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ロリー・ギャラガーがブルースから受けた影響: 「彼は常に何か新しいものを探し求めていた」

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Rory Gallagher - Photo: John Prew, courtesy of the Rory Gallagher Estate

ロリー・ギャラガー(Rory Gallagher)は、この先もロック界きってのパフォーマーとして語り継がれるだろう。そんな彼が当初から生涯に亘って影響を受け続けた音楽が、ブルースだった。彼はかつてこう語っていた。

「俺が描く究極の夢は ―― 良いプレイヤーになるとか、良いバンドに恵まれるといったことを別にすれば ―― これから50年のあいだに、一つでもブルースの名曲に並ぶような楽曲を作ることだ。墓石に刻まれるような曲が作れたら、なんて素晴らしいだろうね!」

非凡なミュージシャンであった彼は1995年6月、47歳の若さであまりにも早くこの世を去ったが、上記の言葉には彼の特徴でもある謙虚さがよく表れている。だが実際、ロリーが自分自身について、ブライアン・メイ、スラッシュ、ジョニー・マーなどの大物ギタリストに影響を与える象徴的存在だと自負することはなかったという。彼の弟で、兄のマネージャーを務めていたドーナル・ギャラガーがuDiscover Musicにそう語ってくれた。

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音楽ファンであり続けたロリー・ギャラガー

ロリーの弟のドーナルはロリーの音楽ファンであることについてこう語る。

「ロリーは世間の印象通りの人物だった。彼は大の音楽ファンだった。熱心なレコード収集家でもあり、ほかのミュージシャンたちを敬愛していたんだ。だからこそ、彼と彼のファンとの結びつきも非常に強かった」

「たとえば、ロリーがプロモーターとの関係を利用するようなことはなかった。いつでもチケットは自分で手に入れていたから、ハマースミス・オデオンなんかの会場で、チケット待ちの列の隣にロリーがいるようなことも珍しくなかったはずだ。彼にはブルースの精神が息づいていて、リムジンに乗って出かけたり、何かにつけてVIP待遇を受けたりするようなタイプではなかった。むしろ、そういう下らないことは大嫌いだったんだ」

 

「彼は何かほかのものを探し求めていた」

ロリーがミシシッピ・デルタから何千キロも離れた戦後間もないアイルランドで生まれ育ったことを考えると、彼とブルースとの結びつきはよりいっそう特別なものに思える。一般に同国のコーク出身とされることの多いロリーだが、実際のところ、彼は1948年にドニゴール県バリーシャノンのロック病院 (彼に相応しい名前だ) でこの世に生を受けている。

程なくして彼の父は家族を連れてデリーに移住し、そこでロリーの弟となるドーナルが誕生。冷戦期の初期、ソ連の艦隊を監視するためアメリカ海軍が同地の港に駐留していたことは、図らずもギャラガー兄弟の将来のキャリアにとって有利に働くこととなった。ドーナルは懐かしそうにこう回想する。

「アメリカ人たちが巨大なFMラジオの電波塔をつくったんだ。だからラジオ放送が始まって間もないころから、俺たちの家には車のバッテリーくらい大きな初期型のラジオがあった。両親が外へ出かけると、ロリーは夢中でラジオのダイヤルを回していた。ちょうど、いまの子どもたちがネット・サーフィンをするのと同じ感じさ。そうして、彼はアメリカ軍放送網のジャズ番組にチャンネルを合わせていた」

「少年時代、ロリーは (アイルランドの) 伝統的な音楽のこともよく知っていたけど、すでに何か別のものを探し求めていた。彼はジャズの番組や、BBCでやっていたクリス・バーバーの番組に釘付けになっていた。そうして、シスター・ロゼッタ・サープや、ソニー・テリー、マディ・ウォーターズなど、いまでは伝説的なアーティストとされている人たちの音楽に親しんでいたんだ。その中でもちろん、ロニー・ドネガンのことも知るようになった。彼は仲違いして袂を分かつまで、クリス・バーバーのバンドでバンジョーを弾いていたんだ」

しばしば”キング・オブ・スキッフル”という愛称で呼ばれるロニー・ドネガンの演奏は、若き日のロリーの心に強烈な印象を残した。全英チャートの30位圏内に31曲もの楽曲を送り込んだドネガンは、ザ・ビートルズの登場以前、UKでもっとも影響力があり、もっとも大きな成功を収めたアーティストだったのである。

