドラムの演奏に関する本を3冊出している (『Rhythmic Illusions』『Rhythmic Perspectives』『Rhythmic Designs』) 。
彼はイギー・ポップ、デイヴ・スチュワート、トム・ロビンソン、ジョン・マーティンの元相棒であるジャズ&フォーク系のベース奏者ダニー・トンプソンらと共演してきた。とはいえ彼の最も有名な仕事は、イギリスのプログレ・バンド、ポーキュパイン・ツリーやキング・クリムゾンでの演奏だろう。
第62位: バディ・マイルズ
ネブラスカ生まれのバディ・マイルズは1969年から1970年にヘンドリックスが亡くなるまで、ジミ・ヘンドリックスのバンド・オブ・ジプシーズのメンバーだった (また1968年にリリースされ、後世に大きな影響を与えたヘンドリックスのアルバム『エレクトリック・レディランド』でも2曲で演奏している) 。
マイルズは父ジョージ・マイルズ・シニアのジャズ・バンド、ザ・ビバップスでドラムを学んだ (ジョージはデューク・エリントン、カウント・ベイシー、チャーリー・パーカー、デクスター・ゴードンなどのバックでウッド・ベースを弾いていた) 。
キャリアを通じてマイルズは70枚以上のアルバムに参加し、スティーヴィー・ワンダー、デヴィッド・ボウイ、マディ・ウォーターズらと共演した。ステージでは派手な個性を発揮し、星条旗柄のシャツ、大きく盛り上げたアフロ・ヘア、大柄な体格、満面の笑みで観客をとりこにしていた。晩年はトラブル続きで、サン・クエンティン刑務所に入ることになったが、その服役中に所内でバンドを結成したのはいかにも彼らしい振る舞いだった。
第61位: リヴォン・ヘルム
6歳の時、マーク・レイヴォン・ヘルムはビル・モンロー&ヒズ・ブルーグラス・ボーイズを見て、その場でミュージシャンになろうと決意した。アーカンソー生まれの彼はやがてリヴォン・ヘルムと改名し、ザ・バンドのドラマー兼ヴォーカリストとして世界的な名声を得た。そのソウルフルな歌声だけでなく、独創的なドラミング・スタイルは、ザ・バンドの数々の名盤で強力な武器となった。
彼の優れたドラム演奏が聴ける曲としては、「The Weight」や「The Night They Drove Old Dixie Down (オールド・ディキシー・ダウン) 」などが挙げられる。グラミー賞を受賞しているヘルムは俳優としても成功を収めており、たとえば映画『歌え!ロレッタ愛のために』ではロレッタ・リンの父親を演じている。
第60位: トニー・ミーハン
2005年に亡くなったトニー・ミーハンはシャドウズの創設メンバーであり、このバンドの最初のドラマーだった。シャドウズはクリフ・リチャードのバック・バンドも務めていたが、クリフ抜きのインストゥルメンタル・グループとしても人気だった。
ミーハンの特徴的なドラミングはシャドウズのスタイルの土台となり、下の世代のミュージシャンたちに影響を与えた。1960年のヒット曲「Apache」は全英チャートで6週間1位を記録し、そのおかげもあってシャドウズは1960年代前半の最重要バンドのひとつとして確固たる地位を築いた。
ミーハンの規律ある力強いドラミングは、「Kon Tiki」をはじめとするシャドウズの他のヒット曲でも聴くことができる。1961年、彼はこのバンドから離れ、デッカ・レコードの制作部門で働くことになった。彼の後釜となったのはこれまた優秀なドラマーのブライアン・ベネットだった。
第59位: D.J.フォンタナ
D.J.フォンタナはロックンロールのパイオニアであり、エルヴィス・プレスリーの最初の (そして長年の) ドラマーだった。彼がプレスリーに出会ったのは、カントリー・ミュージック番組『ルイジアナ・ヘイライド』でのことだ。
これはラジオやテレビで放送されていた人気番組で、非常に影響力があった。「プレスリーはD.J.がバックビートを入れるまではロックンロールを演奏していなかった」とリヴォン・ヘルムは2004年に語っている。フォンタナはバディ・リッチやジーン・クルーパといったビッグ・バンドのドラマーに憧れていたが、彼自身もリンゴ・スターをはじめとする後進のドラマーたちに影響を与える存在になった。フォンタナはパワー、スピード、安定性を兼ね備えた演奏で有名だった。
彼はプレスリーがサン・レーベルで吹き込んだ初期のヒット曲「Hound Dog」などに参加したほか、1968年にプレスリーが「カムバック」を果たしたクリスマスTV特番にも出演している。また2000年にポール・マッカートニーが初期プレスリーのヒット曲「That’s All Right」をカヴァーしたとき、そのドラムスを担当していた。
第58位: パパ・ジョー・ジョーンズ
パパ・ジョー・ジョーンズはスウィング全盛期の革新的なドラマーとして有名で、1935年から1948年までカウント・ベイシーのバンドの中心メンバーだった。ジョーンズは時代に先駆けて、シンバルでステディな4ビート・リズムを刻む演奏をしていた。
また1950年代にはレスター・ヤングと共演し、ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック・ツアーのジャム・セッションにも参加した。その後は自らリーダーとして小編成のグループを率いていた。映画にも度々出演しており、『Jammin’ The Blues』 (1944年) や『Born To Swing』 (1973年) などで彼の姿を見ることができる。
第57位: エルヴィン・ジョーンズ
エルヴィン・ジョーンズはジョン・コルトレーン・カルテットのメンバーとして有名だった。彼の力強く複雑な演奏は、ジャズ・グループにおけるドラマーの役割を一変させた。さらにはドアーズ、グレイトフル・デッド、サンタナといったロック・バンドにも影響を与えている。
第56位: カールトン・バレット
1987年に36歳で殺されたカールトン・バレットは、いまだにドラムの世界で影響力を失っていない。彼は、1970年から1981年までレゲエ界のスター、ボブ・マーリーと共に活動したことで知られている。バレットが初めて手にしたドラム・セットは、ペンキの空き缶を使って自分で作り上げたものだった。
彼の貢献もあって、ステッパーやワン・ドロップといったジャマイカのビートは広く普及することになった。そのレイドバックしたゆったりとしたグルーヴは、マーリーのサウンドに欠かせないものだった。
第55位: シェリー・マン
シェリー・マンが自分の農場で心臓発作を起こして亡くなったのは、64歳の時だった。その時点で、彼は40年以上ジャズの第一線で活躍し、1,000枚以上のレコードの録音に参加していた。たとえばスタン・ケントンやウディ・ハーマンのバンドに加わり、さらには自分がハリウッドで経営する有名ナイトクラブ「シェリーズ・マン・ホール」や小編成のグループで演奏していた。
作曲家としては、テレビドラマ『Daktari』や映画『国境のかなたに明日はない』、『Trial Of The Catonsville Nine』の音楽を担当している。マンは、映画『The Man With The Golden Arm (黄金の腕) 』でフランク・シナトラがドラマー役を務めたとき、ドラム奏法のアドバイスをしたこともある。
第54位: バディ・ハーモン
