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LGBTQミュージシャンたちの歴史:差別され公言できない不寛容の時代から、セクシャリティが二の次になる新世代まで

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Photos: Soft Cell Archives (Soft Cell), Capitol Records (Sam Smith), Mercury Songs Ltd (Freddie Mercury), Specialty Records Archives (Little Richard)

2020年の今でも、LGBTQミュージシャンに対する世間の風当たりは皆無とは言えない。しかしここに至るまで、さまざまな先駆者たちがLGBTQの権利を求めて戦ってきた。


ここ数十年、まさに先駆的なLGBTQミュージシャンの多くが壁を打ち破り、メインストリームの観客に受け入れられてきた。しかしポピュラー音楽の世界で活躍したLGBTQミュージシャンの歴史を辿ろうとするなら、レコードというメディアの草創期にまで遡ることになる。ここでは、クラシック音楽の世界に見られる例(コレリやチャイコフスキーといった者たち)は文量の問題もありとりあえず置いておくことにしよう。

レコードという新しい技術に飛びついて一般家庭にまでファンを広げた最初の世代は、ビクトリア朝のミュージック・ホールで活動していたミュージシャンたちだった。その時代のゲイのミュージシャンというと、バーミンガムのフレッド・バーンズが挙げられる。彼は、1907年に「The Black Sheep Of The Family」をヒットさせ、一躍人気者になった。しかし当時はなんといっても生演奏が一番大事であり、引き続きホールで大勢の客を集めていた。その成功をコントロールできないまま、彼は悲惨な末路を辿っている。

トニー・ジャクソンは、ナット・キング・コールと似たように聞こえるかもしれない。しかし彼が活動していたのは1900年代初期。マイノリティにとって、それは非常に過酷な時代だった。ニューオーリンズのジャズ・シーンで活躍していたアフリカ系アメリカ人のトニー・ジャクソンは、同じ世代のミュージシャンの中でも最高のピアニストと評されることが多い。彼はシカゴに移り住み、「Pretty Baby」という曲をヒットさせた。この曲がヒントになり、1978年にはブルック・シールズの主演で同名の映画『プリティ・ベビー』が制作されている。また21世紀になっても、「Pretty Baby」は生き続け、イギリスのテレビドラマ『イーストエンダーズ』の挿入歌になっている。しかし黒人で同性愛者だった彼はこの不寛容な時代には不利な立場にあり、全国的な人気を得るには至らなかった。劇場経営者のシェップ・アレンが1963年に語った話によれば、ジャクソンはナット・キング・コールと似た歌声を持っていたが、声の力強さと音域はコールを上回っていた。もっと寛容な時代であったなら、彼はもっと広範囲で人気を集めていたはずだ。

1918年まで続いた第一次世界大戦は社会に大きな衝撃を与え、その結果、従来の厳格な社会規範が急速に緩んでいった。1920年代はパーティーが流行し、人々は数年前までの悲惨な戦争を忘れようとしていた。大都市には今で言う「ゲイ・バー」が出現。さらに女装が大流行したことで、ニューヨークには現在とそう変わらないドラァグ・シーンが生まれた。”The Pansy Craze (パンジー・クレイズ)”と呼ばれたこのブームで一番の有名人になったのがジュリアン・エルティンジである。彼はロンドンでもステージに立ち、無声映画時代のスター俳優ルドルフ・ヴァレンティーノと映画で共演する事もあった。さらにキャリル・ノーマンは自ら作った曲を歌う女装家として、各地を巡業して回った。しかし禁酒法、大恐慌、そして第二次世界大戦へと向かう社会情勢の中で、こうしたアメリカでのムーブメントは勢いを失っていった。

Julian Eltinge, Female Impersonator, on The Voice of Hollywood 1929

 

Mad about the boys ~ 男の子に夢中

アメリカでは、ダグラス・ビンが「I’m One Of The Queens Of England」などのきわどい曲で人気を集めていた。しかしパンジー・クレイズのブームが衰退すると、そうしたアメリカのパフォーマーの多くはヨーロッパに移住した。彼らはパリとベルリンで黄金時代を迎えたが、その後ナチの台頭により迫害の憂き目にあうことになる。もちろん、第二次大戦前のゲイ・スターについて語るのなら、ノエル・カワードに触れずに済ますわけにはいかない。彼の曲「Mad About The Boy」は1932年の『Words And Music』で最初に演奏された。この曲は、後にクインシー・ジョーンズの編曲でダイナ・ワシントンが吹き込んだヴァージョンが決定版となった。

