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クラシック・ロックの興隆と繁栄:関係者やミュージシャンが振り返るサンフランシスコとLAシーン

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60年代後半のクラシック・ロックの興隆と繁栄は、アメリカと英国の両方で起きた。バンドは精力的に大西洋を往復し、音楽を“ポップ”以上の何かだと考え始めた鑑賞眼のあるオーディエンスを前にプレイし始めたのだ。

アメリカの西海岸、サンフランシスコとLAは、クラシック・ロックの代名詞となったバンド達のホームとなり、彼らの多くが、この2つの街のクラブやボールルーム、コンサート会場でプレイしてバンド同様、それらの会場も伝説となった。これらの会場は、アメリカでの成功を熱望する英国のバンドにとって聖地だったのだ。

当時の音楽の歴史上最もエキサイティングな時代であり、何が起きてもおかしくないときだった…実際、いろんなことが起きた。そんな当時のことを語る関係者やミュージシャンたちの発言を紹介しよう。

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サンフランシスコのシーンを始めた男

マーティ・バリンは1965年8月13日、サンフランシスコにクラブ”マトリックス”を開き、彼のバンド、ジェファーソン・エアプレインが出演した。それから2年、ここではビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー、ウォーロックス(未来のグレイトフル・デッド)、ドアーズら、たくさんのバンドがプレイした。

1942年、オハイオ州シンシナティにマーティン・ジェレル・バックワルドとして誕生したバリンは、4歳のときベイ・エリアに引っ越した。彼の父ジョー・バックワルドはリトグラファーで、マトリックスやフィルモア、アヴァロンのために200以上のポスターを制作した。

1962年、マーティンはマーティ・バリンと改名し、このエリアの一流のセッション・プレイヤーと共にハリウッドにある伝説のウェスタン・レコーダーズで「Nobody But You」「I Specialize In Love」などを、チャレンジ・レコードのためにレコーディングした。続いて、彼はフォーク・ミュージック・カルテット、タウン・クライアーズのリード・シンガーとなり、1965年の一時期はゲートウェイ・シンガーズとも活動した。当時、自身のクラブを開いたことについて、バリンはこう回想している。

「僕はエレクトリック・ギターとドラムとプレイしたかったんだが、いつもプレイしているクラブにそう言うと、“ここではプレイさせられない。ドラムとエレクトリックはだめだ。ここはフォーク・クラブだ”って言われた。だから、自分のクラブを開くことにしたんだ」

元ジェファーソン・エアプレインとジェファーソン・スターシップのマネージャーで、バリンのルーム・メイトだったビル・トンプソンは、「サンフランシスコのシーンをスタートしたのはマーティだよ」と表している。

バリンは2015年のインタビューで筆者にこう話してくれた。

「サンフランシスコは、才能に溢れた人達でいっぱいだった。彼らは自分を表現するか、権利を主張するか、音楽をプレイしていた。僕は、それはサンフランシスコっていう場所と多いに関係していたように思う。地球と海の地磁気の力なのか、わからないけど、あそこには何かがあった。世界中のどの場所とも全く違っていたんだ」

 

火が付く前のドアーズ

1967年、セルフ・タイトル・デビュー・アルバムを発表した2ヶ月後の3月7日から10日、ドアーズがマトリックスでプレイした。デビュー・シングルの「Break On Through」はチャートで50位にも入らなかった頃だ。ジャーナリストで現MG Magazineの編集者ロブ・ヒルは当時のドアーズについてこう話している。

「最初の2枚のLPに収録されることになるあの曲は、まだライヴに焦点が合っていなかった。しわくちゃの茶色いVネックのセーターと使い古しの茶色いコーデュロイのパンツを履いたモリソンは、まだステージ・ボイスもペルソナも見出していなかった。あれが変わったのは、それから5ヶ月後だ」

ドアーズのドラマー、ジョン・デンズモアはこう付け加えている。

「サンフランシスコでは、最初はアヴァロン、次にフィルモアだった。僕らはみんなを怖がらせたと思うけど、僕らのことを気に入ってくれたと確信した。僕らはダークだった。みんな、‘サマー・オブ・ラヴ”(*訳注:1960年代後半にアメリカを中心に起こった文化的、政治的主張を含む現象)に逃避し、頭の中はベトナム戦争でいっぱいだった頃だ。サンフランシスコは静かだったよ。彼らは、僕らのことを火星から来た連中かなんかのように見てたね。インパクトを与えたってわかった」

現代では、1966年から1970年に作られたフィルモアやアヴァロンのポスターの複製を見たり、CDのリイシューやデジタル、ストリーミングで、フィルモアとアヴァロンでビル・グレアムとチェット・ヘルムズにより開催された1967年の刺激的なライヴ・サウンドを聴くことができるが、この時代のカリフォルニアには、ほかにもあなたが大好きで称賛するバンドを支えていたクラブやコンサート・ホールがあったことを知って欲しい。