『グランド・オールド・オープリー』の専属ドラマーとして名声を確立したバディ・ハーモンは、その後ナッシュビル・サウンドの確立に貢献し、20世紀にとりわけ影響力があったカントリー・ミュージシャンのひとりとなった。彼ならではのリズムは、数々のスターが録音した数千曲の音源で聴くことができる。その例としては、エルヴィス・プレスリー (「Little Sister」) 、ジョニー・キャッシュ (「Ring Of Fire」) 、サイモン&ガーファンクル (「The Boxer」) などが挙げられるだろう。
参加した曲の数は推定で18,000曲にのぼり、その多くが大ヒットしている (たとえばタミー・ウィネットの「Stand By Your Man」など) 。ジャズ・ドラマーのジーン・クルーパを尊敬していたハーモンは、多才さと想像力をふんだんに備えていた。その力強い4分の4拍子のドラミングのおかげもあって、ロイ・オービソンの「Oh, Pretty Woman」は印象深い仕上がりになっている。
パッツィー・クラインの「Crazy」での巧みなブラシ・ワークも彼の手によるものだ。ハーモンはベーシストとしても才能を発揮し、リンゴ・スターの1970年のカントリー・アルバム『Beaucoups Of Blues』でベースを演奏している。
第53位: アール・パーマー
2000年、アール・パーマーはスタジオ・ミュージシャンとして初めてロックの殿堂入りを果たした。ニューオリンズ生まれのこのミュージシャンはパワフルで独創的なドラムスを持ち味としており、初期のロックンロール・サウンドを形づくった立役者のひとりだと言える。
1949年から1956年にかけて、彼はさまざまなヒット・レコードで演奏していた。その例としては、ファッツ・ドミノ (「The Fat Man」) 、ロイド・プライス (「Lawdy Miss Clawdy」) 、スマイリー・ルイス (「I Hear You Knocking」) 、リトル・リチャード (「Tutti Frutti」、「Long Tall Sally [のっぽのサリー] 」) などが挙げられる。やがてロサンゼルスに移り住み、映画音楽の録音でも活躍。彼ならではのバック・ビートは、エディ・コクランの「Summertime Blues」やリッチー・ヴァレンスの「La Bamba」といった伝説的なレコードで聴くことができる。
第52位: ジム・ケルトナー
ジム・ケルトナーは現在とりわけ引く手あまたのスタジオ・ドラマーのひとりである。オクラホマ生まれのこのミュージシャンはジャズ・ドラマーとして活動を始めたが、やがてありとあらゆるジャンルのレコード数千枚に参加することになった。そうした仕事の中には、ジョン・レノンの『Imagine』やトラベリング・ウィルベリーズが出した2枚のアルバムなども含まれている。
彼を起用したミュージシャンの顔ぶれはそうそうたるもので、トム・ペティ、ハリー・ニルソン、ビージーズ、ピンク・フロイド、ランディ・ニューマン、カーリー・サイモン、ジョニ・ミッチェル、プリテンダーズ、さらにはオアシスまでもが含まれている。ライ・クーダーは、ケルトナーを「繊細な曲の解釈の達人」だと賞賛していた。またレオン・ラッセルは「彼は曲の中で起こっていることすべてに反応する」と語っている。
ケルトナーはボブ・ディランのアルバム『Pat Garrett & Billy The Kid』でも演奏しており、このアルバムの収録曲のひとつが「Knockin’ On Heaven’s Door (天国への扉) 」だった。「あのセッションは私にとって記念碑的なものだった。というのも、あれは本当に感動的な曲だったからだ。演奏しながら本当に泣いたのはあのときが初めてだった」とケルトナーは語っている。
第51位: ルイ・ベルソン
かつてデューク・エリントンは、ルイ・ベルソン (アルバムでは「ルイス・ベルソン」とクレジットされることもあった) を「世界で最も偉大なドラマー」と評していた。18歳からこの道に入ったベルソンは活動の場をビッグ・バンドから小編成のグループにいったん移したあと、再びビッグ・バンドの世界に戻ってきた。また最初の妻である歌手パール・ベイリーの音楽監督も務めている。
彼のドラム演奏は、さまざまなジャズ・オーケストラの原動力のひとつとなった。彼はベニー・グッドマン、トミー・ドーシー、ハリー・ジェイムズ、デューク・エリントン、そして (短期間ではあったが) カウント・ベイシーの楽団に所属し、演奏の中で優雅な技巧を発揮したショーマンだった。
第50位: ジェフ・ポーカロ
1992年8月5日に38歳の若さで亡くなったジェフ・ポーカロはTOTOの創設メンバーであり、また引く手あまたのスタジオ・ミュージシャンでもあった。ハリウッドの高名なパーカッション奏者を父親を持つジェフは、ドラムの血を受け継いでいた。
17歳で学校を中退し、ソニー&シェールのツアーに参加。その後はダイアナ・ロス、エタ・ジェイムズ、エルトン・ジョン、ロバート・パーマー、ブルース・スプリングスティーンといった数多くの一流スターのレコーディングに参加した。
TOTOでの演奏を聴けば、彼が20世紀のアメリカが生んだ最高の”グルーヴ”・プレイヤーのひとりと言われた理由がわかるだろう。つまり、シンプルなビートで興奮を生み出すことができたのである。彼はいつも謙虚な人間だった。ドラムのテクニックについて尋ねられると、ジム・ケルトナーの演奏を聴くように勧めるのが常だった。
第49位: ジーン・クルーパ
1930年代にベニー・グッドマンのオーケストラの一員だった頃、ジーン・クルーパはジャズ・ドラマーという仕事の役割を変えてしまった。もともとは単にテンポを保つタイム・キーパー役だったドラマーを、ソロを奏でるソリストへと昇格させたのである。
コンサートで派手なパフォーマンスを披露し、スネア・ドラム、タムタム、シンバルを激しく連打した結果、彼は一躍スターになった。そのサービス精神は、ルイ・プリマの曲「Sing, Sing, Sing」でピークに達した。これは、1936年からベニー・グッドマン楽団が演奏し始めた曲だった。クルーパはその後、アニタ・オデイをヴォーカリストに、ロイ・エルドリッジをトランペットに迎えて自らのバンドを結成し、成功を収めた。1973年にニューヨークで亡くなったとき、彼は64歳だった。
第48位: スティーヴ・スミス
1954年8月21日にマサチューセッツ州ホイットマンで生まれたスティーヴ・スミスは、ロック・バンド、ジャーニーのメンバーとして知られている。スミスは1972年から76年までボストンのバークリー音楽院で音楽を学び、リン・ビヴィアーノ・ビッグ・バンドでプロ・ミュージシャンとしての生活をスタートさせた。
その後ジャズ・フュージョン・バンドで活躍したあと、1978年にジャーニーに加入。その8年後に脱退してからは、もともと熱中していたジャズを追求し、スタジオ・プレイヤーとしてのキャリアを積んでいった。
過去40年のあいだ、スミスはマイケル・ブレッカー、アーマッド・ジャマル、ブライアン・アダムス、マライア・キャリー、サヴェージ・ガーデンといったさまざまなアーティストのバックでドラムスを演奏してきた。スミスは、爆発的なソロと複雑なタイムキープが得意なドラマーとして知られている。2016年にはジャーニーに再加入し、32年ぶりにこのバンドのツアーに参加した。
