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ポール・マッカートニーのベスト・コラボレーション11:当事者たちが語る後世に残る作品の舞台裏

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Paul McCartney and Elvis Costello during the ‘Flowers In The Dirt’ recording sessions. Photo: MPL Communications Ltd

もしポール・マッカートニー(Paul McCartney)が生涯ジョン・レノンとしか曲を書いていなかったとしても、それはそれで十分だったはずだ。彼らがザ・ビートルズの一員として生み出した音楽は今もポピュラー・ミュージック全体に影響を及ぼし続け、彼らのソングライティング上のパートナーシップを永遠に歴史に刻んでいる。

しかしながら、ビートルズ以後も、ポール・マッカートニーは進んでありとあらゆる形の音楽的冒険に参加し、新たなテリトリーへと自らを駆り立て、バラエティに富んだ音楽界の共謀者たちと後世に残る作品を作り出し続けている。ポール・マッカートニーのコラボレーションの粋を集めてみれば、それはそのまま彼の新しい表現方法に対する飽くなき探求心と、どんなスタイルの音楽にも順応できる類稀なる能力の証である。

この記事では過去数十年間のポール・マッカートニーのコラボレーションの中から、我々なりに選りすぐりの共演を集めてみた。あなたのお気に入りが入っていない? コメント欄でご意見をお寄せください。

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1. スティーヴィー・ワンダー / Stevie Wonder

ビートルズのメンバーたちは有名になる前からモータウンの大ファンであり、セカンド・アルバム『With The Beatles』にも3曲のタムラ・モータウンのカヴァーを収録していた(その敬意は一方通行ではなく双方向だった:ビートルズのデビューのほぼ直後から、モータウンのスターたちはビートルズの曲をカヴァーしている)。ポールが初めてモータウンの若きスター、リトル・スティーヴィー・ワンダーと会ったのは1966年、ロンドンのナイトクラブだった。1974年にはアメリカでジョン・レノンと共に、ポールとスティーヴィーが他の様々なアーティストたちに交じってジャムっている様子が収められたテープが今も残っている。

だが、ポールとスティーヴィーが初めて正式にコラボレーションしたのは1982年のことだった。ポールはこう振り返っている。

「僕の方からスティーヴィーに電話を掛けたんです。ちょうど“Ebony And Ivory”って曲を書きあげたところでね。黒人と白人が調和しながら生きてゆくっていう内容の曲だ。僕は彼のことを心から尊敬していたし、彼も『イエス』と言ってくれました」

レコーディングのプロデュースを手掛けたのはビートルズのプロデューサー、ジョージ・マーティンで、彼はこのセッションについてこう語っている。

「この上なく特別な経験になりました。何しろ彼らはそれぞれがマルチ・インストゥルメンタリストですからね」

Ebony And Ivory

かくして完成した曲はポールの1982年のアルバム『Tug Of War』の最後を飾ることとなった。また、シングルとしてリリースされたこの曲は、ポールにとって1977年の「Mull Of Kintyre」以来の全英1位のヒットとなり、アメリカのビルボード・チャートでは驚異の7週連続首位を独走した。これはポールにとってはザ・ビートルズ時代に自身が書いた「Hey Jude」と並ぶ最長記録である。

ちなみに、2人が一緒にレコーディングしたのは「Ebony And Ivory」だけではなく、同じく『Tug Of War』に収録されている「What’s That You’re Doing?」でも2人は共演している。この曲はポールがフリーランス・ヘルレイザーと組んだ2005年のアルバム『Twin Freaks』でセルフカヴァーを披露して以来、近年ではDJたちのお気に入りとなっている。

What’s That You’re Doing? (Remixed 2015)

2. カール・パーキンス / Carl Perkins

ザ・ビートルズのメンバーたちは全員カール・パーキンスの大ファンだったと言っても言い過ぎではないだろう。伝えられるところではこのロカビリー界の巨人は1964年3月、ビートルズがカール・パーキンスの「Matchbox」のカヴァーをアビー・ロードのEMIスタジオでレコーディングしていた時に、陣中見舞いに訪れたのだそうだ。この曲はバンドにとっては活動初期によくプレイしていたパーキンスの楽曲のひとつだった。

