ヒップホップと政治問題の歴史:グランドマスター・フラッシュからケンドリック・ラマーまで

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ヒップホップにはその起源から、そもそも政治的要素が備わっていた。社会に響かせるべきメッセージを届けるための、ひとつのパワフルな手段だったのだ。話し言葉を通して、語り手であるMCはしばしば、ロック界やフォーク界の父祖たちよりももっと直接的な言葉で、ヒップホップを通して政治問題を訴えてきた。

ブギー・ダウン・プロダクションズのKRSワンが、牛が屠殺場に行ってご家庭の食卓の皿の上に載るまでの過程を事細かに描写したり、ダグ・E・フレッシュ(そして後にはコモンも)がリプロダクティヴ・ライツ(訳注:妊娠中絶・受胎調節等、性と生殖に関する女性の自己決定権)という非常にデリケートな問題を語ったり、ヒップポップは昔から、どんなテーマにも聖域や禁忌は存在しないとしてきたジャンルだった。

最初期のリリースに遡ってみても、ヒップホップは政治的メッセージに溢れていた。ハーレム・ワールド・クルーが1980年に発表した 「Rappers Convention」の歌詞は、まるで新聞の大見出しの記事をそのまま読み上げているかのようで、韻を踏みながらこんな風に人々に語りかけている。

だが俺たちアメリカ人はもう
この政治的ゴング・ショウに飽き飽きしてるんだ
だから俺たちはイランに向けてメッセージを送る
俺たちの同胞にちょっかい出すのは止めてくれ
俺たちは散々ナメた真似されてきたが、別に戦争するのが怖いわけじゃない
それにイランよ、俺たちはお前らのなぶりものゲームの標的にされるのには
もう本気で嫌気が差してるんだ

 

レーガンの政策とヒップホップ

ジャンルとしてのヒップホップの歴史を辿れば、その源流はザ・ラスト・ポエッツやザ・ワッツ・プロフェッツといった好戦的なスポークン・ワードのグループまで遡ることができる。彼らが自分たちの身の回りの現実をありのままに写しとっていたように、現代のヒップホップもまた、パブリック・エネミーのフロントマン、チャック・Dの表現を借りれば「アメリカ黒人のCNN」となり、彼らの視点の最前線からの信書を届ける役割を果たしていた。80年代の殆どの期間、ヒップホップの中で語られた政治的なテーマやメッセージは、1981年から89年まで大統領を務めたロナルド・レーガンの政策がらみのことだった。

アメリカの大都市の人々と大多数のメインストリームの人々の注意をヒップホップに向けさせた最初のレコードについて、1983年1月のロサンゼルス・タイムス紙にロバート・ヒルバーンによる記事にはこう書かれている。

「グランドマスター・フラッシュ&ザ・フュリアス・ファイヴのThe Message”は1982年の作品で最も特筆すべきシングルだ。革命的な7分間のレコードは、アメリカン・ドリームへの無邪気さが奪われ、緊張状態と絶望に疲弊するゲットー・ライフが見事に凝縮された物語である」

このトラック「The Message」の中で最も象徴的な最後のヴァースは、元々彼らが1979年に出した「Super Rappin’」に含まれていたものだったが、グランドマスター・フラッシュ&ザ・フュリアス・ファイヴのリード・ヴォーカリスト、グランドマスター・メリー・メルはそれをそのまま「The Message」で披露した。“現代の社会派ヒップホップの父”という永遠の称号を戴くメリー・メルは、その後もこのジャンルのルーツだった虚勢や唯物論的ハッタリを遥かに超えた押韻詩を幾つもの曲の中で書き、後世のMCたちにインスピレーションを与えた。

「Message II (Survival)」から代表作「White Lines」「Beat Street Breakdown」「New York, New York」、そして「World War III」に至るまで、メリー・メルはリリックの基準となるハードルを一気に上げ、多くのMCが彼と同じレベルの影響力を持つことを目指して腕を磨いたのだった。

カーティス・ブロウは史上初めてメジャー・レコード・レーベル(マーキュリー)と契約を交わしたソロのヒップホップ・アーティストであり、1979年にリリースされた彼のファースト・シングル、「Christmas Rappin’」は実のところクリスマス・ソングだったのだが、ここには彼がその直後にどんな作品をリリースするかを窺わせるようなヒントは殆ど何もなかった。

1980年代は賃金カットと社会保障プログラムの削減で経済格差がますます広がった時代で、とりわけアメリカ都市部のゲットーではその影響が顕著に現れ、お気楽なパーティーMCだったはずのラッパーたちまでが社会や政治の問題を語り始めた。カーティス・ブロウは、4枚目のEP『Party Time?』に収録の「Nervous」のようなパーティー・ジャムの中で、国際問題を織り込むという高度なテクニックを披露した。