Mad About The Boy

 

第二次世界大戦の終結後は社会的抑圧が再び強まり、ゲイのパフォーマーは薄氷を踏むような思いで慎重な活動をしなければならなかった。ジャズの伝説的な歌手ビリー・ホリデイはバイセクシャルであると噂されていたが、「That Ole Devil Called Love」などのスタンダード曲を実に見事に歌いこなしていたため、そんな噂を気にする者はほとんどいなかった。

リトル・リチャードとエルヴィス・プレスリーに大きな影響を与えたシスター・ロゼッタ・サープはギターの演奏とゴスペルを融合させ、アメリカだけでなくヨーロッパでも大変な話題を呼んだ。しかし、ロックンロールが出現する直前のこの時代、世界で一番のゲイ・スターといえばリベラーチェだった。この1919年生まれのピアニストは、1940年代後半になると、クラシック仕込みのピアノ演奏にコミカルな味付けをしてナイトクラブで人気者になっていた。新たに普及したテレビに出演することで彼は大スターになり、噂によれば世界一高額なギャラを手にするピアニストとなった。彼がゲイではないかという疑惑を報じた英米の雑誌とは裁判沙汰になり、最終的にはかなりの金額の和解金を手にしている。しかし彼のセクシュアリティは、エイズが爆発的に流行した頃に悲劇的な形で明らかになった。彼の人生はスティーブン・ソダーバーグ監督が2013年に『恋するリベラーチェ』として映画にもなっている。

映画『恋するリベラーチェ』予告編

 

Walk on the wild side ~ ワイルドサイドを歩け

1950年代から1960年代初期にかけての時期はソフトで聞きやすいポップスが流行したが、ジョニー・マティス、レスリー・ゴーア、タブ・ハンターといった同性愛者のスターは決してカミングアウトすることはなかった。しかしロックンロールの衝撃的な革命は波乱を巻き起こした。ジョニー・レイ(デキシー・ミッドナイト・ランナーズの「Come On Eileen」でその名は不滅のものとなった)は問題を抱えた10代のアイドルであり、行く先々でファンの歓声に出迎えられると同時に、世間から要注意人物として警戒されていた。

リトル・リチャード(ついたあだ名は「ジョージア・ピーチ」)はプレッシャーをジョニー・レイよりも上手に処理し、魅惑的なショーマンになった。デヴィッド・ボウイもリチャードから大きな影響を受けたと公言している。リトル・リチャードはレッテルを貼られることを好まなかったが、その華やかなスタイルは十分に多くのことを物語っていた。

Little Richard’s flamboyant style said enough – and went on to influence the likes of Prince in the 80s. Photo: Specialty Records Archives

やがて1960年代に入ると、大スターの面倒を見るゲイのマネージャーやプロデューサーがたくさん登場する。その例としてはブライアン・エプスタイン(ビートルズ)、ジョー・ミーク(ハニカムズ)、ラリー・パーンズ(ビリー・フューリー)などが挙げられる。しかし、自らのセクシュアリティを明かすことはそうしたスターのキャリアを台無しにする可能性があったため、彼らもやはりカミングアウトしなかった。ミークがプロデュースしたトルネイドースの「Do You Come Here Often」など、メインストリーム・カルチャーに抗うようなレコードもいくつか発表されたが、当時はまだ保守的な時代だったのだ。

ダスティ・スプリングフィールドやロング・ジョン・ボールドリーのような歌手は、ラブ・ソングの内容を世間が期待する異性愛の範囲に留めるように注意していた。一方キンクスの「Lola」やルー・リードの「Walk On The Wild Side」は検閲を免れるために注意深く言葉を選び、非常に変わったテーマの歌詞をラジオの電波に乗せることに初めて成功した。

Lou Reed – Walk on the Wild Side (audio)

 

