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史上最高のチェス・ソウル・レコードBEST10曲

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ロックの歴史が好きな人なら、ザ・ローリング・ストーンズ、レッド・ツェッペリン、クリーム、ポール・バターフィールド・ブルース・バンド等々、60年代ロックを形作った数多くのバンドをインスパイアしたレコード・レーベル、「チェス」を知っているだろう。しかしチェスは、ハウリン・ウルフ、マディ・ウォーターズ、ジョン・リー・フッカー、チャック・ベリーやボ・ディドリーだけの為のホームではなかった。会社は60年代を通して、サイケデリック・ロック、ジャズ、スウィング、リズム&ブルース等モダン・ミュージックの全ジャンルで活躍していた。そしてアフリカ系アメリカン・ミュージックをルーツに持つ同時代の他レーベル同様、都会のブラック・オーディエンスが欲するものを提供した。そう、ソウルだ。そしてレーベルの名を上げたブルースロックン・ロールのリリース同様、ベスト・チェス・ソウル・レコードは音楽の未来を形成する力にもなった。

アメリカ中西部にある音楽の主要都市デトロイト同様、チェスの本社所在地シカゴは、ソウルの発生地のひとつだった。街はカーティス・メイフィールド、ジェリー・バトラー、メジャー・ランス、バーバラ・アクリン、ザ・シャイ・ライツ等々、この“ウィンディー・シティー”(シカゴの別名)をホームと呼ぶ才能豊かな人々で溢れていた。チェスはモータウンがデトロイトで続けてきた闘いよりも、地元で大変な競争に直面していたが、それでもダンスフロアを埋め尽くすベスト・チェス・ソウル曲を定期的に届け、多くの熱烈的音楽ファンは、チェス・ブランドのソウルを、他の街のソウルよりも本格的だと見なしている。

と言うわけで、ソウルフルな心を研ぎ澄ましながら、地下室へ降りていき、絶対に聴くべきベスト・チェス・ソウル・ナンバー10曲を確認しよう。そうそう、これは入門編に過ぎない。この発信元には素晴らしいソウル・レコードがたっぷり存在するのだ…。

 

■エタ・ジェイムス&シュガー・パイ・デサント「In the Basement」
時代によってアーティストの受け止められ方が変わってくるのは興味深い。シュガー・パイ・デサントは近年、優れたブルース・シンガーとして見なされることが多く、一方のエタ・ジェイムスは「At Last」のような涙交じりのバラードや、ランディ・ニューマンの「You Can Leave Your Hat On」の色っぽいヴァージョンで知られている。どちらのシンガーも60年代を通してモダン・ソウルの頼もしい支持者であり、ふたりが集い全速力で挑んだ「In The Basement」では、よくぞこれだけのソウルをマイクが捉えたものだと驚かされる。1966年に、チェス傘下のカデット(ベスト・チェス・ソウルだけではなく、レーベルで最も元気なジャズ一団のホーム)からリリースされたこのパワフルでグルーヴィーなナンバーには、猛烈にファンキーなパーティー会場が描写され、そこへ行かなきゃ損だと思わずにはいられない。立ち直れないかも知れないが。これを聴いてダンスしたいと思えなかったら、あなたはそういうことに向かない人だってことだ。

エタ・ジェイムスは2012年にこの世を去ったが、シュガー・パイ・デサントは変わらず強くてカッコよくて、まだギグを行なっている。80歳代になる現在でもだ。ついでに、彼女の「Soulful Dress」と、それからこれまたエタ・ジェイムスとの男の度肝を抜くデュエット曲「Do I Make Myself Clear」もぜひチェック。また雑学ファン達への情報として「In The Basement」のプロデューサーでありチェスの熱烈な支持者ビリー・デイヴィスの経歴書には、作者としてジャッキー・ウィルソンの「Reet Petite」から大成功を収めたソフトドリンク広告「I’d Like To Buy The World A Coke」まで、幅広いタイプの作品が並んでいる。

■ビリー・スチュワート「Sitting In The Park」
ソウル・ファンが“シカゴ・サウンド”に言及する場合、通常はビリー・スチュワートの「Sitting In The Park」等で表現される甘くハーモニーに溢れたスタイルを指す。このシンガーは1956年に45回転盤デビュー作「Billy’s Blues」をかなり売った為、チェスは彼を手放さなかった。ビリー・スチュワートは素晴らしいテナー・ヴォーカリストだっただけではなく、魅力的な人柄の持ち主として知られる。彼は大柄だったが、その話しぶりは軽快で、ビブラートとメロディをインプロヴァイズする能力はその頃の10年間を代表するベスト・チェス・ソウル・ナンバーをレコーディングした、60年代半ばの絶頂期には、比類のないほど抜きん出ていた。

