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スペンサー・デイヴィス・グループのスペンサー・デイヴィスが81歳で逝去。その功績を辿る

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Photo: David Warner Ellis/Redferns

60年代の伝説的バンド、スペンサー・デイヴィス・グループ(Spencer Davis Group)の創設メンバーであるスペンサー・デイヴィスが心臓発作のため81歳で逝去した。肺炎の治療のため入院していた病院で2020年10月19日に亡くなったことを彼の代理人がBBCに伝えている。

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Keep on Running

30年以上にわたりスペンサー・デイヴィスと仕事を共にしていたボブ・バークはこう語った。

「彼はとても良い友人でした 。倫理観が強く、才能に溢れ、心優しい、非常に知的で寛大な人でした。彼がいなくなってしまうのは寂しいです」

この訃報は、10月20日に、スペンサー・デイヴィスのドラマーであるピート・ヨークによって、元ブラック・サバスのマネージャーであるジム・シンプソンら彼の近しい友人たちに報告され、ジムは英メディア“Birmingham Live”に次のように語っている。

「つい30分前にピートから電話がきて、“なんて残念なんだ”と思いました。スペンサーは素敵な人でした。常にとても礼儀正しくて、音楽に対して純粋な人でした」

その後も「彼は素敵な人でした。寛大で心優しく、温かくて、面白い人でした。彼の死は多くの人に惜しまれることでしょう」と自身のツイッターに記した彼の友人で、英ラジオ局“ラジオ・キャロラインでホストを務めるスージー・ワイルドをはじめ、ソーシャルメディア上では続々とスペンサー・デイヴィスへの追悼が捧げられている。

2011年のインタビューで、ピンク・フロイドのニック・メイソンは彼とバンドの初期の影響について次のように語っていた。

「僕たちはサイケデリック・ムーブメントの牽引者になりたかったわけではなく、R&Bバンドになりたかったんです。クリームやエリック・クラプトン、ザ・トライデンツ時代のジェフ・ベック、それからスティーヴ・ウィンウッドがいた頃の初期のスペンサー・デイヴィスのライヴをよく観に行ったものです」

Gimme Some Lovin' (Live in Finland, 1966)

1939年に、空挺兵の息子としてウェールズ南部の都市スウォンジーに生まれたスペンサー・デイヴィスは、6歳の頃からハーモニカとアコーディオンを学び始める。

彼は16歳の時に公務員として働くために一度ロンドンに移り住んだが、その後バーミンガムへと拠点を移し、昼間はドイツ語を教えながら、夜に地元のライヴハウスで演奏していた。

ブルースとスキッフルに触発されたスペンサー・デイヴィスは、後にザ・ローリング・ストーンズのベーシストとなるビル・ワイマン、そして後にクリスティン・マクヴィーの名でフリートウッド・マックのコア・メンバーとして活躍するクリスティン・パーフェクトと共にフォーク・ミュージックを演奏する最初のバンド、ザ・セインツ(The Saints)を結成。

その後1963年に、バーミンガムでスティーヴ・ウィンウッド(キーボード、ギター)、弟のマフ・ウィンウッド(ベース・ギター)、ピート・ヨーク(ドラム)とスペンサー・デイヴィス・グループを結成すると、彼らはジャズ、ソウル、R&Bを融合した斬新な音楽スタイルで、ジャマイカのソングライター、ジャッキー・エドワーズが作曲を手掛ける「Keep On Running」 や「Somebody Help Me」といった初期の全英No.1ヒットを世に送り出し、最初の3作のアルバムで立て続けに全英TOP10入りを果たす。

Keep On Running (Live)

スペンサー・デイヴィスは、1966年に彼らのシングル「Gimme Some Lovin」が、ザ・ビートルズの両A面シングル「We Can Work It Out / Day Tripper」から全英首位の座を奪った時にザ・ビートルズからお祝いの電報が届いたことをBBCのインタビューの中で語っている。

「まだどこかの紙の山に埋もれて残っていると思いますが、そこには“ナンバーワン達成おめでとう!ビートルズより”と書いてありました」

同年バンドは、「Gimme Some Lovin’」でアメリカ、イギリスの両国でゴールド・ディスクを獲得したが、驚くべきことに、後にグレイトフル・デッドやサンダーら様々なミュージシャンたちによってカヴァーされた、この3分間の60年代最大のヒット曲は、わずか1時間足らずで出来上がったという。

「マフ・ウィンウッドが弾き始めたベースのリフを聴いて、これはいいと思ったので、彼にそれを弾き続けるように頼んで、僕がそこにいくつかコードを加えていったんです。最初は、マイナーコードを弾いていたんですが、ギタリストでヴォーカルのスティーヴ・ウィンウッドが“いや、メジャーコードの方がいい”と言うので、試してみたらバシッとキマったんだ。その時はまだ歌詞はありませんでした」と彼は同曲の制作秘話を明かしていた。

「時に自分でもはっきりわからない魔法のような出来事が起きて、うまくいくことがあるんです。‘Gimme Some Lovin’は本当にすごい速さで完成しました」とマフ・ウィンウッドは当時を振り返っている。

The Spencer Davis Group – Gimme Some Lovin'. Stereo

 

スペンサー・デイヴィス・グループは、1969年に一度解散したが、70年代初頭にアルバム『Gluggo』と『Living In A Back Street』のために再結成した。

スペンサー・デイヴィスはまた、70年代半ばにアイランド・レコードでアーティスト開発の職に就いていたこともあり、そこではソロ・アーティストとしての地位を確立しつつあったスティーヴ・ウィンウッドと共に、当時まだ新人だったボブ・マーリー、ロバート・パーマー、エディー・アンド・ザ・ホット・ロッズらのプロモーションを手助けしていた。

1984年にソングライターとして復帰したスペンサー・デイヴィスは、ダスティ・スプリングフィールドやブッカー・Tをゲストに迎えたソロ・アルバム『Crossfire』をリリース。2005年以降には、ウィンウッド兄弟を除いたメンバーでスペンサー・デイビス・グループを再結成すると、キャリア後期は世界各地をツアーで巡り、年間200本以上のライヴを行うこともあった。

スペンサー・デイヴィスは1972年にDisc誌のキャロライン・ブーシェにこう語っている。

「僕は僕らしくありたいと、自分が弾くべき曲を弾いているだけで、僕の耳から煙が出てきたり、口から火が吹き出したりすることはないんです。僕はただ昔ながらのフォーク・ブルースのギターをやっていきたいんだ」

Written By Tim Peacock



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