1970年代になると、ストーンウォールの反乱や現代的なゲイ解放運動の誕生を経て状況は大きく変わったり、LGBTQのアーティストとそれを支持するアーティストが以前よりも大胆な行動に出て、ドラマティックな出来事を起こすことも多くなってきた。グラム・ロックの爆発により音楽界に新たな演劇性がもたらされ、スウィート、アリス・クーパーニューヨーク・ドールズといった非同性愛者のグループがメイクアップとパントマイムのパフォーマンスに挑んだ。そして1972年、デヴィッド・ボウイが自分はゲイだと宣言した。実のところ、彼はゲイではなかったのだが。

ボウイのような大スターがそうした声明を発表するのは重大な出来事だった。それが、多少の突破口となったことは間違いない。当時ボウイよりもメインストリームで活躍していたライバル的存在エルトン・ジョンも、その数年後に似たような発言をした(彼の場合、それは本当に自分がゲイであることを意味していた)。しかし予想されていたような逆風は吹かなかった。「Someone Saved My Life Tonight」のような曲はエルトンの代表曲となっている。同性婚を申し込まれたことで自殺を思いとどまったという自伝的な内容の歌詞は、今も力強く人の心に語りかけてくる。

Someone Saved My Life Tonight

 

I’m coming out ~ アイム・カミング・アウト

1970年代半ばになると、少なくともゲイ男性のセクシャリティについては以前よりも公の場で表現することが可能になってきた。ゲイ・バッシングをテーマとしたロッド・スチュワートの「The Killing Of Georgie」は、1976年に世界的な大ヒットとなった。また同性愛風のファッションをフィーチャーした映画『ロッキー・ホラー・ショー』は、長年にわたってロングランを続けた。そしてディスコ・ミュージックがダンスフロアを席巻するようになった。しかし同性愛のメッセージを前面に打ち出してアーティストを売り出すことは依然として難しかった。

イギリスでは、ピーター・ストレイカーのファースト・アルバムはほぼ同性愛者向けのメディアでしか宣伝されず、ものの見事に不発に終わった。彼のセカンド・アルバムはクイーンのフレディ・マーキュリーも協力して録音されたが、前作と同じ運命をたどっている。アメリカではジョブレイスが世界初のゲイの大スターとして売り出されたが、派手な宣伝活動が先行するばかりで、音楽業界も世間も冷たい反応を返した。その後長年にわたって彼の音楽は評論家のあいだで再評価されてきたが、世間一般での知名度が上がるのはようやく21世紀に入ってからのことだった。

Peter Straker (with Freddie Mercury) – Heart Be Still

 

一方レズビアンのシンガー・ソングライターの中にはある程度の成功を収めた者もいた。その例としては、クリス・ウィリアムソン、ホリー・ニア(後に男性と同居して、レズビアンというレッテルを貼られることを拒否した)、ジョアン・アーマトレーディング、ジャニス・イアンなどが挙げられる。しかしメインストリームの側にしてみれば、そうしたアーティストは傍流に過ぎなかった。もっと好まれたのは、より安全な女性歌手、たとえばダイアナ・ロスだった。ダイアナは1980年に「I’m Coming Out」を発表し、ゲイのファンを支持する姿勢を打ち出していた。

Diana Ross – I'm Coming Out

 

しかしこの時代にジェンダーの境目を揺るがしていたのはディスコであり、そこからはグロリア・ゲイナーやドナ・サマーといった大スターが生まれた。中性的なアーティストの代表格となったシルベスターは、「You Make Me Feel (Mighty Real)」で世界的なヒットを記録している。さらにゲイのスーパーグループ、ヴィレッジ・ピープルは、「YMCA」や「In The Navy」といった曲を1970年代の終わりにヒットさせた。

The Village People – YMCA • TopPop

 

ニューヨークのボビー・オーやサンフランシスコのパトリック・カウリーのプロデュース作品では、アマンダ・リア(ロキシー・ミュージックの『For Your Pleasure』の象徴的なカヴァーを飾った)のようなディスコ・アーティストの洗練されたユーロシンセ・サウンドが借用されていた。スタジオ54などの有名なディスコも人気のピークに達していたこの時代は、こうした絶頂期が永久に続くかもしれないと思われていた。しかし言うまでもなく、そうはならなかった。

エイズの爆発的な流行よりも前に、アメリカではディスコに対する逆風が吹き始めていた。そしてわずか数年のうちに、LGBTQコミュニティの進歩は帳消しになったように思えた。特にゲイ男性の場合、当時は治療不能だったHIVウイルスの壊滅的な影響に対処するため、苦難の道を辿ることになった。アメリカの音楽シーンは保守的な雰囲気に後退し、AORが幅を利かせるようになった。しかしイギリスでは、パンク・ムーブメントがもっとカラフルで思慮深いものへと変貌を遂げつつあった。

