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『スパイ大作戦』など数々の映像作品の音楽を手掛けたラロ・シフリンが93歳で逝去。その功績を辿る
TVドラマ『スパイ大作戦』(のちに映画化されたのが『ミッション・インポッシブル』)をはじめ、数々の映画やテレビ番組のスタイリッシュかつ雰囲気ある音楽を手掛け高い評価を得た作曲家のラロ・シフリン(Lalo Schifrin)が2025年6月26日、肺炎による合併症のため逝去した。享年93。
彼が手掛けた代表作には、『パットン大戦車軍団』、『暴力脱獄』、『ブリット』、『泥棒を消せ』、『ダーティハリー』、『シンシナティ・キッド』、『燃えよドラゴン』、『悪魔の棲む家』などがある。
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その生涯
1932年6月21日、アルゼンチン・ブエノスアイレスにボリス・クラウディオ・シフリンとして生まれた彼は、ハリウッド映画界で輝かしいキャリアを築く一方で、ディジー・ガレスピーをはじめとする数多くの一流ジャズ・ミュージシャンのアレンジャーとしても活躍し、エラ・フィッツジェラルドらと共演するなど、ジャズ界でも広く知られた存在だった。
チューバのためのクラシック協奏曲から、現代ジャズ・アンサンブルの作品まで幅広く手がけた彼にとって、「すべては音楽」だった。彼はクラシックとジャズを融合させる自身のスタイルについては、冗談混じりに「作曲家としてのジキル博士とハイド氏のようなもの」と語っていた。
バイオリニストでブエノスアイレス・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターだったルイス・シフリンを父に持つ彼の音楽教育は幼少期から始まり、5歳でピアノを習い始めた。法律と社会学を学んだのち、1952年にフランスへ留学した彼は、パリ国立高等音楽・舞踊学校で3年間作曲を学ぶ。23歳のときにはパリ国際ジャズフェスティバルでアルゼンチン代表として出演し、1950年代初頭にはロンドンでも活動し、タビー・ヘイズらと共演を果たした。
1955年にアルゼンチンへ帰国した彼は、16人編成のコンサート・バンドを結成。後に「南米初のモダン・ジャズ・オーケストラだったよ。ホレス・シルヴァーらジャズ・ミュージシャンの楽曲をレパートリーにして、ツアーにも出かけたんだ」と当時を振り返って語っている。
また、このバンドの演奏を聴いたトランペット奏者でありバンドリーダーのディジー・ガレスピーに才能を見出されたことについて、彼はこう回想している。
「ガレスピーは、僕のピアノを聴いて“このアレンジ、君が書いたのか?”と訊いてきたんだ。僕が“はい、そうです”と答えると、“うちのバンドに来ないか?”って誘われた。まるで夢みたいで、最初は冗談かと思ったよ。でも、それが結果的に僕がアメリカに渡るきっかけになったんだ」
そして、そのバンドにはクインシー・ジョーンズもいた。
様々な作品
幼少期からジャズに親しみ、ジェリー・ロール・モートン、ファッツ・ウォーラー、ルイ・アームストロングらの音楽を耳で覚え、メロディーとハーモニーを何度も演奏して暗譜して育った彼は、やがてカウント・ベイシー、キャノンボール・アダレイ、フレディ・ハバード、ルイ・ベルソン、シェリー・マン、ケニー・バレルらと共演・録音するようになる。彼はかつてピアニストのオスカー・ピーターソンに「一度ジャズ・ミュージシャンになったら、一生ジャズ・ミュージシャンなのさ」と語っていたといいう。
ヴァーヴ・レコードでは、スタン・ゲッツ『Reflections』、ジミー・スミス『The Cat』、ディジー・ガレスピー『Gillespiana』、カル・ジェイダー『Several Shades of Jade』などの名作でアレンジャーを務め、1966年にはクラシックとスウィングを融合した野心作『 The Dissection and Reconstruction of Music from the Past as Performed by the Inmates of Lalo Schifrin’s Demented Ensemble as a Tribute to the Memory of the Marquis De Sade』を発表し、グラミー賞にノミネートされた。