Light My Fire (Live at the Matrix, 3/7/1967)

 

興行主のビル・グレアムやドノヴァンの証言

1976年、筆者はMelody Maker誌用に、興行主のビル・グレアムを彼のカリフォルニア、ミル・ヴァレーの自宅でインタビューした(カルロス・サンタナとグレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアも同席していた)。グレアムはこう振り返ってくれた。

「サンフランシスコ・サウンドというものは決してなかった。ボストン・サウンドもね。しかし、この2つはオーディエンスに同じことをしていた。彼らを喜ばすってことだ」

「グレイトフル・デッドには最初から共通点があった。今さら、メディアではほとんど取り上げられないけどね。デッドをはじめ、サンフランシスコのバンドは、いつだって全力を出し切ろうとしていた。まだプロの意識がなかったからこそ、できたことだ。45分のライブ出演契約を結んで、“僕らがプレイする時間は何時何分までだ”なんてことはなかった。もっと長くプレイしたいって言ったのは、彼らが最初だったね。彼らは、バンドとオーディエンスとの関係を深めたかったんだ」

ドノヴァンは2003年に出版された本『Got A Revolution! The Turbulent Flight Of Jefferson Airplane』の中で、「ヨーロッパのシーンにいた僕らは、サンフランシスコのこと全てを知っていた」と、この本の著者のジェフ・タマーキンに話している。

「1965年初めてカリフォルニアへ行ったとき、エアプレインについて聞いた。1966年までサンフランシスコへは行かなかったけど、僕にしてみれば、彼らはあの時代、あの場所を象徴するバンドで、僕は彼らをスタートのときから見てきたんだ。僕は彼らに会う前に“Fat Angel”を書いたんだ。あのシーンにいたアーティストは、ヴァイブを通じコミュニケーションできた」

The Fat Angel

 

ジェファーソン・エアプレインのポール・カントナー

長年に渡り、筆者はジェファーソン・エアプレインのポール・カントナーを何度もインタビューし、彼はビル・グレアムやフィルモア、ジェファーソン・エアプレインとの旅について話してきた。

「サンフランシスコがLAやハリウッドの人たちから疑わしい目で見られている限り、僕らはそれ以上のことをやってやろうっていうのが原則だった。サンフランシスコのみんなはドアーズが好きではなかった。っていうのも彼らはLA出身だからね(笑)。でも僕は、LAを毛嫌いするのはやめていた。LAもNYも好きだったからね。どちらの街にいても快適に過ごせた。LA対サンフランシスコっていう図式は長年あったけど、僕は注意を払わなかった。僕は両方の街出身のバンドも楽しんでいたよ」

「大事なのは、楽しいと思うことを見つけたとき、それに着目することだ。それを増幅し、人々に広める。サンフランシスコはそういうところだ。音楽的にも、理想的にも、メタファー的にも、全ての面でだ。僕らはそうしてきた。こういう考えを推進し、育てる場所にいたんだ。いまだって同じだ。そして、僕らはその恩恵を受けてきた。バークレーの人たちのように自説を主張して、文句を言ってたわけじゃない。まあ、そういう人たちも必要だ。すごく大切だが、僕らはそんなことはしていなかった」

「僕らのサウンドについて言えば、フォーク・ミュージックではない。何なのかはわからない。僕らはフォーク・ミュージックを吸収し、そこからスタートして、様々な方向に手を広げた。ジェファーソン・エアプレインはカレッジにいるとき、幸運なのか不幸なのか、フェンダー・ツイン・リヴァーブのアンプとLSDを同時に発見した。素晴らしい一歩だったよ」

「そして、サンフランシスコはすごく良かった。特にミュージシャンにとってね。その日の悪いことについて文句を言うんじゃなく、いいことが伝染する場所だったんだ。フィルモアにアヴァロン、僕はヒューマン・ビー・インにも行ってた。いつも言うことだけど、“サマー・オブ・ラヴ”の前の夏は何だって可能だった。説得力があった。僕らは何でもできた。大体、ほとんどをね。公園やフィルモア、モントレーへ行き、そこで起きていること全てを吸収したんだ」

「1966年や67年はあらゆるタイプの音楽があった。そうなったのは、僕らがサンフランシスコでやっていたこと、それにビル・グレアムをけしかけたからだ。彼は、本当に変わった組み合わせのラインナップを思いついていた。僕らは、他のバンドたちをオープニング・アクトだとは考えていなかった。僕らは、すごくいいアクトだって思ってた。だからそういったバンドを出すようビルにけしかけたんだ」

1967年2月のラインナップは、オーティス・ラッシュ&ヒズ・シカゴ・ブルース・バンド、グレイトフル・デッド、キャンド・ヒート・ブルース・バンド。同じ年の4月は、チェンバーズ・ブラザーズ、クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、それにサンディ・ブル。そして8月はマディ・ウォーターズにバッファロー・スプリングフィールド、リッチー・ヘヴンスだった。

