DMXとその時代:世の中の仕組みにとことん自分を合わせられなかったHIPHOP界のダークヒーロー

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Photo: Courtesy of Def Jam Records

2021年4月9日に50歳の若さで亡くなってしまったラッパーのDMX。デビュー・アルバムから5作連続で全米チャート初登場1位を記録した史上初のアーティストという輝かしい記録を持ちながら、虐待された幼少期や刑務所への服役など暗い部分も持ち合わせるラッパーでした。

そんな彼が台頭し、大活躍していた時代にニューヨークのブルックリンに在住していたライター/翻訳家である池城美菜子さんに寄稿いただきました。

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「Where my dogs at?(俺の犬どもはどこだ?)」

白いタンクトップ、バイク、ピットブル、咆哮。忠誠の象徴「ドッグ」は「仲間」を意味するから、「俺の仲間はどこだ?」と叫んでいるわけで、吠えるようなその呼びかけにまずは取り巻きが、それからファンが「バウワウワウ!」と、犬の鳴き声で応えるのがDMX、もとい彼が属していたクルー、ラフ・ライダーズのお約束だった。

2021年4月9日、DMXことアール・シモンズが亡くなった。享年50。全盛期が1998年から2000年代前半までと比較的短いため、ヒップホップ好きでもその時代にオンタイムで聴いていた人と、それ以降に聴き始めた人では、重要度がかなり変わるアーティストかもしれない。30代半ば以上のファンは、彼の訃報で目の前が一瞬、暗くなるような思いをしたのではないか。私は、4月に入ってすぐ、オーバードーズによる心臓発作で彼が入院したニュースを聞いて、自分でも意外なくらい落ち込んだ。デビュー作から続けて5作が米ビルボードのアルバム・チャート初登場1位を獲得した、圧倒的な輝きと存在感をもつラッパーである。輝きが眩しかった分、影もくっきりと濃く、キャリアの最初からドラッグ中毒であるのを問題視された。そして、その影に飲み込まれるように過剰摂取で命を落とした。

このコラムでは少し自分語りが多めになる点をまず、許してほしい。DMXの名前を耳にするようになったのは、1997年だと思う。私はブルックリンに住むようになって2年目、ぼちぼち業界内のイベントに呼んでもらったり、プロモ盤をもらったりするようになっていた。プロモ盤は、DJに曲をかけてもらうために、正規リリースする前に配る数曲入りか、フル・アルバムのレコードのこと。まだトライベッカにオフィスがあったデフ・ジャムにやたら気前のいいA&Rがいて、用事があって行くと紙袋いっぱいのレコードをくれた。その中に、DMXの「Ruff Ryders Anthem」があったのだ。

1997年は、2パックとビギー・スモールズことノトーリアス・B.I.G.の2大カリスマを失い、ヒップホップ・カルチャー全体が喪に服すような、それでいて次のスターを待つような空気が漂っていた。元パフ・ダディとバッドボーイ・レコーズの面々によるビギーを追悼する「I Will Be Missing You」と、元N.W.A.のイージー・Eを追悼するボーン・サグスン・ハーモニーの「Tha Cross Roads」が、ラジオとケーブル・テレビでかかりまくっていた。シーン自体は潤っていたけれど、一歩間違えれば簡単に命を落とすという黒人男性の現実も、音楽を通してみんなが気づいた時期だったかもしれない。

そこに台頭してきたのがジェイ・Z、バスタ・ライムスたち、そしてDMXだった。DMXは、バッドボーイからデビューしたザ・ロックスのシーク・ローチとの「Get At Me Dog」でまずラジオにかかるようになり、続いてザ・ロックス の「Money, Power & Respect」にリル・キムと一緒にフィーチャーされた。この頃のバッドボーイ、もといパフ・ダディのニューヨークにおける集中投下力は絶大で、ブルックリンに住んでいると、ラジオやらストリートから1日に何回も流れてくるので、家でわざわざバッドボーイの曲をかける必要がなかった。だが、DMXの「Ruff Ryders Anthem」は違った。この曲を初めて聴いた時の、衝撃たるや。音数が少ないシンプルなトラックながら、インパクト大。そこにDMXの吠えるようなラップが乗っていて、徹頭徹尾「なんじゃこりゃ」だった。衝撃的すぎて、家でもバカみたいにかけた。とくに、ファンファーレのような音から裏打ちのリズムがくる強烈なイントロに、私は勝手にダンスホール・レゲエの影響を感じて、DMX本人よりトラックを作ったスウィズ・ビーツがジャマイカ系、もしくは西インド諸島出身かどうかを気にして聞いて回った。結果、彼は大学を出たばかりの、アフリカ系アメリカ人のプロデューサーだったのだが。