のちにロリーは、数々のスターたちが顔を揃えたドネガンの1978年作『Puttin’ On The Style』に参加。同作のハイライトの一つとなった「Drop Down Baby」は、ロリーの編集盤『Blues』にも収録されている。

Rory Gallagher – Drop Down Baby

いまは亡きスキッフル界のスターであるドネガンとのちに親しい友人同士となったドーナルは、そう話している。

「ロリーはロニーのことをものすごく尊敬していた。ロニーはお手本にするにはこれ以上ない人物だった。ロリーはアコースティック・ギターを手に入れると、真剣に練習をし始めた。総じて、ロニーの楽曲 ―― 特に“Grand Coulee Dam”や“Cumberland Gap”など ―― には優れたリズム感が求められるから、技術を磨こうとするギター少年にとっては理想的な課題曲だったんだ。さらに大きな意味を持っていたのは、ロニーがカヴァーしていた楽曲を通して、ロリーがレッドベリーとブルース、そしてウディ・ガスリーの音楽を知るようになったことだ。ロリーは、彼にとって非常に重要な影響源となった二人のアーティストにそこで出会ったんだ」

 

「ロリーは本当に才能溢れるマルチ・プレイヤーだった」

ロリー・ギャラガーは、ロック界におけるエレキ・ギターの先駆者として長年に亘り支持を集めてきた。実際、編集盤『Blues』には、グラスゴーのアポロ公演やシェフィールドのシティ・ホール公演など、彼のキャリアを代表する70、80年代のライヴにおけるエレキ・ギターの名演が数多く収められている。

その一方で、『Deuce』(1971年作)や『Tattoo』(1973年作)など主要なスタジオ・アルバムの興味深いアウトテイクも収録する同アルバムは、アコースティック・ギターを巧みに操る吟遊詩人としてのロリーにも光を当てている。そうしたロリーの牧歌的な演奏を『Blues』で聴くことができるのは、弟のドーナル・ギャラガーにとっても喜ばしいことのようだ。

「ロリーはアコースティック楽器で演奏するのも大好きだった。(彼の最後のスタジオ・アルバムとなった)『Fresh Evidence』に続く作品を検討する際、彼はロック・アルバムと一緒にアコースティック・アルバムも作ろうと考えていた。その二つのアルバムを同時にリリースするつもりだったんだ」

「残念ながら、その構想は実現しなかった。彼の死後にリリースした『Wheels Within Wheels』がある種、その代わりのようになったけどね。とはいえロリーは、本当に才能溢れるマルチ・プレイヤーだった。その点は、『Blues』を聴いた方がもう少し伝わりやすいかもしれない。たとえばピーター・グリーンに捧げた“Leaving Town Blues”では、“Goin’ To My Hometown”と同じようにロリーがマンドリンを弾いている」

「『Wheels Within Wheels』には、ロニー・ドネガンがゲスト出演した“Goin’ To My Hometown”のライヴ・ヴァージョンが収録されている。俺が思うに、この曲はロリーなりのスキッフルへのオマージュなんだ。ロニー (・ドネガン) がこの曲を本格的にカヴァーしていたら、ヒット・シングルになっていたかもしれないといまでも思っているよ」

Goin' To My Hometown

 

「驚くようなオールスターの共演に発展した」

『Blues』にはロリーが少年時代から憧れていたロニー・ドネガンやクリス・バーバーと共演した楽曲も収められているが、そのほかに、ウィリー・ディクソンの「I’m Ready」のカヴァーも収録されている。ブラス隊が華を添えるこの軽快な演奏は、ロリーがシカゴ・ブルース界の巨人、マディ・ウォーターズと共演したもの。もともとは、高い評価を受けたウォーターズのアルバム『The London Muddy Waters Sessions』に収録されていたトラックだ。

I'm Ready (1972 Version)

ドーナルも認めるように、ロリーが伝説的なブルースマンであるウォーターズのステージを初めて観たのは1969年のことで、会場はニューヨークのアンガーノだった。そのときロリーは当初組んでいたテイストというバンドで、ブラインド・フェイスの前座としてツアーを回っていたのだ。その晩、会場には入場料を払っている一般客よりも多くのミュージシャンたちが足を運んでいたという。しかも、それは単なる老いたミュージシャンたちなどではなかった。ドーナルはこう回想する。