ほかの夜には、ハウリン・ウルフ、 ザ・フー、ブルー・チアー、 カウント・ベイシー&ヒズ・オーケストラなんてラインナップもあった。ポピュラー・ミュージックの真の実力者ばかりだ。ジェファーソン・エアプレインのポール・カントナーはこう語る。

「人々がフィルモアに来る理由はバンドじゃなかった。収穫祭に来るようなものだった。それと同じ理由で、人々はヒューマン・ビー・インへ行った。そこにいるのが重要なんだ。もしいいバンドがプレイしていたら、儲けものっていう感じだよ。バンドのファンとして訪れていた人たちは多くなかった。フィルモアとアヴァロンの魅力はそこではなかったんだ」

Jefferson Airplane(Live at The Fillmore West November 5 1968)

 

ステージと客席が一体だった

2001年にシンガーソングライター、グレイス・スリックにインタビューしたとき、彼女はフィルモアについてこう話した。

「オーディエンスとバンドが分かれていなかった。別の言葉にすると、オーディエンスの大半は他のバンドのメンバーだった。だから、フィルモアはいつてもカジュアルで、分断していなかった。ロックン・ロール・フォースとして、私はビルのエネルギーが大好きだった。精神的にも体力的にも。彼は多くのことを一度に平行して行うことができたね」

ボブ・マーリーとレゲエの権威、詩人・俳優のロジャー・シュテフェンスは研究者になるずっと前、サンフランシスコに住み、60年代のカウンターカルチャーによって育まれていた。

「1967年11月2日、ベトナムへ行く前夜、3人の友人兵と僕はオークランド陸軍ターミナルを出発し、橋を渡り、サンフランシスコのウィンターランドへ車で向かった。英国の新しいバンドのデビューだったんだけど、僕らが観たかったのはオープニング・アクトだった。ジャニス・ジョプリンとビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーだ。僕は50年代、NYで育ち、アラン・フリードのビッグ・ステージであの時代のメジャー・アクトをほとんど観てきた。でも、ジャッキー・ウィルソン以降、あの夜のジャニスほど情熱的なソウルのパワーを持つパフォーマーは観たことがなかった。彼女のむき出しのヴォーカルは果てしなく続き、その素晴らしいセットの後、僕は興奮で疲れ切ってしまったよ」

「そして、リッチー・ヘヴンスがダンス・フロアの真ん中に現れた。数千人のキッズに囲まれる中、彼はストゥールに座り、アコースティック・ギターだけで、1時間僕らを魅了した。その後、ビル・グレアムがステージに現れ、すごく申し訳なさそうに“みんなが今夜3ドル払って、3つのアクトを観に来たのはわかってる。でも、ピンク・フロイドは時間通りに税関を通過できなかった。そこで、僕は近くのクラブのハングリーIへ行き、代わりを見つけてきた。レディース&ジェントルメン、歓迎して欲しい、アイク&ティナ・ターナーだ!”って言ったんだ」

「ジャニスはサザンカンフォートの大瓶を持って、楽屋から飛び出してきた。ステージのすぐ横、ティナの真下に来て、ティナの奇抜でドキドキするセットの間ずっと観客席から叫び、歓声を上げていた。ボトルを空にしつつね」

 

“いま起きていることの聖地”だったクラブたち

南では1964年初め、LA、ハリウッドにウィスキー・ア・ゴーゴーが開店したと、ライターのカーク・シルスビーは2015年、筆者にこう話した。

「1965年の初め、色んなヘッドライナーたちがいた。ポール・バターフィールド、ラスカルズ、リーヴス、ラヴ、マザーズ・オブ・インヴェンション、ボー・ブラメルズ、オーティス・レディング、ジェントリーズらだ。その年の終わりには、LAの雑誌はこのクラブを“いま起きていることの聖地”だと宣言していた」

「1966年春、バーズのベーシスト、クリス・ヒルマンから促されてオーナーのエルマー・ヴァレンタインは、バッファロー・スプリングフィールドをウィスキー・ア・ゴーゴーのハウス・バンドにした。すぐに彼らは、バーズ、ラヴ、ドアーズに続くハリウッド・ルネッサンスの重要なアクトになった」

「1966年12月、アメリカのロック・ミュージック誌のKRLA Beatはこう予測した。ハリウッドのサンセット・ストリップではティーンエイジャーが消え、21歳以上のたまり場に戻るだろうってね。バッファロー・スプリングフィールドのスティーヴン・スティルスの曲“For What It’s Worth”にインスピレーションを与えたパンドラズ・ボックスで起きた騒動(*訳注:夜間外出を禁じる法律に反対した若い群衆たちが集まり、警察と騒動が起きた、翌日もその騒ぎが続いたため、他のクラブ等も営業中止に追い込まれることに)により、市はウィスキー・ア・ゴーゴーのライセンスを取り消した。ヴァレンタインはこれに対し、白人だらけのストリップ・クラブで、ザ・ミラクルズ、テンプテーションズ、グラディス・ナイト&ザ・ピップス、マーサ&ヴァンデラス、フォー・トップス、インプレッションズ、ボ・ディドリー、ヒュー・マセケラ、ジャズ・オルガン奏者ジミー・スミス、ジャッキー・ウィルソンなど黒人のヘッドライナーたちを揃えるという反応を示した」

