(function(h,o,t,j,a,r){ h.hj=h.hj||function(){(h.hj.q=h.hj.q||[]).push(arguments)}; h._hjSettings={hjid:104204,hjsv:5}; a=o.getElementsByTagName('head')[0]; r=o.createElement('script');r.async=1; r.src=t+h._hjSettings.hjid+j+h._hjSettings.hjsv; a.appendChild(r); })(window,document,'//static.hotjar.com/c/hotjar-','.js?sv=');
Join us

Stories

ユーロビジョンの歴史:1956年から2021年までの各大会の優勝曲とその概要

Published on

Crowd at Eurovision - Photo: Nigel Treblin/WireImage

ユーロビジョン・ソング・コンテストの歴史をまとめるのは簡単なことではない。1956年から開催されてきたヨーロッパの国による歌合戦は当初は地味な催しだったものの、やがてさまざまな紆余曲折を経ることになった。

しかし言うまでもなく、これはそれに留まらない催しとなっている。あるときはソフト外交が展開される場となり、またある時は未来のスーパースターの国際的なお披露目にもなった。その例としては、ABBAやリヴァーダンスなど多くのアーティストが思い浮かぶだろう。

そしてまたある時は、極めて混乱に満ちたこともあった。とはいえ、ユーロビジョンは必ずと言っていいほど非常に楽しいイベントとなる。毎年、かつて見たことのないものを見ることができると言っても過言ではない。

今回は、世界最大のエンターテインメント・イベントのひとつであるユーロビジョン・ソング・コンテストの歴史を手短にご紹介しよう。これを読めば、ユーロビジョンについて知ったかぶりできること間違いなし。

<関連記事>
ABBA、40年ぶりの完全新作アルバム『Voyage』を発売
ユーロビジョン・ソング・コンテストとは?大会の経緯と注目参加者


1956

世界で最も有名な歌の祭典は、第二次世界対戦で荒廃したヨーロッパをひとつにまとめようという高い志と共に誕生した。フランスの実業家マルセル・ベゾンがイタリアのサンレモ歌謡祭のコンセプトを借り受け、新たに結成された欧州放送連合 (EBU) に話を持ちかけたのである。

第1回ユーロビジョン・ソング・コンテストは1956年5月24日にスイスのルガーノで開催。参加したのはわずか7ヶ国で、各国の代表が2曲ずつ演奏した。リス・アシアは開催国スイスの代表としてフランス語の「Refrain」を歌って優勝した。当時UKは国内で「Festival Of British Popular Songs」を開催していることもあって、ユーロビジョン・ソング・コンテストには翌年まで参加しなかった。

Eurovision 1956 Switzerland / Lys Assia – Refrain

 

1957

ユーロビジョン・コンテストの初期には、アメリカ発のレコードとバランスをとるためにヨーロッパ風のポップスを推進しようという戦略があった (当時既に、アメリカの音楽はヨーロッパの国のレコード市場で優位に立っていたのだ) 。

コンテストへのエントリー曲は、言うなれば国歌に等しいものだった。そのため、1957年にエントリーした10曲は、すべて母国語で歌われた。この年、UKはオーストリア、デンマークと共にコンテストに参加した。UK代表の女性歌手パトリシア・ブレディンは、自分の曲「All」がタイトル通り満場の投票をかっさらうことを期待していた。しかし優勝を勝ち取ったのはオランダ代表のコリー・ブロッケンの「Net Als Toen」だった。ただし、規則で定められた3分30秒という演奏時間を1分オーバーし、規則違反ではあったけれど。

Corry Brokken sings "Net Als Toen"

 

1958

ユーロビジョンの歴史で妙なことが始まったのはこの年からだった。1958年の最も有名な曲は、優勝さえしていないのである。イタリアのドメニコ・モドゥーニョの「Nel Blu Dipinto Di Blu」は3位だったが、「Volare」や「To Fly」といった別タイトルでリリースされると何百万枚も売れ、第1回グラミー賞では最優秀男性ヴォーカル・パフォーマンス賞、ソング・オブ・ザ・イヤー、レコード・オブ・ザ・イヤーまで獲得した。

この曲にコンテストで勝って1位となったのは、フランス代表のアンドレ・クラヴォーの「Dors, Mon Amour」だった。一方UKはこの年のコンテストを欠場した。前年の7位という成績に感情を害していたのは間違いない。1958年のコンテストは、オランダのヒルベルスムで開催された (優勝国が翌年の開催国となる伝統はここから始まった) 。

Eurovision Song Contest 1958 – André Claveau – Dors, Mon Amour (WINNER)

 

1959

1959年はUKが復帰し、モナコが初めて登場した (これもユーロビジョンの楽しみである。このイベントを通じて、ヨーロッパには聞いたこともないような小さな国があることを知ったという人もいるだろう) 。

UKはパール・カー&テディ・ジョンソンの「Sing Little Birdie」で2位となり、全英チャートにもユーロビジョンのエントリー曲の国内盤シングルが初めてランクインすることになった。この現象は後に1960年代と1970年代により興味深いものとなる。

ドイツは当時流行していたロックンロールを初めて取り入れたが、審査員の評価は低く、11ヶ国中8位という結果に終わった。一方オランダはテディ・ショルテンの魅力的な「Een Beetje」で再び優勝した。

1959 Eurovision The Netherlands – Teddy Scholten – Een beetje HQ

 

1960年

小粋な1960年代のユーロビジョンが幕を開けたが、ロックンロールはまだまだ行方不明のような状態で、エントリー曲はそれ以外のジャンルの曲で占められていた。エントリーした12曲 (この年からノルウェーも参加) は、ソフト・ジャズ、甲高い声のMOR、そしてどこの国にもあふれていたバラードという具合。さらにはオペレッタも少々聞くことができた。

フランス代表のジャクリーヌ・ボワイエの「Tom Pillibi」はこの年のコンテストの最後を締めくくる曲だったが、土壇場で評価をかっさらった。ユーロビジョンの魔法の歴史はここから始まったもいえる。コンテスト最後の投票結果は、まるで予測不可能になったのである。イベントの規模が大きくなるにつれ、その傾向はさらに激しくなった。

Jacqueline Boyer " Tom Pillibi" Eurovision 1960 | Archive INA

 

1961年

1961年には、フィンランド、スペイン、ユーゴスラビアの3ヶ国が新たにユーロビジョンに参加し、エントリー数は16ヶ国となった。この年のコンテストから生まれた大ヒット曲のいくつかは、やはり優勝を逃している。

たとえばUK代表のアリソンズは「Are You Sure?」で世界的に大ヒットしたが2位に、イタリア代表のベティ・カティスの「Al Di La」はエミリオ・ペリコリのカヴァーがアメリカでトップ10ヒットとなり、後に映画『恋愛専科(原題:Rome Adventure)』の挿入歌にもなったが、ユーロビジョンでは5位にとどまった。

この年に優勝したのは、ルクセンブルク代表のジャン=クロード・パスカルの「Nous Les Amoureux」だった。しかし妙なことに、この曲はその後どこの国でも大したヒットにならなかった。

Jean-Claude Pascal – Nous les amoureux – Eurovision 1961 – Luxembourg – Winner

 

