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セックス・ピストルズによるカヴァー曲ベスト5:様々な逸話と音源に至るまで

「衝撃的な新人」といった程度の言葉では、セックス・ピストルズ(Sex Pistols)がイギリスの音楽に与えたインパクトがあまり伝わってこない。扇動的なエネルギー、既存の体制を挑発する歌詞、そして生々しいパワーによって、彼らは国内で最も悪名高いバンドとなり、ブリティッシュ・パンク・ムーブメントの火付け役となった。
彼らのようなバンド ―― 荒れた感じのファッション、挑発的な世界観、人を小馬鹿にするようなジョン・ライドンのヴォーカル ―― はメインストリームには存在していなかった。とはいえ、その薄汚さと怒りのあいだからは、ピストルズの音楽的なルーツがチラチラ見えていた。特に彼らがカヴァーした楽曲からは、過去の影響がはっきりと見て取れる。
1975年8月、ピストルズのマネージャー、マルコム・マクラーレンは、「ピンク・フロイド大嫌い」というTシャツを着た19歳のライドンを見つけた(ピンク・フロイドのTシャツに、「大嫌い」と書き加えたものだった)。ライドンは、ピストルズのオーディションで10代の不満を叫ぶようなアリス・クーパーの「I’m Eighteen」を歌った。
彼らの初期のセットリストはカヴァー曲が多く、スモール・フェイセス、ザ・フー、ザ・クリエイションといった1960年代のモッズ・グループの曲、あるいはデイヴ・ベリーの「Don’t Give Me No Lip, Child」、ポール・リヴィア&ザ・レイダースの「I’m Not Your Stepping Stone」といった小生意気なロックンロールを薬物中毒の狂乱状態で演奏していた。
カヴァー曲は、1978年1月の一度きりのアメリカ・ツアー(『Live In The USA 1978』に記録されている)を終えて解散するまで、ピストルズにとって重要な位置を占め続けた。ここからは、セックス・ピストルズがカヴァーした中でも選りすぐりの曲を5曲を順不同で紹介していこう。
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1. ザ・フー「Substitute」
セックス・ピストルズには、初期ザ・フーの影響がたやすく見て取れる。ザ・フーはブリティッシュR&Bを爆発的に解釈していたし、ピート・タウンゼントの歌詞も世代間ギャップをはっきりと表現していたのだ。とはいえピストルズがイギリスで「社会の敵」の筆頭になるにつれ、ジョン・ライドンは「今こそがパンク元年」という姿勢を打ち出し、前世代のブリティッシュ・ロック・バンドから距離を置いた。1976年12月の『レコード・ミラー』誌のインタビューで、ライドンは次のように罵倒している。
「俺たちはスーパー・バンドというシステム全体を相手に戦わなきゃならない。ザ・フーやストーンズのようなグループはムカつくね……。ああいう人らは、もう人生に不安なんかないんだ。まったく哀れな連中だよ」
そんな言葉でライドンはあざ笑っていたが、それにもかかわらずザ・フーの「Substitute」はピストルズの初舞台からずっとセットリストに含まれていた(そのライヴは、1975年11月6日にロンドンのセントラル・セント・マーチンズ・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザインでバズーカ・ジョーの前座を務めるというものだった)。
ピストルズは1976年にランズダウン・ロード・スタジオとウェセックス・スタジオでリハーサルをやったとき、デイヴ・グッドマンのプロデュースでこの曲を録音した。そのテイクにオーバーダビングで音を重ねたものが、1979年に公開されたジュリアン・テンプル監督の映画『ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル』のサウンドトラックとして発表された。
ザ・フーのオリジナルは、疎外感を無駄なく手厳しい形で表現した曲だった。曲の語り手は、自分のことをより裕福で背が高くて若くて、さらにおしゃれな誰かの単なる代役に過ぎないと考えている。そんな曲を、ジョン・エントウィッスルの轟くようなベースとキース・ムーンの奔放なドラムが後押ししていた。
一方ピストルズは、この曲を高揚感あふれるカタルシスの叫びへと変化させた。ライドンは「(金持ちは生まれた時から銀のスプーン使ってるけど)俺が使ってたのはプラスチックのスプーンだった」というこの曲の中心的なフレーズを心底気持ち悪そうに吐き捨てている。
