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【特集】ポップ・シーンを牽引した女性たち:40年代~90年代までのガールズ・グループ

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ボーイ・バンドが好きだと認めるのは、ティーンエイジャーの男子にとって非常に難しい時代があった。若い男性のマッチョな世界では、タフではないにせよ、少なくとも男らしく見えることが何よりも重要だったからだ。90年代前半、テイク・ザットのファンであると公言する男子は変わり者と決めつけられ、いじめにあう可能性もあった。しかし、これが女性R&Bトリオのエターナルなら全く問題はない。彼女たちはセクシーなイメージを醸し出していたからだ。

こうしたセクシーなイメージは男性ファンを惹きつけただけでなく、女性に力を与え、女性をインスパイアするものとして、女性ファンをも惹きつけた。ここが男女の根本的な違いだ。女性アーティストは全員に語りかけるが、大半の男性アーティストは男性にしか訴えない。いわゆる“クラシックな”ロック・バンドの大半は男性だが、ガール・グループはポップ誕生の時代から存在しており、人々の耳を喜ばせようと献身的な努力を長年続けてきた。これはもっと評価されてしかるべきだ。ここでは、ポップがポップと呼ばれる以前から、ポップを支えてきた女性グループの純然たる素晴らしさについて語っていこう。

40年代

それでは、遥か遠い昔まで遡ってみる。アンドリュース・シスターズからクリスティーナ・アギレラに至るまでは、時代的に大きな隔たりがあるように思われるが、スウィングとR&Bを融合し、40年代に絶大な人気を博したミネソタ出身の女性3人のパワーをクリスティーナ・アギレラは十分理解していた。クリスティーナ・アギレラによる「Candyman」のミュージック・ビデオを見てほしい。アンドリュース・シスターズが現代にアップデートされている。

デビュー直後から、3姉妹はアンドリュース一家の生活を支えていた。父親のレストランが倒産した後、彼女たちは10代でツアーに出たのだ。30年代、3人はスウィング・サーキットで人気を博し、デッカと契約を結ぶと、1937年に「Bei Mir Bist Du Schön(邦題:素敵なあなた)」の大ヒットを飛ばした。これはイディッシュ語を翻訳したロマンティックなバラードだが、同曲よりも前にリリースされた「Jammin’」(ボブ・マーリーの同名曲より40年も前にリリースされている)で、3姉妹は既にR&B的なクールさをみせていた。

「Shortenin’ Bread」と「Beer Barrel Polka」で世間の注目を浴び続けていた3人は、1940年から41年の間にスマッシュ・ヒットを連発した。「Beat Me Daddy, Eight To The Bar」「Scrub Me, Mama, With A Boogie Beat」等、今の感覚からするとおかしなタイトルの曲もあるが、戦時中にヒットした「Boogie Woogie Bugle Boy」や、いまだによく知られている「Rum And Coca-Cola」といった曲もある。3姉妹は映画も作り、当時のメディアは3人の恋愛やファッション、時折起こる対立などに心を奪われた。まるで現代のグループと同じである。アンドリュース・シスターズのレコードは『Fallout 4』『LA Noire』『Mafia II』といったビデオ・ゲームに使用されている。彼女たちは遥か昔から、未来を体現していたのだ。

The Andrews Sisters "Straighten Up and fly Right"

 

ただし、アンドリュース・シスターズが全てのスタートとなったわけではない。20年代、スリー・X・シスターズという人気のヴォードヴィル・トリオは、自分たちでいくつか楽曲を書いていた。彼女たちはボスウェル・シスターズの見本となり、ボスウェル・シスターズはアンドリュース・シスターズをインスパイアすると、息の長い活動でアンドリュース・シスターズのライヴァルにもなった。ボスウェル・シスターズも3部編成のハーモニー・トリオで、ジャズ、スウィング、R&Bの独特なサウンドにより、‘ファンキーな‘白人女性グループの元祖とされるようになった。ボスウェル・シスターズはニューオーリンズのジャズ・シーンから台頭し、1931年にアメリカでヒットを出しはじめた。