第47位: ハル・ブレイン
マサチューセッツ州は、1929年2月5日にハル・ブレインが生まれた場所でもある。グラミー賞を受賞したブレインは、ロックンロール史上に残る多忙なドラマーのひとりであり、有名なスタジオ・ミュージシャン集団、レッキング・クルーのメンバーでもある。
彼がゲスト参加した曲は35,000曲にのぼり、そのうちの150曲が『ビルボード』チャートのトップ10に入っている。1960年代にはエルヴィス・プレスリーが出演した映画のサウンドトラックに多数参加。またフィル・スペクターがプロデュースする「ウォール・オブ・サウンド」の主要な録音メンバーでもあり、「Be My Baby」や「Da Doo Ron Ron」などの名曲の録音に関わっている。
さらには、「Good Vibrations」をはじめとするビーチ・ボーイズのヒット曲にも参加したほか、グレン・キャンベルのセッションにも数多く関わっている (uDiscoverが行ったインタビューでも、グレンとの友達付き合いについて語っていた) 。ブレインは革新的なミュージシャンだった。
「私のセットにはいつも12個のドラムがあった。それは前代未聞のセットで、本当に大きな変化だった」と本人は語っている。当時のドラマーの大多数はドラムを高めの音域にチューニングしていたが、ブレインは通常の中音域に下げていたという。彼は2019年3月11日に90歳で亡くなり、誰にも打ち負かせないような偉業を遺した。
第46位: マックス・ローチ
2007年8月に83歳で亡くなったマックス・ローチは、ジャズの歴史に残る最高に創造的で影響力のあるパーカッション奏者のひとりとして賞賛された。ローチはもともとピアノを弾いていたが、12歳で父親にドラム・セットを買い与えられてからはドラムスに転向した。そして19歳でコールマン・ホーキンスのバンドのメンバーとして初めてのレコーディングをこなしている。
1940年代にはチャーリー・パーカーと組んで画期的な演奏を行い、非の打ちどころのないテクニックとテンポの巧みさに加え、驚異的なフォームのセンスの持ち主であることを知らしめた。ローチはディジー・ガレスピーが組んだ最初のビッグ・バンドのドラマーでもあり、また自らもバンド・リーダーとしてキャリアを築いていった。
若きトランペット奏者クリフォード・ブラウンと結成したクインテットは、20世紀最高の小編成バンドのひとつとみなされている。彼は1960年代の公民権運動に積極的に参加し、その後マサチューセッツ大学で教職に就いた。
第45位: トッパー・ヒードン
マンガの『トッパー』に登場するキャラクター、ミッキー・モンキーに似ていることから「トッパー」というニックネームになったニコラス・ヒードンは、1955年5月30日にケント州ブロムリーで生まれた。彼はパンク・ロック・バンド、ザ・クラッシュのドラマーとして有名になった。
このバンドには1977年に加入して5年間在籍したが、ドラッグの問題で脱退を余儀なくされている。「I Fought The Law」のようなクラッシュの曲は、彼の演奏にあふれるエネルギーのおかげで大人気となった。シンプルなバス・ドラムとスネアのアップダウン・ビートを強調し、そこに華やかなハイハットを添えた彼のスタイルは非常に特徴的だった。
クラッシュ脱退後はビッグ・オーディオ・ダイナマイトで活動し、1985年にはジーン・クルーパのインストゥルメンタル曲「Drumming Man」のカヴァー・ヴァージョンをシングルでリリースしている。
第44位: スティーヴ・ガッド
スティーヴ・ガッドは、「Aja」「Fifty Ways To Leave Your Lover (恋人と別れる50の方法) 」、「Nite Sprite」などの伝説的なドラム・トラックを担当し、ある世代のドラマーに大きな影響を与えた。1945年4月9日にニューヨーク州ロチェスターで生まれたガッドは、7歳でドラムを始め、11歳の時にはディジー・ガレスピーのライヴに飛び入り参加している。
日本では大変な人気を集めており、彼のドラム・ソロを採譜した譜面がいまだに売れているくらいだ。度々共演しているチック・コリアは次のように語っている。
「ドラマーはみんなガッドのように演奏したいと思っている。なぜなら演奏が完璧だからね。彼はドラム・キットにオーケストラや作曲家の発想を持ち込んだ。それと同時に、素晴らしい想像力とスウィングの能力も持ち合わせている」
第43位: アート・ブレイキー
ドラマーでバンド・リーダーのアート・ブレイキーは、1990年10月16日に71歳で亡くなった。ブレイキーは40年以上にわたってジャズの世界でとりわけ大きな影響力を及ぼした人物のひとりだった。彼は、さまざまなトーンを重ねる長大なソロを演奏することで知られていた。そうしたソロでは、強弱を巧みにコントロールしながら本物の即興能力を存分に見せつけていた。マックス・ローチは次のように語っている。
「アートは独創的な人だった。独特なタイミングの持ち主で、聴けばすぐに彼だとわかる。そんなドラマーは他にいない。それに彼ならではの特徴的なスタイルは素晴らしかった。私たちは、”サンダー”というあだ名で呼んでいたよ。4本の手足それぞれの独立性を維持するという点では、おそらく最高のドラマーだった。誰よりも早く、そういう演奏をやっていたんだ」
バンド・リーダーとして、ブレイキーは偉大なジャズ・ミュージシャンをたくさん育ててきた。たとえばトランペット奏者のケニー・ドーハム、リー・モーガン、フレディ・ハバード、ウィントン・マルサリス、サックス奏者のジャッキー・マクリーン、ハンク・モブレー、ウェイン・ショーター、ピアニストのホレス・シルヴァーとボビー・ティモンズといった人たちはみなブレイキーのバンドの出身だ。
マルサリスは、小編成のアレンジにドラムを組み込む点でブレイキーが大きな影響力を持っていたと語っている。「そうして構築したアンサンブルでは、ドラムがよりオーケストラのように編曲されていたんだ」
第42位: ビル・ブルーフォード
1949年5月17日にケント州セブンオークスで生まれたビル・ブルーフォードは1960年代後半にロック・バンド、イエスの一員となり、技巧と繊細さを兼ね備えたドラマーとして名声を獲得した。その後、キング・クリムゾンで活躍し、ジェネシスのツアーにも参加している。
彼は2009年に演奏活動から引退したが、自らのレコード・レーベルを運営するかたわら、サリー大学で音楽の博士号を取得した。ブルーフォードは自分のスタイルを形成するうえでさまざまなジャズ・ドラマーのスタイルに大きな影響を受けたと語り、その例として「マックス・ローチのエレガントなスタイル」を挙げている。またアート・ブレイキーの「ドラム・キットをとても個人的な音にする」能力を特に賞賛していた。
第41位: トラヴィス・バーカー
1975年11月14日生まれのカリフォルニア出身のプロデューサー/ソングライター、トラヴィス・バーカーは、ロック・バンド、ブリンク182のドラマーとしての活動が最も有名だ。また、トランスプランツ、ボックス・カー・レーサー、+44、TRV$DJamでもドラムスを演奏している。『ローリング・ストーン』誌からは、「パンクから生まれた初のスーパースター・ドラマー」と評された。
