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1958年のマディ・ウォーターズ最初の渡英ライヴは、多感な子供たちに本物の”ブルース”を教えた

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Photo: Chess Records Archives

マディ・ウォーターズの最初のイギリスでのツアーはどちらかと言えばおとなしいものだったのかもしれない。リーズにあるオデオン劇場での彼のステージは、主にクラシック中心のリーズ・センテナリー・ミュージック・フェスティバルの一部として行われ、しかも当時のイギリス女王も観ている中での、上品で格式張った類のものだった。しかしながら1958年10月16日、シカゴ・ブルースマンがジャズ・コンサートの一環としてステージに立ったとき、さまざまな意味で世間がざわついたというのは間違いない事実だった。

マディ・ウォーターズことマッキンリー・モーガンフィールドは、強烈にセクシャルなカリスマを持っていた。彼の身のこなしや露骨な歌詞もさることながら、それはウォーターズが奏でるフェンダー・テレキャスターが発する圧倒的なサウンド醸し出すものだった。そのサウンドは、それまでイギリスでは誰も聴いたことのないものだった。生々しく、本能的で、そしてまさに電流が走るような衝撃、それこそがブルースだった。

 

■ディープ・サウスのトラディショナル・フォークの体現者

イベントを告知するチラシの中で、ウォーターズは「ディープ・サウスのトラディショナル・フォークを今に伝える、片田舎からやって来た男」と紹介されており、必ずしも期待感を煽るものではなかった。確かに、彼がミシシッピ・デルタを離れる以前の初期の時代について言えばこれは間違ったものではない。フォークやブルースの著名な蒐集家アラン・ローマックスによって見出された後の、彼が30代だったころのことだ。しかしながら彼はその後サウンド面でも生活面でも変化していた。40代になっていた頃の彼は、シカゴに移住してきた貧しい黒人の苦しい都会生活を歌う、擦れた男になっていたのだ。

Photo: Chess Records Archives

リーズ・オデオンでのジャズ・コンサートは、当時の最新音楽のトレンドを把握しようとする意図によるもので、ウォーターズや彼の友人であるピアニストのオーティス・スパンにとっては出演順がいかにも不運だった。というのもザ・ジャズ・トゥディ・ユニットという、いわゆる「オールスター」バンドによるアドリヴ全開のパフォーマンスの後だったのだ。音楽専門誌メロディ・メイカーには、「多くの観客が会場を出ていった」とある。会場に残った人々からすればこれ以上ないほどに白けたことだろう。

ウォーターズのパフォーマンスについて、ヨークシャー・ポスト紙は「雑でワンパターン」なものだったと評した。著名なブルース研究家ポール・オリバーは以下のように綴っている。「マディ・ウォーターズを知っていた者なら、当然アコースティック・セットでのパフォーマンスを予想していただろう。しかし彼が弾いたのはエレキ・ギターだったのだから驚きだったに違いない。多くの人々はまだブルースをジャズの一形態として認識していたから、彼らの期待には合致していなかったのだ」。

ウォーターズは困惑しつつも、謙虚に自らを反省していたようで、後にメロディ・メイカー紙の取材で以下のように語っている。「イギリスの観客は自分のようなスタイルの歌に慣れていないのだと思う。オープニングの夜、何がいけなかったのかよくわからないんだ…」。

 

■世界最高の現役ブルース・シンガー

リーズ・フェスティヴァルはウォーターズが訪英した主な目的ではなかった。彼はトロンボーン奏者クリス・バーバーに招かれて、10日間のツアーに参加する予定だったのだ。クリス・バーバーのグループは、50年代にイギリスで最も人気のあるグループの一つだった。バーバーはヒップでモダンなジャズよりもトラディショナルなジャズを好むタイプではあったが、新しいものを認める姿勢も持ち合わせていた。

ウェリン・ガーデン・シティ生まれのクリス・バーバーは、若いころは保険関係の職に就きたいと考えていた。彼とウォーターズはともに文盲で、2人ともかつては小作農や密造酒作りに従事していたこともあり、2人が無二の友になるのは容易いことだった。

リーズのフェスで悲惨な目にあった後、ウォーターズとスパンはクリス・バーバー・バンドと落ち合うためにニューカッスル・アポン・タインに向かったが、彼らはそこで自分達がこれから何をしようとしているのかを知って驚いたに違いない。ナショナル・ジャズ・フェデレーション提供によるそのツアー・プログラムで、ウォーターズは「世界最高の現役ブルース・シンガー」と形容されていたのである。