あまりにも古い話だと興ざめする読者には、ここで有益な情報をひとつ。ロックン・ロールを民衆に与えたのは、神でもなければ、アージェントでも KISSでもなく、ボスウェル・シスターズなのだ。時代を先取りした3姉妹は、1934年に「Rock And Roll」という曲をヒットさせた。ボスウェル・シスターズはアンドリュース・シスターズをインスパイアし、この流れがディニング・シスターズへと続いていくのだ。

Boswell Sisters – Rock and Roll 1934

キャピトル・レコードは、デッカのアンドリュース・シスターズに対抗すべく、オクラホマ出身のシャイなディニング3姉妹と契約を結んだ。ディニング・シスターズは、自らも認めていたとおり、アンドリュース・シスターズの影に隠れていたが、それでもアンドリュース・シスターズのスマッシュ・ヒット「Don’t Sit Under The Apple Tree (With Anyone Else But Me)」に対する返答として、「They Just Chopped Down The Old Apple Tree」を歌う気概を持ちあわせていたのだ。

50年代

40年代後半から50年代初頭に人気を博したガール・グループは、上品な趣を持っていた。オフショルダー・ドレスに身を包んだウィスコンシン出身の4人組、ザ・コーデッツは、バーバーショップ・スタイル(無伴奏の四部合唱)を踏襲していた。バーバーショップ・スタイルは好みが分かれるサウンドだが、ザ・コーデッツがリリースした「Mr. Sandman」(1954年)や「Lollipop」(1958年)は、いまでも直ぐに認知される楽曲だ。しかし、ロックン・ロールやドゥーワップと競争しようと努めたものの、彼女たちには一昔前のイメージが付きまとった。また、後の世代は彼女たちのレコードを気味が悪いと思うようで、「Mr. Sandman」はホラー映画『ハロウィンII』や、いくつかのSF映画の中で使用されている。

Mr. Sandman

ザ・コーデッツは、50年代のトラッド・ポップ・グループ、マクガイア・シスターズとライヴァル関係にあった。マクガイア・シスターズは、1954年にスパニエルズの「Goodnite Sweetheart, Goodnite」や、1955年にムーングロウズの「Sincerely」と、ドゥーワップの名曲を優雅にカヴァーすると、カヴァーされたドゥーワップ・アーティストよりも遥かに大きなヒットを記録した。しかし、ドゥーワップの台頭は時間の問題だった。

街角から生まれたヴォーカル・ハーモニー・サウンドは強烈で、無視できない存在感を放っていたのだ。1956年にはティーン・クイーンズが「Eddie My Love」、1958年にはシャンテルズがドゥーワップにラテンの要素を入れた「Maybe」をヒットさせた。しかし、ドゥーワップで最も興味深い女性ヴォーカル・グループは、「Mr. Lee」を書いたボベッツだ。これは1957年アメリカで特に愛されたヒットだが、同曲のモデルとなった男性は、全く愛されていなかった。当初、ボベッツは同曲でどれほどミスター・リーを嫌っているかを歌っていたが、説得されて歌詞の内容を変えた。しかし、その後のヒットの中に、ミスター・リーへの憎悪を隠せない1曲がある。1960年にリリースされた「I Shot Mr. Lee」だ。‘私はミスター・リーを撃った’とは、恐ろしいタイトルである。

60年代

アフリカン・アメリカンのガール・グループにも門戸は開かれ、 彼女たちも積極的に参入しはじめた。ニュージャージーのカルテット、シュレルズは当初、デッカからレコードをリリースしていたが、その後フィル・スペクター・レコードで名声を獲得した。メンバーのシャーリー・オーエンズがソングライティングに加わった「Tonight’s The Night」は小ヒットに終わり、「Dedicated To The One I Love(邦題:愛する貴方に)」もアメリカのトップ40には入らなかったが、次にリリースされた「Will You Love Me Tomorrow」は大ヒットを記録。キャロル・キングとジェリー・ゴフィンのペンによる同曲は、1960年にアメリカの総合チャートで第1位となった。このヒットを機に再リリースされた「Dedicated To The One I Love」も第3位に入り、さらに1962年には「Soldier Boy」で再び第1位に輝いた。