ドラマーとしてのパワーと多才さで高い評価を受けているバーカーは、衣料品会社も設立している。一時期は両腕の血栓によりドラムの演奏を休止していたが、治療を経て2018年10月にドラマーとしての活動を再開した。
第40位: ニコ・マクブレイン
1952年6月5日に生まれたロンドン出身のマイケル・”ニコ”・マクブレインは、少年時代にデイヴ・ブルーベック・カルテットのジョー・モレロの演奏をテレビで見て、ドラマーになろうと決意した。マクブレインのドラムは、1983年のアルバム『Piece Of Mind』以来、アイアン・メイデンのサウンドに不可欠の要素となっている。メイデンのギタリストのエイドリアン・スミスは次のように語る。
「ニコにはずっと以前から才能とテクニックがあった。でも本当の意味でそれが爆発したのはメイデンに入ってからだ。それがあまりにもすごい爆発だったから、彼が加入してからの曲の多くは彼のドラムスが土台になっている」
マクブレインには妙な癖がいくつかあり、たとえば時々裸足で演奏することがある。1991年、彼は『Rhythms Of The Beast』というドラム教則ビデオを制作した。
第39位: アラン・ホワイト
注意してほしいが、オアシスの同名のドラマーとは別人なので混同しないように。こちらのアラン・ホワイトは1949年6月14日生まれで、1972年にプログレッシヴ・ロック・バンド、イエスに加入してからはバンドの大黒柱のひとりとなった。それ以前に、ホワイトはジョン・レノンに誘われてプラスティック・オノ・バンドに参加し、「Imagine」で演奏している。
他にもさまざまなミュージシャンのバックを務めており、共演者の中にはジョージ・ハリスン、ジンジャー・ベイカー、ジョー・コッカーなども含まれている。2017年にはロックの殿堂入りを果たした。ホワイトはドラマーとしては優れたタイムキーパーであり、曲のアレンジに方向付けをするのが得意だった。本人は次のように語っている。「ルイ・ベルソンのバス・ドラムにはいつも興奮させられた。彼のコントロールとテクニックはすごかった。彼ほどバス・ドラムをマスターしている人はいないと思う。私はバス・ドラムの演奏にかなり精神を集中させている。しばらくのあいだ、ツーバス・ドラムを使っていた時期がある。やがて気付いたんだけど、ワンバスでもツーバスとほぼ効果の演奏ができるんだ」
ホワイトは優れたピアニストでもある。
第38位: サイモン・フィリップス
ロンドン出身のサイモン・フィリップスは1957年2月6日生まれ。ジェフ・ポーカロ (今回のリストでは50位にランク入り) が亡くなったあとの1992年にTOTOのドラマーとなった。フィリップスはテクニックの面で優れたドラマーであり、やはりミュージシャンだった父シド・フィリップスのおかげで音楽の道に入った。
彼は現代を代表するトップ・クラスのロック・ミュージシャンのツアーやレコーディングに参加してきた。その例を挙げれば、ミック・ジャガー、ザ・フー、ジェフ・ベック、ロキシー・ミュージック、プリテンダーズといった具合だ。1992年にはTOTOのメンバーになるため渡米した。また1988年の『Protocol』をはじめとして、自らのリーダー・アルバムもいくつかリリースしている。さらにアレンジャー、プロデューサー、エンジニアとしても活躍してきた。
第37位: ビリー・コブハム
1944年5月16日生まれのビリー・コブハムは、パナマ出身のジャズ・ミュージシャンである。コブハムはピアニストのホレス・シルヴァーと共に音楽活動を開始し、その後はトランペット奏者のマイルス・デイヴィスのグループやニューヨークのジャズ・フュージョン・バンド、マハヴィシュヌ・オーケストラで活躍した。
ジャズ、ファンク、ロックを融合させた最初期のドラマーのひとりである。近年は、ビリー・コブハム・スクール・オブ・ドラムスでドラムのオンライン講座を開設している。
第36位: ジョシュ・フリーズ
1972年のクリスマスに生まれたジョシュ・フリーズは現代を代表する人気スタジオ・ドラマーであり、ヴァンダルズやディーヴォの正式メンバーでもある。1997年から2000年まではガンズ・アンド・ローゼズのドラマーを務め、またいくつかのレコーディングではサックスも演奏している。2016年からはスティングのバック・バンドでもドラムを叩き始めた。
「俺のドラム・セットアップは、あまりクレイジーになることもないし、ありえないような組み合わせになることもない」とフリーズは言う。「スタジオでは、たいてい本当に基本的なものしか使わない。4ピース、5ピース、6ピースのキットで、スネアとシンバルのチョイスをいろいろ変えるんだ」。
第35位: ヴィニー・ポール
ヘヴィー・メタル・バンド、パンテラの創設メンバーでドラマーのヴィニー・ポールは、2018年6月22日に心臓疾患のため54歳で亡くなった。
パンテラはこのテキサス生まれのミュージシャンが1981年に弟と結成したバンドで、グラミー賞に4度ノミネートされたが、メンバーが不仲になったという噂が流れていた2003年に解散した。ヴィニーは、ライヴ中に生のドラムにサンプリング音源をミックスして使うことで知られている。そのドラム・キットには、彼の帽子のデザインを模した特注のドラゴンの絵柄が描かれていた。
第34位: チャド・スミス
チャド・スミスはレッド・ホット・チリ・ペッパーズのドラマーである。1961年10月25日生まれのスミスは、1988年にこのバンドに加入した。本人の話によれば、デトロイトのクラブでたくさん演奏したのが勉強になったという。「週6日、一晩3セットずつこなしたんだ。それが大学代わりの学校教育になった」。
彼はハード・ロック・バンド、チキンフットのドラムスも度々担当している。魅力的なビートを駆使した演奏で知られるスミスはスタジオ・ミュージシャンとしても引く手あまただ。これまでに彼を起用したアーティストとしては、ディクシー・チックス、ジョニー・キャッシュ、アヴェット・ブラザーズなどが挙げられる。
第33位: コージー・パウエル
本名のコリン・トレヴァー・フルークスよりも、芸名のコージー・パウエルのほうで知られていたこのドラマーは、1998年4月に悲劇的な自動車事故を起こし、50歳という若さで亡くなった。その輝かしいキャリアの中で、彼はロックのさまざまな重要アーティストと共演してきた。
共演者の顔ぶれは、ジェフ・ベック、リッチー・ブラックモアのレインボー、ホワイトスネイク、ブラック・サバス、クイーンのブライアン・メイ、ピーター・グリーンのスプリンター・グループといったそうそうたるものになっている。
1970年代半ばには、彼のトレードマークである大迫力のドラム演奏を前面に出した楽曲で3度ヒットを記録した。その3曲「Dance With the Devil」、「The Man In Black」、「Na Na Na」では、どの曲でも力強いドラム・ソロが聴ける。
第32位: ヴィニー・カリウタ
ヴィンセント・カリウタは、1956年2月5日にペンシルベニア州ブラウンズヴィルで生まれた。初めて大きなチャンスを得たのは、1978年にフランク・ザッパ・バンドのオーディションに合格したときだった。