それから17年の時を経て、カリブでアルバム『Tug Of War』のレコーディングに勤しんでいたポールは、ジョージ・マーティンが所有するモンセラットのエア・スタジオにパーキンスを招待した。ポールはこう回想する。

「カール・パーキンスと一緒に演りたかったんです。僕は子供の頃から彼のことが大好きだったので。僕が最初に聴いたブルーズは彼の曲なんです。例えば “Blue Suede Shoes”。前もって彼にどの曲に参加してもらうかなんてことは決めずに、とりあえず僕から電話を掛けて、いっしょにする気はありますかどうか訊いてみたんです。彼は『ポール、勿論あるとも』って応えてくれて、そのままモンセラットにやって来ました。お供も連れずに、たったひとりでポンとやって来てくれました、飛行機に乗ってね。到着したのは夜も遅い時間でしたね」

「僕らがスタジオにいたら、彼がやって来てこう言ったんです。『いやはや、ここは実に素敵なところだね、ポール』って。彼はそのままベッドに行って、翌朝起きて来た時にはもちろんまだ島を観て回ったりなんかはしてなかった。で、その日の午後に彼はまたスタジオにやって来て言ったんです。『ポール、信じてくれ。今朝目が覚めた時、私は自分が死んで天国にいるんじゃないかと思ったよ。ここは実に素敵だね、実に素晴らしい』って。そんなわけで、彼がそこにいる間に、僕は“Get It”って曲を書きあげた。レコーディングは楽しかった。あの曲を聴くといつも、僕の頭の中にはローレル&ハーディ[訳注:アメリカの有名な喜劇俳優コンビ]が踊ってる姿が浮かぶんですよ」

Get It (Remixed 2015)

滞在中のポールとリンダ・マッカートニーによる歓待に対する感謝を表すために、パーキンスは「My Old Friend」という曲を書き下ろした。ところがカールが二人の前でこの曲を披露した時、ポールは明らかに震え出し、突然立ち上がってその場から出て行ってしまった。リンダはカールを安心させるために優しくハグをすると、理由を説明した。

その僅か数か月前に殺害されたジョン・レノンが、生前最後にポールと言葉を交わした際、彼に向かって言った「たまには僕のことを思い出してくれたまえ、我が旧友よ(Think of me every now and then, my old friend)」という言葉が、パーキンスの歌の中にそのまま入っていたのだ。

My Old Friend

3. マイケル・ジャクソン / Michael Jackson

ポールとマイケル・ジャクソンの付き合いが公になったのは、マイケルがウイングスのアルバム『London Town』に収録された「Girlfriend」をカヴァーし、彼の1979年の大ヒット・アルバム『Off The Wall』に収めたことがきっかけだった。そして1981年、彼らは「Say Say Say」の共作を開始する。

ポールはモジョ誌のポール・デュ・ノイヤーにその時のことをこう説明している。

「マイケルから電話がきて、一緒に仕事がしたいって言われたんです。僕が『それはどういう意味?』って訊いたら、彼は『ヒット曲が作りたいんです、分かりますよね?』って。僕は『そいつは面白そうだね』って返事をして。そうして彼がこっちへやって来たんです」

「僕らはロンドンにある僕の事務所の2階に腰を下ろして、僕がギターを掴んで、そこから “Say Say Say”が生まれました。彼には歌詞を随分助けてもらいました。別にメッセージ性の強い曲じゃないけど、彼と一緒に仕事をするのは楽しかった。何しろとても熱心に取り組んでくれたから……あの当時はマイケルのことをソングライターとしてまともに評価する人は殆どいなかった、単なるヴォーカリストあるいはダンサーとしてばかりでね。だけど彼は『何曲かヒット曲を作ろう』って言い放って、実際まさにその通りになったんです」

