夢のカリフォルニアの歴史 – ビーチ・ボーイズからブリンク182までが集まる楽園

July 7, 2017


夢のカリフォルニアの歴史 – ビーチ・ボーイズからブリンク182までが集まる楽園

ブライアン・ウィルソンは「素敵な女の子達が皆、カリフォルニア・ガールならいいのにね」と歌っていた。ママス&パパスは、LAにいれば「安心して暖かく過ごせたのに」と考えていた。ガンズ・アンド・ローゼズは「楽園の街(パラダイス・シティ)」に連れて行ってくれと求め、一方、トゥパックは「LAのストリートに俺のセレナーデを聴かせてやるぜ/オークランドからサックタウン/ベイエリアまで一回り/カリフォルニアは、どんな女でもモノにする男の街さ」とラップした。

ビーチ・ボーイズから、フォーク・ポップ、サイケデリア、カントリー・ロック、ヘア・メタル、ヒップ・ホップを経て、ブリンク182まで。過去半世紀のカリフォルニア・ミュージックは、州のアイデンティティとセルフ・イメージにとって重要な一部であった。アメリカのこの“黄金の州”には、太陽と海、ビーチと高速道路、峡谷と砂漠、そして言うまでもなく、富やスターダムといった大きな夢を目の前にちらつかせる映画スタジオやシリコンバレーのテクノロジー企業など、人々を西に引き寄せる何か特別なものがある。

California Dreaming米カリフォルニア州の主要都市、ロサンゼルス、サンフランシスコ、そしてやや小規模ではあるが、サンディエゴや、カントリー・ミュージックの町ベーカーズフィールドは、それぞれ違いを際立たせながら競合し合う複数の音楽シーンを生み出し、世界のポップ・カルチャーに大きな影響を与え続けている。サンフランシスコの人々は長い間、LAのお伽話のような人工的な世界を蔑んだ目で見ていたが、その一方でLAっ子達は、ベイエリアをヨーロッパかぶれの古風で遅れた場所として相手にしていなかった。

カリフォルニアを——もしくは少なくとも南カリフォルニアを——ポップ界の地図に載せ、有名にしたと言えるアクトをひとつ挙げるとしたら、それはビーチ・ボーイズだ。ブライアン・ウィルソンと彼の兄弟が、マイク・ラヴ、アル・ジャーディン、そしてデヴッド・マークスと共に前身バンドのペンデルトーンズを結成する以前にも、当然ながらLAには、ほんの数例を挙げただけでも、ウェスト・コースト・ジャズ、ホンキートンク・カントリー、そしてドゥーワップといった、重要なジャンルの音楽が存在していた。だが、ブライアン・ウィルソンが手掛けた60年代初期のティーンエイジャー達の日常を描いた讃歌は、世界中の他の地域の人々をも惹き付けてやまない、この楽園のサウンドトラックとなったのである。

「カリフォルニアはティーンの天国だ」と1969年に宣言したのは、音楽ジャーナリストのニック・コーンだ。「この土地のためにポップは創造されたのである……若者達が灰色の街の賃貸住宅で暮らし、いつも雨ばかり降っていて、『これで良いわけがない』『何かもっと良いものがあるに違いない』と思いながら生きている時に、このようなものが作り出されたのだ。カリフォルニアこそが、その“もっと良いもの”なのである」と。

California Dreaming言うまでもないことだが、ブライアン・ウィルソンは単なるキャッチーなティーン・メロディの作曲家以上の存在であるということが、やがて判明する。ビーチ・ボーイズがサーフ・ソングやホット・ロッド・ヒットを超越し『Pet Sounds』の複雑なシンフォニック・ポップや、「Good Vibrations」の多重構造のポップ・サイケデリアに進化した時、ブライアン・ウィルソンが真の天才作曲家であることが誰の耳にも明らかとなった。わずか4年という短い間に、『Surfin’』から『Surf’s Up』へとビーチ・ボーイズのサウンドが変貌を遂げたのは、まさに奇跡に他ならなかった。