ビリー・スチュワートは丸々と太った体型を決して隠そうとはしなかった。それどころか作曲を手掛けた「Fat Boy」と「A Fat Boy Can Cry」でそれをトレードマークにし、「Sitting In The Park」では自分を恋愛の敗者として描いた。“塀に寄りかかりながら / 自分にはセンスがないのかと思う”として恋に悩むティーンエイジャーなら誰もが共感出来るような非常に独特な雰囲気の落ち込んだようなパフォーマンスで嘆き悲しむ。1965年には全米チャートのトップ30に食い込み、ザ・グレイト・アメリカン・ソングブックのソウルフルな分野を取り上げた記事で触れても良かったようなスタンダード・ナンバー「Summertime」の風変わりなヴァージョンは彼の最大ヒット作となった。ビリー・スチュワートは1970年に自動車事故により32歳で死去。ソウル界屈指の。独創的で自由なスタイルを誇るヴォーカリストの早過ぎる死だった。

■ミッティ・コリア「I Had A Talk With My Man Last Night」
商品を決して軽んじることのない会社のチェスは、ミッティ・コリアのデビュー・アルバムを『Shades Of A Genius』(訳注:“天才の面影を感じさせる人”)と命名し、上品で切ないナンバー「I Had A Talk With My Man Last Night」がアメリカでトップ50入りを果たして成功を収めた後の1965年にリリースした。アルバムのタイトルは、アトランティックが “The Genius”として売り出したレイ・チャールズを意識したもので、この作品には彼を連想させるナンバーが3曲収録されている。悲しいことに、この戦略は上手くいかず、ミッティ・コリアのヴォーカルの魅力的才能を称賛したのは、結局ハードコアなソウル・ファンだけだった。しかしジェームス・クリーヴランドのゴスペル・スタンダード「I Had A Talk With God Last Night」が基になっているこの壮大で風格のあるレコードで彼女は期待に沿えるものを生み出し、ベスト・チェス・ソウル・レコードの中でも決して引けを取らないことを証明した。実に見事な「Sharing You」や、ベトナムで戦う為に出発する男友達への不安な思いを隠そうとする彼女の心が張り裂けそうな「My Party」等々、この後に発表された素晴らしい45回転盤が失敗に終わり、ミッティ・コリアは70年代初期にゴスペル・ミュージックへと一気にシフトした。

■ザ・デルズ「Make Sure (You Have Someone Who Loves You)」
ザ・デルズのレコードを1枚選択するのは、夜空から星をひとつ選ぼうとするようなものだ。彼等は仲間である5人組ヴォーカル・グループのザ・テンプテーションズほど成功することはなかったものの、全く同様にダイナミックで革新的であり、ジョニー・カーターとマーヴィン・ジュニアのツイン・リード・ヴォーカリストは、音楽界に類を見ない対照的な光と影を誇っていた。

ザ・デルズはドゥーワップから誕生し(ジョニー・カーターはザ・フラミンゴズで歌っていた)、同じラインナップで40年以上続いたキャリア中、この50年代ヴォーカル・サウンドを幾らか維持し続けた。しかし1966年にヴィージェイ・レーベルが倒産したことで最初の成功は終わりを告げ、これがきっかけで彼等は会社がちょうどモータウンっぽいグルーヴからエクスペリメンタル・サイケデリック・サウンドへとシフトしようとしていた時期のチェスへ移籍する。ザ・デルズは非常にバランスよく、ムーディーで圧倒的な傑作「Agatha Von Thurgood」から、ベトナムに触発された感動的な哀歌「Does Anybody Know I’m Here」まで、ありとあらゆるものを提供した。後者の1968年シングルB面の柔らかで洗練されたノーザン・ナンバー「Make Sure (You Have Someone Who Loves You)」は、ソウルフルであると同時に、垢抜けた繊細なナンバーだった。ザ・デルズはその後も、時には奇抜でさえあるような魅力的なものを追い続け、更に先へと進んでいった。ソウル・ファンはみんな彼等の並外れたチェス・カタログを研究しながら、充実した時間を過ごすべし。