「1967年終わりになると、21歳以上という制限は18歳に緩和された。サンセット・ストリップのスピリットは、ピーナッツバター・コンスピラシー、ジーン・クラーク・グループ、カレイドスコープ、スウィートウォーターといった地元のバンド、そして、ジェファーソン・エアプレイン、グレイトフル・デッド、モビー・グレイプ、ビッグ・ブラザー、カントリー・ジョーを通じたサンフランシスコの動きと一致した」

Buffalo Springfield – For What It's Worth (Official Audio)

 

サマー・オブ・ラヴの到来とモンタレー

1967年9月15日、南カリフォルニアで、商業的かつ文化的に成功したイベント、サマー・オブ・ラヴが開かれた。興行主ビル・グレアムは、1万8,000席のハリウッド・ボウルに、ジェファーソン・エアプレイン、グレイトフル・デッド、ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーを揃え、サンフランシスコ・シーンを代表した。

このグレアムによるステージは、6月の週末におこなわれた二つフェス、マリン・カウンティで開かれたファンタジー・フェア&マジック・マウンテン・ミュージカル・フェスティバル、そしてモンタレー・インターナショナル・ポップ・フェスティヴァルで育まれたハリウッドとヘイト・アシュベリー地区の絆はさらに深めた。

2007年、MOJO誌のモンタレー40周年記念の特集に向け、ピート・タウンゼントはこうメールをくれた。

「あの時は怖かった。僕らはクリームとNYのイベントでプレイしたが、僕らはまるで場違いのように見えた。僕らがユニオン・ジャックを飾り、ギターを壊す一方で、クリームはアフロ・ヘアにフラワー柄の服でポピュラー・ミュージックをプレイしていた。ジミ(・ヘンドリックス)はすでにUKでヒットしていた」

「僕らはこのツアーで、フィルモアでプレイしていて、多分、僕らにとってはそっちのほうが重要だった、あれは素晴らしい機会になったよ。ビル・グレアムから、いつもより長くプレイするよう要請されたんだ。だから、僕らはちゃんとした音楽をプレイし始めなきゃいけなかった。クリームみたいにね。この時期、僕らは“Young Man Blues”とか“Summertime Blues”なんかの曲をプレイし始めたんだ」

筆者の友人、アンドリュー・ルーグ・オールダムは2007年、こう話していた。

「フェスティヴァルは信じられないほど人でいっぱいで、豊かで、人生を変える出来事で、陽気でリラックスしていた。もうあれと同じことはできないと思う。ものすごく焦点が合っていたし、ミッションは天与だった。僕らはこのようなタイプの責任を与えられたことはなかったけど、僕らの側を台無しにするつもりはなかった。モンタレーは素晴らしい体験をくれた。いまでもそうだ。そこにいたこと、少しでもそこに関わったことを誇りに思っている。オーティス、ザ・フー、ジミ・ヘンドリックス…、あの音楽のことを考えるといつも、みんなの顔、リズムで一体になったオーディエンスのことが思い出される。観客には若い学生もいた。僕らはあの3日間、自分たちの相違点を克服していたんだ」

 

“サンフランシスコはLAを愛していない”

1967年9月グレアムがハリウッド・ボウルを借りた時期、多くの人々や歴史家が見落としたことは、なぜベイ・エリアのアーティストが地元でプレイしながら全国に広まったのかということだ。その理由はおよそ60人のマネージャーとアーティストがチェット・ヘルムズと、1966年から1971年、アヴァロン・ボールルームとファミリー・ドッグのタレント・スカウトだったハワード・ウルフに面会を求めていたことにある。ウルフは2015年のインタビューで振り返ってくれた。

「彼らはLAのアーティストがアヴァロンに出演し、サンフランシスコのシーンに入り込むのが本当に不満だったんだ。1966年のグラス・ルーツのときもそうだった。そして、ドアーズがアヴァロンに出演した。LAとハリウッドはサンフランシスコを愛していた。しかし、サンフランシスコはLAを愛していなかった。この問題は一方通行だったんだ」

「何人かのアーティストにどこで生まれて、どれくらいサンフランシスコに住んでいるかって訊くと、誰もサンフランシスコ生まれや育ちじゃなかった。サンディエゴやシカゴ、デトロイトといった他の街からの移住者だ。彼らは、自分たちはサンフランシスコでパフォーマンスできるが、LA出身はダメだと言っていた」

