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「Rock That Body」が日本でも4.3億再生越えで大バス中のブラック・アイド・ピーズを振り返る
ブラック・アイド・ピーズ(Black Eyed Peas)が2009年に発売した5枚目のアルバム『The E.N.D.』の収録曲「Rock That Body」がTikTokやReelなどで様々な動画が話題となり(① ② ③)、ストリーミングも上昇し、Spotifyでは同楽曲初のGlobalチャートTOP20入りを果たすなど、リバイバルヒットとなっている。
ここ日本でも、6月以降のショートプラットフォームでの本楽曲の再生数は4.3億回を超え、Shazamチャートでは2週間にわたって1位となっている。
この話題の楽曲、そしてブラック・アイド・ピーズについて、ライター/翻訳家の池城美菜子さんに寄稿頂きました。
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黒目豆、またはパンダ豆とも呼ばれるブラック・アイド・ピーズは、南部料理のサイドディッシュでよく出てくる煮豆で有名だ。つまり、ソウルフード。黒人文化を強く想起させる名前である。音楽グループのブラック・アイド・ピーズは、この名前のイメージに沿ったオルタナティヴ・ヒップホップからスタートしたものの、大胆に方向転換してポップ・ロックからレゲエ、EDMを取り入れて爆発的に売れた。そのため、彼らの音楽性を表すときは「ヒップホップを土台にしたミクスチャー・サウンド」と幅を持たせたほうが正確だ。
そのミクスチャー具合がよく出ている「Rock That Body」が、TikTokでリバイバル・ヒット中である。2009年に全世界で1,100万枚以上を売り上げた5作目『The E.N.D. (The Energy Never Dies)』の収録曲。ブラック・アイド・ピーズの強みのひとつに、メンバーのウィル・アイ・アムが大ヒット曲を作れるプロデューサーであることが大きいが、この曲ではフランスのトップDJ、ディヴィド・ゲッタが共同プロデュースしている。
ヒップホップの定番ネタ、ロブ・ベース&DJE-Z・ロックスの「It Takes Two」をがっつりサンプリングしつつ、EDMが本領のゲッタのカラーが強い。ファーギーのオートチューンをかけて早回しをしているヴォーカルはアニメっぽいし、世界中の若者がこの曲でぴょんぴょん跳ねたくなる気持ちはわかる。
改めてブラック・アイド・ピーズとは?
ブラック・アイド・ピーズは来日回数も多く、日本の洋楽ファンには広く知られているグループだ。だが「I Gotta Feeling」「Boom Boom Pow」といった超有名曲の印象に引っ張られて、グループの全体像はいまひとつ見えづらいのでは。これは、メンバー構成と音楽性の変遷が激しいことが理由として大きいだろう。
1988年、ロサンゼルスのジョン・マーシャル・ハイスクールの8年生(日本では中学2年生)のときに出会った、ウィル・アイ・アムとアップル・デ・アップが音楽活動を開始。元N.W.A.のイージー・Eに見出され、彼のルースレス・レコーズと契約、5人組のアトバン・クランのメンバーとしてレコーディングをする。
イージー・Eのイメージに引っ張られて、ルースレスはギャングスタ・ラップのレーベルという印象があるが、アトバン・クランはア・トライブ・コールド・クエストや、ファーサイドに近い音楽性のグループだった。だいたい、グループ名が「ア・トライブ・ビヨンド・ア・ネイション(A Tribe Beyond A Nation)」の略なのだ。
1995年にイージー・Eが逝去したため、アルバム『Grass Roots』はお蔵入りに。タブーを加えて3人組として再出発をし、バンド形式でアップル・デ・アップのブレイク・ダンスを入れるなど、見せ場の多いライヴ・パフォーマンスで評判を呼び、トリオとしてインタースコープと契約した。この時期、女性ヴォーカル担当としてキム・ヒルもサポート・メンバーだった。
