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ディスコ・ミュージックの歴史:誕生、勃興、逆風、凋落、そして終わらないフィーバー

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Photo: Michael Ochs Archives/Getty Images

今となってはあまり振り返られることもないことだが、ビー・ジーズ(The Bee Gees)やABBAといったディスコ調のグループはかつて「敵」として扱われていた。ディスコ・ミュージックの誕生と4つ打ちビートの大流行は、一部のロック・ファンから1970年代半ばの音楽界をむしばむ疫病だと考えられていたのだ。

遡って1950年代半ばには、キリスト教の説教師が地獄の業火の苦しみを説きながらロックンロールのシングル盤を割っていた。そしてディスコのレコードも、やはり同じようにイベントの場で破壊されることさえあった。悪だったロックは正義となり、代わりにディスコが悪となり、このふたつの世界は交わってはならなかった……。とはいえ、話はそう単純ではなかった。

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ディスコ・ミュージックの誕生と浸透

ディスコ・ミュージックはアメリカの東海岸で成長し、黒人向けのナイトクラブから飛び出して、いつのまにかポップ・ミュージックに浸透していた。数多くのアフリカ系アメリカ人アーティストたち、たとえば「South Africa Man」や「Disco Stomp」のハミルトン・ボハノン、「992 Arguments」や「I Love Music」のオージェイズ、「Keep On Truckin」や「Boogie Down」のエディ・ケンドリックスといったア―ティスト/グループは、ファンキーで緻密にアレンジされた本格的な音楽を作り上げた。

Hamilton Bohannon south african man 1974

ディスコ・ビートがベースになったこうした曲はダンスフロアに狙いを定め、1974年になるとバリー・ホワイトがラブ・アンリミテッドと共にディスコ・ソウルのシンフォニーを提供し、KC&ザ・サンシャイン・バンドやグロリア・ゲイナーも最小限の努力で観客を動かせる音楽をDJ向けに制作していた。

 

ディスコの盛り上がりとビー・ジーズ

評論家たちがロックを絶賛し、子供たちがグラム・ロック風の化粧をしていたころ、ナイトクラブに通える年齢の観客はディスコ・ミュージックで踊り、チャートでは4つ打ちのベースとドラムが原動力となった音楽で一杯になった。

少し前から流行していたダンス・ミュージック、すなわちファンクでは、パーラメントやジェームス・ブラウンのようなアーティストたちが荒削りなグルーヴを演奏し、それを「黒人の反抗の音」だと主張していた。

一方ディスコ・ミュージックは、リズムの面では習得するのが簡単だったこともあり、白人のポップ・バンドがディスコに手を出すのは時間の問題でしかなかった。その最も顕著な例となったのが、オーストラリア訛りのあるマンチェスターの3兄弟、すなわちビー・ジーズである。

ギブ三兄弟にとって、これは完全に筋の通った戦略だった。1960年代後半からヒット・チャートの常連だった彼らは、1970年代が終わろうとするころになっても自らの名声を維持しようとしており、彼らはどんな歌手に取り上げられても違和感のない楽曲を作り、そういった曲はさまざまなソウル・シンガーがレコーディングしていた。

その例としては、アル・グリーンによる「How Can You Mend A Broken Heart」やニーナ・シモンによる「To Love Somebody」(この曲は、当初、オーティス・レディングのために作られた曲だった)などが挙げられる。それゆえ、ビー・ジーズはグルーヴとそう縁遠くないところにいたと言える。そして1975年にはビー・ジーズはアルバム『Main Course』を発表し、「Jive Talkin’」と「Nights On Broadway (ブロードウェイの夜)」という2曲のヒット曲を放っていた。

Bee Gees – Jive Talkin'

これらは音の“ジャンクフード”ではなかった。ビー・ジーズはこの種のジャンルがどういうものか、はっきりと理解した上で、非常に完成度の高い音作りを施していたのである。1976年のアルバム『Children Of The World』ではディスコ調の曲が占める割合がさらに増え、そうしたタイプの曲のひとつである「You Should Be Dancing」はアメリカのシングル・チャートで首位となる大ヒットを飛ばした。

You Should Be Dancing (Edit / From "Saturday Night Fever" Soundtrack)

ディスコのおかげでビー・ジーズのキャリアは新たな段階に入り、そのお返しとしてビー・ジーズは『Saturday Night Fever』を作り上げ、ディスコに不滅の定番曲を数多く提供した。この1977年のアルバムは同名映画『サタデー・ナイト・フィーバー』のために作られたサウンドトラック・アルバムだった。映画そのものは陰気な内容だったが、サントラ盤のおかげで思いがけず大ヒット作になった。「Stayin’ Alive」「Night Fever (恋のナイト・フィーバー)」「More Than A Woman」……こうした曲は、ディスコ・ミュージックの高い水準を示していた。