Paul McCartney and Michael Jackson 'Say Say Say [2015 Remix]'

2人がこの曲を完成させるまでには更に2年の月日を要した。その間、彼らは更に2つの曲をレコーディングした。その1曲の「The Man」は「Say Say Say」同様彼らの共作曲であり、ポールの1983年のアルバム『Pipes Of Peace』に収録された。もう1曲の「The Girl Is Mine」はマイケルの1984年の大ヒット・アルバム『Thriller』に収録され、ポールにとっては自らがソングライティングにもプロデュースにも関わっていない楽曲として、1969年の「Something」以来のヒット・シングルとなった。

Michael Jackson – The Girl Is Mine (Audio)

4. エリック・スチュワート / Eric Stewart

10ccのマルチ・インストゥルメンタリストであるエリック・スチュワートは数軒のスタジオを経営しており、その中の1軒がポールの自宅兼スタジオからほど近いサリー州ドーキングのストロベリー・サウスだった。ポールはアルバム『Tug Of War』制作中にエリック・スチュワートをセッションに招いた。

「アコースティック・ギターを持って来てよ、一緒にジャムろう」

はじまりは1981年のことで、2人はそれから足かけ5年の間、様々な機会を捉えては一緒に仕事をするようになった。エリック・スチュワートは最初インストゥルメンタリストでありシンガーとして、後には曲作りのパートナーとして、引き立て役として、更にはプロデューサーとして『Tug Of War』『Pipes Of Peace』『Press To Play』のアルバム全てでポールと並びクレジットされている。

ポールは後に両者の関係を感慨深げに振り返り、もしかすると彼は一緒に仕事をしてくれるジョン・レノンのような存在を求めていたのかも知れないと語った。

「昔みたいなコラボレーターが恋しかったんです。曲は自分で書いたとしても、それを相談できる相手がいるのは便利なことでね……時にはただ『イイねえ』の一言をくれるだけでもいいんです、それだけで僕としては十分に共同作業の要件を満たしています。だってそうでなきゃ、こっちはずっと悩み続けることになるわけで。セカンド・オピニオンってのはどんな時でもありがたいもんです」

『Press To Play』の収録曲は、シングル・カットされた「Stranglehold」「Pretty Little Head」そして「Only Love Remains」を含め、半分以上でポール・マッカートニーとエリック・スチュワートの2人がクレジットされている。

Only Love Remains (1993 Digital Remaster)

5. エルヴィス・コステロ / Elvis Costello

80年代終盤にポールが新しい曲作りのパートナーを見つけようと決めた時、白羽の矢を立てたのがエルヴィス・コステロだった。いざ始めてみると、ポールはその作業が多くの点でジョン・レノンとの共同作業に酷似していることに痺れてしまった。2人でそれぞれ向かい合わせに腰を下ろすところ、アコースティック・ギターやピアノ、ノートを用いるところ、そして彼のパートナーがレンズの分厚くて動物の角で出来たフレームのメガネを掛け「素晴らしく辛辣なトーンを含んだ声」をしているところまでも。ポールはこう語っている。

「僕が歌うのに合わせて、(エルヴィスが)それを引き立てるような、辛辣さとウィットに富んだラインをひねり出すんです。僕はこう言いました『なんてこった、今のはまさに僕とジョンのスタイルそのものだ』って。僕が何かロマンティックなものを書くと、ジョンはいつだってそいつに手厳しい反駁で応えてたんです」

コステロ側からすれば、畏敬の念で圧倒されないようにするのは容易なことではなかった――少なくとも最初のうちは。

「当然のことながら、そりゃあちょっとばかりはありましたよ、『ヤバいどうしよう、ポール・マッカートニーだぞ』って。何しろ山のように有名な曲を書いてきた人ですからね……彼はソングライティングに対してはとても合理的でした――面白いもんで、実にフォーマルだったんです」