■フォンテラ・バス「Rescue Me」
これはベスト・チェス・ソウル・レコードに必ず入れるべきトラック。ピアノをプレイし、同じくソウル・シンガーとして成功した姉妹と共に、ファミリー・ゴスペル・トラディションに没頭していたシンガーが1965年にレコーディングしたミリオン・セラーのソウル・スタンダードだ。これを聴くとアレサ・フランクリンを思い出さないだろうか。しかしながら、アレサが永遠のソウルのアイコンなのに対し、フォンテラ・バスが唯一知られているのは、この完璧な45回転盤「Rescue Me」だけだ。なぜもっとなかったのだろう? いや、あったのだ。この後にリリースされた45回転盤「Recovery」は、ノーザン・ソウル・オーディエンスに好評だったし、ボビー・マクルーアとの素晴らしいデュエット曲「Don’t Mess Up A Good Thing」等も存在する。フォンテラ・バスは最終的にチェスを離れたがその後もソウル界で活動し続け、2000年代に入ってからはジャズを手掛けることが増え2012年に亡くなった。もし人々の記憶に「Rescue Me」しか残っていないとしても、それでも彼女はなかなか素敵な人生を送ったと言えよう。

■マリーナ・ショウ「Woman Of The Ghetto」
様々なアーティストに繰り返しカバーされてきたことから、この曲をベスト・チェス・ソウル・レコードのひとつとして挙げた。レゲエ・ヴァージョンは数多くあり、またソウル界の巨匠ドリス・デュークは1975年に素晴らしい演奏を披露した。そしてマリーナ・ショウ自身が1974年のブルーノートから出したアルバム『Live At Montreux』ではロング・ヴァージョンを提供した。しかし決定版と言えば、マリーナ・ショウのセカンド・アルバム『The Spice Of Life』(1969年)収録の心引きつけられるパンチの効いたグルーヴと、チェスのサイケデリック・ソウル時代の大御所チャールズ・ステップニーとリチャード・エヴァンスの真似出来そうで出来ないプロデュースによるオリジナル作だ。当時チェスのセッションでプレイし、その後アース・ウィンド&ファイアーのリーダーとなるモーリス・ホワイトが手掛けたと思われるカリンバ(指ピアノ)がフィーチャーされた「Woman Of The Ghetto」は、マリーナ・ショウが共作したカルチュラルでファンキーで痛烈で挑発的で押しの強いナンバーだ。それもこれも、世界が黒人女性解放の用意が出来ている以前の時代に。彼女はこの他にも素晴らしいレコードを数多く制作したが、これほどパワフルに聴こえるのは他にはない。

■ラムゼイ・ルイス「Uhuru」
魅力的な声でなくてもソウルフルなものは出来る。ラムゼイ・ルイスは1956年にチェスのジャズ系レーベルのアーゴと契約後、『Ramsey Lewis And His Gentlemen Of Swing』をリリースし、彼がオーティス・レディングといった人達と同じ土壌の出ではないことを示唆した。ラムゼイ・ルイスはドビー・グレイの「The “In” Crowd」のライヴ・ヴァージョンが、1965年に予想外のアメリカ・トップ5スマッシュ・ヒットを記録するまでに、ジャズ・ピアノによるアルバムを18枚発表し、バッハから「Never On Sunday」まであらゆるものをカヴァーした。そのリズムは手拍子で強調され、グルーヴはシンプルでソウルフルで、まるでモータウンのアンプラグドのようだった。ラムゼイ・ルイスとプロデューサーのエズモンド・エドワーズは次に「Hang On Sloopy」、「Uptight」、そして「Wade In The Water」のヒット・カヴァー曲を発表。この頃の彼のレコードにはリチャード・エヴァンスのアレンジによる、モータウンのようなライトさとは異なるブラッシーなオーケストラがフィーチャーされるようになっていた。型に嵌まっていて幾分上品な感じもあり、またかなりスマートでグルーヴィーでもあった。またラムゼイ・ルイスはアルバム『Another Voyage』(1969年)収録曲「Uhuru」のように、実験的なことも続けていた。この作品はチャールズ・ステップニーがプロデュースし、再びモーリス・ホワイトのカリンバがフィーチャーされていた。分かり易い。ファンキーそのものだ! ラムゼイ・ルイスは今でも仕事をしていて、現在もレコーディング活動中だ。