「彼らに、他の街でプレイしたいかって訊くと、イエスと答える。僕は“どうやったらできると思う?”と訊いた。僕はそれが可能な理由を1つ挙げた。彼らをサンフランシスコのアーティストたちと並べて、ポスターに載せるんだ。そのポスターを彼らの街に持って帰れば、注目される。デトロイトのDJ、ラス・ギブはサンフランシスコ、アヴァロンやフィルモアで何が起きているか見て、デトロイトのグランデ・ボールルームで同じことをやりたがっていた」

「1年後、ドアーズの“Light My Fire”が夏から秋にかけてずっと1位に輝いていた。彼らがヒットする前、僕はドアーズがアヴァロンで週末プレイするよう手配した。LAの音楽をサンフランシスコに持ってくる過程での大きな一歩だった。1966年、僕はLAからラヴ、サンズ・オブ・アダム、リーヴス、グラス・ルーツ、キャプテン・ビーフハート、バッファロー・スプリングフィールドらを連れてきた。それに、リー・マイケルズ、スパロー、アザー・ハーフ、ドアーズ、チェンバーズ・ブラザーズ、タジ・マハール、キャンド・ヒートもね」

 

新たにできたクラブ、カレイドスコープ

ウルフはまた、1967年春にハリウッドのサンセット・ストリップに新しくオープンしたカレイドスコープというクラブにタレントを送り込むことにも貢献した。カレイドスコープはもともと、ジョン・ハートマン(後にクロスビー、スティルス&ナッシュをマネージメント)とスキップ・テイラー(キャンド・ヒートのマネージャー/レコード・プロデューサー)、ゲイリー・エサート(後にフィルメックス・フェスティヴァルを創立)によって営業されていた、サイケデリック・ダンス・クラブだ。

この3人はジェファーソン・エアプレイン、グレイトフル・デッド、ピーナッツバター・コンピラシー、ドアーズ、キャンド・ヒート、ウェスト・コースト・ポップ・アート・エクスペリメンタル・バンドらを出演させていた。ムーラン・ルージュだった場所を使い、後にサンセット・ブルバードのフラバルーへ移動した。そしてハリウッド・パラディアムの向かいのビルに落ち着き、ライティングや新しいサウンド・システムを設置したのだ。ジョン・ハートマンはこう話す。

「スキップ・テイラーと僕は、エージェント会社のウィリアム・モリスを辞めた。1966年、僕らはサンフランシスコで何が起きているか目にしたが、彼らはサンフランシスコ・オフィスを開かせてくれなかったんだ。僕らは“場所を借りて、これらのアーティストと契約しよう、彼らはビッグになる”って思った。そのとき、カレイドスコープ・クラブを始めたんだ。1967年4月、僕らはジェファーソン・エアプレイン、グレイトフル・デッド、キャンド・ヒートを一緒にプレイさせてたよ」

その後、カレイドスコープでは、キャンド・ヒート、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー、スピリット、ラヴ、バーズ、タジ・マハール、エリック・バードン&ニュー・アニマルズ、トラフィック、ドアーズ、ジェイムス・コットン・ブルース・バンド、サンズ・オブ・チャンプリン、フィーヴァー・トゥリー、パシフィック・ガス&エレクトリック、ボ・ディドリー、クリア・ライト、ステッペンウルフ、クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスの公演を開いた。筆者は、カナダのマンダラの素晴らしいライヴを観たことがある。

 

ヴェニス・ビーチのチーターとウィンターランド

ヴェニス・ビーチとサンタモニカ・ビーチの境目にあるアラゴン・ボールルームは、第二次世界大戦中、ビッグ・バンドの前哨地だった。50年代にはローレンス・ウェルクのホームベースとなり、60年代初めには、短期間ではあったがディック・デイルのサーフ・ギターのホームにもなった。1967年2月、ニューヨークで人気だったクラブ、チーターのオーナーが手を広げ、ここに西海岸の支店をオープンした。ライターのカーク・シルスビーはこう語る。

「チーターは長く続かず、LAのロック史前章だったといえる。広大なダンス・フロア、いくつものカウチ、波型のメタルの羽目版、1.2メートルの高さがある並んだ2つのステージを設置したサイケデリック・ボールルームがあって、ライバルといえば、サンセット・ストリップにあるカレイドスコープだけだった。でも、ハリウッドからかなり遠いのと、観客のケンカが絶えないという問題を頻繁に抱えていた」

「出演者には、ヤング・ラスカルズ、エリック・バードン&アニマルズ、ハミルトン・ストリートカー、ジェファーソン・エアプレインとドアーズ(同じ夜)、バーズ、ラヴ、チェンバーズ・ブラザーズ、アイアン・バタフライ、グレイトフル・デッド、カレイドスコープ、クリア・ライト、ボ・ディドリー、スモークスタック・ライトニング、シーズ、ジェームス・ブラウンのレヴュー、タートルズ、キャプテン・ビーフハート、ラリー・ウィリアムス&ジョニー“ギター”ワトソン、ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー、アイク&ティナ・ターナー、メリー・ゴー・ラウンド、ファッグス、マンダラ、クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィス、レスター・フラット&アール・スクラッグス、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、スティーヴ・ミラー・バンド、ハウリン・ウルフ&H.P.ラヴクラフト、エレクトリック・フラッグ、カントリー・ジョー&フィッシュ、ピンク・フロイド、トラフィック、テン・イヤーズ・アフター、 クリーデンス・クリアウォーターらがいて、彼らにとってチーターにおける南カリフォルニアでの初のパフォーマンスとなった」