ウォーターズとスパンはクリス・バーバーのバンドとリハーサルする予定だったが、それは実現せず、「Hoochie Coochie Man」のキーの確認と、バーバーのセットの第2部のどの部分で登場するかということを打ち合わせただけだった。バーバーのバンドが自分達のリズム・セクションを務めてくれることになっている第2部での出番までの間、彼らがニューオリンズ・スタイルのトラディショナル・ジャズをプレイする第1部をステージの袖で観ているウォーターズとスパンの2人は、とても安心していられるものではなかっただろう。

バーバーが語っている。「私は彼らを呼び込み、彼らがステージに上がる時にオープニングのリフを演奏したんだ。彼らの表情がぱっと明るくなったよ。私たちが彼らのために準備万端なのをその時に瞬時に悟ったんだね」。

Photo: Chess Records Archives

 

■催眠術のように繰り返すコーラスに乗せて歌うブルース

ニューカッスル公演の数日後の10月20日 、バンドはロンドンのセント・パンクラス・タウンホールに到着した。ジャズ評論家のマックス・ジョーンズはメロディ・メイカー誌上でウォーターズに好意的なレビューを載せている。「驚いた。それはタフで、ぶしつけで、強烈にリズミカルで、大概において騒々しいがどの曲にも明暗のアクセントがある。どれもがブルースそのものであり、生命感に満ち、奔放で、これぞ”ダウン・サウス”だ」。

ウォーターズのクリス・バーバー・バンドとのツアーは、ボーンマスからグラスゴーへと転々と移動した後の10月27日月曜日に終了した。そしてその3日後、ウォーターズとスパンは、アレクシス・コーナーから、彼とハーモニカ奏者シリル・デイヴィスとでソーホーのラウンド・ハウスというパブの上階で経営していたバレルハウス・アンド・ブルース・クラブでの出演依頼を受けた。ウォーターズはこのステージで、自身が根城にしていたシカゴのサウスサイドにあるスミティーズ・コーナーでプレイしていたようなスタイルで伸び伸びとパフォーマンスを披露してみせた。

そこへ訪れていたトニー・スタンディッシュが、ジャズ・ジャーナルにその様子をレポートしている。「マディは額の汗を拭うとギターを脇に置いた。すると突然、我々にまた新たな一面を見せた。私たちの知る世界とは別の世界に観客を引き入れた彼は全身を使って歌い、彼らのために身をくねらせ捩りながらシャウトし、痺れるような緊張感をもって繰り返すコーラスに乗せてブルースを語って聴かせ、催眠術にかかったように包み込まれた観客を虜にしていった」。

Photo: Chess Records Archives

その数日後、ウォーターズはシカゴに戻る機内にいた。彼の訪英がどれほど直接的な影響を与えたかは正確には知りようもない。ライヴを見たことですぐさまヒットしたレコードもなく、その後のブリティッシュ・ブルース隆盛期のヒーロー達が彼のステージを目にしたという記録もない。しかし、彼がイギリスへやって来た事実の重大さは計り知れない。1958年、自分で購入した者もあれば、誰かから借りてきた者もあったが、ともあれ10代前半の無数の子供たちが、手に入れたブルースのレコードを、自分のベッドルームで熱心に聞くようになったのだった。

ジャズであれ、ロックン・ロールであれ、その源はすべてブルースにある。のちにミュージシャンとして活躍することになるこのイギリスの学生たちは、程度や方向性の違いこそあれ、例外なくマディ・ウォーターズの影響を受けている。ミック・ジャガーキース・リチャーズロバート・プラントとジミー・ペイジ、ピート・タウンゼントロジャー・ダルトリー、レイとデイヴのデイヴィス兄弟、エリック・バードン、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ピーター・グリーンとミック・フリートウッド、ヴァン・モリソン …彼らもまた例外ではない。

若い音楽ファンでも洞察力のある人々はイギリスの薄味のロックン・ロールよりもざらついたエレクトリック・ブルースにより親しみを覚えるかもしれない。そしてマディ・ウォーターズこそがその原動力になった。1972年にウォーターズはこう語っている。「シカゴをブルースの本場にしたのは俺だろうね」。

マディ・ウォーターズは紛れもなく本物だった。

By uDiscover Team


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