 

Keep them guessing… ~ 詮索させておけばいい……

当時ヨーロッパのチャートを席巻したのはニュー・ロマンティックスだった。その代表格であるデュラン・デュラン、ユーリズミックス、ヒューマン・リーグなどは、1980年代前半のサウンドとファッションを形作ることになる。彼らは同性愛者ではなかったかもしれないが、さまざまな方面から影響を受けており、固定観念を打破しようとする実験的精神に溢れていた。

ソフト・セルのマーク・アーモンドやカルチャー・クラブのボーイ・ジョージといったアーティストは、自分が同性愛者であるとは明言しないように注意していたが、世間の人に詮索されることを恐れてはいなかった。特にジョージは世界的な大スターになり、カルチャー・クラブの「Do You Really Want To Hurt Me?」(多くの部分で、ジョージとドラムスのジョン・モスの隠れた恋愛関係がモチーフとなっていた)のような曲はこの時代を代表する曲となった。

Culture Club – Do You Really Want To Hurt Me (Official Video)

 

もちろんアメリカもすぐに追いついた。MTV の放送が始まると、イギリスの新世代アーティストが作り出したプロモ・ビデオによって、第二次ブリティッシュ・インヴェイジョンが始まり、1960年代のビートルズ時代の第一次ブリティッシュ・インヴェイジョンに匹敵する大ブームとなった。

その一方でポップス界のゲイ・ポリティクスの流れも続いていた。たとえばトム・ロビンソンは1970年代にカミングアウトし、「Glad To Be Gay」がイギリスで大ヒット。またブロンスキー・ビートは1984年に「Smalltown Boy」でデビューし、世間の主流とは異なる視点から曲を作り続けた。1985年にジミー・ソヴァヴィルがブロンスキー・ビートから脱退して結成したコミュナーズはさらに大きな成功を収め、「Don’t Leave Me This Way」のカヴァー・シングルは1986年のイギリスで最大のヒット曲となり、コミュナーズは2枚のアルバムをヒットさせるに至った。

The Communards – Don't Leave Me This Way (Official Music Video)

 

1980年代は、クイーンが世界的な大スターとしての地位を確立した時期でもあった。カリスマ性溢れるヴォーカリスト、フレディ・マーキュリーは1973年に初めて成功を収めて以来、このグループのビジュアル的な方向性を決める存在だった。とはいえ、ライヴ・エイドで彼が披露した力強いパフォーマンスは、クイーンを伝説の域にまで押し上げた。1987年にHIVに感染していたといわれており、その後の体調の悪化は耐え難いものとなった。エイズ危機は拡大し続け、音楽業界でも多数の犠牲者が出ることになる。

ディパートメント・Sのヴォーン・トゥルーズ、レヴェル42のアラン・マーフィー、B-52’sのリッキー・ウィルソンはそのごく一部に過ぎない。1992年にフレディがエイズによる免疫低下でかかった肺炎で亡くなると、クイーンの名曲「Bohemian Rhapsody」の再発盤シングルに痛切な「These Are The Days Of Our Lives」がカップリングされた。このシングルがチャートの首位に達したことをきっかけに、ライヴ・エイドに匹敵する大規模なチャリティー・コンサートが開催され、収益はエイズ研究を加速させるための活動に寄付された。またエルトン・ジョンもチャリティー財団を設立し、エイズ研究のために多額の資金提供を行った。

Queen – These Are The Days Of Our Lives (Official Video)

 

The days of our lives ~ 輝ける日々

こうした危機的状況の最中でも、ゲイ・カルチャーは次第にメインストリームに浸透していった。ゲイ・セックスについて歌ったフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドの代表曲「Relax」はBBCレディオ1から放送禁止処分を受けたが、チャートを駆け上り、イギリスの音楽史上に残る大ヒット・シングルのひとつとなった。その結果、このグループは1年半にわたって大スターの座を維持していた。リード・ヴォーカリストのホリー・ジョンソンは、ソロでも「Love Train」などの曲をヒットさせている。

Frankie Goes To Hollywood – Relax

 