その結果として生まれた1989年のアルバム『Flowers In The Dirt』は、商業的にも批評家視点においても成功を収めた。それに触発されたポールが、10年ぶりにツアーに出ることを決めたほどに。

Paul McCartney – My Brave Face

 

6. ユース / Youth

ポールとのコラボレーターの中でやや控えめな(そして実のところ、あまり知られていない)アーティストの一人が、ミュージシャンでありプロデューサーのユースとの仕事である。ユースは本名をマーティン・グローヴァーと言い、最初に頭角を現したのはポスト・パンク・バンド、キリング・ジョークのベーシストとしてだったが、彼のダンス・ミュージックに惹かれたポールは、1993年のアルバム『Off The Ground』制作時、数曲のリミックスを依頼したのだった。

このパートナーシップは、まず同年のアルバム『Strawberries Oceans Ships Forest』という形で実を結んだものの、これはザ・ファイアーマンという名義でリリースされた作品で、スリーヴにはポールの名前もユースの名前もクレジットされていない。それから現時点までに、更に2枚のアルバムが具現化されているが、1枚は1998年、もう1枚はそれから10年の時を経て世に出た。

Strawberries, Oceans, Ships, Forest

ユースはこう回想している。

「ある日、ポールがリンダと一緒にどこかへ行かなきゃならなくなって、俺はひとりでザ・ミル(サリー州にあるポールのスタジオの名称)に残って作業してました。彼らのヘリコプターが戻って来たのはかなり深い時間で、二人は既にシャンパンを何杯か引っかけてて、子供たちも一緒でした。ポールが俺に向かってこう言ったんです、『僕ら、もうちょっとここらで観ててもいいかな?』って。まるでそこが彼のスタジオじゃないみたいにね。結局彼らはみんなそのまま居残って、太陽が出るまで音楽に合わせて踊ったりしていました」

ファイアーマンのセカンド・アルバム『Rushes』は、リンダが1998年4月、56歳の若さでこの世を去る直前にポールが録音作業を行なっていたプロジェクトのひとつだった。ユースはこう説明する。

「俺たちがそのアルバムをレコーディングしてたのは、ちょうどリンダの癌治療が最後の段階に差し掛かってた時でした。彼女はまたプロジェクトに積極的に関わり出していたんです。彼女が亡くなった時はもの凄く悲しかった。今アルバムを聴くと、まるで彼女へのとても美しいレクイエムみたいに感じられます」

Watercolour Guitars

 

7. ナイジェル・ゴッドリッチ / Nigel Godrich

ナイジェル・ゴッドリッチと一緒に仕事をするようポールに勧めたのはジョージ・マーティンで、折しも彼によるベックやレディオヘッドのアルバムのプロダクションが批評家たちからも支持を得ていた時だった。そしてゴッドリッチはポールの2005年のアルバム『Chaos And Creation In The Backyard』のプロデュースを手掛けることとなった、恐らく21世紀のポールのリリース作の中で、最も高い評価を得ている作品である。

だが、完成に漕ぎ着けるまでの行程は決して順風満帆ではなかった。ポールは後に、ゴッドリッチがポールのいたコンフォート・ゾーン(心地よい場所)から引っ張り出そうと躍起になっていたことに言及している。ゴッドリッチからは、このセッションに対して少なからず、恐れを覚えながら臨んでいたという証言が得られた。

「僕の最初のリアクションはある種の恐怖でした。彼が重要人物だということだけじゃなく、彼がどの程度進んで自分の手を汚す気になってくれるのかが測りかねていたんです」

ポールが後を引き取って話をこう続ける。

「アルバム制作中には何度か張りつめた空気になった瞬間がありました。ナイジェルはおべっか使いじゃなくて最初にこう言われました。『警告しておきますが、僕は自分の好きなものは分かってるから』って。特には議論が白熱することもありました。“Riding To Vanity Fair”って曲では、『僕はいいと思う』『全然ダメです!』『いいや、断然これがいいよ!』みたいな応酬があった。でもそこで気づいたのは、彼をそんな風に追い込んだって、何の意味もないってことです。僕がやるべきだったのは、まず彼の意見を傾聴するってこと。そこで僕らは、何故ナイジェルがそれを気に入らないのかってところにフォーカスを移してみた。『最初のラインはいいと思うんです、だけどその後が……』『ああ、だったらこういうのはどう?』ってね」