ビーチ・ボーイズからの影響を感じさせるLA出身者は数多いが、プロデューサーのルー・アドラーもまたその1人である。彼は、似たようなサーフ調のジャン&ディーンを売り出し、成功させた(1963年6月、ジャン&ディーンはブライアン・ウィルソンが提供した曲「Surf City」で全米1位を獲得)後、バリー・マクガイアやママス&パパスのフォーク・ポップ・サウンドに針路を変更。聴く者の心を捉えて離さない1965年の名曲「California Dreamin’」で、ママス&パパスのリーダーであるジョン・フィリップスが西海岸に夢想を巡らせると、その夢は現実となった。“偉大なママ”ことキャス・エリオットの響き渡る歌声を特徴としていたこの4人組ママス&パパスは、ルー・アドラーがプロデュースを担当している。また彼らはLA郊外のローレル・キャニオンを、新たに到来したフォーク・ロッカー勢やシンガーソングライター達の波が押し寄せる最先端の飛び地として確立するのにも一役買った。

California Dreamingルー・アドラーは間違いなく、60年代のカウンターカルチャーの実情を正確に把握していた。彼はジョン・フィリップスと共に1967年の夏、カリフォルニア北部で<モンタレー・インターナショナル・ポップ・フェスティバル>を企画。3日間に及んだこの革新的なイベントによって、大きく異なる特色を備えていたLAとサンフランシスコの派閥同士が結び付き合い(そしてそこに、シカゴや、ニューヨーク、メンフィス、ロンドン勢も加わり)、音楽業界の様相に永続的な変化がもたらされたのである。

モンタレー・ポップ・フェス初日の金曜日の晩が、ジョニー・リヴァースやアソシエイションといった、洗練されたLAのアクトのための夜だったとすれば、次の日を支配していたのは、近隣サンフランシスコの流行最先端を行くヘイト・アシュベリー地区のヒッピー・ロック・バンド勢だった。サンフランシスコ・クロニクル紙のジャズ評論家ラルフ・J・グリーソンは、このフェスティバルの計画段階で重要な仲介役を果たした人物だったが、彼は南カリフォルニアのバンドが「誇大広告で売り込みをかけたLAの音楽に養育されていた」一方、「ベイエリアで起きていることはナチュラルかつリアルだ」と考えていた。

モンタレーで話題をさらったのは、ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーの自由なフロントウーマン、ジャニス・ジョプリンだったかもしないが、その週末、ベイエリアのスターとなったのは彼女1人ではない。スティーヴ・ミラーはテキサス出身のギタリスト兼シンガーで、1968年のアルバム『Children Of The Future And Sailor』により、サイケデリック・ブルースを別の次元へと導いた。「サンフランシスコでは絶対に成功するはずだと思っていたよ」とスティーヴ・ミラーは語っている。「グレイトフル・デッドやジェファーソン・エアプレインは、楽器のチューニング方法すらほとんど知らなかったからね」。

California Dreaming一方、クイック・シルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスは、ジャム演奏を得意とする長髪のワイルドな4人組で、1969年の『Happy Trails』で栄光の時を迎えることになる。ザ・シャーラタンズのジョージ・ハンターがデザインしたジャケットが魅力的なそのライヴ・アルバムは、60年代後半のサンフランシスコのサウンドの、危険までに激しい特性を見事に捉えていた。ドラマーのグレッグ・エルモアが叩き出す原始的なリズムを土台に、ゲイリー・ダンカンの推進力のあるリズム・ギターと、ジョン・シポリナの揺れ動くリード・ラインとが生み出す相互作用は、スリリングかつ幻惑的であった。
モンタレーでは、LA代表組の中でもより進んでいたのがザ・バーズやバッファロー・スプリングフィールドで、彼らが蒔いた種からは南カリフォルニアの新たなシーンが誕生。それはその後の数年間、LA峡谷のサウンドを支配することになる。