ジョン・トラボルタはこの映画で一躍スターとなり、映画がブームになったおかげで、本来ならもっと分別を持つべき小太りの男たちが結婚披露宴で胸を張って手を宙に向けるポーズを真似するようになった。ディスコがついにメインストリームになったのだ。

Bee Gees Stayin Alive (Extended Remaster)

 

ディスコ・サウンドの広がり

フランキー・ヴァリもまた、その流れにいち早く乗っていた。1975年から76年にかけて、フォー・シーズンズのメンバーと共に、あるいはソロで、彼は「Swearin’ To God」「Who Loves You」「December 1963 (Oh What A Night)」「Silver Star」などをヒットさせている。こうした曲は、いずれもディスコ・サウンドで仕上げられていた。

Frankie Valli & The Four Seasons – December, 1963 (Oh, What a Night) (Official Music Video)

こういったサウンドは至る所で聞かれるようになり、1976年末の全米チャートは、「You Should Be Dancing」、ワイルド・チェリーの「Play That Funky Music」、ウォルター・マーフィー&ザ・ビッグ・アップル・バンドの「A Fifth Of Beethoven」(このバンドはやがてシックに変身し、ディスコ・ミュージックのリーダーになった)、そしてラジオ・コメディアンのリック・ディーズとキャスト・オブ・イディオッツが吹き込んだ「Disco Duck」といった曲で埋め尽くされていた。

DISCO DUCK Rick Dees

最後にあげた「Disco Duck」はディスコ・ブームを茶化した曲で、当時たくさん生まれたディスコのパロディ・ソングの中では最も大きなヒットを収めている。そしてもっとも堂々たる作品、つまりABBAの「Dancing Queen」は世界中のチャートで1位を獲得した。他の例と同様に、これもまた基本的な性質を失うことなく、別ジャンルのポップスを見事に作り上げていた。

Abba – Dancing Queen (Official Music Video Remastered)

ディスコ・ミュージックは1977年を通して猛威を振るった。かつてピエロの衣装を着ていた英国人歌手レオ・セイヤーは「You Make Me Feel Like Dancing」で全米1位を獲得し、さらにソウルフルな「Thunder In My Heart」もヒットさせている。

またアメリカのヴォーカリスト、ドナ・サマーはドイツのプロデューサー、ジョルジオ・モロダーと組んでエレクトロ・ディスコのモンスター・ヒット曲「I Feel Love」を作り上げた。翌年にはバリー・マニロウが「Copacabana」を歌い、ブロンディも「Heart Of Glass」によってニューヨークのナイトクラブでもてはやされるようになった。

Blondie – Heart Of Glass

「ニュー・ウェイヴ」のバンドで「ディスコ路線に走った」グループはブロンディだけではなかった。イアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズが出した2曲の大ヒット・ナンバー「Hit Me With Your Rhythm Stick」と「Reasons To Be Cheerful Part 3」は、どちらも基本的にディスコ・ミュージックだ。

やがてデューリーの共作パートナー、チャズ・ジャンケルの曲「Ai No Corrida」がクインシー・ジョーンズの手で大ヒットするが、それも決して不思議なことではなかった。ジャズ/ファンクのバンド・リーダーだったクインシーは、マイケル・ジャクソン、ジョージ・ベンソン、ブラザーズ・ジョンソンの数々のディスコ・ヒット作をプロデュースしていく。

Ai No Corrida

 

白人にも広がるディスコ・ミュージック

ディスコ・ミュージックがブームになると、ようやく黒人でなくても本格的なダンス・レコードを作ることが可能になった。ザ・ローリング・ストーンズとロッド・スチュワートはディスコに手を染め、「Miss You」と「Do Ya Think I’m Sexy」でチャートを席巻。

またELOの「Evil Woman」と「Turn To Stone」は、このバンドの根本的なサウンドを損なうことなくディスコ調のサウンドをうまく取り入れていた。彼らは1979年にヒット曲を満載した成功作『Discovery』というアルバムを出しているが、このタイトルに隠された意味にはほとんどの人が気づいていなかった。つまり「Discovery」を途中でふたつに分けると「Disco」+「very」になる……というわけだ。おわかりいただけるだろうか。

ELO – Evil Woman (From "Live – The Early Years")

 

ディスコへの逆風

その一方でディスコに対する逆風は1979年にピークを迎え、「Disco Sucks (ディスコは最悪)」と書かれたTシャツがロック・ファンのあいだで一時的に流行した。彼らは、自分たちのバンドがディスコ風の要素を取り入れたバンドに水をあけられることが嫌だったのだ。