■リトル・ミルトン「Who’s Cheating Who?」
チェスはソウルの登場後もブルースを見捨てることはなかったが、ブルース・アーティストのサウンドを、より“コンテンポラリー”な方向へと促すことはあった。偉大なハウリン・ウルフでさえもファンキーなシングルをリリースしていた。しかしながら、ミシシッピ州出身のブルース・プラザーのリトル・ミルトンには、ソウルがぴったり合っていたようでシャッフルと全く同じようにグルーヴを心地良くこなしていた。彼は10年以上に渡ってレコーディング・アーティストとして活躍した後、1965年にチェスのチェッカー・レーベルの「We’re Gonna Make It」と「Who’s Cheating Who」で大躍進を果たした。どちらも最初のヒット曲がタイトル名の、素敵なアルバムにフィーチャーされている。リトル・ミルトンのチョッピーなギターはニューオーリンズ・ソウルを彷彿とさせるが、その柔らかなホルンのラインとクールなグルーヴは純然たるシカゴ・サウンドそのもの。「Who’s Cheating Who?」はノーザン・シーンで人気を博し、特にベスト・チェス・ソウル作品を高く評価する常連客で知られるマンチェスターの伝説的ツイステッド・ホイール・クラブで親しまれた。

■ジャッキー・ロス「Jerk And Twine」
イージー・ゴーイングなノーザン・ソウル“フローター”「Jerk And Twine」は、流行のソウル・ダンス一枚分の価格で二枚分堪能出来る作品だ。甘い声をもつジャッキー・ロスは、ミズーリ州セントルイスで誕生し、10歳になる前にシカゴへ移住。チェスに加わり1964-65年の間に、同レーベルからシングル7枚とアルバム1枚をリリースした。その後ブランズウィック(これまたシカゴの街のソウル・シーンで大活躍していたレーベル)へ移籍し、45インチをさらに2枚発表した。彼女はまたウィリアム・ベルのピーチツリー及びウィリー・ミッチェルのウェイロから、45回転レコードをリリースした。温かく軽やかで若々しい歌声で知られるロスは、メジャー・ポップ・ヒット作を出さなかったベスト・ソウル・シンガーのひとりだ。

■ロータリー・コネクション「Hey, Love」
60年代半ばのチェスは、他のレーベル同様サイケデリック・ソウルを受け入れる用意は出来ていたが、それでも会社のボスのレナードとフィル・チェスはアメリカのヒッピーの若者達相手にもっとカッコよくならなければならないと感じ、新たに設立したカデット・コンセプトをレナードの息子マーシャルに任せた。ブリティッシュ・ロックのレジェンド、ステイタス・クオー唯一のUSヒットのリリースだけに満足していなかったマーシャルとレーベルは、ヒッピー・ロック・ソウル・ドリームを叶えるべく、ベスト・チェス・ソウル作品を数多く生むことになるバンド、ロータリー・コネクションの結成に着手した。

ロータリー・コネクションは、レーベル常連セッション・ギタリストのフィル・アップチャーチ、プロデューサーのチャールズ・ステップニー、そして経験豊かなソングライターのシドニー・バーンズをグループのメンバーに迎えて5年もの歳月を費やし、サイケ・ソウルの限界に挑戦しながらマディ・ウォーターズとハウリン・ウルフのファズボックス・ブルースへの思い切った進出をバックアップした。グループのメンバーには犬にしか聴こえないような高音を出す高い音域で知られる非常に魅力的なシンガー、ミニー・リパートンもいた。しかしロータリー・コネクションは、カルト的なグループであり続ける運命にあるようにみえた。彼等は1967年から1971年にかけてアルバムを6枚リリースし、3作目の『Peace』が最大ヒットした(24位を記録)。彼等のアルバム(はっきり言えば、シングル・トラック)は、無秩序で息をのむような複雑なものかも知れないが、今ではその全作品が、悪く言っても“壮大な道楽”、良く言えば“壮大”に聴こえる。ザ・ニュー・ロータリー・コネクションの名の元でリリースされた最終アルバム『Hey, Love』は、彼等の作品中で最もまとまりのあるものだった。最後のチャンスだと承知していて、大きなものを残そうと思ったのかも知れない。ロック、フォーク、ジャズとソウルが混じり合った目も眩むような内容で、タイトル・トラックは言うまでもなく、どの収録曲も同様にお勧め。このあと、ミニー・リパートンはソロロ・シンガーとして70年代にスターへと上り詰めた。1979年に死亡した彼女の、その特異な才能は今でも語り継がれている。

Written By Ian McCann

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