タウンゼントは芸術的な扇動者を見分ける力を持っており、ピストルズ(特にライドン)を大いに称賛していた。2011年の『ミュージック・ニュース』誌のインタビューで彼はザ・フーのアルバム『Quadrophenia』をもとにした1979年の映画に触れ、主役ジミーの候補のひとりがライドンだったと明かしている。
「彼はソーホーにある俺のスタジオを使ってたから、知り合いだった。めちゃくちゃ素晴らしい奴だよ。頭もキレるし……[彼は] 酒好きで俺もそうだった。一緒に飲み歩いて酔っ払って、車を逆走させたりしたな。まあ、彼には出演を断わられたと思う。本当に演じてほしかったんだけどね。彼はとてもとても強烈なヤツだ。良い演技ができたんじゃないかな」
2. ザ・モダン・ラヴァーズ 「Roadrunner」
1986年、『スピン誌』がジョナサン・リッチマン率いるインディーズの先駆者ザ・モダン・ラヴァーズを特集した際、ライドンは攻撃的な姿勢を見せていた。「俺は音楽なんて聴かない。音楽なんて全部嫌いだ」とピストルズのヴォーカリストは宣言した。インタビュアーが「好きな曲が1曲もないんですか?」としつこく尋ねると、ライドンはこう認めた。「いや、あるよ。ザ・モダン・ラヴァーズの”Roadrunner”は好きだ」
性格の面で言えば、素朴で気取らないリッチマンはピストルズの辛辣な皮肉っぽい態度とはかけ離れているように思えるかもしれない。とはいえモダン・ラバーズの生々しい手作り風のアプローチは、明らかに本国以外でも人の心を揺さぶっていた。ピストルズはアメリカから台頭しつつあったこの元祖パンク・ロック・バンドをいち早く耳にしていたが、それはある有名な友人のおかげだった。オリジナル・ベーシストのグレン・マトロックは、2021年に『インディペンデント』紙のインタビューで次のように語っている。
「俺たちは当時ロンドンで流行最先端の場所の中心にいたんだ。[マネージャーのマルコム・]マクラーレンはニック・ケントの友達だった。ニックはその後『NME』の看板ライターになった人だよ。そのニックが他の友人からもらったテープをこちらにくれたんだ。そこに入っていた曲がすごく気に入って、俺たちも演奏することにした。それが車についての曲だとは気づかなかったけどね。ジョナサン・リッチマンの“Roadrunner”という曲だよ。ニックにそのテープをくれた友人というのは実はジョン・ケイルで、モダン・ラヴァーズのアルバムのプロデューサーだった。そのカセットテープにはアルバムの曲が半分くらい入っていて、それをアルバムがリリースされる1年くらい前にもらってた。そんな最先端の音を聴ける立場の人間なんてそうそういなかったけど、俺たちはまさにそういう立場にあったんだ」
マルコ・ピローニ(スージー&ザ・バンシーズ、アダム&ジ・アンツ)がまとめたリストによれば、「Roadrunner」の7インチ・シングルはキングス・ロード430番地にあったピストルズのリハーサル・ルームのジュークボックスにも入っていた。それゆえ、このバンドのレパートリーに加わったのも不思議ではない。
『ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル』に収録されたヴァージョン(これも1976年のリハーサル・セッションで録音された音源)は、チャック・ベリーの「Johnny B. Goode」の大混乱ヴァージョンを含むメドレーの一部だった。ライドンは「Johnny B. Goode」の歌詞を忘れ、この曲が大嫌いだと公言して、演奏を調子外れなものにした。そして他のメンバーに「Roadrunner」を演奏するよう要求したのである。
他のメンバーたちはそれに応じるが、ライドンは「Roadrunner」の歌詞もやはりうろ覚えだった。それでも彼は覚えている歌詞をひねってアドリブを飛ばし、バンドの側は勢いよく演奏を続けた。その結果生まれたパフォーマンスは猛烈なエネルギーと挑発的な姿勢に満ちあふれ、パンクの真髄そのものとなった。
3.モンキーズなど「(I’m Not Your) Stepping Stone」
ピストルズの音楽的な好みは、当初のイメージよりもポップ寄りだった。そのことを示すさらなる証拠となるのが、「(I’m Not Your) Stepping Stone」だ。これはアメリカのシンガー・ソングライター・デュオ、トミー・ボイス&ボビー・ハートが書いた曲で、ガレージ・ロック・バンドのポール・リヴィア&ザ・レイダーズが最初にリリースした。その後これは、究極のでっち上げバブルガム・ポップ・バンド、モンキーズの大ヒット曲となった。