Riding To Vanity Fair

そして、ゴッドリッチいわく、最終的にはそのアプローチが奏功したのだ。

「3度目のセッションで、彼はもう一度その曲を僕に弾いて聴かせてくれたんですが、僕は思わず言いました。『ウソでしょ、前よりも凄く良くなってるじゃないですか!』って。その曲は“At The Mercy”です。彼は『どうやらやり方を思い出してきたよ!』って言ってくれました。多分それは、彼がやってることに対して、第三者が何でもただ盲目的にそのアイディアを受け容れるんじゃなく、『あんまりピンと来ないですね』って言った時に、どうやって前に出したものをもっと良いものに仕上げるかっていうコンセプトの話だったんだと思います」

At The Mercy

 

8. カニエ・ウェスト / Kanye West

2014年、カニエ・ウェストがポール・マッカートニーとリリースした「Only One」は音楽業界に大いに波紋を呼んだ。何しろポップ・ミュージック史上最大のスターが、紛れもなく当時は全世界で一番のビッグネームだった男と手を組んだのである。このパートナーシップが最初に実現したのはロサンゼルスのバンガローで、ポールが即興で弾くキーボードに合わせ、カニエが意識の流れ(stream of consciousness)そのままのフリースタイル・ヴォーカルを合わせたことだった。

しかし、ポールが「Let It Be」が生まれた経緯について、亡くなった彼の母親が長男である彼の元を夢の中で訪ねてくれたことが発端だったという話をすると、カニエはそれを受け、実は彼がポールと交わしたジャムを聴き返してみて、カニエ自身の亡くなった母親が自分に語りかけていたことを確信したと言い出したのである。と言うよりも、彼を通して語った、と言うべきかも知れない。

「オフクロが俺に歌いかけ、俺を通してうちの娘に歌いかけてたんだ」というのがカニエの説明だった。いわく、彼には、

Hello my only one, just like the morning sun
You’ll keep on rising till the sky knows your name
ハロー、私のかけがえのない子、朝の太陽のように
あなたは天がその名を知るところまで昇り続けるのよ

という一節を歌った記憶はなかった。そして、彼の母親がつけたカニエという名前には、“only one(かけがえのないもの)”という意味があるのだ。

Kanye West – Only One ft. Paul McCartney

ポールはこのコラボレーションについて、2018年のモジョ誌のインタヴューでこう説明している。

「僕はカニエと一緒に仕事をしたけど、ただの一音だってプレイしたとは思わないんです。ただ後ろの方でブツブツ言ってたら、彼がそれを全部録音していて、そこから3つの曲を生み出したんです」

もはや地球上にポールのことを知らない人間を見つけることなど不可能だろうと思われていた時に、カニエとの仕事のおかげで、ポールの音楽はまた全く新たなオーディエンスと出逢うこととなった。そしてこのペアは2015年、リアーナを加えたヒット曲「FourFiveSeconds」で再び成功を収め、3人揃ってこの年のグラミー賞授賞式でパフォーマンスを果たした上に、ポールにとってはまた新たな初めての栄冠――ビルボード紙のホットR&B/ヒップホップ・ソング・チャートにおけるNo.1――獲得の機会となったのである。

Rihanna, Kanye West, Paul McCartney – FourFiveSeconds

 

9. グレッグ・カースティン/ Greg Kurstin

アデル、P!NK、リリー・アレンといったアーティストたちのプロデュースを手掛けて名を挙げたグレッグ・カースティンは、ヒットメイキングについてはどんな質問に対しても回答を持っていると思われてもおかしくなかっただろう。だがそんな彼でも、ポール・マッカートニーとアルバムのレコーディングに入った当初は、この70代の大ヴェテランが必要とするものを果たして自分が持っているのだろうかと訝る気持ちを抑えられなかったと言う.