ワム!のジョージ・マイケルは長年にわたってカミングアウトしなかったが、彼の若い女性に対する態度には活動初期からどこかしら本気ではない雰囲気が漂っていた。またペット・ショップ・ボーイズやイレイジャーも、自分たちのセクシュアリティをはっきりさせていなかったが、一部の曲のテーマ(たとえば「It’s A Sin」や「A Little Respect」など)を見れば、それは詮索するまでもない事のように思えた。イレイジャーは1992年にEP『ABBA-esque』を発表し、ABBAの人気を再び盛り上げるのに貢献したが、そういうところにも彼らのセクシャリティははっきりと現れている。

ディスコはゲイ・クラブでHi-NRG (ハイエナジー)に発展した。そのポップなシンセ・サウンドは、シニータの「So Macho」やミケール・ブラウンの「So Many Men, So Little Time」といった曲で不朽のものとなった。そうしたサウンドは、ヘイゼル・ディーン、デッド・オア・アライヴ、バナナラマなどが取り入れたことで全国チャートにも進出。その影の立役者となっていたのがプロデューサー・チーム、ストック・エイトキン・ウォーターマンである。彼ら自身も、ゲイ・ダンス・サウンドをメインストリーム向けにパッケージし直していたことを認めている。このチームは、全員ゲイボーイのバンド(当初はカミングアウトしていなかったが)、ビッグ・ファンもデビューさせ、このバンドもいくつかのヒットを出している。

1988年にセカンド・サマー・オブ・ラヴが新たなダンス・カルチャーを生み出した頃、kdラングやSエクスプレスのマーク・ムーアといったさまざまなゲイ・アーティストが成功を収めるようになっていた。このころになると、あらゆる人のために何らかの居場所があるような空気が濃厚になっていた。ことによるとゲイというレッテルはもはや問題にならなくなっていたのかもしれない。モリッシーは風変わりな無性のペルソナを前面に打ち出し、インディーズ・ロックのファンを興奮させた。ザ・スミスでの活躍によって、彼は、「同性愛者でない少年でも夢中になることができる男」という存在になった。彼らの「William, It Was Really Nothing」のようなヒット曲はイギリスならではのノスタルジックな1960年代の雰囲気を漂わせていた。またkdラングはカントリー・スタイルに磨きをかけ、アルバム『Igénue』やシングル「Constant Craving」といった傑作ポップ作品を作り出した。Sエクスプレスは、アシッド・ハウス風の「Theme From S’ Express」で全英チャートの首位に到達している。ジューダス・プリーストのロブ・ハルフォードは、マッチョなロックの世界ではゲイでいることが必ずしも簡単ではないと認めていたが、1998年に自分がカミングアウトした時は素晴らしい瞬間だったと述べている。

The Smiths – William, It Was Really Nothing

 

Let’s go outside ~ アウトサイドへ

1990年代に入ると、自らのセクシャリティについてオープンに語るアーティストは増えるばかりだった。ペット・ショップ・ボーイズのニール・テナントは1994年に雑誌『Attitude』でカミングアウトした。この雑誌は、「ピンク・マネー」(ゲイの購買力増加)という新しい現象に便乗するために生まれたものだ。R.E.M.のマイケル・スタイプも自らのプライベートについて進んで語るようになった。またジョージ・マイケルは公衆便所でセックスの相手を探している時に逮捕されたが、そういった出来事さえ前向きに捉えようとしていた(そうして「Outside」という曲を作り出している)。

こうしたオープンさは社会の一部で許容されるようになっていったが、その一方で同性愛への嫌悪があからさまになることもあり、特にヒップホップやレゲエといったジャンルでそのような傾向が強かった。他の面に目を向けると、スエードのブレット・アンダーソンは20年前のボウイと同じようなバイセクシャル宣言を(おそらく軽率に)行なったが、世間からの反発はずっと少なかった。またエイズ危機は依然として進行しており、それがようやく沈静化し始めるのは21世紀に入ってからだ。政治的な保守主義に対抗する社会運動も活発化し、マドンナのような非同性愛者も積極的にそれを支持した。マドンナは「ポップの女王」という自らの地位を利用して、セックスに関する現状を打破しようと挑発的な活動を繰り広げていた。彼女の1992年のアルバム『Erotica』と写真集『Sex』は、メインストリームのアーティストとしては最高レベルの大胆な挑戦だった。