1980年のセルフタイトル・アルバム『Kurtis Blow』の収録内容からも分かる通り、カーティス・ブロウもまた政治的なコメントにおいては素人ではない。このアルバムに収録されているウィリアム・ウォーリングが書いた名曲 「Hard Times」は、その4年後にRun-D.M.C.がレコーディングしたことによって、ヒップホップ史上初めてカヴァーされた楽曲となった。

ニューヨークのクイーンズ地区出身の3人組だったRun-D.M.C.は、ジェームズ・ブラウンの「Say It Loud – I’m Black and I’m Proud」に匹敵するレコードを作りながら、商業的な成功をも記録した最初のヒップホップ・グループである。「Proud To Be Black」は1986年に批評家たちから高い評価を受けたアルバム『Raising Hell』に収録されている。

 

“憤怒の預言者”=パブリック・エネミー

『Raising Hell』のリリースからほどなくして登場したのが、自称“憤怒の預言者”だというパブリック・エネミーである。しかしながら、彼らのネイション・オブ・イスラムの教義やジェームズ・ブラウンのサンプル、そしてブラック・パンサー的ヴィジュアル、そして初期のグランドマスター・メリー・メルのスピリットなど、多くの要因によって、彼らと、それ以前の人々との間には明確な線引きが存在する。

グループに纏わるありとあらゆることが話題のトピックとなり、論議の的となる現象は今も続いている。実際、彼らの代表作のアルバム・ジャケットはいまだに詳細な分析が行なわれ、その真意が討論の対象となっているのだ。ブラック・コミュニティを食い物にする自治体に対して憤る「Shut ’Em Down」にしても、ストリートのためのアンセム「Fight The Power」にしても、パブリック・エネミーは時代を先取りすると共に、まさにその時代を体現した稀有なグループだった。

グランドマスター・フラッシュ&ザ・フュリアス・ファイヴの成功がパブリック・エネミーのために扉を開け放ってくれたように、パブリック・エネミーもまたステッツァソニックの反アパルトヘイト・アンセム「A.F.R.I.C.A」や、チル・ロブ・Gの名曲「Court Is Now In Session」、 インテリジェント・フードラム(別名トラジェディ・カダフィ)の政治色濃いラップ「Arrest The President」といったアーティストや作品が広く知られるようになるきっかけを作ったと言える。

こうした動きの集大成となったのが、80年代の終わりにKRSワンが当時最高峰の東海岸のMCたちに呼びかけて実現に漕ぎ着けた、”ストップ・ザ・ヴァイオレンス運動”の支援を目的とするコラボレーション・トラック「Self Destruction」で、パブリック・エネミーにはじまり、ダグ・E・フレッシュ、ヘヴィ・DにMCライト、そしてブギー・ダウン・プロダクションズのメンバーたちまで、名のある人々は全てフィーチャーされている。

 

90年代に紡がれたリリック

1980年代のヒップホップがドラッグとその社会的影響を相手に戦争を繰り広げていたのに対し、1990年代のこのジャンルは独自の路線でメインストリームへと続く道を切り拓き、アメリカのみならず世界中に蔓延する新たな共通の問題に光を当てるようになった。

ブラック・スター、アレステッド・ディベロップメント、ザ・ルーツ、デッド・プレズらはザ・ネイティヴ・タン系のグループ(ジャングル・ブラザーズ、デ・ラ・ソウル、ア・トライブ・コールド・クエスト、ブラック・シープ)の後を引き継ぎ、暴力や人種差別、アフリカ中心主義(アフロセントリズム)を複雑な言葉遊びを通して表現した。

1998年の歴史に残る名盤『Mos Def & Talib Kweli Are Black Star』のリリース後も、ヤシーン・ベイ(モス・デフから改名)とクウェリは比類なきポリティカル・リリック職人としてレガシーを紡ぎ続けている。

ギャングスタ・ラップは一見社会意識の高いヒップホップのアンチテーゼのように見えるが、1988年にN.W.A.が掲げたそのものズバリのスローガン「F**k The Police」から、2PACの贖罪的アンセム「Changes」(1998年)、そして1991年のセカンド・アルバム『Death Certificate』収録で物議を醸したアイス・キューブの「I Wanna Kill Sam」など、このスタイルを通してこそ有効な独自の社会的政治的批評を生んだ。

ティッパー・ゴアの音楽へのセンサーシップ(検閲)・キャンペーンが1980年代のロックに規制を求めたのと同様、ヒップホップもまた1990年代の標的となり(手始めは1994年に議会で開かれたギャングスタ・ラップのリリックの内容についての聴聞会)、そして2000年代にも同じ状況が起こった。

 

2000年代

ヒップホップが帯びる政治色の大半は東海岸と西海岸の対立に端を発していたが、2000年代には中西部(とりわけシカゴとデトロイト)が独自に政治意識の高いのヒップホップ・アーティストたちを輩出した。このシーンから出てきた中でも最も先進的なひとりがコモンである。