「バッファロー・スプリングフィールドとチャールズ・ワッツ・103rd・ストリート・リズム・バンドは、あり得ない共演だった。アリゾナ在住のスパイダーズがハウス・バンドになってたね。彼らは名前をナッズと変え、その後、アリス・クーパーに変更した。チーターは、ピンク・フロイドが計画通り行かなかった初のアメリカ・ツアーで2日目と最後の夜にプレイした場所だった」

チーターについてハワード・ウルフはこう振り返る。

「ヴェニス・ビーチにあるチーターに関与していたボブ・ギブソンが、僕をチーターに連れて来たんだ。ウィスキー・ア・ゴーゴーは1967年のほとんどの間、21歳以上しか入場できなかった。カレイドスコープはビールやワインのライセンスさえなく、食べ物も出していなかったけど、キッズがショウを観に来られた。1967年のロック・ミュージックはなぜレコードが売れるよりライヴで知られることのほうが先だったかというと、アヴァロンやフィルモア、ハリウッドのカレイドスコープ、ヴェニス・ビーチのチーター、LA・シュライン・エクスポジション・ホールに行く98%の人々は、公演の当日、ライブハウスの当日券売り場で売られるチケットを購入していたからだ」

「これは、レコード会社がツアーをサポートしたり、アルバムの3枚契約を検討する前の話だ。ポスターを貼り、チケットを売る1~2軒のレコード・ショップ、サイケデリックのドラッグ・ショップはあったかもしれない。2.50~3.50ドル払い、まだメジャー・レーベルと契約を交わしていないバンドを観よう、発掘しようという熱心な人々がいたんだよ」

1966年初め、ジェファーソン・エアプレインとポール・バターフィールド・ブルース・バンドと共に、ビル・グレアムは、より広いサンフランシスコの会場ウィンターランドを借り始めた。1971年にフィルモア・ウエストを閉鎖すると、彼は週末定期的にウィンターランドでコンサートを開くようになった。ウィンターランドでは、ビッグ・ブラザー、クリーム、ジェファーソン・エアプレイ、ジミ・ヘンドリックスなどによるたくさんのライヴ・アルバムが録音された。

そんな西海岸の音楽ホールやクラブのオーナーたちには共通点が1つあった。ウエスト・ハリウッドにあったアッシュ・グローヴやトルバドールも含まれるのだが、彼らはブルースのツアー・ミュージシャンの出演を歓迎していた。1966年9月から10月、ウィンターランドでは、ジェファーソン・エアプレイン、ポール・バターフィールド・ブルース・バンド、マディ・ウォーターズの公演がずっと開かれていた。

 

マーシャル・チェスが当時を振り返る

チェス・レコードを創設したレナード・チェスの息子マーシャル・チェスは2006年のインタビューで次のように語っている。

「僕は、LSDをやってグレイトフル・デッドを観ていた世代の人間だ。僕もそうだったよ。フィルモア・ウエストの床に座り込んでぶっとんでたよ。ビル・グレアムはあの時代のブルース・アーティストたちにとって最高の存在だったね。B.B.キングやマディ・ウォーターズを出演させていた。FMラジオはブルースにとって天の恵みだったんだ。メジャーなAM局は、ブラック専門局以外、彼らのレコードはかけなかったからね」

「FMラジオ、フリー・スタイルのフォーマット、トム・ドナヒューの視点は、ケーキのスパイスだった。意味わかる? FMラジオがスパイスだ。FMラジオで成功したら、全く別物になるんだ。僕はアメリカ中を車で旅して、オルタナティヴのFMラジオ局を訪ねまわった。直接コントロール・ルームに入り、彼らはその場で持ってきたアルバムをプレイしてくれるんだ。クレイジーな時代だった。僕の中に種がまかれたんだ」

「ステージの上のマディ、スタジオのマディは最高だ。彼について僕は“組織的な人間で、リーダーだった”っていつも言ってる。“それってどういう意味?”って訊かれるけど、彼は本当にリーダーだったんだよ。マディは部族の首長や、大統領や、王様の生まれ変わりだ。すごくパワフルな存在だった。僕は彼を愛していたよ。そして、彼は僕に良くしてくれた。彼は、僕を彼の白人の孫って呼んでくれてた。彼の奥さんジニーヴァは、僕にホイルに包んだフライド・チキンをよくくれた。マディは一度、僕のために女の子へ向けた詩を書いてくれた。それは高校のとき、彼女へ贈ったよ。マディ・ウォーターズとB.B.キングは、白人が彼らの曲をプレイすることに理解を示していた。サニー・ボーイ・ウィリアムソンは、白人が彼の曲をプレイすることに興味を持っていた」