カリフォルニアのカントリー・ロックにおける初期開拓者は、リック・ネルソンだ。彼は、“リッキー”という愛称で親しまれていたティーン向けテレビ番組のアイドルから、1961年のヒット曲「Hello Mary Lou」で力強いロックン・ローラーへと成長。その次にはバック・バンドを従えて、カントリー・ロッカーに再変身を果たした。ボブ・ディランのカントリー・アルバム『Nashville Skyline』の虜となったリック・ネルソンは、バック・オーウェンスの伴奏を務めていたペダル・スティール奏者トム・ブラムリーを自身のバンドに迎え入れることにより、LAの渓谷とベーカーズフィールドで確立されていたカントリー・シーンとの間に、はっきりとした関連性を築き上げたのである。1969年に彼が発表したライヴ・アルバム『In Concert』は、ウェスト・ハリウッドのトルバドール・クラブで録音したもので、そこはLAで急成長を遂げていたカントリー・ロック・シーンの中心的なライヴハウスであった。カントリー・ロックのもう1人の開拓者だったのが、バッファロー・スプリングフィールドの元メンバーだったリッチー・フューレイで、彼の新バンド、ポコのデビュー・アルバム『Pickin’ Up The Pieces』では、ブンブン鳴るギター・サウンドとポップなハーモニーのキャッチーな混合物という、独自の音楽性を確立。一方、昔ながらのアパラチア音楽の伝統をより受け継いでいたのは、ニッティー・グリッティー・ダート・バンドで、彼らはポコ同様、トルバドール・クラブの大黒柱であった。ダート・バンドのマネージャーを務めていたビル・マッキューエンは、他にも同じくトルバドールのレギュラー出演者であった、バンジョー奏者のスティーヴ・マーティンを手掛けていたが、何年も後、彼はコメディアン/映画スターとしてその名を知られるようになる。

California Dreaming

そして、グラム・パーソンズがいた。彼は短期間ザ・バーズに在籍した後、ザ・バーズのオリジナル・ベーシストだったクリス・ヒルマンと共にフライング・ブリトー・ブラザーズを結成。1969年のアルバム『The Gilded Palace Of Sin』で、ブリトーズはウェスト・コーストのカントリー・ロックを流行最先端の音楽にし、グラムの友人であるザ・ローリング・ストーンズから弟子格であるイーグルスに至るまで、あらゆる人々に影響を与えた。イーグルスは、ブリトーズのダイヤの原石を磨き上げ、「Lyin ‘Eyes」や「New Kid In Town」といった100万ドル規模の全米トップ10ヒットを生み出している。

80年代、イーグルスのドラマー兼ヴォーカルのドン・ヘンリーは、「The Boys Of Summer」や「The End Of The Innocence」といったヒット曲を放ち、時代を代表する最も優れたシンガーソングライターの1人として自身を確立。94年にイーグルスは再結成を果たし、後に新曲を収録した傑作『Long Road Out of Eden』を発表した。

しかしLAの峡谷は、フォーク・ロッカーやデニム・カウボーイにとってだけの故郷ではなかった。60年代ブリティッシュ・ブルース・ブームの導き手だったジョン・メイオールは、カリフォルニアに拠点を移し、アルバム『Blues From Laurel Canyon』で牧歌的な新しい環境を賛美。同作には、囁くようなレイドバック曲「Laurel Canyon Home」が収録されている。 60年代後半、伝説的なこの地は、奇人キャプテン・ビーフハートの拠点ともなり、彼の指導者/プロデューサーだったフランク・ザッパが所有するルックアウト・マウンテン通りの屋敷で、彼は何時間も過ごしたものだった。キャプテン・ビーフハートこと本名ドン・ヴァン・ヴリートは、後にマジック・バンドを率いて、1974年の『Unconditionally Guaranteed』で再浮上。続く『Bluejeans And Moonbeams』では、マジック・バンドのオリジナル・メンバーがマラード結成のため全員脱退してしまったため、ラインナップが一新されている。