1998年にデビュー作『Behind the Front』、2000年に『Bridging the Gap』をリリース。2枚目はデ・ラ・ソウルやフージーズのワイクリフ・ジョン、ジュラシック5のチャーリー・ツナが参加したような、オルタナティヴ・ヒップホップのグループだった。もっとも、当時はオルタナティヴという呼び方よりも、メジャー契約をしていてもアンダーグラウンド・ヒップホップ、ファン層を指してバックパッカー・ヒップホップとよく言っていたカテゴリーだ。
筆者はこの時期、3人に対面取材をしている。なぜかマンハッタンのオープン・カフェだったのだが、だれにも気づかれないくらい、まだ東海岸では知られていなかった。取材中、アップル・デ・アップにくり返し「俺のいとこにそっくり」と言われ、反応に困った。冗談ばかり言う人たちで、「LAの人たちは明るすぎる‥」と思った記憶もある。
アップル・デ・アップはフィリピン生まれ。フィリピン人の母親とアメリカ軍人の父をもち、10代で移民して苦労した人だとあとで知り、もう少し感じ良く返せばよかった、と猛省した。ウィル・アイ・アムはジャマイカ人の父をもち、タブーはメキシコ系アメリカ人である。このカラフルな出自が、のちにブラック・アイド・ピーズの音楽性に影響を与えていく。
取材と同じタイミングで、キャパシティ600人のバワリー・ボウルルームで、ライヴも観た。タブーは途中で女性ものの下着を頭に被るし、リリックはコンシャスでも一筋縄で行かないグループであるのはよくわかった。オルタナ・ヒップホップがギャングスタ・ラップと異なる盛り上がりを見せて、人気を博した時期である。
東海岸ではザ・ルーツやコモン、インディー・レーベルながら絶大な支持を集めたロウカス・レコーズのモス・デフとタリヴ・クウェリたちが、アトランタではアウトキャストが強く、西海岸には凄腕のDJを抱えるジュラシック5やダイレイテッド・ピープルズがいた。そのなかで、ラップの技術が平均点で、どこかポップで引用元がわかりやすいブラック・アイド・ピーズは少し厳しいかも、と思ってしまった。この予感は半ば当たり、違う角度からは大外れとなる。ブラック・アイド・ピーズは大きく方向転換をし、超人気グループに変貌するのだ。
大人気グループへと変貌
起爆剤は、ファーギーの加入である。3作目『Elephunk』の制作中に「Shut Up」にフィーチャーする過程で女性ヴォーカルを探すこととなり、もともとブラック・アイド・ピーズのファンであったファーギーに白羽の矢が立つ。彼女は80年代に『ザ・ピーナッツ』で、チャーリー・ブラウンの妹、サリーの声優を担当するなど子役として活躍。その後に結成したガールグループ、ワイルド・オーキッドを脱退したタイミングだった。
ブラック・アイド・ピーズのメンバーとは音楽性、性格ともに相性が良かったため、正式メンバーに昇格し、所属レーベルのインタースコープが薦めていたポップ・ラップへの路線変更がより現実的になっていった。ちなみに、1974年生まれのアップル・デ・アップ以外全員が75年生まれの同級生グループである。
4人組になり、正式名称をザ・ブラック・アイド・ピーズに変更。2003年『Elephunk』のリード・シングル「Where Is The Love?」は、2001年の同時多発テロ事件に触発された平和を訴えるポジティヴな歌詞と、ポップなトラックの組み合わせで大ヒットした。レコーディングの段階からジャスティン・ティンバーレイクが参加し、作詞からコーラスまで重要な役割を果たしている。彼はイン・シンクから独り立ちしたばかりのタイミングで、大人の事情でミュージック・ヴィデオにも映っていない。
同作から「Let’s Get It Started」もヒット。2005年の『Monkey Business』は、さらにサウンドのミクスチャー具合が進む。ポップ・ラップの「Don’t Phunk With My Heart」や「Don’t Lie」のチャート・アクションが良かったため、正統派のヒップホップからより離れる方向で固まっていた。
アルバムに収録されている「Union」ではスティングを招き、彼の「Englishman in New York」をレゲエ風にアレンジしている。1992年にニューヨーク・レゲエのパイオニア、シャインヘッドが全く同じアイディアで「Jamaican in New York」を作っている。ファーギーのソロ・デビュー作『The Dutchess』もレゲエを取り入れているのは、当時の流行とウィル・アイ・アムのジャマイカへの思い入れの両方が理由だろう。