1962年

ユーロビジョンで味わう究極の屈辱は、あの恐怖の「ゼロ・ポイント」だろう。これは、プロの審査員や視聴者の投票で1ポイントも獲得できない状態を指す。そういう投票結果が初めて出たのは1962年のことだった。この年、オーストリア、ベルギー、オランダ、スペインの4ヶ国がゼロ・ポイントの憂き目に遭っている。

一方、フランスのイザベル・オーブレは「Un Premier Amour」で26点を獲得して優勝した (次点のモナコは13点にとどまった) 。

1962 Eurovision France – Isabelle Aubret – Un premier amour HQ

 

1963年

当時はザ・ビートルズが世界を征服しようとしており、母国UKでは社会現象化していたが、UK代表のロニー・キャロルと「Say Wonderful Things」はマージービートとはまるで無縁だった。キャロルは5位となり、デンマークがグレーテ&ヨルゲン・イングマンの「Dansevise」で初優勝を飾った。

ちなみにこの年は、技術的なトラブルで不名誉な事態が生じた。ノルウェーからの投票がうまくいかなかったため、この国で投票をやり直すことになったのである。2度目の投票では一部の人が投票先を変えている (たとえば隣国であるデンマークへの投票が増えた) 。そのため、不正が行われたとのクレームが出た。これが、ユーロビジョンの歴史の中で続くもうひとつの伝統、つまり政治的投票への非難の始まりだった。

Grethe & Jørgen Ingmann – Dansevise – Eurovision 1963 – Denmark – Winner

 

1964年

この年はイタリアがジリオラ・チンクエッティの「Non Ho L’Eta」で優勝した。この曲は国際的に大成功を収め、ジリオラは1970年代にもユーロビジョンの舞台に戻ることになる (そして1991年には司会を務めた) 。

オーストリアのウド・ユルゲンスは「Warum Nur Warum」で6位という結果に終わったが、やがてUKのマット・モンローがこの曲の英語カヴァー・ヴァージョン「Walk Away」を吹き込み、そちらは大西洋の両側で成功を収めた。

Gigliola Cinquetti – Non Ho L'Età – Eurovision Song Contest Winner 1964 (original performance)

 

1965年

フランスの伝説的歌手セルジュ・ゲンスブールは、ルクセンブルク代表の17歳の女性歌手フランス・ギャルに「Poupee De Circe, Poupee De Son」を提供し、それがこの年の優勝曲となった。

それからわずか3年後、彼はこの風変わりなポップ曲とはまるで違うエロチックなデュエット曲「Je T’aime… Moi Non Plus」を発表し、スキャンダラスなセンセーションを巻き起こしている。

また、この年はアイルランドが初めて参加したが、後の大活躍 (1990年代にピークを迎える) にはまだ程遠く、初挑戦は6位という比較的控えめな順位に終わった。

France Gall – Poupée de cire, poupée de son – Eurovision 1965 – Luxembourg – Winner

 

1966年

このころからユーロビジョンのもうひとつのトレンドが浮上してくる。ある意味当然のことかもしれないが、前年の優勝曲と似たようなスタイルの曲を各国が選び始めたのである。1966年には、多くの若い女性ヴォーカリストが登場した。その中のひとり、オランダ代表のミリー・スコットはユーロビジョンに出場した初めての黒人歌手だった。

とは言え最終的には、3年連続でオーストリア代表として出場したウド・ユルゲンスがピアノを多用した「Merci Cherie」で優勝を果たしている。

Merci Chérie – Udo Jürgens (Eurovision Song Contest 1966)

 

1967年

1960年代という時代が小粋なスウィングの最高潮に達していた頃、この時代の若者文化の中心地がついにユーロヴィジョンでもトップの座についた。UKのサンディ・ショーがこのコンテストの歴史に残る大勝利を収めたのである。

サンディは後に優勝曲「Puppet On A String」が大嫌いだと公言していた。この曲が有名になりすぎたせいで、彼女の他の活動が霞んでしまったことは否めないだろう。しかしこの曲がその後ユーロビジョンの勝利の方程式に影響を与えたことは疑いようがない。

サンディが国際的なスターになったにもかかわらず、アメリカでヒットしたのはヴィッキー・レアンドロスの「L’Amour Est Bleu」のほうだった。この曲はフランスのイージーリスニングの大家ポール・モーリアがインストゥルメンタル・ヴァージョンを録音し、それが5週間にわたり全米チャートのトップに立っている。

Eurovision Song Contest 1967 – Sandie Shaw – Puppet on a String (WINNER)

 

1968年

この年は、ユーロビジョンの歴史において特に奇妙な年のひとつである。スペインの独裁者フランシスコ・フランコ将軍がユーロビジョンで不正を行ったという話は本当なのだろうか? 戦略的な投票が行われたという噂は当時からあった。

熱烈な人気を誇っていたクリフ・リチャードと彼の永遠のアンセム「Congratulations」が、スペイン代表のマシェルの「La La La」に1ポイント差で敗れたのである。「La La La」を最初に歌っていたのはジョアン・マヌエル・セラトだったが、彼はフランコの意に反してこの曲をカタラン語で歌おうと考えていた。その結果、マシェルがユーロビジョンでこの曲を歌う歌手として抜擢されることになったのだ。

そしてクリフのシングルが既に大陸中で大ヒットしていたにもかかわらず、審査員による奇妙な投票の結果、首位に立ったのは「La La La」だった。その後2008年になって、ドキュメンタリー映画の制作者が不正の証拠を突き止めた。フランコはエージェントを雇って審査員を買収していたのである。彼の狙いは、翌年のコンテストの開催国となり、ヨーロッパ大陸で最も人気のある観光地としてスペインの国際的イメージを若返らせることにあった。

Massiel " La, la, la" ( 1968 )

 

1969年

この年は、ユーロビジョンの歴史の中でも実に珍しい結果となった。フランス (フリーダ・ボッカラの「Un Jour, Un Enfant」) 、オランダ (レニー・クーアの「De Troubadour」) 、スペイン (サロメの「Vivo Cantando」) 、UK (ルルの「Boom Bang-A-Bang」) の4ヶ国が同点優勝となったのである。この中でもUK代表の曲は最大の国際的ヒットとなった。しかしUKがもし別の曲を選んでいれば、コンテストの結果はかなり違うものになっていたかもしれない。この年、UKの国内選考にはエルトン・ジョンとバーニー・トーピンもエントリーしていた。しかし彼らの曲「I’ve Been Loving You Too Long」はUK代表に選ばれなかった。

Lulu – Boom Bang A Bang (Eurovision – 1969)

 

1970年

この後10年も経たないうちに、フリオ・イグレシアスは世界で最も成功したアーティストのひとりとなった。しかし1970年にアムステルダムで開催されたユーロビジョン・コンテストでは、「Gwendolyne」で6位に入賞するのが精一杯だった。

この年は4つの国が辞退したが、これはユーロビジョンの歴史では決して珍しいことではなかった。 (ユーロビジョンでは、何らかの理由で不参加になる国の例が数多くある)。とはいえその結果、この年はエントリー数が若干少なめの全12曲でコンテストを競うことになった。