 

「マディの『Electric Mud』がリリースされたとき、僕はラジオの人々といい関係を築いていて、彼らに送ったんだ。彼らは曲をヘヴィ・ローティションで流した。それで、アルバムに火がつき、爆発的な人気が出たんだ。最初の月に10万枚も売り出した。それまでのマディの、それにブルース・アルバムの最大のヒットになった。誰もが大好きだった。マディもね。僕らはレコード業界にいたんだから、売れるのは嬉しいよ」

「ハウリン・ウルフは…、ステージではすごく指揮権を持つが、ステージを降りると、とても優しくソフトな人だった。彼が楽譜の読み方を勉強しているって言ってたのを覚えている。知ってた? 彼は楽譜を読むことを学ぶため、学校へ行ったんだよ。そうしたら、ギターがプレイできるって。彼は音符を習いたかったんだ。一度、父に言われて彼の家へ1,000ドルを持って行ったことがある。彼は道具箱みたいなものを開けた。お金でいっぱいだったよ。“何に使うの?”って訊いたら、“農場で狩りするのに特別な犬を飼うんだ”って言われたよ(笑)。彼は穏やかな人だったけど、どう猛でもあった。ビッグだったよ。それによく飲んでた。パフォーマンスするときはハイになってることが多かったね。エリック・クラプトンが彼に釣り竿を贈ったことも覚えている。ウルフは真のスポーツマンだった」

[I'm Your] Hoochie Coochie Man

 

ジョン・メイオールとブルース

フィルモアとアヴァロンは、ブルースの影響を受けたキャンド・ヒート、ラヴ、スティーヴ・ミラー・ブルース・バンド、ジェイムス・コットン、マジック・サム、チャック・ベリーなどにも活動の場を与え、ウィンターランドではジミ・ヘンドリックス、ソフト・マシーン、アルバート・キング、ジョン・メイオールの公演を開いた。ジョン・メイオールは2015年のメールでこう記している。

「1968年、僕はミック・テイラーをギターに雇い、同時にラインナップにホーンのミュージシャンも加えようと決めた。それによって、僕らがライヴでプレイする曲の範囲が広がり、僕はブルースのカタログにも手を出すことができるようになった。ホーン・プレイヤーは大抵、ジャズのバックグランドを持っていて、カルテット・フォームには有益な要素だったんだ」

「当時の英国の音楽誌は、アメリカの偉大なブルース・マンに十分注意を払っていなかった。僕は、素晴らしいのに無視されがちなアーティストに対する知識を広めるヒントをファンに与えたかった。英国のメディアも彼らのすぐそばで何が起きているか気づかせるためにもね」

「もちろん僕は、アメリカのFMラジオが僕のレコードを流していることに気づいていた。僕がブルースのために何をしているか、世に広める助けになった。1968年1月、初めてアメリカ・ツアーができるまでになったよ」

 

シュライン・エクスポジション・ホール

1967年には、LAのダウンタウンにあったシュライン・オーディトリアムがロックン・ロールのためにその扉を開いた。フィルモアやボールルーム・サーキットにいたバンドにとって重要な場所となった。

隣接するシュライン・エクスポジション・ホールでは“ピナクル”ダンス・コンサート・シリーズと銘打ち、バッファロー・スプリングフィールド、グレイトフル・デッド、1968年にはヘンドリックス、トラフィックらを迎えた。ハリウッド・スターたちも大勢訪れ、この素晴らしいステージに華を添えた。筆者は1968年にピナクル公演をいくつか観たことがある。いまでもヴァニラ・ファッジのパフォーマンスの耳鳴りを覚える。

2014年に筆者が出版した『Turn Up The Radio! Rock, Pop and Roll in Los Angeles 1956-1972』(Santa Monica Press)で、ライターのカーク・シルスビーは、この時期の白熱した動きについて、こんな上手いことを言っている。

「シュライン・エクスポジション・ホールは展示場だった。ダンス・コンサート目的の使用は、1966年7月と9月に開かれたフリーク・アウト・コンサート・シリーズのフランク・ザッパが最初だった。コンサート・プロモーター志願者がうじゃうじゃいたよ。ドアーズは、アイアン・バタフライ、スウィートウォーターとすでに1967年1月にそこでプレイしていた」