Will You Love Me Tomorrow

デトロイトで動向を見守っていたのは、タムラ・レコードを主宰するベリー・ゴーディだ。マーヴェレッツの「Please Mr. Postman」は、シュレルズのサウンドをよりラフでR&B的にしていた。ベリー・ゴーディは、繰り返して使えるヒットの方程式を見つけたのだ。しかし、シュレルズに感銘を受けたのはベリー・ゴーディだけではなかった。イギリスでは、ザ・ビートルズがシュレルズの「Boys」と「Baby It’s You」をデビュー・アルバムでカヴァーしていた。なお、ザ・ビートルズは同アルバムでブルックリンの女性トリオ、クッキーズの「Chains」もカヴァーしている。ザ・ビートルズのような大物がアメリカのガール・グループをカヴァーしていることに驚く人もいるだろう。しかし、ザ・ビートルズは自分たちが愛する音楽を讃える音楽ファンであったことを忘れてはならない。

Baby It's You (Remastered 2009)

ハリウッドでは、フィル・スペクターも注意深く行動していた。フィル・スペクターは、自身の代名詞ともいえる硬質な“ウォール・オブ・サウンド”を柔らかくできる女性グループを複数探し求めたが、クリスタルズやザ・ロネッツは、彼の重厚なプロダクションに負けないパワフルなシンガーを擁していた。クリスタルズは「Da Doo Ron Ron」、「Then He Kissed Me」といったヒットを彼にもたらしたが、彼女たちにとって唯一のナンバーワン・ヒットは、他のグループの作品だった。ブロッサムズがクリスタルズの名前でジーン・ピットニーの「He’s A Rebel」を歌ったのだ。フィル・スペクターは、誰よりも先に同曲をレコーディングしようと急いでいた。クリスタルズはニューヨークに住んでいたが、スペクターは彼女たちが 西海岸に到着するまで待っていられなかったのだ。

物議を醸したクリスタルズの曲の中でも、興味深い余生を送った曲がある。「He Hit Me (And It Felt Like A Kiss)」は1962年にリリースされたが、当然のことながらヒットしなかった。しかし、数十年後、エイミー・ワインハウスの心をとらえたのだ。彼女は、ガール・グループのほとんど自虐的な苦しみに魅了され、こうしたフィーリングを自身の音楽に取り入れ始めた。(なお、伝えられるところによれば、クリスタルズは同曲をひどく嫌っていたそうだ)

フィル・スペクターが抱えていたもうひとつのメジャー・ガール・グループは、髪を大きく膨らませて、ビッグビートのバラードを歌っていたザ・ロネッツだ。ヴェロニカ・‘ロニー’・スペクターをフロントに擁した3人組は、1963年に6枚目のシングル「Be My Baby」を大ヒットさせると、本領を発揮しはじめた。その後も、「Baby I Love You」「(The Best Part Of) Breaking Up」「Walking In The Rain(邦題:恋の雨音)」、さらには後にザ・ビーチ・ボーイズがカヴァーしてヒットした「I Can Hear Music」のオリジナル・ヴァージョン等、同様の名曲を世に送り出した。なお、ザ・ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンは、「Be My Baby」のアンサーソングとして「Don’t Worry Baby」という曲を作っている。しかし、ここでもフィル・スペクターが全てを取り仕切っていた。ザ・ロネッツがフィル・スペクターのために歌った最初の4曲は、レコード上では全てクリスタルズのクレジットになっていたのだ。

The Ronettes – Be My Baby (Official Audio)

ブロンクス出身の4人組、シフォンズも1963年に人気の高かったガール・グループだ。ジュディ・クレイグとシルヴィア・ピーターソンというリードシンガー2人を擁したシフォンズは、「He’s So Fine」や、ジェリー・ゴフィンとキャロル・キングによる名曲の数々(「One Fine Day」「Sweet Talkin’ Guy」「I Have A Boyfriend」)でヒットを記録した。シフォンズはピークを過ぎた60年代半ばも素晴らしいシングルをリリースし続けた。特に、「Out Of This World」は、モータウン顔負けのサウンドが聞ける名曲だ。