この年は、アイルランドのダナが初の栄冠を手にしている。優勝作品となった「All Kinds Of Everything」は優しげなバラードだったが、それはまもなくアイルランド全土を揺るがす深刻な政治状況の悪化とはまったく相反するものだった。ダナはその後政治の世界に入り、1999年には欧州議会の議員になった。

Eurovision 1970 Ireland – Dana – All kinds of everything (Winner)

 

1971年

ユーロビジョンを支えるテクノロジーや投票システムの発展については、教科書のように長い文章がいくつも書かれている。とはいえここでは、次のように簡単にまとめておけば十分だろう。

1971年の変更では、国ごとの審査員はたった2人に減り、すべてのエントリー曲に対して最低でも1点を付けなければならなくなった。さらに驚くべきことに、点数はパフォーマンスが1曲終わるごとに付けることになった。

この奇妙なシステムが結果に影響を与えたのは明白だろう。この年に優勝したのはモナコ代表のセヴェリーヌの「Un Banc, Un Arbre, Une Rue」であり、スペインは再び2位。そしてドイツ (またもや優勝に届かなかった) が3位となった。

Séverine – Un Banc, un Arbre, une Rue (Eurovision Song Contest 1971)

 

1972年

出場国が18ヶ国に増えた1972年のコンテストでは、ルクセンブルク代表のギリシャ人ヴォーカリスト、ヴィッキー・レアンドロスが力強いバラード「Apres Toi」を歌って優勝した。

ユーロビジョンには奇妙な特徴がもうひとつある。どういうわけか、各国が一斉に新しいアプローチを始めるのである。この年の流行は男女のデュエットだった (それ自体は悪いアイデアではないだろう。1963年にはデンマークがデュエット作品で優勝している) 。しかし、このスタイルでエントリーした国が6ヶ国もあったにもかかわらず、どの国も優勝には届かなかった。結局、デュエットが再び優勝するのはこの後22年後のことだった。

Apres Toi – Vicky Leandros – Eurovision 1972

 

1973年

ユーロビジョンに再び登場するアーティストは昔から何組もいた (この分野におけるチャンピオン、ジョニー・ローガンについてはまた後ほど) 。とはいえスーパースターのクリフ・リチャードが「Congratulations」で衝撃的な敗北を喫してから5年後に再登場したのは、最も驚くべき展開だったかもしれない。

彼は自らのモチベーションを正直に語っている。本人曰く、このころはキャリアが伸び悩み、大ヒット曲が必要だったのである。しかし彼がUK代表として歌った「Power To All Our Friends」は3位に甘んじた。2位はスペイン、そして1位はこの日の勝者アンヌ=マリー・デヴィッドの「Tu Te Reconnaitras」だった (ルクセンブルク代表) 。この年はイスラエルが初めて参加し、「ヨーロッパ」の伝統的な地理的境界線がさらに曖昧になった。

Anne-Marie David – Tu te reconnaîtras (Eurovision Song Contest 1973)

 

1974年

1974年の優勝者であるスウェーデン代表のABBAは、このコンテストの長い歴史の中でおそらく最も成功したアーティストである。彼らはこれまでに4億枚近くのアルバムを売り上げ、ロックの殿堂入りを果たしている。

この4人組は、前年の国内選考会では「Ring Ring」で予選敗退していた。しかしこの年の「Waterloo」は、国内予選でもUKのブライトンで開催された本選でも優勝した。競争相手は開催国UK代表のオリビア・ニュートン・ジョンの「Long Live Love」など強力な顔ぶれだったが、最終的には逃げ切って優勝を果たした。

また準優勝のイタリアのジリオラ・チンクエッティは、「Si」で大ヒットを収めている。そして3位となったオランダ代表マウス&マクニールの「I See A Star」さえもが世界的なヒットを記録した。こうした結果からもわかる通り、ユーロビジョンはようやくレコード購入層の好みに見合ったイベントに成長を遂げていた。

ABBA Waterloo Eurovision 1974 (High Quality)

 

1975年

この年は、明らかに前年のアバをお手本にしたティーチ・インの「Ding Dinge Dong」が快勝した。一方UK代表はクリフ・リチャードの元バックバンド、シャドウズの「Let Me Be The One」で、こちらは2位となった。ユーロビジョンのステータスと規模はさらに大きくなり、トルコが初めて出場。

トルコは、他の国とはまったく異なる投票をしたことでいきなり注目を集めた。まず16位のポルトガルに最高点を与え、UKには1点も与えず、優勝者にも4点しか与えなかった。国ごとにまったく傾向の違うこのような投票結果が、今日に至るまでさらに多くのドラマを生み出しているのだ。

Ding-a-dong – Teach-In (Eurovision Song Contest 1975)

 

1976年

この年は、ユーロビジョンからまたもや名曲が生まれた。ブラザーフッド・オブ・マンの「Save All Your Kisses For Me」である。この曲は、ユーロビジョンのエントリー曲の中ではUKで最も売れたシングルとなり、間違いなく「Waterloo」と同じくらいこの時代の代表曲となっている (これを歌ったUKの4人組グループは、明らかにABBAをモデルにしていた) 。

この曲はアメリカでも全米チャートで27位を記録。ブラザーフッド・オブ・マンはその後「Angelo」と「Figaro」でも全英チャートの首位を獲得している。とはいえ1970年代後半の人気絶頂期以降、彼らのキャリアを沸き立たせ続けたアンセムはやはり「Save All Your Kisses For Me」だった。

ユーロビジョンも例外ではないが、政治はあらゆる国際コンテストで永遠の底流となっている。この年のギリシャのエントリー曲は、トルコのキプロス侵攻に抗議するプロテスト・ソングだった。さらに言えば、ギリシャが参加を決めたのは、トルコがこの年のユーロビジョンへの不参加を表明したあとのことだった。

Eurovision 1976 – United Kingdom

 

1977年

当時はパンク・ロックの文化的な革命が本格化していたが、ユーロビジョンはほとんど変わらなかった。このコンテストは、よりドラマティックな音楽界の変化の波から遠く離れた、安全で家庭向きの飛び地のような存在のままだった。このころまでのフランスは、勝ち目のない馬のような立場だった (このころから、ユーロビジョンの優勝曲がブックメーカーの賭けの対象になりはじめていた) 。

とはいえ、マリー・ミリアムの「L’Oiseau Et L’Enfant」は、元気のいい競争相手を抑えて優勝を勝ち取った。一方、UK代表のリンゼイ・デ・ポール&マイク・モランの「Rock Bottom」は2位に留まっている (この時もまた、男女デュエットに魔法のような効果がないことが改めて証明された) 。

Eurovision 1977 – France – Marie Myriam – L'oiseau et l'enfant legendado.avi

 

1978年

ユーロビジョンの栄冠はついに伝統的な「ヨーロッパ」の境界線を越え、イズハール・コーヘン&ジ・アルファベータの「A-Ba-Ni-Bi」がイスラエルに初めての優勝をもたらした。

このころはクリフ・リチャードの挑戦により、国内で知名度の高いスターが出場することが普通になっており、イザールのような母国で有名なアーティストたちが競って出場するようになっていた。

