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バッジーのベーシスト兼ヴォーカリストのバーク・シェリーが71歳で逝去。その功績を辿る

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Burke Shelley - Photo: Fin Costello/Redferns

英ウェールズ出身のハードロック・バンド、バッジー(Budgie)の創設メンバーで、ベーシスト兼ヴォーカリストのバーク・シェリー(Burke Shelley)が71歳で逝去した。現時点で死因は明らかにされていない。

この訃報は、フェイスブック上のバッジーのファンページで、彼の娘であるエラ・シェリーによって次のように伝えられた。

「深い悲しみと共に、私の父であるジョン・バーク・シェリーが亡くなったことをお知らせします。彼は今夜、生まれ故郷であるカーディフのヒース病院で眠るように息を引き取りました。71歳でした」

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その生涯

1950年4月10日、カーディフのカントンにあるセント・デヴィッド病院で、7人兄弟の一人として生まれたバーク・シェリーは、第二次世界大戦中、ドイツ空軍の爆撃によって壊滅的な被害を受けた王立兵器工場のあるカーディフのラニシェン地区で育った。戦後、再建されつつあったこの地で、彼は木登りをしたり、授業中にふざけたりと、自由奔放な子供時代を過ごした。

彼は楽器を習う前から、友人たちと歌をつくり、学校の学期末コンサートで披露していた。60年代初頭にザ・ビートルズが出現し、すべてを変えてしまった時、彼は父親に6ギニーもする最初のギターをせがんだ。そして彼は新聞の日曜版に掲載されていたバート・ウィードンのコラムで演奏を学びながら、曲を書き続け、若干16歳にて後にバッジーのファンに愛されることになる「Parents」を完成させたのだった。

Parents (live)

ジョン・レノン同様に、彼は早くから言語、特にごろ合わせや不条理主義を愛し(80年代には成人学生として英語の学位を取得するために勉強していた)、彼の言語への愛着は、後にバッジーのユニークな魅力の一部となっていく。

 

バッジー結成

1967年、同じカーディフ出身のデイヴ・エドマンズと彼のトリオ、ラヴ・スカルプチャーのライヴを見たことで、バーク・シェリーの世界観は一変することになる。当時訓練期間中だった積算士への道を捨て、音楽に専念することを決心した彼は、ベースに持ち替え、ドラマーのレイ・フィリップス、ギタリストのケヴィン・ニュートン、ブライアン・ゴダードと共に、同年バッジーを結成した。

ケヴィン・ニュートンとブライアン・ゴダードはその後すぐに脱退したが、幸運にもトニー・ボージが加入。彼は才能に溢れる多才なギタリストで、1978年にバンドを脱退するまでバーク・シェリーの音楽仲間であり共作者でもあった。

バーク・シェリーは、バンド初期の頃から強い意志を持ち、信念を貫き、ブレイクした時にはそれを最大限に生かそうと心に決めていた。1970年、ロックフィールド・スタジオで行われたプロデューサーのロジャー・ベインによるオーディションに向かう途中、彼はバンドメンバーに、当時のエージェントの意向に反して、カヴァー曲ではなく、自分たちのオリジナル曲を演奏するように伝えた。バーク・シェリーは当時をこう振り返っている。

「会場に行って演奏したら、ロジャーに、“君たちこそ、私が探しているバンドだ。私はこれまで2つのバンドとしか契約していない。君たちともう1つのバンドだ。彼らがデモを作り終えたら、次は君たちが自分のデモを作りに行くんだ”と言われたんだ。それがブラック・サバスだった。俺たちが“ヘヴィメタル”の同じスタートラインに立っていた、と言われるのそれが所以なんだ」

In for the Kill / You're the Biggest Thing Since Powdered Milk (live)

 

代表作

バッジーは、MCA、そしてA&Mレコードと契約していた1970年代前半から中盤にかけて、『Budgie』『Squawk』『Never Turn Your Back On A Friend』(バンドの代表曲「Breadfan」を収録)、『In For The Kill』(全英TOP30ヒットを記録)、『Bandolier』『If I Were Brittania I’d Waive The Rules』(バーク・シェリーの気まぐれでミリガン風の言葉の才能を示すもうひとつの例)、そして、トニー・ボージが在籍した最後のアルバム『Impeckable』という一連の名盤を発表。これらは当時、商業的な成功を収めることはなかったが、その圧倒的な歌唱力とヘヴィなスタイルは、ロックとメタルの主要なプレイヤーたちに大きな影響を及ぼしている。

バンド黄金期のヒット曲には、「You’re The Biggest Thing Since Powdered Milk」、スモール・フェイセスのスティーヴ・マリオットから拝借した「Hot As A Docker’s Armpit」、「Napoleon Bona-Part 1 and 2」など、記憶に残るタイトルが多くある。

「In The Grip Of A Tyrefitter’s Hand」は、バーク・シェリーの地元の整備士が素手で古いタイヤをホイールから引き剥がすことにインスピレーションを受けたものだ。また、バッジーのバンドサウンドの特徴であるヘヴィネスを考えると、そのバンド名自体(セキセイインコを意味する)が、テリー・プラチェット小説のような皮肉なユーモアに満ちている。

Budgie – 05 – In The Grip of Tyrefitter's Hand

トニー・ボージの脱退後も、彼とバーク・シェリーは生涯の友人であり続け、最後までお互いの近くに住んでいた。バンドの音楽について語る時、バーク・シェリーは楽曲を共作したトニー・ボージにも丁寧に言及していた。彼はリフやテクスチャー、アイデアの宝庫であり、バーク・シェリーはその中からベストなものを探し出す耳と、それらを曲という形にまとめる才覚をもっていたのだ。バーク・シェリーは自身の信念について次のように語っていた。

「自分たちの好きなものを書くだけで、それが音楽シーンにどうフィットするかは考えていなかった。俺は、観客を喜ばせるために何かをするのではなく、少しの信念を持って、自分自身を喜ばせるんだ、と思いながらキャリアを送ってきた。そうすれば、居心地がよくて、自分のやっていることを気に入ってくれる人たちの支持を得ることができるんだ」

そして、実際彼らはそれを貫いた。今日に至るまで、インターネット上にはバッジーの演奏を見た彼らの往年のファンたちの楽しい思い出で溢れ、英TV番組“The Old Grey Whistle Test”から“Sweden Rocks Festival”に至るまでの過去のパフォーマンス映像が、彼らの素晴らしいパフォーマーとしての評判を裏付けている。

バッジーの影響

ヴァン・ヘイレンは初期のステージで「In For The Kill」をカヴァーし、バッジーのアメリカでの無名ぶりを嘆いていた。その後も、アイアン・メイデンが「I Can’t See My Feelings」を、メガデスが「Melt The Ice Away」を、サウンドガーデンが「Homicidal Suicidal」など、彼らの楽曲は多くの大物バンドによってカヴァーされているが、最も有名なのは、1980年代にメタリカが「Breadfan」と「Crash Course In Brain Surgery」をカヴァーを録音し、バッジーのキャリアと印税収入を大幅に底上げし、新世代のファンに彼らを紹介したことだろう。

Crash Course In Brain Surgery

2006年に発表した11作目のスタジオ・アルバム『You’re All Living In Cuckooland』を最後に、バッジーは2010年に事実上の解散に至った。晩年、バーク・シェリーは趣味でベースの演奏を続け、カーディフ周辺の旧友たちと結成した“The Night Owls”は地元のパブで、古いブルースの名曲、デイヴィ・グレアムの「Angi」やジョン・メイヤーの「Waiting On The World To Change」などを演奏していた。

Written By Tim Peacock



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