ジェリー・リーバーとマイク・ストーラーは、ザ・コースターズやエルヴィス・プレスリーにヒット曲を提供していたことで有名だったが、ガール・グループを手掛けようとレッド・バードというレーベルを設立し、契約アーティストの半数近くを女性で占めた。1964年、ディキシー・カップスの「Chapel Of Love」(元はザ・ロネッツのために作られた曲だ)で、全米ナンバーワンを獲得。独特の音楽文化を持つニューオーリンズ出身のディキシー・カップスは、ニューヨークのライヴァルとはそのサウンドで一線を画していた。彼女たちの歌う「Iko Iko」を聴けば分かるだろう。活き活きとしたニューオーリンズの陽気な雰囲気が伝わってくるはずだ。

また、急進的なサウンドを持つグループといえば、レッド・バードの白人カルテット、シャングリラズが挙げられる。シャングリラズの楽曲はメロドラマ調で、 苦悩を歌うロイ・オービソンやジーン・ピットニーと同様にダークなポップだった。「Remember (Walking In The Sand)」は涙を誘うバラードだ。若者たちのヴェトナム出征を受け入れようと苦悩するアメリカが描かれている。曲中で戦争については触れられていないが、ボーイフレンドが遠くへ去り、彼なしで過ごす主人公の未来が歌われている。

次作の「Leader Of The Pack」はさらにダークだ。ティーンエイジャーの主人公が革ジャンを着たボーイフレンドに別れ話をした後、彼がバイクの事故を起こして死んでしまうという話だ。リード・ヴォーカリストのメアリー・ウェイスは、精神安定剤が必要なほどに悲痛な声をしていた(実際のところは、風邪薬だろうか。彼女はクリスタルズのバーバラ・アルストンが風邪を引いたかのような声で歌っている)。レコードには、カモメが鳴く声や、バイクのエンジン音が入っている。また、曲全体にリヴァーブがかかっており、とりわけ悲劇的な死を迎えた人を弔う教会の寒々しい休憩時間のようである。

The Shangri-Las -Leader Of The Pack Video with High Quality Sound

これぞポップの名曲だ。ガール・グループを牽引するトップ・アーティストとしてのシャングリラズの人気は短命に終わったが、同グループにとって最後の全米トップテン・ヒットとなった1965年の「I Can Never Go Home Anymore(邦題:家へは帰れない)」も怪曲だった。面白いことに、イギリスの先駆的パンク・バンド、ザ・ダムドが1976年にリリースしたデビュー・シングル「New Rose」では、「Leader Of The Pack」のイントロが引用されている。シャングリラズが長らくアウトサイダー的なステータスを維持してきた確かな証拠である。一方、より可憐なガール・グループ現象は、ボルチモアのザ・ロイヤレッツからやって来た。ザ・ロイヤレッツは、1965年にソウルフルな名曲「It’s Gonna Take A Miracle」を大ヒットさせた。

It's Gonna Take a Miracle

ソウルといえば、1964年までにタムラ・レコードもガール・グループをいくつかまとめ上げていた。マーサ&ザ・ヴァンデラス(「Heatwave」「Quicksand」「Dancing In The Street」)、ザ・ヴェルヴェレッツ(「Needle In A Haystack」「He Was Really Sayin’ Something」)、ザ・マーヴェレッツ(「Too Many Fish In The Sea」、「The Hunter Gets Captured By The Game」)が先駆となった後、真打ちが登場した。60年代最大のガール・グループ、ザ・シュープリームスだ。

ダイアナ・ロスはソウル・シンガーとしては同時代のライヴァルに劣ったものの、フローレンス・バラードとメアリー・ウィルソンの前に立って歌う彼女は、ティーンエイジャーから大きな人気を博した。彼女は魅惑的な人柄、愛くるしいルックスに加えて、史上最高のポップ・マシーンとされるモータウンのサポートも手にしていた。

ライター・チームのホーランド=ドジャー=ホーランドは、1964年の「Where Did Our Love Go(邦題:愛はどこへ行ったの)」を皮切りに「Baby Love」「Stop In The Name Of Love」「I Hear A Symphony(邦題:ひとりぼっちのシンフォニー)」「You Keep Me Hangin’ On」と煌びやかなヒット曲の数々を提供。また、モータウンは「Love Child」「Reflections」「The Happening(邦題:恋にご用心)」で、ザ・シュープリームスにサイケデリックの流行も取り入れさせた。