「その日は俺たちも休みで、ブラインド・フェイスの連中や、一緒にツアーを回っていたデラニー&ボニーの二人とみんなでマディのライヴを観に行ったんだ。会場に着くと、一般客は6、7人しかいなかった。その代わりに、ジミ・ヘンドリックスがやって来たり、スモール・フェイセスのスティーヴ・マリオットもいたり、とにかくマディの熱心なファンたちがみんな集結していた。バディ・マイルスがドラムで参加して、驚くようなオールスターの共演に発展したのを覚えているよ。まったく信じられない出来事だよ!」

1970年、これまた広く尊敬を集めているブルース界のレジェンド、アレクシス・コーナーの助力もあって、ドーナルと致命的なほどシャイなロリーは、ロンドンでマディ・ウォーターズと対面する機会を得た。そしてその後の1971年12月、チェス・レコードからロリーに一本の連絡が入った。それは、『The London Muddy Waters Sessions』のセッション・バンドの一員として、ウォーターズと共演しないかという誘いであった。

このセッション・バンドでロリーは、スティーヴ・ウィンウッド、ミッチ・ミッチェル、リック・グレッチ(ファミリーやブラインド・フェイスでの活動で知られるベーシスト)など、輝かしい実績をもつUKのミュージシャンたちと共演。また、このグループにはギタリストのサム・ローホーン、ドラマーのハービー・ラヴェル、サックス奏者のセルダン・パウエルといったシカゴ・ブルース界のベテランたちも名を連ねていた。

だが日程はたったの数日しかなく、レコーディング・セッションは多忙を極めた。その上、このときロリーは素晴らしい出来の2ndアルバム『Deuce』のプロモーションで、イギリス中をライヴで回っている最中だったのである。

 

「マディは彼のためにシャンパンまで用意してくれていた」

ドーナルはロリーのレコーディングについてこう明かす

「オファーがあってからレコーディングまでの期間はとても短かった。だから、ロリーはレスターでのライヴを終えてから初日のレコーディングに臨んだんだ。もちろん、彼だって10時にはライヴを終えてなきゃいけなかった。なのに時間を延長して、アンコールを何度もやったんだ。ようやく車に乗り込むと、俺はできるだけ早く車を走らせた。ロンドンのスタジオに向けて、ありとあらゆる制限速度を破ったよ」

「目的地に着いたのは12時をだいぶ過ぎたころだった。ロリーも完全にパニック状態で、すっかりクビを覚悟していた。だけど、マディ・ウォーターズはその点でとても親切だった。彼はレコーディングを進めずにいただけでなく、ロリーのために、グラスに入ったシャンパンまで用意してくれていたんだ。彼は現役のミュージシャンとはどのようなものかを深く理解していて、謝る必要など一切ないとロリーに声をかけてもくれた」

さらに、マディ・ウォーターズはドーナルの車をとても気に入っていた。その愛車、フォード・ゾディアックのエグゼクティヴV6(「マディは“アメリカの車に似たヨーロッパの車に初めて出会った”と言ってくれて、俺たちは意気投合した」とドーナルは話す)はのちに、アルバム『Against The Grain』に収録されたギャラガーの名曲「Souped-Up Ford」の題材にもなっている。ドーナルはこの経験について、ロリーの歴史あるキャリアのハイライトの一つだったはずだと語る。ドーナルはこう振り返る。

「マディと共演したことでロリーは多くのことを学んだだろうと思う。ロリーはマディの指の動かし方や、彼のやり方をすべて吸収していたように見えた」

「マディ・ウォーターズはまさに紳士と呼ぶに相応しい人物だったし、ご存知の通り、『The London Muddy Waters Sessions』はグラミー賞にも輝いた。ロリーも受賞をすごく喜んでいたよ。あとになって考えると、あのレコードに参加できたことは本当に特別な経験だった」

Souped-Up Ford

このインタビューは2019年に行われたもので、今回はロリー・ギャラガーの誕生日を記念して再掲載した。『Blues』は現在好評発売中、1990年の未発表ライヴ音源『All Around Man – Live In London』は7月7日に発売となっている。

Written By Tim Peacock



1990年の未発表ライヴ音源
ロリー・ギャラガー『All Around Man – Live In London』
2023年7月7日発売
国内盤CD / LP


ロリー・ギャラガー『Deuce (50th Anniversary Edition)』
2022年9月30日発売
CD&LP

ロリー・ギャラガー『Blues』
2019年5月31日発売
CD




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