1998年は「エックス」ことDMXの年だった。5月に『It’s Dark And Hell is Hot』でアルバム・デビュー、11月にNasと主演した映画『BELLY 血の銃弾』が公開され、12月にセカンド・アルバム『Flesh of My Flesh, Blood of My Blood』をリリース。デビュー時にすでに映画を撮り終わっていたこと、新人離れした、完璧にできあがったイメージで出てきたことから、DMXとはレコード会社が巨額をつぎ込んで用意したアーティストなのではないか、と私は最初、疑った。そういう売り出し方も悪くはないが、作られたイメージがどこまで本物か見極めるのは、ヒップホップのライターとして重要だった。だが、DMXのスキンヘッドも、刑務所に出たり入ったりしている間に鍛えた体躯も、本物だった。

すでに20代半ばだった彼は、バトル・ラップのシーンでは有名だったものの、「本物」すぎてレコード会社が敬遠してなかなか契約に至らなかったのだという。そこに手を挙げたのが、同じ地元のコンサート・プロモーターだった男性ふたりと女性一人のディーン・ファミリーが率いるラフ・ライダーズ・エンターテインメントだった。彼らはDMXがまとっていたダークなムードを、音楽とイメージにパッケージ化し、バイクで走り回るライフスタイルをミュージック・ビデオに持ち込んで、世間を驚かせた。ちなみに、DMXのデビュー作ではまだカシーム・ディーンと名乗っていたスウィズ・ビーツは、ディーン兄弟の甥にあたる。

ミュージック・ビデオの監督として第一人者だったハイプ・ウィリアムスが映画に挑戦した『BELLY 血の銃弾』も大きな話題になった。公開されると、Nasと相手役のTLCのT・ボズが驚異的な”棒”演技を披露し、唐突に場所が変わるプロットで観客を置いてけぼりにして酷評される。しかし、演技は及第点のDMXとメソッド・マンがとにかくかっこいいし、レゲエDJ、ルーイ・ランキンの怪演など見所も多いので、機会があったらぜひ観てほしい。私が最初に書いたライナーノーツは、この『BELLY 血の銃弾』のサウンドトラックである。ディアンジェロがDJプレミアと組んだ名曲「Davil’s Pie」や、DMXがまだ無名だったショーン・ポールと、ミスター・ヴェガスと絡む珍曲「Top Shotter」も収録されているこちらも、ぜひ。

90年代後半はヒップホップ・シーンで起業家精神が高まった時代でもあり、元パフ・ダディのバッドボーイ・レコーズ、ジェイ・Zとデーモン・ダッシュのロカフェラ・レコーズ、少し遅れてデフ・ジャムの敏腕A&Rだったアーヴ・ガティがジャ・ルール売り出したマーダー・インクなど、レコード会社の傘下に自分のレーベルをもつ動きが活発だった。

新人でも人気が出るとすぐにプラチナム(100万枚以上)を売って全米、いや全世界のヒップホップ・ファンを魅了したのだが、そのわりに誰と誰が喧嘩をした、といったローカルな話も多く、どのボロー(区)とエリアをレペゼンしているかも重要だった。DMX及びラフ・ライダーズの面々は、ブロンクスの北部に位置するヨンカースのクルーだ。ニューヨーク市外のため地下鉄は終わり、車かメトロノースと呼ばれる電車で行く郊外である。ここから最初に世に出たのがクィーン・オブ・ヒップホップとして君臨したメアリー・J・ブライジで、DMXのセカンド・アルバム『Flesh of My Flesh, Blood of My Blood』に、当然のように参加している。

このセカンド・アルバムのアートワークには、血まみれのDMXが写っている。本物の山羊の血を使って話題になったのだから、何でもありだった。バトル・ラップ時代にライバルだったジェイ・Zがザ・ロックスと「Blackout」で参加しているが、実は、前述のアーヴ・ガティの指揮でDMXとジェイ・Z、ジャ・ルールによるスーパー・グループ「マーダー・インク」の構想があったのだ。これは、それぞれがソロとして活動しつつ、一緒に曲やアルバムを作るやり方で、例えばNasは97年にフィメール・ラッパーのフォクシー・ブラウンと幼馴染のAZでユニット「THE FIRM」を作り、アルバムをヒットさせている。