晴れて加入したカリウタは、当時ザッパが録音していたアルバムで中心的なプレイヤーとなった。スタジオ・ミュージシャンとしては、ジョニ・ミッチェル、バーブラ・ストライサンド、チャカ・カーン、ジェフ・ベックらのバックを務めている。彼は多芸多才なドラマーとして知られており、ジャズの分野でもチック・コリアやハービー・ハンコックといったスターと共演したことがある。1994年には、自らの名前を冠したソロ・アルバム『Vinnie Colaiuta』をリリースした。
第31位: アミール・”クエストラヴ”・トンプソン
1971年1月20日にフィラデルフィアで生まれたアーミル・カリブ・トンプソンは、クエストラヴという芸名で知られるドラマーだ。彼がドラムスを叩いているザ・ルーツはグラミー賞を受賞したほか、テレビ番組『The Tonight Show Starring Jimmy Fallon』にもハウス・バンドとして出演している。最近のクエストラヴは、大ヒットしたブロードウェイ・ミュージカル『Hamilton』のプロデューサーを務めていた。
第30位: エインズリー・ダンバー
1946年1月10日にイギリスのリバプールで生まれたエインズリー・ダンバーは、ジャズ、ブルース、フュージョン、ロック、プログレッシヴ・ロックなど、さまざまなジャンルを難なくこなすことができる。彼が参加したレコードの中には、ゴールド・ディスクやプラチナ・ディスクに認定されたものが30枚も含まれている。
活動初期はジョン・メイオールのブルースブレイカーズに所属しており、その後は幅広いジャンルのミュージシャンのドラムスを担当した。共演者の中にはジェフ・ベック、ブルース・ミュージシャンのチャンピオン・ジャック・デュプリー、ジャズ・ミュージシャンのハービー・マン、ジョン・レノン、ロッド・スチュワートなども含まれている。2017年にはロックの殿堂入りを果たした。
第29位: ジャネット・ワイス
1965年9月24日にロサンゼルスで生まれたジャネット・ワイスは、スリーター・キニーのメンバーとして知られる。また、クワージやカルト・インディ・バンド、ザ・シンズでもドラムスを担当している。ワイスはパワフルで創意に満ちたドラマーであり、女性ドラマーの活躍を阻む伝統的な壁のいくつかを取り払うことに貢献した。彼女は次のように語っている。
「この社会では、女性がやかましくなったり、原始人のようになったり、攻撃的になったりすることが伝統的に忌避されている。こういった特性はドラマーの世界ではものすごく大事で、手放すことはできないし、手放すべきでもない」
第28位: カーマイン・アピス
ニューヨーク出身のカーマイン・アピスは1946年12月15日に生まれ、1960年代後半にサイケデリック・バンド、ヴァニラ・ファッジで活動を開始する。その後、ジェフ・ベックとティム・ボガートと共にベック・ボガート&アピスを結成した。
ジーン・クルーパから多大な影響を受けたというアピスはロッド・スチュワートとも活動しており、ロッドと「Da Ya Think I’m Sexy?」を共作している。アピスは後にキング・コブラを結成し、1980年代にキャピトルから2枚のアルバムをリリースした。同じ時期にはピンク・フロイドのアルバム『A Momentary Lapse Of Reason (鬱) 』にも参加している。また高い評価を受けた書籍『The Realistic Rock Drum Method』を執筆し、50万部近くを売り上げた。
第27位: クライド・スタブルフィールド
2017年2月18日に73歳で亡くなったクライド・スタブルフィールドは、2つの時代の音楽に大きな影響を与えた。最初はジェームス・ブラウンのバンドで、次にヒップホップ草創期のレコードで、スタブルフィールドのドラムスは大きな役割を果たしている。
彼は弱冠17歳でJBのバンドに加入し、「Cold Sweat」や「Sex Machine」などの重要な曲の録音に参加した。また、キング牧師暗殺後にJBが行ったコンサートでも演奏している。彼のうねるようなブレイクビーツは有名で、ソロで出したインストゥルメンタル・シングル「Funky Drummer」は1980年代初期に持てはやされるようになった。その頃から、ヒップホップのプロデューサーたちが他のレコードからコピーした断片をループさせるという手法を使い始めたのである。
彼のドラムスはパブリック・エネミーの「Fight The Power」で使われており、1,400枚以上のレコードにサンプリングされていると言われている。2014年、彼は親指を切断しなければならなかったが、マラカスの太い柄にドラム・スティックをはめ込んで改造し、演奏活動を続けた。
第26位: マット・キャメロン
マット・キャメロンは1962年11月28日にサンディエゴで生まれた。活動初期はサウンドガーデンのメンバーだった (後に再加入している) が、やがてパール・ジャムのツアーに招かれ、このバンドの正式メンバーとなる。テクニック面で才能に恵まれていた彼は、ライヴで高速ソロを叩くことで有名だ。ソロ・デビューLP『Cavedweller』をリリースした2017年には、ロックの殿堂入りを果たしている。
第25位: マイケル・シュリーヴ
サンフランシスコ生まれのマイケル・シュリーヴは、2017年に『ローリング・ストーン』誌の読者の投票で「史上最高のドラマー・トップ10」に選ばれた。1949年7月6日生まれのシュリーヴはサンタナの創設メンバーで、この独創的なグループが出した最初の8枚のアルバムに参加している。
洗練されたドラマーである彼は、ロック、ジャズ、エレクトロニック、ダンス、ワールド・ミュージックといった多種多様なジャンルのアーティストたちと共演してきた。また1970年代に登場し始めたエレクトロニック・パーカッションを画期的なかたちで使い、高く評価された。
過去10年間、彼はドラムス・オブ・コンパッションという個人プロジェクトに取り組んでおり、ここでは作曲家、プロデューサー、ドラマーという3つの役割を担っている。カルロス・サンタナは彼を「予言者」だと評していた。
第24位: ビル・ウォード
ビル・ウォードは1948年5月5日にイギリスのバーミンガムで生まれた。本人の話によれば、ドラムは独学で、ステージ上でディープ・フィーリングのジム・キャパルディの隣に座って学んだという。またジャズも大好きで、チューニングはジーン・クルーパをお手本にしたと語っている。
ウォードはヘヴィ・メタル・バンド、ブラック・サバスの創設メンバーとして有名で、フロア・タムの画期的な使い方で注目を集めた。
「ジャズの影響がなければ、ブラック・サバスのドラムはまったく違ったものになっていただろう。俺の中では、あのバンドが必要としていたのはジャズのフィーリングとロックのフィーリングだった」とウォードは言う。
最近の彼はデイ・オブ・エラーズという新バンドで演奏していたが、心臓に問題があったため、音楽活動の休止を余儀なくされた。
第23位: ロジャー・テイラー
有名なクイーンのドラマー、ロジャー・テイラーは、伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』では『X-MEN』のベン・ハーディが演じていた。テイラー (デュラン・デュランの同名のドラマーと混同しないように) は1949年7月26日にノーフォークのキングス・リンで生まれた。