この曲も、ピストルズが結成当初から演奏していた曲のひとつだった(1976年9月に『NME』誌で彼らを取り上げたチャールズ・シャー・マレーは、「演奏しただけで10点、それをうまく演奏したことでさらに10点」と評している)。1976年にデイヴ・グッドマンがプロデュースしたピストルズのカヴァー録音は、その後オーバーダビング作業を経て『ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル』に収録された。
ここでの主役はライドンだ。ポール・リヴィア&ザ・レイダーズのヴァージョンでマーク・リンゼイが披露した威圧的な唸り声を受け継ぎつつ、彼は常軌を逸したような独特の激しさを加えている。歌詞の語り手は自分を裏切って出世街道を走る人間を標的にしており、「金輪際、利用されてたまるか」と決意を固めている。ライドンはこの役柄に没入し、正義感に満ちた軽蔑を吐き散らす。そうしたヴォーカルは、後に「Pretty Vacant」や「God Save The Queen」の原動力となっていった。
ピストルズがカヴァーした「(I’m Not Your) Stepping Stone」はスリリングなほど耳障りなものとなり、このポップの名曲に新たな命が吹き込まれた。マイナー・スレットは1981年のEP『In My Eyes』でこの曲をハードコア風にカヴァーし、爆音で演奏している。彼らはこの曲をピストルズのオリジナル曲だと思っていたと主張していた(このバンドのメンバーは1960年代に青春を過ごした世代だったので、そういう主張はやや意外に思える)。
4. ザ・ストゥージズ 「No Fun」
ストゥージズの「No Fun」はピストルズのために書かれた曲……と言ってもいいのかもしれない。この曲は、退屈と嫌悪感がもたらす脳を麻痺させるような感覚を痛烈に表現している。そのヒントとなったのは、ヴォーカルのイギー・ポップの青春時代だった。
ピストルズは、1975年11月7日にロンドンにあるホルバーン美術学校で行った2度目のライヴからこの曲をセットリストの重要な1曲としていた。そして1978年1月14日、ジョン・ライドンが脱退する前の最後のライヴとなったサンフランシスコのウィンターランド公演では、この曲が最後に演奏された。
ピストルズの初期、「No Fun」は反抗のスローガンだった。最も上出来な音源は、1977年のシングル「Pretty Vacant」のB面としてリリースされた6分間の猛烈なヴァージョンだろう。スティーブ・ジョーンズのギターは建物を破壊する鉄球のような迫力で、ストゥージズのオリジナルの圧倒的なパワーを再現している。一方ライドンは、何かに憑りつかれた男のように叫び、怒鳴り散らしていた。
それとは対照的に、ウィンターランド公演で録音されたライヴ・ヴァージョン(現在は『Live In The USA 1978』で聴くことができる)は、崩壊しつつあるバンドの様子を記録している。
ピストルズの2週間にわたるアメリカ・ツアーは、最初から最後まで物議を醸していた。まず過去の犯罪歴を理由に入国を拒否され(最終的には、アメリカで契約していたレコード会社が100万ドルの保証金を支払った)、その後も楽屋の破壊、観客への暴行、そして精彩を欠いた演奏(特にシド・ヴィシャスのベース)などによって悪名は高まるばかりだった。
ウィンターランドでアンコール曲「No Fun」をやる頃には、活動初期の輝きとエネルギーは色あせ、不満は爆発寸前だった。ライドンは曲の冒頭で観客にこんな風に告げる。
「これから1曲やる。1曲だけだ。俺はダラけたクソ野郎だからな」
そこから、何もかもが次第に崩壊していく ―― ジョーンズのギターは猛烈だったものの、ヴィシャスのベースは不安定で、時には完全に止まり、曲の勢いを削いでしまう。ライドンはそれに気づき、歌声は解読不能な甲高い叫びへと変わっていく。まもなく「ああ、ちくしょう、俺に続ける理由なんてあるか?」と口にした彼は、不気味な一本調子の声で「つまらねえ……ひとりぼっち」と繰り返す。
ドラマーのポール・クックとジョーンズはなんとかエネルギーを振り絞り、はらわたをかきむしるようなエンディングにたどり着く。するとライドンは笑いながら、セックス・ピストルズ脱退前のあの有名な最後の言葉を明るく言い放つ。「騙された気分になったことあるかい?おやすみ」。これは圧倒的でフィルターのかかっていない混乱であり、まったく嘘偽りのない、完全なるパンクだ。イギー・ポップも、その意見にきっと同意しただろう。
5. フランク・シナトラ 「My Way」
1977年2月、ピストルズのマネージャー、マルコム・マクラーレンは、「ビートルズを好むという凶悪犯罪を犯したことで、グレン・マトロックが解雇された」と発表した。実際のところ、マクラーレンの狙いは音楽的才能に恵まれたマトロックをシド・ヴィシャスと交代させることにあった。