Madonna – Erotica (Official Music Video)

 

Born This Way ~ これが本来の自分

LGBTQがようやく市民権を得始めたのは、21世紀に入ってからだった。こうして(少なくとも西側の民主主義国家では)同性愛者であるということがさほど特筆すべき話題でもないという状況が広まっていった。ゴシップのベス・ディットー、サム・スミス、シーアはみな、自らのセクシャリティを明らかにしながら大スターになった。2014年にユーロヴィジョン・ソング・コンテストで「Rise Like A Phoenix」を歌い優勝したコンチータ・ワーストはセンセーショナルな話題となったが、それはセクシャリティよりも髭を生やしているという点に注目が集まったからだった(ちなみに1999年のユーロヴィジョン・ソング・コンテストでは、イスラエル代表のトランスジェンダー歌手、ダナ・インターナショナルが優勝している)。

Conchita Wurst – Rise Like A Phoenix (Austria) 2014 Eurovision Song Contest

 

ゲイのハウス・バンド、シザー・シスターズは(少なくともヨーロッパでは)大人気のグループとなった。一方ほとんどのボーイ・バンドでは、ゲイのメンバーを少なくともひとり入れることが基本となった。その例としては、ウエストライフのマーカス・フィーリー、ボーイゾーンのスティーヴン・ゲイトリー、イン・シンクのランス・バスが挙げられる。この三人は皆、人気絶頂期にカミングアウトをしている。しかしもっと若い世代の場合、カミングアウトはより早い時点で行われるようになった(クリーン・バンディットのニール・ミラン、イヤーズ&イヤーズのオリー・アレクサンダーなど)。

イギリスのウィル・ヤングは2002年に『Pop Idol』の初代優勝者となり、デビュー・シングル「Evergreen」を発表。その直後にカミングアウトをした。アメリカでは、アダム・ランバートが同じような道筋を歩んでいる。ルーファス・ウェインライトも決して口をつぐんではいなかった。さらに十年ほど経つと、トロイ・シヴァンは自らの性的アイデンティティをはっきり公言しつつ素晴らしい曲でキャリアを築き上げている。

Troye Sivan – YOUTH (Official Video)

 

同性愛者であることは、かつては芸能活動する上で自殺行為だったかもしれない。しかし今は違う。ラテンのスーパースター、リッキー・マーティンは「もう一度カミングアウトできたらいいのに」と最近語っている。「あれは素晴らしいことだった」。彼はメヌード在籍時代はもとより、ソロ歌手として大成功を収めたあとも、2000年代前半まで自らの性的アイデンティティを隠し続けていた。しかし時代は変わった。トム・ロビンソンはダリル・W・ブロック(『David Bowie Made Me Gay』の著者)に「レッテルのない世界で生きていきたい」と語っている。「今の人はただ単に音楽を作って、自分のセクシャリティうんぬんは二の次という活動ができている。それは素晴らしいことです」。今では、ほぼありとあらゆる音楽ジャンルでゲイのアーティストが活躍している。

ジュディ・ガーランド(ルーファス・ウェインライトは2007年に彼女の『Live At Carnegie Hall』を完全再現するカヴァー・アルバムを製作した)、レディ・ガガ、カイリー・ミノーグ、シェールといったゲイに人気のあるアーティストたちは、自らの作品を活用して、LGBTQコミュニティをサポートし、楽しませてきた。こうしたポップス界の流れは今も力を失っていないが、本当の大きな変化は社会そのものから生まれてきた。世間の反応が和らいだということは、ゲイのアーティストがかつてないほど自信を持って活動できるということを意味していた。もはや誰も性的アイデンティティのことを大して気にしていない ―― そう考えることが、彼らにとってはなにより心強いことになる。もしかすると、それが一番の進歩なのかもしれない。

Lady Gaga – Born This Way

 

Written By Mark Elliott


映画『ジュディ 虹の彼方に』 2020年3月6日(金) 公開!
https://gaga.ne.jp/judy/

ジュディ・ガーランド関連作3作同時発売!


『ジュディ~虹の彼方に (オリジナル・サウンドトラック)』
『ベスト・オブ・ジュディ・ガーランド』
『ジュディ・アット・カーネギー・ホール』



 

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