またスペインのディスコ・デュオ、バカラは「Yes, Sir, I Can Boogie」で当時既に国際的な成功を収めており、この年のコンテストでは似たようなサウンドの「Parlez Vous Francais?」でルクセンブルク代表としてエントリーした。しかし結局これは7位に留まった。

Abanibi – א-ב-ני-בי – Israel 1978 – Eurovision songs with live orchestra

 

1979年

この年の開催地はエルサレムとなり、開催国イスラエルはガリ・アタリをフィーチャーしたミルク・アンド・ハニーの「Hallelujah」でセンセーショナルな2位を獲得した。

当時ディスコは世界中で最高に人気のある音楽ジャンルとなっており、この年のコンテストでもディスコ調の曲が目立っていた。その例としてはドイツ代表のジンギスカンやデンマーク代表のトミー・ゼーバッハの「Disco Tango」があげられる。

Israel 1979 Eurovision – Hallelujah + lyrics – Winning song

 

1980年

モロッコが史上初めてユーロビジョンに出場したが、この年の主役となったのはアイルランドとユーロビジョンの「王様」だった。つまりAORバラード「What’s Another Year?」で優勝したジョニー・ローガンである。モロッコは最下位のひとつ上という順位に終わり、二度とこのコンテストに登場することはなかった。

一方ジョニーは、言うまでもなく、もう一度 (そしてさらにもう一度) 姿を見せることになる。ベルギーのバンド、テレックスは、「Eurovision」というタイトルの曲でこの年のコンテストを盛り上げようとしたが、そうした戦略はうまくいかず、19組中17位という結果に終わった。

彼らはこの年の初めに「Rock Around The Clock」のカヴァーでヨーロッパ全域で成功を収めていたものの、これ以降は大ヒットを出していない。

Eurovision 1980 Johnny Logan What's another year

 

1981年

1981年、バックス・フィズはUK代表として「Making Your Mind Up」でエントリーした。ダブリンで開催されたこの年のコンテストで彼らが見せたパフォーマンスは、ユーロビジョンの視聴者の記憶に残るものとなった。それは、女性シンガーのロングスカートを2人の男性メンバーがはぎ取ると、その下がミニスカートになっているという趣向になっていた。

この仕掛けが素晴らしいポップな決めフレーズを援護射撃し、彼らを優勝へと導いた。バックス・フィズはその後10年間、たくさんのヒット・シングルを生み出すことになる。たとえば、「The Land Of Make Believe」 (グループ最大の世界的ヒット曲) や「My Camera Never Lies」はどちらも全英チャートのトップに到達している。

Making your mind up – United Kingdom 1981 – Eurovision songs with live orchestra

 

1982年

ことによると、ユーロビジョン創設の理念がようやく実を結んだのはこの年だったのかもしれない。ドイツは27回目の挑戦でついにコンテストの優勝者となった。17歳のニコール・ヘーフリッヒが歌う甘いバラード「A Little Peace」が、すべての競争相手を蹴散らしたのである (ここでは、演奏の順番が最後だったことも優位に働いた。投票者の記憶に残りやすいことから、最後に歌うのが一番有利だというのが定説となっている) 。

ちなみに2位のイスラエルは、このドイツ代表の楽曲に高い評価を与えた。第二次大戦中にナチスドイツがユダヤ人を迫害していたため、イスラエルとドイツの歴史には暗い影が投げかけられていた。そうした点を踏まえると、この時の投票は注目に値する行動だった。これは、ユーロビジョンが持つポジティブでソフトな政治的パワーを示す優れた例のひとつである。

Nicole A Little peace Eurovision

 

1983年

1983年の第27回コンテストになると参加国は20ヶ国に増えていたが、この年はユーロビジョンのレコード販売力が衰え始めた時期にもあたる。世界中の音楽ファンを惹きつけていたのは、MTVとブリティッシュ・ポップの新しい波だったためだ。

一方、この年のチャンピオンとなったルクセンブルク代表のコリンヌ・エルメスの「Si La Vie Est Cadeau」は全英チャートのトップ75にも入ることができず、ヨーロッパ大陸でもおしなべて好成績とはいかなかった。

また各国の採点もまちまちで地域的な偏りがあったため、優勝者の予想も簡単ではなかった。故オフラ・ハザは、1983年にファンのあいだで人気の高い「Hi」でもう少しで優勝というところまで行った。しかし「Im Nin’Alu」で世界的な大ヒットを飛ばすのは、この後さらに5年後のことだった。

Corinne Hermes – Si la vie est cadeau – Eurovision en direct le 23 Avril 1983

 

1984年

この年も、エントリー曲の多くを占めるのは少々個性に欠けるユーロ・ポップがほとんどだった。そんな中、金色のブーツを履いた3人のスウェーデン人が「Diggi-Loo Diggi-Ley」で観客を沸かせ、アイルランドのリンダ・マーティンを打ち負かした (彼女はこの年は2位に終わったが、すぐにユーロビジョンのステージに戻ってくる) 。

優勝した男性トリオ、ヘーレイスは実のところ演奏順は一番最初だった。それゆえ彼らの優勝はさらに際立つものとなった。UKの有名タレント、テリー・ウォーガンは、このころ母国でこのコンテストのレギュラー・コメンテーターを務めており、この曲をユーロビジョン史上最悪の曲だとしていた。とはいえこの曲は、無難ではあるけれど最高にキャッチーなユーロビートの曲だった。この子の曲は、ユーロビジョンの歴史の中で時々勝利をおさめている。

Diggi-loo diggi-ley – Herreys (Eurovision Song Contest 1984)

 

1985年

この年、ノルウェーがついに優勝を勝ち取った。優勝作品となったボビソックス「La Det Swinge」は前年の成功例を無害なかたちで焼き直した曲だった。さらに目を引いたのは、バックス・フィズを思わせるパフォーマンスを見せた女性司会者である。そのパフォーマンスは、ドレスが舞台セットの釘に「たまたま」引っかかってスカートが剥ぎ取られ、そこから一瞬にして別の衣装が登場するというものだったのだ。

この年は、かつてのユーロビジョン出演者もたくさん再登場していた。たとえば、かつての優勝者イズハール・コーヘン&ジ・アルファベータがイスラエル代表としてエントリーした (結果は5位) 。またデンマーク代表のホット・アイズは2年連続出場。イタリア代表のロミーナ・パワー&アル・バノは9年ぶりの再登場だった。

1985 Eurovision Norway – Bobbysocks – La det swinge HQ

 

1986年

この年、アイスランドがユーロビジョンに初参加したが、エントリー曲となったアイシーの「Gledibankinn」は19点しか獲得できず、16位という結果に終わった。一方ベルギー代表のサンドラ・キムは「J’Aime La Vie」で176ポイントを獲得し、優勝した。彼女はまだ13歳で、コンテスト史上最年少の優勝者となった (2003年からは9歳から14歳の参加者を対象としたジュニア・ユーロビジョン・ソング・コンテストが始まっているので、この年齢であれば今ならそちらに出場するはずだ) 。

キプロス代表のエルピーダの「Tora Zo」はユーロビジョン史上最低の作品のひとつとして語り草になっている。この曲はたった4点しか獲得できなかったためだ。

Eurovision 1986 Belgium (Winner). Sandra Kim J'aime la vie

 