結局、ジェイ・ZとDMXがどうにも気が合わず、スーパー・グループの構想は頓挫する。その後、「マーダー・インク」はアーヴ・ガティのレーベルになり、ジャ・ルールとアシャンティを売り出すことになる。ドラッグ・ディーラー上がりのジェイ・Zは頭脳派で、10代を矯正施設で過ごしたDMXは武闘派であった。DMXのリリックは仲間への忠誠心や、「俺の物は俺の物、お前の物も俺の物」といったジャイアンみたいな宣言が多くを占める。DMXのラップは、聴き手を高揚させる瞬発力がすごいのだ。毎年のようにアルバムを出し、どんどんのし上がっていたこの頃のジェイ・Zも危険な香りをまき散らしていたが、カリスマ性ではDMXが俄然、上回っていた。

1999年暮れに出たサード・アルバム『…And Then There Was X』はバランスが取れた、DMXのもっとも売れたアルバムだ。まず、ハードな「What’s My Name」が大ヒットし、続く「Party Up (Up In Here)」が爆発。クラブのフロアーとラジオに映える「Party Up (Up In Here)」は、世紀末説を信じている人も多かった1999年の年末を無事に乗り切った世相にぴったりハマった。

2000年、DMXはジェット・リーとアリーヤが出演した『ロミオ・マスト・ダイ』でハリウッド進出を果たす。カンフー映画とヒップホップ・カルチャーは昔から相性が良く、アンジェイ・バートコウィアク監督によるカンフーとヒップホップをかけ合わせた本作は大人気を博し、重要な役で出演したDMXはニューヨークで英雄扱いだった。また、ラフ・ライダーズからは、フィメール・ラッパーのイヴが大当たり、バッドボーイから同郷のザ・ロックスの面々も移籍するなど、クルー全体に勢いがあった。

00年代に入って、DMXは『The Great Depression』(2001)、『Grand Champ』(2003)というプラチナム・セールスを記録したアルバムをリリース。バートコウィアク監督の映画にも出演し続け、『DENGEKI 電撃』(2001)ではスティーヴン・セガールの、『ブラック・ダイヤモンド』(2003)ではジェット・リーの向こうを張って大役を果たしている。『ブラック・ダイヤモンド』からは、最大のヒット曲「X Gon’ Give it to Ya」が生まれた。だが、大物になりすぎたせいか、ラフ・ライダーズ内で不協和音が生じ始める。

2003年、DMXはライバルのジェイ・Zがデフ・ジャムの社長に就任したのを嫌い、レーベルを離脱。2005年、コロンビア・レコードに移籍し、ヘルズ・キッチンにあったソニーのスタジオの大部屋で大々的にアナウンス・パーティーが行われた。私もカメラを手に駆けつけたが、予想以上にDMXの佇まいに凄みがあり、面食らった。

実は、『BELLY 血の銃弾』のライナーノーツを頼まれたユニバーサルの担当者さんに、1999年頃に契約社員としてマンハッタンのデフ・ジャムのオフィスに週に何回か行って欲しい、とのオファーを頂いたことがあった。急速に大きくなったデフ・ジャムから情報や音源がきちんと日本に届かず、困った末の苦肉の策だったのだが、私はほとんど迷わずに断った。フリーランス・ライターとして他の仕事を受けられないのは困るという真っ当な理由や、業界グルーピーだと思われたら嫌だ、との自意識過剰な理由もあったけれど、単にビビったのだと思う。そして、あの時のDMXの顔つきを思い出すたび、やはりあの周りの人に日常的に関わって仕事のお願いをするなど、とてもできなかったように思う。

その後、DMXは薬物中毒だけでなく、双極性人格障害を患っているとカミングアウトした。テレビのリアリティ番組や、ドキュメンタリー番組で壮絶な生い立ちや神への帰依を語り、広く知られるようになる。2009年には、正式に牧師を補佐するディーコンとなった。。

一方で、ティシェラさんという有名な奥さんがいながら多くの女性と関係をもち、15人の子どもを作り、常に法とのトラブルを抱えていた。2017年に、せっかく大々的なラフ・ライダーズのリユニオン・コンサートを成功させたものの、脱税で投獄されてしまう。

だが、アメリカのヒップホップ・ファンで、DMXを真の悪人だと思っている人はいないはずだ。少年期の怒りを類い稀な才能でラップにした彼は、自分の代わりに怒り、「どこに仲間がいるんだ?」と問いかけ、吠えてくれる人だった。世の中の仕組みにとことん、自分を合わせられなかったDMXは、最期までダークヒーローであり、その仄暗い輝きは、彼の曲を通して光り続けるはずだ。

Written By 池城 美菜子(ブログはこちら


遺作となった最新アルバム
DMX『Exodus』
2021年5月28日発売
iTunes / Apple Music / Spotify / Amazon Music / YouTube Music




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