California Dreamingまた、同じようにカリフォルニア音楽史の中核を成していたのが、カーペンターズに代表される純粋なポップ・アーティストだ。カーペンターズは、LA郊外の静かな町ダウニーで育った兄妹2人組で、グラム・パーソンのブリトー・ブラザーズ同様、ハーブ・アルパートとジェリー・モスが設立したA&Mレコードと契約。妹カレンの素朴で滑らかな声とドラム演奏を誇るこの兄妹デュオは、「Goodbye To Love(邦題:愛にさよならを)」「Yesterday Once More」「We’ve Only Just Begun(邦題:愛のプレリュード)」といった優れたMORヒット・ナンバーを世に送り出した。

またA&Mは、ルー・アドラーのオード・レコードとの配給契約を通じ、キャニオン・シンガーソングライターの歴史的名作である、キャロル・キングの『Tapestry』をリリース。また、キム・カーンズも70年代半ばにA&Mからアルバム2作を発表しており、彼女は後に1981年のシングル「Bette Davis Eyes(邦題:ベティ・デイビスの瞳)」で世界的な大ヒットを飛ばした。

カリフォルニアは、R&Bの偉人達の輩出にも貢献している。1972年にベリー・ゴーディがモータウンの本社をLAに移転したことを思えば、驚くには当たらないだろう。1970年代後期、同レーベルが世に送り出した最大のスター2人は、パンク・ファンクの達人リック・ジェームスと、ブルーアイド・ソウルの秘蔵っ子ティーナ・マリーで、両者共、80年代の幕開けに卓越したアルバム、リック・ジェームスの『Street Songs』と、ティーナ・マリーの『It Must Be Magic』を世に送り届けた。パンク・ファンクは、80年代LAアクトのサウンドにとって重要な鍵となる要素であった。実際、白人のみから成るレッド・ホット・チリ・ペッパーズは、パンク・ファンクに深く傾倒していたため、1985年に発売された2作目『Freaky Styley』のプロデュースをリック・ジェームスの偉大なライバルであるPファンクの総司令官ジョージ・クリントンに依頼したほどである。レッド・ホット・チリ・ペッパーズはその後30年間、カリフォルニアを代表する重要なバンドのひとつとなった。

レッド・ホット・チリ・ペッパーズと比較するとファンキーさはやや控えめながら、80年代のLAで最大かつ最も素行不良だったバンドが、ガンズ・アンド・ローゼズであった。かつてモトリー・クルーを輩出したのと同じ、薄汚れたサンセット・ストリップ地区のシーンから現れたガンズは、1987年の名作デビュー・アルバム『Appetite For Destruction』では絵に描いたようなサウンドを展開。だがやがて横道に逸れ、不品行が過ぎたあまりリハビリ治療を受けるまでに至った。これはビーチ・ボーイズやイーグルスが体現していたLAとは全く異なっていたが、“カリフォルニアの夢”の表現行為としては、やはり同じように実現可能なもので、タトゥーや注射痕を体に刻みつけた他の数多くの不良バンド達に影響を与えた。

California Dreamingそれと際立った対照を成していたのが、新加入したベーシストのクリフ・バートンの要請により、LAから北部のベイエリアへと拠点を移したメタリカだ。スピードメタル界の王となった彼らは、飛躍作である1986年の3枚目のアルバム『Master Of Puppets(邦題:メタル・マスター)』のリリース後、ヘヴィ・メタルの支配者となった。

