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デレク・アンド・ザ・ドミノスがロンドンで行った歴史的な初ステージ

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Photo: Michael Ochs Archives/Getty Images

エリック・クラプトン(Eric Clapton)がロンドンのストランド通りに程近いライシアム劇場で2回の公演を行う、という広告がメロディ・メイカー誌に掲載されたとき、そこにバンド名の記載はなかった。書かれているのはオルガンのボビー・ウィットロック、ドラムのジム・ケルトナー、ベースのカール・レイドルという数人のバンド・メンバーの名前だけだった。

その2回の公演は1970年6月14日に予定されており、収益はベンジャミン・スポック博士がアメリカに設立した”Civil Liberties Legal Defense Fund”という基金に寄付されることになっていた。

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ギリギリだった結成

グループの状況がギリギリまで定まっていなかったことを象徴するエピソードがある。ライヴが間近に迫った頃、ケルトナーはジャズ・ギタリストのガボール・ザボのアルバムに参加しており時間が取れなかったため、急遽ジム・ゴードンと交代することになったのだ。

ウィットロック、ゴードン、レイドルの3人はいずれも、1969年11月から1970年3月までデラニー&ボニー&フレンズのヨーロッパ・ツアーに参加していた。その後、同グループが散り散りになると、ゴードンとレイドルはジョー・コッカーの”マッド・ドッグス&イングリッシュメン・ツアー”に帯同。コッカーのツアーが終わってイギリスに帰国したゴードンとレイドルは、クラプトンやウィットロックと合流して、ジョージ・ハリスンのアルバム『All Things Must Pass』の制作に加わったのだった。

そんな4人が意気投合し新グループの構想を練り始めたのも、そのレコーディング・セッションでのこと。ボビー・ウィットロックはこう話している。

「ホーン隊もいらないし、女の子もいらなかった。俺たちはロックンロール・バンドをやりたかったんだ。だけどヴォーカルに関しては、サム&デイヴのような形式にしたいと俺は考えていた。 (クラプトンが) あるパートを歌って、次は俺が歌って、ふたりでも歌ってっていう風にね」

 

デビュー・ライブ

デビュー・ライヴの当日、この段階で”エリック・クラプトン&フレンズ”と名乗っていたメンバーたちは、ハリスンとのレコーディングのためにアビー・ロード・スタジオにいた。この日に彼らが録音した「Tell The Truth」は、デレク・アンド・ザ・ドミノスのファースト・シングルとして1970年9月にリリースされることとなる(同シングルのB面は、同じく『All Things Must Pass』の制作期間中にレコーディングされた「Roll It Over」。この曲にはハリスンのほか、トラフィックのデイヴ・メイスンがギター/ヴォーカルで参加している)。

Tell The Truth

ライシアムでの初回公演を前に楽屋入りしたときも、まだ正式なバンド名は決まっていなかった。メンバーたちは何とか名前を考えるべく、ジョージ・ハリスンやトニー・アシュトンを交えて話し合いをした。クラプトンによれば、そのときアシュトンが”デル・アンド・ザ・ドミノス”という名前を提案したという。デラニー&ボニーのツアー以来、彼がクラプトンのことを”デレク”や”デル”というあだ名で呼んでいたのが由来だ。

一方、ウィットロックの記憶は少し違う。彼によれば、後半部分は”ザ・ダイナミクス”に決まっていたが、アシュトンがバンドを紹介する際に名前を間違えたのだという。

作家のマーク・ロバーティは2013年に、当日のライシアム公演の司会を務めていたロンドンのDJ、ジェフ・デクスターの言葉として、彼らがステージに上がる時点で”デレク・アンド・ザ・ドミノス”という名前が付いていたことを明かしている。クラプトンはこの名前を気に入っていたようだが、ほかの3人 (全員がアメリカ人) はドゥ・ワップのグループだと誤解されないか心配していたという。

 

バンドの初ステージ

いずれにせよ、このステージは彼らにとって最高の思い出とはならなかった。一部の英音楽紙には、エリック・クラプトンがフロントマンとして歌うことへの拒否反応もみられた。彼には目まぐるしい華麗なギター・プレイを期待していたのだろう。当のクラプトンも自伝の中でこの日のライヴを回想しているが、どうやら本人はパティ・ボイドを振り向かせたい一心だったようだ。この頃、クラプトンはニューオリンズ生まれのミュージシャンであるドクター・ジョンに身の上を相談していた。ヴードゥー教の実践者であるジョンは、クラプトンの助けになればと藁で出来た箱をひとつ送ってきたという。

ロンドンでの初ライヴを終えたメンバーは、全英ツアーに向けたリハーサルを開始。ツアーはロンドン東部のヴィレッジ・ブルース・クラブで幕を開けた。以降22日間に亘り、ロンドンのスピークイージー・クラブやベクスリーのブラック・プリンス・パブ、ヨークシャー地方のスカボローにあるペントハウスなど、英国各地の会場で計18公演を開催。その間には1公演のみ、国境を渡ったフランスのビノットでのライヴも行われた。

バンドがツアーを行っているあいだ、マネージャーのロバート・スティグウッドはデビュー・アルバムの制作に向けた調整に勤しんでいた。彼はオールマン・ブラザーズ・バンドの『Idlewild South』を手がけていたトム・ダウドに連絡し、デレク・アンド・ザ・ドミノスの面々がマイアミのクライテリア・スタジオでレコーディングをするためフロリダに来たがっていることを伝えた。

スティグウッドはまた、ポリドールからリリースされるファースト・シングルの記者発表をロンドンで行った際、念のため”Derek is Eric (デレクとはエリックのこと) “と書かれたバッジを出席した記者全員に配ったという。

その後のことは、周知の通りだ。

Bell Bottom Blues

Written By Richard Havers



デレク・アンド・ドミノス『Layla And Other Assorted Love Songs』
1970年11月9日発売
CDiTunes / Apple Music / Spotify / Amazon Music / YouTube Music




エリック・クラプトン『The Lady In The Balcony: Lockdown Sessions』
2021年11月12日発売
デラックス・セット<DVD+ブルーレイ+CD> / DVD+CD / DVD / CD
ブルーレイ+CD / ブルーレイ / 2LP / 2LPカラー / 1DVD+1Blu-ray+1CD / 1Blu-ray UHD+1Blu-ray


 

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