「ピナクル・コンサートの第1弾は、1967年11月に開かれた。ジョン・ヴァン・ハマースベルトによるポスターで、バッファロー・スプリングフィールド、グレイトフル・デット、ブルー・チアーとの素晴らしいエレクトリック・ワンダーズと宣言している。ピナクル・コンサートはダンス公演だったことを忘れてはいけない。ウィスキーのようなサンセット・ストリップのクラブではダンスは禁じる慣習があった。でも、ヴェニスのチーターやピナクルでは踊ることができた。これが成功した一因だ。ピナクルはフィルモア・サウスとは違う。ときに数ヶ月、間が空くこともあった。ピナクルは毎週開く必要は感じていなかった。だから、知られていないバンドばかりということはなかった」

「ヘンドリックス、クリーム、ザ・フー、トラフィック、L.A.、これがデビューとなったジェフ・ベック・グループ、チェンバーズ・ブラザーズ、ピンク・フロイド、ピーター・グリーンのフリートウッド・マック、LA最後の公演となったヤードバーズが出演した。バターフィールド・ブルース・バンド、 ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、スライ&ザ・ファミリー・ストーンもプレイした。あの公演は様々なスタイルを網羅していた。クラブには大きすぎる音楽だった。でもアリーナやスタジアム・ロック前の時代のことだ」

「2回目のショウは、モビー・グレイプ、カントリー・ジョー&ザ・フィッシュ、ブルー・チアー、ユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカで上手く行き、ヒュー・ロムニー、ホッグ・ファーム・ファミリーがサイケデリックなライト・ショウを開いた。僕らは、トーマス・エジソン・ライツや、キャレブ・デシャネル、テイラー・ハックフォード、ジョージ・ルーカスといった南カリフォルニア大学フィルム・スクールの学生、UCLAフィルム・スクールのパット・オニールとバート・ガーシュフィールドらを雇った。1967年に作られた音楽とイベントのポスターは、メディア、服、レコード・ストア、FMラジオ局などいたるところで見られたよ」

 

エンジニアのビル・ハルヴァーソン

人生を変えたウエスト・コースト・アルバムを振り返り再考するとき、忘れてはならないのが、これらを録音していたエンジニアのビル・ハルヴァーソンだ。彼の名は、1966年から1969年、ビーチ・ボーイズの「Wild Honey」、スティーヴ・ミラー・バンドがバックを務めたチャック・ベリーの『Live At The Fillmore』にクレジットされている。彼はまた、スタジオ・オーナーのウォリー・ハイダーとプロデューサーのボーンズ・ハウを手伝い、モンタレー・インターナショナル・ポップ・フェスティヴァルでも仕事をしており、個人的にラヴィ・シャンカールのコズミック・セットも録音していた。

1968年、彼はジョニー・キャッシュの『Live At Folsom Prison』のアシスタント、クリームの『Badge』のベーシック・トラックのエンジニアを務め、クラプトンとジョージ・ハリスンのギター・デュエットを捉えている。1969年には、ハリウッドにあるハイダーの施設でクロスビー、スティルス&ナッシュの最初のLPのエンジニアを務めた。

そんなエンジニアのビル・ハルヴァーソンの発言でこの特集を締めくくろう。

「モンタレー・インターナショナル・ポップの観客は、モンタレー・ジャズ・フェスティヴァルとは完全に違った。それまで、ヘイト・アシュベリーの仕事やライト・ショウはやったことがなかった。それに、当時、僕はまだそれほど音楽にはまっていなかった。そんな僕を変えたのは、クリームと仕事をしたときだった。なぜなら、彼らはジャズ・バンドだったから。実際のところは、クリームはロックン・ロール・バンドだけど、僕にとってはあのフリー・フォームのせいでジャズ・バンドのように聞こえたんだ。仕事場にトム・ダウドが来たから、彼がエンジニアリングするんだと思った。それで僕はサウンド・チェックの用意をし始めたんだ。彼らはその前、英国とNYでレコーディングしようとしていたんだけど、全てが歪みんで、苦労していた」

「僕が最初にアンプの上にマイクを広げたとき、やはり歪んだ。最終的に、マーシャルの4つのスピーカーの間に最適な置き場所を見つけたのは偶然だった。グリルクロスに立てかけたんだ。きれいな音だった。おまけに、プレイバックしてみると、エリックのギターは別の部屋にあるように聴こえた。4つのスピーカーが隔壁の役目を果たしたんだ」

「ジンジャー・ベイカーは、本当に素晴らしいジャズ・ドラマーを彷彿させたね。彼は2つのキック・ドラムにシンバルとタムスを使っていた。ハイダーは頭上にソニー C-31を取り付け、スネアとハイハット、キックにいくつかマイクを設置した。それに彼はノイマン67チューブ・マイクを持っていて、オーディエンス・マイクとしてそれを設置した。彼らをPAに近づけないようにしてね。僕は同じ67をフィルモアやどこででも、オーディエンス・マイクとして使った」

皮肉なことに、クリームの『Wheels Of Fire』の折り込みページには、「Crossroads」を間違って“フィルモアでのライヴ”と印刷している。実際は、ウィンターランドで録音されたものだった。

Crossroads (Live)

Written By  Harvey Kubernik



 

 

 

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