同じ“カリフォルニアの夢”を——もしくは、太陽が降り注ぐその表面の下に常に存在していた暗黒面を——より過激な形で表現していたのが、LA中南部から飛び出したウェストコースト・ギャングスタ・ラップで、それを荒々しく体現していたのがN.W.A.と、その中心人物だったアイスキューブ、イージー・E、そしてドクター・ドレーだ。1988年のN.W.A.の扇動的なデビュー作『Straight Outta Compton』は、ショッキングであると同時にエキサイティングであった。ラフなファンク・ビートとディープなベース・グルーヴを軸に構築されている同アルバムは、パブリック・エネミーがイースト・コーストでやっていたことに勝るとも劣らないほど強力である。だがそれでは足りなかったかのように、ドクター・ドレーはデス・ロウ・レコードを設立。特大ヒット作となった1992年のドクター・ドレーのソロ・アルバム『The Chronic』から、やがてスヌープ・ドッグの『Doggystyle』(1993年)や、トゥパックの『All Eyez On Me』(1996)といった、デス・ロウの名作へと繋がっていった。

より遊び心がありつつ対立姿勢は控えめだったのが、西海岸に移住して『Paul’s Boutique』(1989年)を発表したビースティ・ボーイズや、“ネイティヴ・タン一派”のグループ(ジャングル・ブラザーズ、ア・トライブ・コールド・クエストら)、多人種混成90年代アクトのジュラシック5、そしてロサンゼルス出身のマルチ・ジャンル混合アーティスト、ベックらだ。ビースティーズの“サンプラデリック”な(※サンプリングの多用によりサイケデリックな効果を醸成する)アプローチに大きな影響を受けていたベックが発表した革新的アルバム『Odelay』(1996年)は、アメリカのポップ・カルチャーの迷路を通り抜けていく多種多様なイメージの万華鏡で、因襲的なロックを圧倒する自由連想の旅へと聴き手を誘っていた。ベックは今もなお、LAシーンに不可欠な創造性の源であり続けている。
ギャングスタ・ラップが繁栄していた一方で、カリフォルニアのロックもまた、使い古された定型表現のヘア・メタルを乗り切り、ストーナー・ロックと髪をツンツンに立たせたポップ・パンクとが競い合う流れへと発展した。

California Dreamingストーナー・ロックを統べていた王は、ジョシュ・ホーミ率いるクイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジだ。カイアスを前身とするモハーヴェ砂漠出身のこの驚異的なバンドは、サイケ混じりの70年代ハード・ロックにルーツを持ち、『Songs for the Deaf』(2002)でキャリアの頂点に達した。クイーンズのサウンドは、例えるなら、ブラック・サバス、ZZトップ、ブルー・オイスター・カルトを下地に、メロディックな風味を加えるためレッド・ホット・チリ・ペッパーのソースを程よく振りかけた、南西部版ニルヴァーナ。それを“サボテン・グランジ”と呼ぶのであれ“ストーナー・ハードコア”と呼ぶのであれ、「First It Giveth」や「Sky Is Falling」「Song For The Dead」といった強烈なメタリック・グルーヴに満ちた曲を書いていた者は、他に誰もいなかった。

一方、ポップ・パンク界の王子だったのが、サンディエゴの3人組ブリンク182だ。数百万枚を売り上げた3作目『Enema Of The State』(1999年)は、下品な言葉を連発する悪ガキ・パンクの新たな波を引き起こした。彼らは2011年にも好調を維持しており、この年、6作目『Neighborhoods』をリリースしている。

ビーチ・ボーイズからブリンク182まで……。カリフォルニアが、ヘイト・アシュベリーやローレル・キャニオンのような団結性や影響力を持ったシーンを——あるいはサンセット・ストリップのメタルのようなものですらも——再び生み出すことは出来ないかもしれない。だがカリフォルニア州はこれからもほぼ間違いなく、世界中のミュージシャンやファンを惹き付け続けることだろう。その多くが探し求めているのは、1世紀以上に渡って新来者達をこの州に引き寄せてきた、快楽主義的な不摂生と精神的な啓蒙という一対の聖杯なのである。

文 : Barney Hoskyns


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