1987年

アイルランドのジョニー・ローガンは「Hold Me Now」で2度目の優勝を果たし、ユーロビジョンの歴史にその名を刻むことになった (しかし彼はそこで止まらなかった……) 。イタリアとギリシャが再びこのコンテストにエントリーしたため、この年の参加国はついに22ヶ国となり、各国の代表曲選考における緊張が高まった。

イスラエルでは、文化大臣が自国の曲を力不足と判断して辞退する寸前になったと言われている。しかし結局は冷静な判断が下され、不参加は見送られたようだ。また、「Ca Plane Pour Moi」で有名なフランスのパンク・ポップの旗手プラスティック・ベルトランが故国を代表して「Amour Amour」でエントリーしたのも注目された。

Eurovision 1987 Ireland – Johnny Logan – Hold Me Now (Winner)

 

1988年

北米の音楽ファンの多くは気づいていないが、セリーヌ・ディオンは1988年にヨーロッパでブレイクしていた。この年、スイス代表としてユーロビジョンに出場し、パワー・バラード「Ne Partez Pas Sans Moi」で優勝していたのである。

彼女はUK代表のスコット・フィッツジェラルドの「Go」をわずか1点差で上回り、勝利を収めた。そうした点差になったのは、ユーゴスラビアの審査員がUKに1点も与えなかったことも理由だった。この優勝を皮切りに、フランス系カナダ人のセリーヌは故国以外でのキャリアをスタートさせた (そうしてフランスである程度の成功を収めた) 。

ただし英語圏でデビューするのは翌年のことだった。また他のサプライズとして、トルコがギリシャに3点を与えるという出来事もあった。またキプロスはエントリー作品「Thimamai」が4年前に作られた曲であることが判明し、土壇場で辞退を余儀なくされた。

Ne partez pas sans moi – Switzerland 1988 – Eurovision songs with live orchestra

 

1989年

鉄のカーテンの崩壊前夜、ユーゴスラビアがリヴァというバンドの「Rock Me」で初優勝を飾った。前年のセリーヌの成功を受けて、この年は印象的な女性シンガーが多数登場。そして、奇妙な戦略もやはり健在だった。

たとえば、またしても男女のデュエットで挑戦する例が見られた (イスラエルは12歳のボーイソプラノとかなり年上の女性というデュオを代表として選んでいた) が、やはり不発に終わっている。

ドイツのスーパースター、ディーター・ボーレン (大人気バンド、モダン・トーキングのメンバー) は、ソングライター、ヨアヒム・ホーン・ベルグネスと組んで自国代表と隣国オーストリア代表のエントリー曲を担当。前者は14位、後者は5位という結果にとどまった。

Rock me – Riva (Eurovision Song Contest 1989)

 

1990年

初期のユーロビジョン・コンテストでは、技術的な問題 (たとえば司会者が各国の審査員と連絡を取ろうとするときに度々発生した) が風物詩だった。1990年にザグレブで行われたコンテストでも、その種の問題が起きた。

トップバッターのスペイン代表が、パフォーマンス開始の合図に気づかなかったのである。この年は、東ヨーロッパで進行中だった民主化革命にちなんだ曲が多かった。優勝したイタリアの男性ヴォーカル、トト・クトゥーニョの「Insieme: 1992」も、そうしたテーマを取り上げた曲だった。

Insieme 1992 – Italy 1990 – Eurovision songs with live orchestra

 

1991年

ユーロビジョン・ソング・コンテストの司会は、テレビ業界で最も過酷な仕事のひとつとされている。開催国となったイタリアがその任務を前回の優勝者トト・クトゥーニョとジリオラ・チンクエッティに与えたのは、あまり賢明な判断ではなかったかもしれない。特にトトはコンテストの進行に大苦戦していた。

スウェーデンのカローラは1983年に3位になり、やがてビージーズのバリー・ギブとアルバムを録音することになる。そんな彼女は、この1991年にユーロビートの名曲「Fangad Av En Stormvind」で優勝をかっさらった。

Fångad av en stormvind Carola – Sweden (esc 1991)

 

1992年

この年は、ジョニー・ローガンがまたもやユーロビジョンの王座に帰ってきた。ただし今回はパフォーマーとしてではなかった。このとき彼はアイルランド代表のリンダ・マーティンに「Why Me?」を提供し、優勝に貢献しているのだ (ちなみにローガンは、1984年のコンテストでも彼女の作品「Terminal Three」を作曲していた)。

この曲は、アイルランドがユーロビジョンで台頭するきっかけとなった。また上位3ヶ国の作品はすべて英語の曲だった (2位はUK、3位はマルタ) 。

一方、一部の国は誰もが満足できる言語を選ぶのに苦労していた。たとえばスイスである。1992年には、国内予選1位の曲が失格となった。その曲がフランス語地域で選考落ちしたあと、今度はドイツ語ヴァージョンとして勝ち残った作品だったため、抗議の声が挙がったのである。

Eurovision 1992 – Linda Martin – Why me?

 

1993年

ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、スロベニアが新たに参加したため、この年のユーロビジョンは視聴者がヨーロッパの新しい国境を理解するための地理的なレッスンのようなものになった。新しい参加国があったにもかかわらず、コンテストはいつも通りの流れとなり、アイルランドのニーヴ・カヴァナが開催国アイルランドに栄冠をもたらした。

優勝曲の「In Your Eyes」は完成度の高いバラード曲だった。しかしUK代表の元ストック・エイトケン・ウォーターマンのスター、ソニアの「Better The Devil You Know」にもう少しで負けるところだった (この曲名を目にすると、ストック・エイトケン・ウォーターマンのファンならカイリー・ミノーグの曲だと思うかもしれない。しかし似ているのはタイトルだけで、中身はほぼ無関係だ) 。

In your eyes – Ireland 1993 – Eurovision songs with live orchestra

 

1994年

アイルランドが再び開催国となった1994年は、その年の勝者 (またもやアイルランドがポール・ハリントン&チャーリー・マクゲティガンの「Rock ‘N Roll Kids」で優勝した) よりも、幕間の余興の方が印象に残っている。

ダブリンのザ・ポイントで行われたコンテストのステージでは、マイケル・フラットレーが率いるリヴァーダンスが世界的なブレイクを果たしたのである。彼らはテレビの視聴者を魅了し、世界的なブームを巻き起こした。

この年は、エストニア、ハンガリー、リトアニア、ポーランド、ルーマニア、ロシア連邦、スロバキアが初参加し、新たな参加国の数も記録的な急増となった。

1994 Eurovision Paul Harrington & Charlie McGettigan

 

1995年

事前の報道では、アイルランドはもう優勝を望まないだろうとの憶測がかなり広がっていた (このコンテストの開催は、放送局や政府にとって費用面でかなりの負担になるからだ) 。蓋を開けてみれば、アイルランドは14位という安全圏に落ち着いていた。優勝したノルウェー代表のシークレット・ガーデンの「Nocturne」 (大部分がインストルメンタルの曲) とは大差だった。