「だって、ポールはその気になれば自分ひとりで何もかも出来てしまうじゃないですか。素晴らしいギタリストであり、素晴らしいドラマーであり、しかも自分のやりたいことが分かっているんだから。でも多分、彼は自分のアイディアをぶつけて、跳ね返してくれる相手がいる方がやりやすい人なんでしょうね」

2人は2015年初頭から一緒に仕事を開始した。カースティンはローリング・ストーン誌にこう語った。

「元はと言えば、ある映画のための音楽を作るので一緒にセッションをしていてたんです。僕はいまだにそれが公開されるのかどうかも分からないんだけど、とにかくポールがあるアニメ映画のために書いた曲をレコーディングすることになって、僕らはフル・バンドとブラス・セクション、バッキング・シンガーたち他、必要とする何もかもを揃えて丸一日スタジオで一緒に過ごしました。今どんな段階になってるのかは知らないですが、とにかくあれはポールと僕にとってはひとつのトライアルでした。恐らく彼は僕と一緒に仕事をするということがどんなことなのか、確かめてみたかったんだと思います。それが最初だったんです」

翌年以降、延々24か月継続して行われたセッションが、ポールの新作アルバム『Egypt Station』へと結実することとなった。

だが、これだけヒットメイカーとして敬意の的であるカースティンにとってさえ、ポール・マッカートニーの曲に対して進言したりテコ入れしたりするのは何とも神経の磨り減る作業だった。スタジオで何か特に苦労したことはあったかと訊かれ、彼はこう応えている。

「これと言って思い出すことはないけど、ひとつ憶えてるのは、彼がずっと作業を続けてて、『あれ、僕が言ったこと聴こえてたかな?』って思った時があったんです。それから多分30分ぐらいしてから、僕が『ポール、僕がさっき言ったアイディアについてはどうでしょうか?』って訊いたら、彼が「ああ、聴こえてたよ。ただ知らんぷりしてただけ」って言ったんで、2人で大笑いになったんです。それから2日ばかり経って、彼がそのアイディアを試してくれたんですが、僕は『了解です!』って感じでした。自分でも箸にも棒にもかからないってことが分かったくらいだったのに、ポールは何とかしてそれを活かそうと、何度も試行錯誤してくれたんです。彼はいつだって他人の意見を聴いているし、絶えず吸収し続けてるんだと僕は思います」

Paul McCartney – I Don’t Know (Lyric Video)

 

10. ライアン・テダー / Ryan Tedder

2018年に称賛を得たアルバム『Egypt Station』の中で、唯一グレッグ・カースティンによるプロデュースではなかった曲は、ワンリパブリックのフロントマンであるライアン・テダーを起用して仕上げた曲だった。アメリカ人のマルチ・インストゥルメンタリスト兼ソングライターでありプロデューサーとして、これまでにビヨンセからエド・シーランまでヒットを量産してきた彼が、元ビートルズのメンバーとの仕事を請けてみる気はないかと打診されたのは、テイラー・スウィフトとアデルのレコーディングでグラミー賞を獲得したばかりの時だった。ポールはモジョ誌にこう語っている。

「スタジオに入る前、電話で話した時にライアンが僕にこう訊いたんです『この一週間で達成したい目標は何ですか?』って。こっちとしてはとりすまして、『さあねえ……』なんて言うことも出来たんだけど、僕はそこで変な駆け引きは止めることにしました。それでこう言ったんです『ヒット曲!』って。彼は言いました『素晴らしい、そう来なくっちゃ。世界はヒット曲を求めてますからね!』って」

2人のコラボレーションが生んだシングル「Fuh You」は、単にキャッチーでコマーシャルな魅力だけでなく、そのきわどい示唆に富んだタイトルと歌詞で注目を集めることとなった。その点について訊ねると、ポールは確かにイタズラ心があったことを認めている。