90年代のアンダーグラウンド・ヒップホップ・シーンで頭角を表わし始めた初期、ネオ・ソウルやオルタナティヴ・ヒップホップ・グループのソウルクエリアンズに所属していた時期、そしてコマーシャルな意味で大ブレイクを果たした2000年の『Like Water For Chocolate』など、コモンは一貫してヒップホップを前へ前へと押し出す努力を重ねてきた。

もっともアッサータ・シャクール(ブラック・パンサー党の一員でありトゥパック・シャクールの教母だった人物)の裁判と投獄、政治的亡命について書かれた彼のトラック「A Song for Assata」は、今も論議を呼んでいる。

そのリリースから僅か4年後、カニエ・ウエストの登場と共に、ヒップホップはまた新たな変化の局面に入った。2004年、将来性十分のデビュー・アルバム『The College Dropout』を発表したその年に、カニエ・ウエストは、コモンとジョン・レジェンドと手を組んでグッド・ミュージックというレコード・レーベルを設立する。

後年コモンが語ったところによれば、商業主義と社会意識の高いヒップホップとの間の壁を壊す上で、カニエ・ウエストの存在は大いに助けになったと言う。彼は2016年にフェイダー誌の取材の中でこう発言している。

「金を稼ぎたいってラップしながら、“Jesus Walks”なんて曲をやってもいいんだっていうのは、ある種カニエが持ち込んできた概念だ。ジェイ・Zとモス・デフ、どっちも好きでいいんだ、ってね。カニエが始めたのはそういう色んな世界をひと括りにするってことだ」

カニエは商業主義と意識の高いヒップホップを隔てる一線を巧みに歩く新時代のヒップ・ホップの先導役となり、「Never Let Me Down」で自らの祖父が白人専用のランチ・カウンターの席に座ったことで逮捕されたというエピソードを通じて人種差別を取り上げ、2000年代半ばの肩で風切るギャングスタ・ラップを遥かに凌ぐセールスを記録した。

一方、アウトキャストは「BOB (Bombs Over Baghdad)」で文字通りチャートを爆撃し、エミネムは2002年のアルバム『The Eminem Show』 収録の「White America」で同胞に呼びかけ、ルーペ・フィアスコは2006年のデビュー・アルバム『Lupe Fiasco’s Food & Liquor』で地政学をテーマにして高い評価を得た。

オキュパイ・ウォール・ストリート(訳注:ウォール街を占拠せよ運動。2011年9月にアメリカの経済の中心地、ニューヨークのウォール街で発生したアメリカ経済界及び政界に対する抗議行動)、ブラック・ライヴス・マタ-ズ、マーチ・フォー・アワ・ライヴズ(訳注:アメリカ国内で相次ぐ銃による無差別殺人と、それに対して銃規制を強化しようとしない政府に抗議して行なわれたデモ行進)…等、2010年代は幾つもの政治運動を生んだ年代であり、それらのテーマはすぐにヒップホップにも採り入れられた。

ソーシャル・メディアというプラットフォームの増加でたちまちのうちにメッセージを広げることが可能になり、更にストリーミングの台頭によって、アーティストたちは自らの福音をマイクを通して、あるいはネットワークを通して直接的にファンに届けられるようになったのである。政治活動はもはやリリックだけにとどまらず、チャンス・ザ・ラッパーやカニエ・ウェストらは既に実際に政治的な領域へと活動の場を広げている。

 

ケンドリック・ラマーとブラック・ライヴズ・マター

しかしながら、2010年代最高の意見表明と言えば、ケンドリック・ラマーを置いて外にないだろう。彼の2015年の大ヒット・アルバム『To Pimp A Butterfly』は、 アフリカ系アメリカ人の歴史を見事に丸ごと包括すると同時に、いま現在を鮮やかに切り取るだけでなく、その先進的な考え方に支えられた輝かしい才能が、これから先の世代においても間違いなく有効であることを請け合うものだ。

「Alright」はたった一度聴くだけで、ブラック・ライヴズ・マター運動の実質的なアンセムだと誰もが分かるものであり、 更に続くアルバム『To Pimp a Butterfly』や『DAMN.』では、“現代のアフリカ系アメリカ人たちの複雑な日常を、心躍る簡潔な描写で描いた楽曲”の数々に対し、ケンドリック・ラマーにピューリッツアー賞が贈られることになったのだ。

現在はまた、ヴィック・メンザやノーネーム、チャイルディッシュ・ガンビーノら新進気鋭のアーティストたちの次なる奔流が、ケンドリック・ラマーと共に政治的な表現の壁を押し広げようと試行錯誤を続けている。それぞれの世代でそれぞれに新しい政治的思想を持つ若者たちが生まれる中、ヒップホップはアーティストたちにとってこれからも、社会が投げかけてくる様々な問題に対して切磋琢磨し、濁りを取り除き、影響力を及ぼすための道具であり続けることだろう。

ケンドリック・ラマーが『To Pimp A Butterfly 』の中で、2PACとの“インタヴュー”でこう語っていた。

「思うに、今俺たちの手に残ってる唯一の希望は音楽とヴァイブレーションだけだからさ」

Written By Jay Quan


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