リヴァーダンスが大成功したのだから、無理に優勝を目指さなくても……という雰囲気がこの年のエントリー曲の選考や本選での投票に影響を及ぼしたのではないだろうか。この年のコンテストではスイスが欠場。また、この時期は最下位になった国が翌年の出場資格を失うことになっており、この年はドイツがその屈辱を味わった。

Nocturne – Secret Garden – Norway 1995 – Eurovision songs with live orchestra

 

1996年

この年、アイルランドはスコアボードの一番上というおなじみの場所に戻ってきた。エントリー作品となったアイメア・クインの「The Voice」は162ポイントを獲得し、独走態勢で優勝。2位となった開催国ノルウェーの114ポイントを大きく引き離した。

とはいえこの年のコンテストで最も成功した曲は、UK代表として出場したオーストラリアのジーナGの「Ooh Aah… Just A Little Bit」だろう。この曲は世界的な大ヒット曲となった。全英チャートでは首位を獲得し、ユーロビジョンの曲としては珍しく全米チャートのトップ20入りまで果たしている。しかしコンテストそのものでは8位にとどまっていた。

Eimear Quinn – The Voice

 

1997年

「Love Shine A Light」は、慈善団体ザ・サマリタンズのために書かれた曲で、カトリーナとザ・ウェーヴズ (1980年代の名曲「Walking On Sunshine」でよく知られているバンド) が演奏した。この曲は、次点のアイルランドに70ポイントもの大差をつけ、UKに優勝をもたらした。UKの国営放送BBCの幹部たちにとって、このUKの優勝は予想外の不意打ちだった。

「良い曲だとは思っていたが、まさか優勝するとは思っていなかった」と、ベテラン解説者のケン・ブルースは認めている。また注目すべきことに、この年から電話投票が始まった (参加国のうち5ヶ国がこの方式を採用し、21世紀に入るとこれが広く普及することになった) 。

Love Shine a Light – Katrina and The Waves

 

1998年

開催地をUKのバーミンガムに移したこの年のコンテストでは、出場国の数を25ヶ国に絞ることになった。その内訳は開催国、1997年に出場を逃した6ヶ国、過去5年間の平均得点ランキングの上位18ヶ国となっていた。このようにエントリーの規定が複雑化していることからもわかるように、当時のヨーロッパの地理はどんどん細分化が進んでいた。

この年のコンテストでは、1972年生まれの女性歌手が新風を吹き込んだ。ダナ・インターナショナル (本名ヤロン・コーエン) がイスラエル代表として堂々たるアンセム「Diva」を歌って優勝したのである。彼女は以前ユーロビジョンの国内予選で敗退したことがあったけれど、それでも国民的な大スターであることには変わりなかった。

Eurovision 1998 – 08 Israel – Dana International – Diva

 

1999年

エントリー作品の言語の選択は、とかく揉め事のタネとなってきた。この1999年にユーロビジョン・コンテストの主催者は従来の制限を撤廃し、ソングライターとパフォーマーに決定権を与えるという判断をついに下した。

また同じ年、ハウス・オーケストラによる伴奏が終了し、ほとんどの出場者はただちにバッキング・トラックを選択することにした。

そして運営面でもうひとつの変更があり、主要な資金提供国4ヶ国が自動的に予選を通過できるようになった。これにより、フランス、ドイツ、スペイン、UKの出場枠が永遠に確保されることになったのである。この20世紀最後のコンテストでは、スウェーデン代表のシャルロッテ・ニルソンの「Take Me To Your Heaven」が優勝している。

Charlotte Nilsson – Take me to your heaven (Eurovision Song Contest 1999)

 

2000年

この年、ラトビアが初めて参加 (しかしギリシャ、ハンガリー、スロバキアは財政的な理由で参加せず) 。ユーロビジョンのテリトリーはさらに広がった。

さらにはインターネット配信も始まり、日本やオーストラリアといった国で新たな視聴者を獲得することになった。まさにデジタル時代の到来である。

しかし優勝作品の作風には同じような革命的変化は訪れなかった。デンマーク代表のオールセン・ブラザーズが歌った「Fly On The Wings Of Love」は、とことんセンチメンタルなポップスだった。とはいえこの曲は、後にスペインのダンスアーティストXTMとDJ Chuckyがより熱狂的なアレンジでカヴァーしている。

Eurovision 2000 Winner – Denmark Olsen Brothers -Fly On The Wings Of Love HQ

 

2001年

バルト諸国がユーロビジョンで優勢となるという現象は、エストニア代表のタネル・パダル、デイヴ・ベントン、2XLの「Everybody」が優勝した2001年から始まった。時代の変化を示すかのように、過去の常勝国アイルランドは21位に終わり、これまでで最悪の結果となった。

一方「Barbie Girl」で有名なデンマークのスーパーグループ、アクアが幕間にパフォーマンスを披露している。そしてテクノロジーの進歩によってコンテストの守備範囲と運営方法が変化し始めた結果、電話投票が本格的に従来の審査員システムと入れ替わり始めた。

Tanel Padar & Dave Benton – Everybody [Eurovision 2001 – Estonia]

 

2002年

旧ソ連の一員だった国で初めて開催されたこの年のコンテストでも、参加に関係した複雑な事情が予測不可能な物語を紡ぎ出した。ラトビアは2001年の成績が振るわなかったため、この年は参加資格を失っていた。しかしポルトガルが自国の放送局の問題で不参加を決めたため、その代役として参加するチャンスが巡ってきた (降格した国のリストの中で最も高い順位にあったのがラトビアだった) 。

そんな国の代表が優勝したのである。マリー・Nの「I Wanna」は、ラトビアにとってまだ3度目のエントリーだったが、2位のマルタを確実に引き離す得票を得た。一方UK代表のジェシカ・ガーリックは3位だった。

Marie N – I Wanna (Latvia – Eurovision 2002 Live) HQ

 

2003年

この年、トルコが初参加から28年にしてようやく王座に就いた。優勝曲はセルタブ・エレネルの「Every Way That I Can」だった。また、この年はユーロビジョンがUKのタブロイド紙で大々的に取り上げられることになった。ジェミニの悪名高いパフォーマンス「Cry Baby」のおかげで、UKがあの惨めな「ゼロ・ポイント」の憂き目に遭ったのである。

ユーロビジョンの大口出資国のひとつだったUKは、参加資格を失うことが決してなかった。しかしこの大失敗は、新聞や当時まだ成功を確信していた国民にショックを与えることになった。ジェミニはこの失敗を技術的な問題のせいにしたが、UKの視聴者にとっては今後の予兆を感じさせるものだった。

Sertab Erener – Everyway That I Can (Turkey – Final – Eurovision Song Contest 2003)

 

2004年

2004年、ついに欧州放送連合 (EBU) はこのコンテストが一晩だけでは収まらないと判断し、準決勝の3日後に決勝を行うという形式に変更した。この結果ヨーロッパのすべての国が参加できるようになり、参加国は36ヶ国に増えた。

そしてこの年の優勝国も、東ヨーロッパの国だった。ウクライナ代表のルスラナの「Wild Dances」もユーロビジョンから生まれた名曲であり、この年のコンテストのCD (そして初めて発表された公式DVD) に収録された。

Ruslana – Wild Dances (Ukraine) – LIVE – 2004 Eurovision Song Contest

 