彼はグラミー賞に通算21度ノミネートされ、ジャズ・オルガンの巨匠ジミー・スミスとのアルバムを含め4度の受賞を果たしている。中でも特筆すべきは、『スパイ大作戦』の音楽での受賞だろう。「何かエキサイティングなものを書いてくれ」という依頼から生まれたあのテーマ曲は、時を超えて今なお色褪せることのない魅力を放ち、彼自身もその出来に大いに満足していた。同作が映画化された際、彼は主演のトム・クルーズとの印象的なエピソードを明かしている。
「 トム・クルーズは“ミッション:インポッシブル”を観て育ったって話していたよ。そしてこの作品の音楽こそが、彼が俳優としてだけでなくプロデューサーとしてもプロジェクトに参加する決断を後押しした、最大の要因のひとつだったと聞いて、本当に嬉しかったんだ」
ラロ・シフリンは、1988年にはハリウッドの殿堂入りを果たし、過去に6度のアカデミー賞にノミネートされている(『暴力脱獄』『女狐』『さすらいの航海』『悪魔の棲む家』『コンペティション』『スティング』)。2018年、クリント・イーストウッドから名誉アカデミー賞を授与された彼は、受賞時のスピーチで、「この名誉あるオスカーを受け取ることは、夢の集大成、まさに“ミッション・コンプリート”です」と述べていた。
衰えない創造
映画芸術科学アカデミーは公式X(旧Twitter)を通じて、「物語に緊張感を生み、アドレナリンを駆け巡らせ、脈動を与えた彼の天才的な作曲」に敬意を示すとともに、「すべての鼓動をスリルに、すべての静寂をサスペンスに変えた作曲家を、私たちは永遠に忘れないだろう」と追悼の意を表した。
晩年のラロ・シフリンは、かつてグルーチョ・マルクスが所有していたビバリーヒルズの邸宅で暮らしていた。ある日、思いがけずそのグルーチョ本人がインターホンを鳴らし、「ちょっと中を見せてもらえないかな」と自ら名乗って訪ねてきたと、彼は微笑ましいエピソードとして回想している。
ロサンゼルスでは、グレンデール交響楽団の常任指揮者および音楽監督を務めるなど、クラシック音楽の分野でも存在感を示した。
1989年には、翌1990年に開催されたFIFAワールドカップ・イタリア大会のグランドフィナーレにおける音楽制作を依頼され、三大テノール(ルチアーノ・パヴァロッティ、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラス)のパフォーマンスのアレンジを担当。その模様を収めたライヴ・アルバム『Carreras Domingo Pavarotti in Concert』は世界的な大ヒットを記録している。
1990年代もラロ・シフリンは、ハリウッドで活動を続け、『タンゴ』などの映画音楽を手がける一方で、“音のカメレオン”とも称される多彩な才能を発揮し、『Jazz Meets the Symphony』と題したオーケストラ・ジャズ・アルバムのシリーズを録音。
その後も彼の創作意欲は衰えることなく、70代になってからも、『ラッシュアワー』、『ラッシュアワー2』、『女神が家にやってきた』、そして2006年には息子ライアン・シフリン監督による『Abominable』の音楽も担当した。そして2015年、83歳にしてホラー映画『ハロウィン2016』のメインテーマを作曲。かつて映画『エクソシスト』の音楽を「暗すぎる」という理由で却下された過去を持つ彼が、なおも現役でホラー音楽に挑む姿勢は、多くのファンを驚かせた。
ラロ・シフリンは、映画史上最も重要な作曲家のひとりであり、驚くべき作品群を後世に残した。彼はかつて、音楽が人生にもたらすものは何かと問われ、こう答えた。
「私たちは皆、人間愛を共有している。私は自分の音楽で誰かの心に触れることができる可能性を愛している。音楽をつくる目的は、人の心に触れることなんだ」
Written By Martin Chilton