Baby Love

ホーランド=トジャー=ホーランドはモータウンを離れ、ザ・シュープリームスと同等の成功を収めようとしたが、その試みは失敗に終わった。ハニー・コーンはなかなかのポップ・ソウル・グループだったが、ヒットは「Want Ads」「Stick Up」「One Monkey Don’t Stop No Show」の3曲にとどまり、ザ・シュープリームスを影に追いやることはできなかった。

 

70年代

ダイアナ・ロスが脱退し、輝かしいソロのキャリアを歩んだ後のザ・シュープリームスは、そこまで大きな話題を振りまくこともなくなったが、グループは70年代に入ってもヒットを出し続けた。70年代も、女性ソウル・グループのサウンドで踊り続けた時代である。スターガードのようにファンキーなグループも存在した。

同グループは、元モータウンのプロデューサー、ノーマン・ホイットフィールドがリチャード・プライヤーの映画用に制作した「Theme Song From “Which Way Is Up”」のヒットで知られている。また、パーレットとザ・ブライズ・オブ・ファンケンシュタインは、ジョージ・クリントン/ブーツィー・コリンズが指揮したガール・グループで、奇抜な曲を歌うこともあった。4人姉妹のポインター・シスターズは逆毛を立て、1920年代のフラッパー的スタイルで身を包み、アールデコ調のディスコ・スタイルを演出していた。

同グループは、アラン・トゥーサンの「Yes We Can-Can」(バラク・オバマはこの曲に触発されたのだろうか?)をカヴァーしたほか、うっとりするほどセクシーな「Don’t It Drive You Crazy」(1977年)や、80年代半ばのエネルギッシュなポップ楽曲「Jump (For My Love)」等、多彩な楽曲をリリースし、12年もの間、ヒットを出し続けた。

人気ではポインター・シスターズに劣るものの、より力強いヴォーカルとキャラクターを持っていたのがラベルだ。ラベルは、60年代のR&Bアクト、パティ・ラベル&ザ・ブルーベルズから派生した3人組である。イギリスのテレビ番組『Ready Steady Go!』の元プロデューサー、ヴィッキー・ウィッカをマネージャーに擁していたラベルは、グラム ・ロック的な宇宙飛行士といった出で立ちで、アラン・トゥーサンによるプロデュース曲「Lady Marmalade」でナンバーワンに輝いた。リリース以来、同曲はダンスフロアの定番曲であり続けている。ラベルは同曲以上の成功を収めることはなかったが、個人でもグループでも実力派として存在感を示し続けた。

Labelle – Lady Marmalade (1975) | Afrofuturistic Funk Live

70年代のソウルにおいて、有力なスタジオを持っていた街はフィラデルフィアだ。流麗なスタイルで、多くの女性アーティストをサポートしていた。ファースト・チョイス(「Armed And Extremely Dangerous」、「Smarty Pants」、「Doctor Love」)、デトロイト出身の3姉妹で、熱心なソウル・ファンの寵愛を受けたジョーンズ・ガールズ、ワシントンDC出身の人組で、リーダーのシーラ・ヤングが自ら楽曲を書いていたザ・ファズ等が挙げられるが、フィラデルフィア最大の女性グループは、スリー・ディグリーズだ。同グループは、ザ・シュープリームスがデトロイトにもたらしたのと同じことをフィラデルフィアにもたらすことを目標としており「When Will I See you Again(邦題:天使のささやき)」「TSOP」「Love Is The Message(邦題:愛はメッセージ)」「Take Good Care Of Yourself(邦題:口づけでおやすみ)」等のヒット曲を出した。

ガール・グループはソウル・シーンでは受け入れられたものの、ロック・シーンでは厳しい状況に晒されていた。スージー・クアトロ率いるザ・プレジャー・シーカーズは、60年代半ばにタフなガレージ・ロックを演奏していた。60年代後半にクレイドルと改名したが、いまだに活動している。クレイドルと同世代のゴールディ&ザ・ジンジャーブレッズは、メジャー・レーベルと契約を結んだ初の女性セルフ・コンテインド・ロック・バンド(*訳注:自分たちで作曲、作詞、演奏、プロデュースをするグループ)だったが、デッカとアトランティックのパワーをもってしても、彼女たちをスターにすることはできなかった。