2005年

参加国はこの年も増え続け、新たにブルガリアとモルドバが参加した。この結果、参加国は39ヶ国にまで膨らんだ。映画『マイ・ビッグ・ファット・ウェディング』は大ヒットとなっていたが、ついにこの年、ギリシャが「いつも付き添い役で、決して花嫁にはならない」というイメージを払拭するときが来た。

エレーナ・パパリズーの「My Number One」は、まさに優勝作品に似つかわしいタイトルの曲だった。一方、得点ランキングの下の方に目を移すと、大口出資国4ヶ国の一角であるフランスは最下位となっていた。

Helena Paparizou – My Number One (Greece) Live – Eurovision Song Contest 2005

 

2006年

完全に予測可能な優勝曲など存在しない。そのことを証明するかのように、フィンランドはローディというヘヴィ・メタル・バンドの「Hard Rock Hallelujah」でユーロビジョンの栄光を手に入れた。このバンドは10年以上の活動歴を持ち、花火や不気味なコスチュームを駆使したステージングを売りにしていた。そうした演出は、この国際的な晴れ舞台でさらに派手に繰り広げられ、彼らのアルバム『The Arockalypse』は世界中のチャートを飾ることになった。

その他のエントリー・アーティストに目を向けると、アイルランドのブライアン・ケネディや1991年の優勝者であるスウェーデンのカローラなど、キャリアが低迷する中で人気を回復するために参加したアーティストがちらほらいた。しかしケネディは10位、カローラは5位という結果にとどまっている。とはいえ、両者とも母国ではなかなかの人気を保っていた。

Lordi – Hard Rock Hallelujah (Finland) 2006 Eurovision Song Contest Winner

 

2007年

欧州放送連合 (EBU) が40ヶ国という上限を撤廃したことで、参加国は43ヶ国に増え、またもや競争は激しくなった。新たな参加国の中にはチェコ共和国、ジョージア、そして新たに独立したモンテネグロとセルビアも含まれていた。

そしてこの年に栄冠を手にしたのはセルビアだった。初参加ながら、マリヤ・シェリフォヴィッチが歌った「Molitva」が見事優勝に輝いたのである。

一方、長らく栄冠を手にしてきたアイルランドは年を追うごとに力を失い、この年の決勝戦ではついに初の最下位となった。またUKの結果も振るわなかった。かつてのヒットメーカー、スクーチのふざけた曲「Flying The Flag (For You) 」は22位に入るのがやっとだった。

Marija Šerifović – Molitva (Serbia) 2007 Eurovision Song Contest

 

2008年

この年、ロシアがついにユーロビジョン史上初の首位に立った。人気ポップス歌手ジーマ・ビラーンのカリスマ的な「Believe」で優勝したのである。彼女は2006年のコンテストでは「Never Let You Go」を歌い、2位に入っていた。ジーマはこの優勝を機に国際的なブレイクを目指し、2009年にワンリパブリックのライアン・テダーとの共演を含む英語版アルバムをリリースしている。

この地域の政治的緊張と紛争をふまえて、この年の会場警備は記録的なものものしさだったが、コンテストは何事もなく終了した。

Dima Bilan – Believe (Russia) 2008 Eurovision Song Contest Winner

 

2009年

ノルウェーのアリャクサンドル・ルィバークは、ポップ・フォークの怪物じみた名曲「Fairytale」でユーロビジョンのセンセーションとなり、387ポイントという記録的な高得点を獲得した (当時のシステムに基づけば満点は492ポイント) 。

この年から準決勝は2回に分けて行われることになった。またモスクワのオリンピスキー・アリーナで行われた決勝は、これまで以上に野心的な演出と特殊効果によって音響と映像の大祭典となった。

UKは、「オペラ座の怪人」の巨匠アンドリュー・ロイド・ウェバーと、高い評価を得ているヒットメーカー、ダイアン・ウォーレンを起用し、エントリー曲の「It’s My Time」を歌うのは、やがてシュガーベイブスのメンバーになるジェイド・イーウェンだった。彼女は素晴らしいパフォーマンスを見せ、UKはトップ5入りを果たしている。

Alexander Rybak – Fairytale (Norway) 2009 Eurovision Song Contest

 

2010年

Lenaの「Satellite」は、1982年のニコールの「A Little Peace」以来となるユーロビジョンでの勝利をドイツにもたらした (また、大口出資国である「ビッグ4」のひとつが優勝するのは、この呼び名が定着してから初めてのことだった) 。

この年のアイルランド代表はかつての優勝歌手ニーヴ・カヴァナだったが、23位に終わっている。またUKはピート・ウォーターマン (ストック・エイトケン・ウォーターマンで有名) にヒットメーカーの魔法をかけてもらうという賢い戦略をとったが、これも失敗に終わった。ジョシュ・ドゥボヴィーが歌った「That Sounds Good To Me」は最下位だった。

Lena – Satellite (Germany) Live 2010 Eurovision Song Contest

 

2011年

この年は再登場するアーティストのコンテストとなった。とりわけ注目を集めたのはドイツ代表として2年連続の出場となったLena (今回は「Taken By A Stranger」を歌って10位) 、そしてイスラエル代表として再び登場したダナ・インターナショナルだった (彼女の歌った「Ding Dong」は意外なことに準決勝止まりに終わっている) 。

参加した43ヶ国の中でトップの投票を集めたのは、アゼルバイジャン代表のエル&ニキの「Running Scared」だった。アゼルバイジャンは初参加からわずか4年しか経っていなかった。

Ell & Nikki – Running Scared (Azerbaijan) Live 2011 Eurovision Song Contest

 

2012年

このころになるとユーロビジョン・コンテストは毎回テーマを決めて、新たなブランディングを展開するようになっていた。この年は、開催国アゼルバイジャンの愛称である「Land Of Fire」にちなんで、「Light Your Fire」がテーマとなった。

2012年のユーロビジョンでは、スウェーデン代表のロリーンが歌う「Euphoria」が18ヶ国から最高得点 (12ポイント) を獲得し、この記録はいまだ破られていない。この曲は世界的な大ヒットとなり、全英チャートのトップ3入りも果たした。UK以外の優勝曲が全英チャートのトップ3に入るのは、1987年のジョニー・ローガンの「Hold Me Now」以来だった。

Loreen – Euphoria – Live – Grand Final – 2012 Eurovision Song Contest

 

2013年

この年、スウェーデン第3の都市マルメがユーロビジョン史上2回目の開催地として選ばれた。そして優勝は、海を挟んで反対側の隣国デンマークが手にした。当時このふたつの国は、エーレスンド海峡を渡る橋で結ばれたばかりだった。

優勝作品となったエメリー・デ・フォーレストの「Only Teardrops」は、より伝統的なフォーク・ポップに回帰した曲と言える。一方UKは、「Total Eclipse Of The Heart」で有名なベテラン歌手ボニー・タイラーで好成績を狙ったが、19位というやや物足りない結果に終わった。

Emmelie De Forest – Only Teardrops (Denmark) 2013 Eurovision Song Contest

 