彼は才能豊かでパワフルなドラマーであると同時に、ヴォーカルや他の楽器もこなす器用な面も持ち、さらにはクイーンの画期的なヒット曲「Radio Ga Ga」と「A Kind Of Magic」の作曲者でもある。また1981年の『Fun In Space』をはじめとして、5枚のソロ・アルバムをリリースしている。「ドラムを叩くことは自分にとって自然なことだった。いつだって、この上なく簡単なことだったんだ」とテイラーは語っている。
第22位: シーラ・E
シーラ・エスコヴェードは、パーカッション奏者の父ピート・エスコヴェードと名付け親であるティト・プエンテから影響を受けた。回顧録『The Beat Of My Own Drum』によれば、シーラはドラム・セットでリズム・キープする方法を子供のころから教えられたという。
1957年12月12日にカリフォルニア州オークランドで生まれた彼女は、「パーカッションの女王」として知られている。初めてのプロ活動はジョージ・デューク・バンドで、その後はソロ・アルバムを出すだけでなく、リンゴ・スター、マーヴィン・ゲイ、ライオネル・リッチー、ダイアナ・ロス、ハービー・ハンコックといったアーティストたちと共演してきた。またプリンスとも緊密なコラボレーションを行っていた。
第21位: ラーズ・ウルリッヒ
1963年のボクシング・デーに生まれたデンマーク出身のラーズ・ウルリッヒはテニス選手としてプロの道にも進めそうな有望株だったが、そちらのキャリアを断念した後でドラマーになった。彼はヘヴィ・メタル・バンド、メタリカの創設メンバーとしてよく知られている (メタリカには雑誌のメンバー募集広告を見て加入した) 。
ウルリッヒは高速スラッシュ・ドラム・ビートのパイオニアとして高く評価されており、そうしたサウンドは「Metal Militia」のような初期メタリカの曲の多くで前面に出ている、その轟音と複雑なドラム・パターンは、1980年代のハード・ロックの基本パターンとなった。彼はデンマーク政府からナイトの称号を授与されている。
第20位: トミー・アルドリッジ
1950年8月15日にミシシッピ州パールで生まれたトミー・アルドリッジは、クリーム、ビートルズ、ジミ・ヘンドリックスのアルバムを聴いてから独学でドラムを学んだ。その後パット・トラヴァースと組んだあと、1970年代にはホワイトスネイクやシン・リジィといったバンドで名を馳せた。
アルドリッジはツーバス・ロック・ドラムの奏法を確立したドラマーとして定評があり、21世紀に入ってもホワイトスネイクで演奏を続けている。完璧主義者である彼は次のように語っている。
「自分の演奏はあまり好きじゃない。何かをレコーディングして、それを聴き直すと、満足できることなんか滅多にない。ほとんどのミュージシャンがそうだろう。15テイクやらせてもらえるとしても、こちらは30回やりたくなるんだ」
第19位: マイク・ポートノイ
1967年4月20日に生まれたマイク・ポートノイは成長期をニューヨーク州ロングビーチで過ごし、音楽にどっぷりと浸かって育った。「父親がロックンロールのDJだったから、いつも音楽に囲まれて育ったんだ。小さい頃はものすごいレコード・コレクションが家にあって、最初はビートルズ、その後はキッスが大好きだった。ミュージシャンになるのは避けられないことだった」。
彼は独学でドラムを学び、その後は奨学金を得てバークリー音楽院に入学した。本人の話では、最も影響を受けたのはラッシュのドラマー、ニール・パートだったという。プログレッシヴ・ロック・バンド、ドリーム・シアターの創設メンバーとなったポートノイは、2004年にモダン・ドラマーの殿堂入りを果たしたとき、パートに次いで2番目に若い年齢で殿堂入りしたことを特に喜んでいた。
第18位: アレックス・ヴァン・ヘイレン
アレックス・ヴァン・ヘイレンは、1953年5月8日にアムステルダムで生まれた。父ヤンも母ユージニアも、クラシックのピアニストになるための訓練を受けた人物だった。やがてアメリカに移住したあと、アレックスは弟エディとバンドを組んだ。ふたりはデヴィッド・リー・ロスと出会い、マンモスを結成。1974年にはバンド名をヴァン・ヘイレンに改め、1978年にデビュー・アルバムを発表する。
ヴァン・ヘイレンのメンバーで活動期間すべてを通して在籍していたのはアレックスとエディの兄弟2人だけだ。アレックスはスネア・ドラムの名手で、ライヴでは攻撃的なソロと華々しいステージ・パフォーマンスで知られている。本人は、ジャズ・ドラマーのバディ・リッチから大きな影響を受けたと語っていた。
第17位: イアン・ペイス
イアン・ペイスは1948年6月29日にイギリスのノッティンガムで生まれ、ラジオで聴いたジーン・クルーパやバディ・リッチといった伝説のジャズ・ミュージシャンのスタイルを真似ることでドラムを学んだ。15歳で初めてドラム・キットを手に入れるが、左利きだった彼は、右利き用のドラム・キットに合うようなテクニックを編み出さなければと決意した。
そうしてさまざまなダンス・バンドで演奏した後、1968年にディープ・パープルの結成に参加することで大きなチャンスを掴んだ。彼の見事な演奏は、「Stormbringer」やライヴ・アルバム『Made In Japan』などで輝いている。ペイスは1979年から1982年までホワイトスネイクで活動し、その後はゲイリー・ムーア・バンドに加入。それからまもなくディープ・パープルに復帰している。
第16位: ベニー・ベンジャミン
モータウンの偉大なドラマーのひとり、ベニー・ベンジャミンは、1969年4月に脳卒中で亡くなった時、まだ43歳だった。ビッグ・バンド・ジャズ出身のベンジャミンはファンク・ブラザーズとして知られるスタジオ・ミュージシャン集団の主要メンバーに含まれていた。巧みなブラシ・ワークと爆発的なドラム・フィルの使い手として知られ、モータウンのヒット曲に欠かせない存在だった。
彼のドラムスは、テンプテーションズ、ミラクルズ、フォー・トップス、シュープリームス、グラディス・ナイト&ザ・ピップス、マーサ&ザ・ヴァンデラス、スティーヴィー・ワンダー、マーヴィン・ゲイなどが録音した数々の名曲を飾っている。
「ベニーには、さまざまなリズムを同時に演奏する独特の才覚があった。脈打つビートや安定性が備わっていて、それがメトロノームよりも上手にテンポを保っていた」とモータウンの創設者ベリー・ゴーディは語っている。
第15位: カール・パーマー
カール・パーマーは「正真正銘のドラマーズ・ドラマー」と評されてきた。優れたテクニックを持つ彼は、1950年3月20日、イギリスのバーミンガムの音楽一家に生まれた。祖父はドラムスを演奏し、祖母は交響楽団のヴァイオリン奏者で、父親はダンス・バンドを率いていた。
パーマーは、一番影響を受けたのはジーン・クルーパだと語っている。その長いキャリアの中で、彼はアトミック・ルースター、クレイジー・ワールド・オブ・アーサー・ブラウン、エイジア、エマーソン、レイク&パーマーでドラムスを叩いてきた。そして21世紀に入ると、自分のバンド、カール・パーマー・バンドを結成した。
第14位: ミッチ・ミッチェル