70年代、実力派のロック・バンドがいくつか登場し、大きく宣伝されたが、大半はないがしろにされた。例えば、セッション経験も豊富な本格的ミュージシャン4人組のファニーは、コンサートでは野次を飛ばされた(特に、スレイドの前座を務めた時は野次が酷かった)。LAの4人組、バーサは「Birtha has balls.(バーサには根性がある=睾丸と根性を掛けている)」というモットーとともにイギリスをツアーした。ミュージシャンとして、確かに彼女たちの肝は据わっていた。それでも、女性ロッカーは軽くあしらわれがちだった。

しかしここで、パンク革命がルールブックを捨て去り、女性ロッカーが活躍できる風潮をもたらす。イギリスでは、スージー・スー、ポリー・スチレン、ポーリーン・マレイ、ヴィ・サブヴァーサ、ゲイ・アドヴァート等が名を馳せ、アメリカでは、デビー・ハリーとティナ・ウェイマスがスターとなった。

しかし、メンバー全てが女性のグループは、さらに希少だった。アメリカでは、ザ・ランナウェイズがエネルギッシュで真っ直ぐなロックン・ロールで70年代を先導したが、悲しいことに、メンバーの数人が男性メンターのキム・フォーリーに虐待されていたことが後に明らかになった。

イギリスでは、ザ・スリッツが挑発的なイメージと、パンクとダブをミックスしたサウンドで登場。大ヒットは記録できなかったものの、大きなリスペクトを勝ち得た。よりアンダーグラウンドなグループでは、ザ・レインコーツが骨太なポスト・パンクのサウンドで賛否を巻き起こし、話題を呼んだ。彼女たちの辞書に妥協という言葉はなかった。そして今や、ザ・レインコーツは 同時代で最も独創的なグループのひとつとされている。さらにトラッド・メタル・ロック寄りの4人組バンド、ガールスクールは、ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル(NWOBHM)で多くのファンを獲得。怖い者知らずでモーターヘッドとのツアーやレコーディングをこなした。

80年代以降

80年代、ガール・グループを巡る状況は好転する。アメリカでは80年代前半、シスター・スレッジやメアリー・ジェーン・ガールズといったグループがディスコで大成功。より硬派なセルフ・コンテインド・バンドのクライマックスは、ダンス・ミュージックにファンキーなアティテュードをもたらした。

バングルスは、プリンスのペンによる「Manic Monday」や、世界各国でナンバーワンに輝いた「Eternal Flame」等、80年代後半にスマッシュ・ヒットを連発した。イギリスでは、デビュー当初はユニゾンで抑揚なく歌うスタイルが非難されていたバナナラマが「Shy Boy」やウィットに富んだ「Robert De Niro’s Waiting」等のヒットでメジャーなポップ・アクトに成長した。シヴォーン・ファーイの脱退後もグループは存続。なお、シヴォーンはバナナラマを脱退し、マーセラ・デトロイトとよりダークなサウンドが特徴のシェイクスピアズ・シスターを結成。アルバム『Hormonally Yours』からのシングル「Stay」が1992年に大ヒットした。

The Bangles – Manic Monday

バナナラマは、ゴーゴーズから影響を受けていた。ゴーゴーズは、ベリンダ・カーライルとジェーン・ウィードリンがリーダーを務めるロサンゼルスのバンドで、80年代前半に「Vacation」「Head Over Hells」、ジェーン・ウィードリンがファン・ボーイ・スリーのシンガー、テリー・ホールと共作した「Our Lips Are Sealed」でヒットを記録していた。ファン・ボーイ・スリーは、バナナラマとヒット・シングル2曲をレコーディングし、バナナラマが有名になる手助けをしたグループだ。そしてバナナラマは、スパイス・ガールズをはじめ、次世代のUKガール・グループに影響を与えるのだった。彼女たちは、バナナラマがスターになるのを見て成長したのだ。しかし、ガール・パワー世代の土台を作りながらも、影響を受けた音楽の中にあまり名前が上がらないアメリカのガール・グループがいる。アン・ヴォーグだ。