2014年

コンチータ・ヴルストがバラード曲「Rise Like A Phoenix」でオーストリアに優勝をもたらしたとき、実に力強いメッセージが世に放たれた。コンチータは自分がドラァグ・クイーンだと称することもあったが、その本当の姿が何であれ、1億9500万人以上の人々が世界最高レベルのパフォーマンスを目撃したのである。それは、ユーロビジョンの歴史に残る象徴的な場面のひとつとなっている。

このコンテストではカントリー・ロックはあまり馴染みのないジャンルだが、それにも関わらずオランダのデュオ、ザ・コモン・リンネッツは「Calm After The Storm」で2位に入った。彼らはこのときのパフォーマンスで勢いに乗り、評論家からの高い評価と商業的な成功を手にしている。

Conchita Wurst – Rise Like a Phoenix (Austria) 2014 LIVE Eurovision Second Semi-Final

 

2015年

モンス・セルメルローは、ジョニー・ローガンの跡を継いで「ユーロビジョンの王様」の座に就いたと言われている。彼はこのコンテストでの優勝をきっかけに国際的なキャリアを築き上げ、さまざまなイベントへの出演やコンテストに関する特番に数多くゲスト出演した。

ロシア代表のポリーナ・ガガーリナの「A Million Voices」が力強いパフォーマンスを見せたにもかかわらず、セルメルローの「Heroes」は圧勝を収めた。

このダンス・ポップ曲の自信に満ちたパフォーマンスは、セルメルローがアニメーションのキャラクターと共演する巧みな視覚的振り付けによってさらに印象的なものになった。ここからもわかるように、このコンテストでは素晴らしい曲と記憶に残る演出の巧妙なミックスがしばしば勝利の方程式となっている。この年は、オーストラリアがスペシャルゲストとして初出場した。

Måns Zelmerlöw – Heroes (Sweden) – LIVE at Eurovision 2015 Grand Final

 

2016年

優勝作品「1944」は、ユーロビジョンでお馴染みの奇妙な仰々しさからはかけ離れたテーマに取り組んでいた。題材となったのは、ソ連の独裁者スターリンによるクリミア・タタール人の強制移住だった。作者であるジャマラは、その興味深い曲をストックホルムのグローブ・アリーナで見事に歌い上げた。

また、この年のコンテストは初めてアメリカでテレビ放映されている。また審査員投票を国ごとに集計し、視聴者の電話投票を国に関係なく集計するという新しいシステムが確立された。

この年はモンス・セルメルローが司会を務め、オーストラリアがゲストではなく他の国と同じ立場でコンテストに参加した。同国代表のダミ・イムは2位に入り、もう少しで王座に就くところだった。

LIVE – Jamala – 1944 (Ukraine) at the Grand Final of the 2016 Eurovision Song Contest

 

2017年

この年、ポルトガルが53回目の挑戦で初めて優勝し、ユーロビジョンの歴史にその名を刻んだ (実のところ、この国はそれまでトップ5に入ったことさえなかった) 。優勝作品であるサルヴァドール・ソブラルの「Amar Pelos Dois」はロマンティックなジャズ・ワルツで、これ以後ポルトガルで最も愛されるバラードのひとつとなった。この曲はポルトガルに初優勝をもたらしただけでなく、最新の投票システムで758ポイントという高得点を獲得した。これは新記録だった。

一方、開催国のウクライナは、ロシア代表の歌手がロシアからクリミア半島に移動したことを理由にその歌手の出演を禁じた。ユーロビジョンにとって、やはり政治は歓迎されざる底流だった。なにしろこのコンテストは、その種の緊張を緩和することを狙って始まったのだから。

Eurovision Song Contest 2017 – Grand Final – Live

 

2018年

イスラエルはネッタの「Toy」で4度目の栄冠に輝いた (優勝するのは1998年以来久々のことだった) 。この年のコンテストのテーマは「All Aboard!」で、開催国ポルトガルの自然の多様性と航海の伝統をうまく表現していた。

参加国は過去最高の43ヶ国となり、昔のコンテストでおなじみのアーティストも以前にも増して数多く参加した。そのひとり、ノルウェー代表のアレクサンダー・ライバックはこの年は15位に入るのがやっとだった。

また、UK代表のスーリーが「Storm」を歌っていた時に、ステージに乱入者が現れるという不始末もあった。コメンテーターは当時論議を呼んでいたブレグジットの問題が間接的な原因だったのではと語り、一方スーリー本人はもう一度歌ったらどうかという提案を断り、「自分が行ったパフォーマンスに誇りを持っている」と語っている。

Netta – Toy – Israel – LIVE – Grand Final – Eurovision 2018

 

2019年

第64回ユーロビジョン・ソング・コンテストの開催地を巡っては政治的な駆け引きがあり、一時はエルサレムが有力視されていた。結局、開催地として選ばれたのはテルアビブだった。

この年は、定評あるシンガー・ソングライターのダンカン・ローランスが歌った「Arcade」がオランダに優勝をもたらした。またインターバル・アクトとしてスーパースターのマドンナが登場し、「Like A Prayer」と当時の最新アルバム『Madame X』の収録曲「Future」を披露した。

The Netherlands – LIVE – Duncan Laurence – Arcade – Grand Final – Eurovision 2019

 

2020年

2020年のコンテストはロッテルダムで開催される予定だったが、新型コロナウイルスの爆発的流行によってユーロビジョン史上初の中止が決まった。

その代わりとして、2時間のライヴTVスペシャル「Eurovision: Europe Shine A Light」が放送。これはユーロビジョン・コンテストのファンが懐かしい気分でいっぱいになるような特番だった。そしてクライマックスでは、2020年の出場予定者全員が1997年の優勝曲「Love Shine A Light」を歌った。5月に放送されたこの特番は、当時世界に広まっていった不安な空気を和らげるのに一役買った。

Love Shine A Light performed by the artists of Eurovision 2020 – Eurovision: Europe Shine A Light

 

2021

この年にロッテルダムで開かれたユーロビジョン・コンテストには前年の出場予定者全員が招待され、新曲を披露することになった。参加国は41ヶ国にのぼったが、新型コロナウイルスの流行によりさまざまな面で制約が多く残る中での開催となった (たとえば、観客席の入場者数が制限されている) 。

イタリアのロック・バンド、マネスキンは、既にヨーロッパ全体で話題沸騰中だった曲で優勝した。ハード・ロックが栄冠に輝くのは、2006年のローディの以来だ。その優勝楽曲「I Wanna Be Your Slave」はヨーロッパ中のチャートを席巻し、人気はアメリカにも飛び火した。

Måneskin – Zitti E Buoni – Italy 🇮🇹 – Grand Final – Eurovision 2021

 

Written By Mark Elliott


40年ぶりの新作アルバム

ABBA『Voyage』
2021年11月5日発売
CD / iTunes Store / Apple Music / Spotify / Amazon Music / YouTube Music

2010年ユーロビジョン・ソングコンテスト優勝者

Lena「life was a beach」収録アルバム『Only Love, L』
2019年4月9日発売
iTunes Store / Apple Music / Spotify / Amazon Music / YouTube Music



 

Share this story
Share
日本版uDiscoverSNSをフォローして最新情報をGET!!

uDiscover store

Click to comment

Leave a Reply

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Don't Miss