クイーンのドラマー、ロジャー・テイラーは、自分の駆け出し時代にお手本にしたのはジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのミッチ・ミッチェルだったと語っている。「ミッチ・ミッチェルの演奏、特にジミ・ヘンドリックスと組んだ初期の作品を聴くのは本当に最高だ」とテイラーは話す。
ミッチェルは初めのうちマックス・ローチをお手本にしていたが、やがてジャズとロックのスタイルを融合させ、そうしたサウンドは後に「フュージョン」として知られるようになった。彼の自由奔放で爆発的なテクニックのおかげで、ドラムスという楽器そのものがひとつの攻撃部隊となった。
ミッチェルは1974年にポール・マッカートニーのバンド、ウイングスのオーディションで不合格になったが、その後ジャック・ブルースやジェフ・ベックなどさまざまなアーティストと共演し、スタジオでのレコーディングも数多くこなしていた。晩年は、やはりヘンドリックスと共演していたベーシスト、ビリー・コックスやギタリストのゲイリー・サーキンと組んたジプシー・サン・エクスペリエンス・バンドで活動していた。そして2008年11月12日、61歳で自然死した。
第13位: フィル・コリンズ
フィル・コリンズはジェネシスのドラマーとして活躍してきた結果、ロック界で最も偉大なドラマーのひとりという地位を手にした。1951年1月30日、ロンドン郊外のチズウィックで生まれたコリンズは、歌手/ソングライター/レコード・プロデューサーとしても大人気だ。1980年代には全米チャートのトップ40に入るヒットを連発している。
その例としては、「Against All Odds (Take A Look At Me Now)」などが挙げられる。そして時には、フォーク・ミュージシャンのジョン・マーティンのような音楽仲間のレコードでドラムを叩くこともあった。本人によれば、初めてドラムを与えられたのは3歳のときだったという。「ドラムを叩くのは簡単だったけど、それ以外のことは何もしていなかったんだ。他の子供たちが外で遊んでいるとき、僕はドラムを演奏していた。ただただドラマーとして身を立てていきたかったんだ」。
第12位: リンゴ・スター
1940年7月7日にリバプールで生まれたリンゴ・スター (本名リチャード・スターキー) は、ビートルズのドラマーとして世界的に有名になり、音楽界で最高レベルの成功を収めてきた。「Yellow Submarine」などの曲ではヴォーカルを担当することもあり、このバンドの成功において重要な役割を果たしている。
リンゴがロックの殿堂入りを果たした時、デイヴ・グロールは次のように言った。「”世界最高のドラマー”の定義を考えてみよう。それは技術的な面で優れた人だろうか? それとも、自分ならではのフィーリングで曲の中に入り込む人だろうか? リンゴはフィーリングにかけては王様だった」。
ビートルズ解散後、リンゴはソロ活動で成功を収めており、サード・ソロ・アルバム『Ringo』は高い評価を受けている。
第11位: チャーリー・ワッツ
チャーリー・ワッツは、ジャズ・ドラマーの感性をロック・ミュージックに持ち込んだ。そしてローリング・ストーンズのドラマーとして、世界で最も尊敬されるミュージシャンのひとりとなった。1941年6月2日にロンドンで生まれたワッツは、マイルス・デイヴィスとジョン・コルトレーンを聴き込みながら育ち、まずグラフィック・アーティストとしてキャリアをスタートさせた。
彼はチャーリー・パーカーについての本を執筆することで、芸術とジャズに傾ける情熱を結びつけた。やがてアレクシス・コーナーズ・ブルース・インコーポレイテッドでドラムを叩いたあとで、駆け出しのバンド、ローリング・ストーンズに参加するよう説得された。
ストーンズ参加後の初仕事は、イーリング・ブルース・クラブでのライヴだった。そして以後50年以上にわたって、このバンドに主要メンバーとして留まった。その一方で、時々ストーンズを休んでは自らのジャズ・オーケストラで活動していた。
第10位: テリー・ボジオ
テリー・ボジオは1950年12月27日、サンフランシスコに生まれた。本人の話によれば、ボジオは『エド・サリヴァン・ショー』でリンゴ・スターとビートルズの演奏を見て、ドラムのレッスンを受けさせてくれと父親に頼み込んだ。また彼がキャリアを通じて使ってきたテクニックの多く (たとえばスネア・ハンド・テクニック) は、最初に師事したチャック・ブラウンから学んだものだという。
ボジオはガレージ・バンドで音楽活動を始め、自らのバンド、ミッシング・パーソンズやフランク・ザッパのドラマーとして有名になった。彼が参加したザッパのアルバムは26作品に及んでいる。2014年、ボジオは「世界最大の音階ドラム&パーカッション・セット」と呼ぶキットで全米ソロ・ツアーを行った。
第9位: デイヴ・グロール
デイヴ・グロールは、オルタナティヴ・ロックに疾走感のあるビートを持ち込んだ人物として広く知られている。1969年1月14日にオハイオ州ウォーレンで生まれたグロールは、高校を中退してスクリームというグループで活動した後、ニルヴァーナのオーディションを受けた。そしてヴォーカルのカート・コバーンの死後は、フー・ファイターズを結成した。その演奏は、意外なアクセントやブレイク、スネアのシンコペーションを使ったドラム・フィルで高く評価されている。
「ドラムはあらゆるものを前に進ませなきゃならない」とグロールは言う。かつて彼は、メルヴィンズのドラマー、デイル・クローヴァーを絶賛したことがある
。「クローヴァーが世界最高のドラマーだと今でも言っている。彼と同じことをする人はいないし、できる人もいない。彼の演奏を聴くと鳥肌が立つ。彼はドラムの演奏というものをひっくり返したんだ。もしメルヴィンズを聴いていなかったら、ドラムをやることもなかったんじゃないかな。クローヴァーに教えられたんだよ。ドラムには、ほとんどの人が感じる以上にいろんな音が含まれているとね」。
第8位: デイヴ・ロンバード
1965年2月16日にキューバのハバナで生まれたデイヴ・ロンバルドは、スラッシュ・メタル・バンド、スレイヤーの創設メンバーとしてよく知られている。パワフルなドラマーであり、その革新的なプレイは『ドラマーワールド』誌で「ツーバスのゴッドファーザー」と評された。ロンバートは次のように語っている。
「『Show No Mercy』のような初期のスレイヤーのアルバムは、どれもヘヴィなドラムのために作られた。ドラムはヘヴィでなきゃいけなかったんだ。あのへんのアルバムではドラムはヘヴィにしなきゃいけなかったし、ハードに速く演奏する必要があった」
2013年にスレイヤーを脱退した後、彼はさまざまなバンドで演奏しており、たとえばグリップ・インク、テスタメント、スーサイダル・テンデンシーズ、ミスフィッツなどに参加している。
第7位: スチュワート・コープランド
スチュワート・コープランドは、映画音楽やテレビのBGMといった分野で熟練したプロデューサーや作曲家として活動してきた。とはいえコープランドは、これからもずっとザ・ポリスのドラマーとして記憶されるだろう。ザ・ポリスは1980年代半ばまでアルバムを次々にチャートの首位に送り込み、世界的な名声を獲得していた (uDiscoverのインタビューでは、彼が当時のことを振り返っている) 。