2006年はこのファーギーとウィル・アイ・アムのソロ・プロジェクトのほか、リミックス・アルバム『Renegotiations: The Remixes』をリリース。リミックス・アルバムではDJプレミアやDJジャジー・ジェフ、ピート・ロック、ラージ・プロフェッサーなど東海岸の重鎮プロデューサーを招いた。ここで、ヒップホップ魂を納得させたのか、ブラック・アイド・ピーズはこの後、とことんポップな方向に振っていく。
ファーギー『The Dutchess』のセールスが絶好調だったのも大きかった。歌もラップもできる彼女の長所を、ウィル・アイ・アムがうまくプロデュースしたおかげで「London Bridge」や「Big Girls Don’t Cry」、「Glamorous」がビルボードHot100で1位を取っている。
『The E.N.D』での大大成功
ブラック・アイド・ピーズの人気が爆発したのが、5作目の『The E.N.D』だ。2009年に吹き荒れていたEDMの嵐にBEPらしく巻き込まれていった形の作品。リリックはそれまで通り、社会的なメッセージを含みつつ、かけ声みたいなコーラスを採用し大規模なレイブ・パーティーでかかりやすいヒットが多かったのが功を奏し、グループ最大の成功を収める。
シンセサイザーの音色がフューチャリスティックな「Boom Boom Pow」はグループ初のビルボードHot 100のNo.1となり、次のシングル「I Gotta Feeling」に取って代わられるまで12週間も留まった。「I Gotta Feeling」にいたっては14週間首位にいたので、この年最大のヒットをブラック・アイド・ピーズとレディー・ガガで分け合った形だ。
同作からファーギーの大人っぽい歌唱が効いている「Meet Me Halfway」、ポップ・ラップの「Imma Be」、そして前述の「Rock That Body」も続けてヒットし、ブラック・アイド・ピーズの地位を不動のものにした。
2010年のグラミー賞では「Boom Boom Pow」が最優秀ショート・フォーム・ミュージック・ヴィデオ部門を、「I Gotta Feeling」は最優秀ポップ・パフォーマンス・バイ・デュオ・オア・グループ・ウィズ・ヴォーカルズ部門、そしてアルバム『The E.N.D.』が最優秀ポップ・ヴォーカル・アルバムを制している。
シングル・カットはされていないものの、「Now Generation」もおもしろい。明らかにイギリスのバンド、ザ・フーの「My Generation」(1965)を参照にしている。「今が大事」というテーマで、「Fast internet, stay connected in a jet Wi-Fi, podcast, blastin’ out an SMS(高速のインターネット、機内でもWi-Fiでつながったまま、ポッドキャストやSMSで拡散するんだ)」と時代を先取りするリリックがあるのだ。
2025年現在、バラク・オバマ元大統領が黒人として初の大統領に就任した年にリリースされた『The E.N.D.』のMVを観たり、リリックに耳を傾けたりすると、2009年という年を色濃く反映したアルバムだったことに気づく。
前年に金融危機(いわゆるリーマン・ショック)に見舞われ、経済や雇用の状況は良くなかったが、新しい大統領への期待がふくらみ、祝祭ムードはあった。そのタイミングで、本人たちは意図せずに、肌色や人種の違う4人 – 黒人、白人、アジア系、ラティーノ系(ネイティヴ・アメリカンも) – が声を合わせ、一緒に楽しんでいる様子を世界に見せつけた。『The E.N.D.』というタイトルながら、この作品は新しい時代の到来を象徴していたのだ。
Written By 池城 美菜子
ブラック・アイド・ピーズ『The E.N.D.』
2009年6月3日配信
限定盤2LP / iTunes Store / Apple Music / Spotify / Amazon Music / YouTube Music
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