「ああ、そうですね。スタジオに篭ってると、勿論そこでは真剣に仕事をしてるわけなんですが、所詮音楽だからちょっとでも楽しい部分は必要だし、あんまり深刻になり過ぎるのもどうかってところから、ささやかな同志の交わりみたいな関係が芽生えて、内輪のジョークも出てくるようになってきたんです。で、あの曲を彼と一緒に作りあげてから、僕はブースに入ってそれをそのまま歌ったわけ。きっと誤った解釈もあるだろうとは思いつつ、そのまま入れられて良かったと思います。歌詞を読んでもらえば100%純粋な想いが伝わると思いますが、うちの娘はね、あの曲を耳にした途端に部屋にやって来てこう言ったんです『いま何か聴こえたけど、あれマジ?』って。僕は『さあ、どうかな』って応えた。でも、ああ、ちょっとばかり楽しい仕掛けをするのはイイことですね、そう思わない?」

Paul McCartney – Fuh You

 

11. リンダ・マッカートニー / Linda McCartney

ポールがこれまで他の誰よりも長きにわたって共同作業をしてきた人物――ここにはジョン・レノンも含まれている――と言えば、彼の最初の妻のリンダだ。ザ・ビートルズ解散後、リンダはすっかり気力を失くしてしまっていた夫を励まし、彼自身の名前をそのままタイトルにしたデビュー・ソロ・アルバムのレコーディングに向かわせた。

だが、ビートルズ後の2作目のアルバムでは、彼は単なるインスピレーションとしてではなく、音楽的なパートナーとしての役割を妻に求めるようになった。彼女にキーボードの手ほどきをしてレコーディングに臨んだ1971年のアルバム『Ram』は、ポールとリンダ・マッカートニーの名前がクレジットされている。

『Ram』の後、2人は元ムーディー・ブルースのデニー・レインとドラマーのデニー・サイウェルを誘ってウイングスを結成。めまぐるしく入れ替わるラインナップの中で、2人のマッカートニーとデニー・レインはずっと不動のまま、バンドは7枚のスタジオ・アルバムを出して5度のコンサート・ツアーを経験し、中でも1975年8月から76年10月まで続いたマンモス・ワールド・ツアーでは、北米だけで50万人以上の動員を記録した。

彼らの音楽的パートナーシップについてリンダがもたらしたものは数々あるが、とりわけ魅力的だったのは、何と言ってもポールとのハーモニーだろう。ポールもこう振り返っている。

「マイケル・ジャクソンと一緒に仕事をしてた時、彼が『あそこのハーモニーはどうやったんですか?』って訊いてきたんだ。僕はこう答えました『ああ、そこは僕とリンダで演ったんだよ』って」

以後、マイケルはリンダを彼らの作業に招き入れ、一緒にレコーディングを行なっている。

普段は専らキーボードとバッキング・ヴォーカルに徹することを旨としていたリンダだが、1977年のレゲエ風味であり彼女が初めてひとりで書いた曲「Seaside Woman」のように、時にはスポットライトを浴びることも楽しんでいた。リンダは80年代から90年代を通じて夫と共にプレイし続けた。ここには89年から90年にかけて行われた全103本に及ぶポール・マッカートニー・ワールド・ツアーも含まれている。

残念ながら1998年、彼女は56歳という若さで、癌によりその生涯を閉じることとなった。彼女の死から半年後、彼女のレコーディングを集めた遺作となるコレクションが、『Wide Prairie』というタイトルでリリースされた。このアルバムにはリンダがそのキャリアを通じて制作した音源が収められており、彼女がひとりで、あるいはポールと一緒に、または外部の共作者たちと書いた幾つものナンバーと、様々なカヴァー曲を聴くことが出来る。

Linda McCartney – Seaside Woman (Version 2) Official Video

Written By Paul McGuinness



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2020年7月31日発売
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