1952年7月16日にヴァージニア州アレクサンドリアで生まれたコープランドは、12歳からドラムのレッスンを受けていた。やがてカーヴド・エアのツアー・マネージャーとして音楽業界入りし、1975年からはこのバンドのドラムを担当するようになった。1977年、コープランドはストロンチウム90というバンドに所属していたが、同じバンドのメンバーだったスティングと共にザ・ポリスを結成する。
この大人気バンドの解散後、彼はフランシス・フォード・コッポラ監督の映画『Rumble Fish』で音楽を担当し、ゴールデングローブ賞を受賞した。ザ・ポリス時代の彼は、レゲエ色の強いリズムと軽々と演奏してみせるシンバル・ワークで有名だった。
「私のDNAの中にはアラブ音楽がある。バディ・リッチ、ミッチ・ミッチェル、ジョー・モレロの影響も受けている。ジョー・モレロや「Take Five」のサウンドが大好きなんだ……。豊かでリラックスした、あのドラムのサウンドがね。ただただドラムに歌わせるのがいい」。
第6位: ダニー・ケアリー
1961年5月10日にカンザス州ローレンスで生まれたダニー・ケアリーは、グラミー賞を受賞したプログレッシヴ・メタル・バンド、トゥールのドラマーとして有名になった。本人は「ジャズとイカレたプログレで育った」と語っている。彼はトゥールでの活動のほか、ZAUM、グリーン・ジェリー、ピッグフェイス、スキニー・パピー、キング・クリムゾンのエイドリアン・ブリュー、キャロル・キング、コライド、ワイルド・ブルー・ヨンダー、ラスク、メルヴィンズのアルバムにも参加している。スティーヴ・ガッドのジャズ・ドラムが大好きだったというケアリーは、音色の面でもハーモニーの面でも優れたドラマーだ。
彼は次のように語っている。「ほとんどのドラマーは、メトロノーム役を務めるだけで満足しているんじゃないかな。メトロノーム以上のものなんか必要としない音楽がたくさんあることは知っているけどね。幸運なことに、俺は自分の好きなように自分を表現できるし、そういう立場にいるのは健康的だ」。
第5位: バディ・リッチ
1987年4月に69歳で亡くなったバディ・リッチは独学のドラマーで、自分のバンドを始める前はアーティ・ショウやトミー・ドーシーと共演していた。彼の演奏には途方もなく大きくて力強く明快なエネルギーがあった。そのパワフルなビートは、どんなバンドに参加してもバンドの原動力となった。「音楽界全体がバディ・リッチに何らかの借りがある」とフランク・シナトラは語っている。
リッチは20世紀の偉大なジャズ・スターの多くと共演し、1940年代から1950年代にかけてはジャズ・アット・ザ・フィルハーモニックのツアーでさまざまな土地を回った。やがて1960年代には自らのバンドを結成した。スティーヴ・スミスは次のように語っている。
「私が育った1960年代には、当時存命だったミュージシャンの中ではバディが最も偉大なドラマーだとみなされていた。彼は、歴史上最も偉大なドラム・セットの巨匠として永遠の地位を獲得している。バディには何かすごいものが備わっていた。直感的なエネルギーと天性のテクニック、スウィング感、フィーリング、音楽性、強烈さ、バンドを動かす手法、曲を演奏しながら周りのミュージシャンのレベルを上げる手法……そういったあれこれの中に、何かすごいものが潜んでいたんだ」
第4位: ジンジャー・ベイカー
ロンドン出身のジンジャー・ベイカーは1939年8月19日に生まれた。彼は「ロック・パワー・トリオ」という編成の誕生に貢献し、不本意ながらこのジャンルの最初のスター・ドラマーになった。そのキャリアは多面的で、いつも波乱に満ちていた。グレアム・ボンド・オーガニゼーションでスタジオ録音に何度か参加した後、ベイカーはジャック・ブルースとエリック・クラプトンと組んでクリームを結成。このバンドは、ロックで初めてのスーパーグループとして知られるようになった。
その後はブラインド・フェイスにも参加していた。近年は自らのバンド、ジンジャー・ベイカーズ・ジャズ・コンフュージョンを結成し、イギリスとヨーロッパをツアーしている。これは、ジェームス・ブラウンやヴァン・モリソンのバックでサックスを吹いていたピー・ウィー・エリスをフィーチャーしたバンドだ。ベイカーは、ドラマーになるように生まれた人間でなければドラマーにはなれないと語っている。さらには、クリームのドラム (および彼ならではの巧みなハイハット、タムタム、シンバルの使い方) の秘密は、自分が持ち込んだジャズ風の即興にあると振り返っていた。
第3位: ニール・パート
カナダのドラマーでソングライターのニール・パートは、1952年9月12日に生まれた。そしてこのリストに名を連ねる多くのドラマーと同じように、『The Gene Krupa Story』を見てドラムの道を志した。父親の会社ダルジール・イクイップメントで働きながら、、彼はアルバイトで地元オンタリオ州のさまざまなバンドに参加していく。
その後1974年、初のアメリカ・ツアーを2週間後に控えたラッシュに加入した。このグループが成功するうえで、パートのドラムスは大きな要因となった。ラッシュは世界中で4,000万枚以上のアルバムを売り上げ、立体的に構築されたパートのドラム・ソロはライヴの名物になっている。「私にとってドラム・ソロは、マラソンで走りながら方程式を解くようなものだ」と本人は語っている。
第2位: キース・ムーン
ロンドン出身のキース・ムーンは、1978年9月に32歳という若さで薬物の過剰摂取により亡くなった。ザ・フーのドラマーで、ジミー・ペイジやジョン・レノンとも共演したことがあったムーンは、メチャクチャな振る舞いをすることで有名だった。けれどロックの歴史において、最高に個性的で影響力のあるドラマーのひとりである。ロジャー・ダルトリーは、ムーンについて次のように語っている。「他の人が決して思いつかないようなところに直感的にドラム・フィルを入れていた」。
とはいえ他のドラマーと違って、ムーンはコンサートでソロを披露するのが好きではなかった。「あなたは世界最高のドラマーのひとりなんですか?」と尋ねられたムーンは、こう答えた。「俺は世界最高のキース・ムーン・タイプのドラマーだよ」。
第1位: ジョン・ボーナム
1980年9月、ジョン・ボーナムは泥酔状態で一夜を明かしたあと、32歳の若さでこの世を去った。ボーナムも、ジャズの巨匠たちに畏敬の念を抱いていたドラマーだった。このイギリス人ミュージシャンは、ジーン・クルーパ、マックス・ローチ、バディ・リッチといった偉人たちからインスピレーションを受け、独学でドラムの奏法を学んだ。
そしてレッド・ツェッペリンの偉大なるドラマーとなり、そのスピード、パワー、個性的なサウンドとタッチ、そして高速のバスドラ連打で高く評価された。「ジョン・ボーナムは、本人も次に何がどうなるのかわからないようなドラムを叩いていた。まるで崖っぷちを歩きまわっているような感じだった」とデイヴ・グロールは言う。「あれに近づいた人はいまだに出てきていないし、これからも出てこないと思う。彼は永遠に史上最高のドラマーだと思う。
Written By uDiscover Team
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