パンク・シーンの常連でピストルズの熱狂的ファンだったヴィシャスはベースをまったく弾けなかったが、そのルックスとふてぶてしい態度はタブロイド紙を騒がせること間違いなしだった。マクラーレンの直感は的中し、ピストルズ加入から数カ月もすると、ヴィシャスはロックンローラーのライフスタイルに過剰なまでにのめり込み、ヘロイン中毒とナンシー・スパンゲンとの病んだ関係に溺れていった。
アメリカ・ツアーの終了後にライドンが脱退したにもかかわらず、マクラーレンが企画していたピストルズの映画『ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル』は制作に入り、1978年4月には撮影が始まった。ヴォーカルは残りのメンバー全員で分担することになったが、その中でも最も注目を集めたのは(その名声の高まりを考えれば避けられないことだったが)ヴィシャスだった。彼はエディ・コクランの「Something Else」と「C’mon Everybody」のカヴァーでリード・ヴォーカルを担当した。さらには、フランク・シナトラの名曲「My Way」を歌い、これは人々の記憶に最も残るパフォーマンスとなった。
フレッド&ジュディ・ヴァーモレルが出版した伝記『セックス・ピストルズ:インサイド・ストーリー』の中で、『ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル』の監督ジュリアン・テンプルは次のように回想している。
「パリで2週間もかけて、シドにあの曲を歌わせて、映画に出そうとしたんだ。”My Way”を歌わせるために、歌詞を彼に合わせて変えることになった。その作業をナンシーはいろいろと手伝ってくれたよ。シドは”My Way”の歌詞を自分用に変えるというアイディアを理解して、その途端に問題がなくなった。それより前のもともとの案は、あまりいいアイディアではなかったからね。つまり、最初から最後までシナトラ風に歌わせる予定だったんだ。シドは”ラモーンズ風にやりたい”と言っていた。というわけで、折衷案として歌詞の1番だけ従来通りのスタイルで歌うことにして、それに続くパートはラモーンズ風にアレンジした」
ヴィシャスの歌いぶりはシナトラの熱心なファンには異端者に見えたかもしれないが、それはこの問題だらけの荒々しいパンク青年の本質を映し出していた。演奏は歪んだバッキング・トラック(ペンギン・カフェ・オーケストラのサイモン・ジェフズが用意している)で始まり、ヴィシャスは上流階級のラウンジ歌手をあざけるような物真似で歌い始める。そして、悪ふざけも極まれりといったところでアレンジはリズミカルなパンク調のギターを中心にしたものへと移行し、ヴィシャスはライドンのような浮かれた調子で残りの歌詞を叫び、がなっていく。
音程の怪しさやメロディの破れかぶれさにもかかわらず、ヴィシャスはこの曲を完全に自分のものにした。まさに曲名通り、「我流(My Way)」の極致である。このヴァージョンは、英語版の歌詞を書いたポール・アンカにも認められた(「My Way」の原曲はジャック・ルヴォー、ジル・ティボー、クロード・フランソワの「Comme d’habitude」で、歌詞はフランス語だった)。アンカは次のように記している。
「私はすごく気に入った。あんな風にカヴァーしてもらえるのは本当に光栄だったし、面白かった……シドのようなパンクスが”My Way”をやろうとしたってことは光栄だった。彼は私とはまったく違う音楽にのめり込んでいたのだから」
悲劇的なことに、「My Way」はヴィシャスの墓碑銘となった。彼は1979年2月にヘロインの過剰摂取により21歳の若さで亡くなっている。その死後、この名曲の彼のカヴァーはひとり歩きを始め、さまざまな場面で流れている。最も有名な例は、1990年に公開されたマーティン・スコセッシ監督の映画『グッドフェローズ』のエンディングだろう。
Written By Jamie Atkins
セックス・ピストルズ『The Great Rock ‘n’ Roll Swindle』
1979年2月26日発売
CD / iTunes Store / Apple Music / Spotify / Amazon Music / YouTube Music
- セックス・ピストルズの伝説的ライヴを記録したアルバムが発売
- 2回契約破棄されたセックス・ピストルズが全英1位になるまで
- セックス・ピストルズの未発表曲8曲を含む76~77年の音源を収録したBOX
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