カリフォルニア州オークランド出身のファンキーな4人組は、タイメックス・ソーシャル・クラブやトニー・トニー・トニー等のヒット曲をプロデュースしたフォスター&マッケルロイが作り出したグループだ。ニュージャック・スウィングのプロダクションで名を馳せていた2人だが、彼らは50年代後半/60年代前半のガール・グループを現代風にアップデートしたグループを作りたいと思っていた。力強い歌声と同等にエレガンス、ルックス、知性も重視されたオーディションが開かれ、アン・ヴォーグが誕生した。見事なハーモニーを聴かせてくれるファンキーな1990年のデビュー・シングル「Hold On」が大ヒットすると、その後彼女たちはアメリカで10年間ヒットを量産した。

En Vogue – Hold On (Official Music Video)

フォスター&マッケルロイのフォーミュラは功を奏した――そのため、このフォーミュラは模倣された。イギリスの4人組エターナルは1993年から15曲のヒットを連発。オール・セインツは1997年から2000年の間に5曲のナンバーワン・ヒットを生み出した。アン・ヴォーグのように、オーディションで結成されたグループは多数存在する。その中でも圧倒的な成功を収めたのはスパイス・ガールズだ。普通の女の子5人が楽しみながら、音楽を通じてパワーを表現しているイメージ――そして何よりもその姿勢が、若い女性たちに大きな影響を与えた。1996年のデビュー曲「Wannabe」は、あらゆる主要音楽マーケットでナンバーワンを獲得した。

Spice Girls – Wannabe

実際のところ、’ガール・パワー‘というモットーは、90年代初頭にワシントン州で生まれたライオット・ガール・ムーヴメントの政治、怒り、エネルギーを希釈したものである。しかし、スパイス・ガールズのメッセージは、音楽的により評価の高いビキニ・キルやハギー・ベア、スリーター・キニーよりも、受け入れやすいものだった。

ガール・パワーは、何百万という思春期の少女たちに、フェミニズムという現実とは言わないまでも、フェミニズムという概念を届けた。スパイス・ガールズがヒットを連発したのは4年間だけで、5人組として活動していたのはそのうちの2年だけだ。

内容に乏しい楽曲もあるが、パンク時代にメンバー全員がラモーン姓を名乗ったラモーンズのように、グループの名前(スパイス)を苗字代わりに使い、ポッシュ・スパイス、ジンジャー・スパイス、スポーティ・スパイス、ベイビー・スパイス、スケアリー・スパイスというキャラクターを押し出したマーケティングはほぼ完璧だったと言えるだろう。こうして彼女たちは、90年代を代表するポップ・アクトとなった。

アメリカのブラック・ミュージックは、引き続き女性スターを生み続けていた。TLCは90年代前半に美しいレコードを作り、6,500万枚のセールスを記録。これは、最強ガール・グループ、デスティニーズ・チャイルドに匹敵する数字である。TLCを模範としていたデスティニーズ・チャイルドは、21世紀最大の女性スター、ビヨンセのキャリアの原点となったグループである。イギリスでは、シュガーベイブズやガールズ・アラウドが活躍した後、リトル・ミックスが登場した。後者2グループは、テレビのオーディション番組で結成された。

TLC – Waterfalls (Official HD Video)

アンドリュース・シスターズからリトル・ミックスに至るまでは長い道のりだ。しかし、その道程は驚くほどに真っ直ぐである。ここで挙げられたグループ1つにつき、何十ものグループが存在し、それぞれが独自のメッセージを持っていた。大勢の女性たち、そしてティーンエイジャー男性が、ガール・グループを愛してきた。彼女たちは、男性とは違った声をポップにもたらした。感情的な表現力と、時に驚くほどの率直さ。これは男性アーティストが表現できない(表現したいとも思えない)ことである。そしてこれこそがガール・パワーの真義ならば、女性にさらなる健闘を祈りたい。

Written By Nora Deane



 

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