またハードコア・パンク・バンドのデッド・ケネディーズは「Saturday Night Holocaust」を発表した。さらに一部のファンは、PiLの「Death Disco」が本当は「Death To Disco (ディスコに死を)」という題名だと誤った推測をしていた。「Death To Disco」も反ディスコ派のスローガンの一つだった。

Dead Kennedys – Saturday Night Holocaust

また、この年の7月、シカゴで行われた野球の試合で、2人のDJが“Disco Demolition Night / ディスコ破壊ナイト”を企画した。これは、トラック一杯に積んだディスコ・レコードをグラウンドで爆破するというイベントだった(このバカげた行為でグラウンドが荒れ、その後に予定されていた試合もできなくなっていた)。

そんな反ディスコ運動が盛り上がる中でもディスコ・ミュージックは快進撃を続けた。当時ロサンゼルスのSOLARレーベルはシャラマーも擁しており、ディスコ・サウンドを新たな高みへと導いていった。またシックはクイーンの1980年の大ヒット曲「Another One Bites The Dust (地獄へ道づれ)」に影響を与え、バーブラ・ストライサンドはドナ・サマーとデュエットをした。そしてキンクス、J・ガイルス・バンド、KISSさえもが自分たちのレコードにディスコの要素を盛り込んだ。

Queen – Another One Bites the Dust (Official Video)

 

ヒップホップの勃興とディスコの凋落

そしてディスコは、ラリー・レヴァンのパラダイス・ガレージのようなアメリカ東海岸のナイトクラブで初めてはっきりとした音楽文化となり、グレース・ジョーンズが常連だったマンハッタンの洒落たナイトスポット、スタジオ54でピークを迎えた。そして明らかに終焉を迎えたのもニューヨークでのことだった。ゲットーで育った子供たちは、よりハードでエッジの効いた、よりストリート志向のダンス・ミュージックを求め、ヒップホップを見出した。それによってディスコは、流行の最先端から外れていったのである。

とはいえ、ひとつ知っておくべきことがある。初期のヒップホップ作品の多くは、ディスコのゴキゲンなグルーヴに接近したバンドがスタジオでライヴ録音していたのである。ヒップホップの誕生に最も深く関係していたレーベル、シュガーヒルは、当初この音楽を黒人ディスコ・ミュージックの派生形だと考えていた(黒人のディスコ・ミュージックといえば、当時はシュガーヒルの親レーベルであるオール・プラチナムが専門としていたジャンルだった)。そしてその後のテクノ系のヒップホップは、四つ打ちリズムのディスコ・ミュージックから多くを借用していた。

1980年代初頭、白人のポップスはディスコ・サウンドの採用を止め、あれはもはや過去のものだと考えた……と言っていいのだろうか? ディスコ全盛期の華やかさはないものの、ゲイリー・ニューマンの「Cars」やソフト・セル、ヒューマン・リーグのヒット曲の大部分は、クラブ用にミックスされていた。

最近でも、ケイティ・ペリーがシングル「Chained To The Rhythm」のミラーボール満載のティーザーでディスコ・ミュージックに敬意を表している。そして話は元の出発点に戻っていく。2017年初頭、ビー・ジーズの「Stayin’ Alive」をDJゲットダウンがリミックスしたのである。そこからもわかる通り、時代を超えたグルーヴは常にダンスフロアを満員にしていくだろう。

「ディスコに死を」? まさか。ディスコよ永遠なれ。

Written By Ian McCann



ビー・ジーズ オリジナル・アルバム20タイトル
2022年11月23日再発
CD予約

アルバム・タイトル

①『Bee Gees’ 1st』(1967)
②『Horizontal』(1968)
③『Idea』(1968)
④『Odessa』(1969)
⑤『Cucumber Castle』(1970)
⑥『2 Years On』(1971)
⑦『Trafalgar』(1971)
⑧『To Whom It May Concern』(1972)
⑨『Life In A Tin Can』(1973)
⑩『Mr. Natural』(1974)
⑪『Main Course』(1975)
⑫『Children Of The World』(1976)
⑬『Spirits Having Flown』(1979)
⑭『Living Eyes』(1981)
⑮『E.S.P.』(1987)
⑯『One』(1989)
⑰『High Civilization』(1991)
⑱『Size Isn’t Everything』(1993)
⑲『Still Waters』(1997)
⑳『This Is Where I Came In』(2001)


ビー・ジーズ初の公式ドキュメンタリー
『ビー・ジーズ 栄光の軌跡』

2022年11月25日より
ヒューマントラストシネマ渋谷、新宿武蔵野館他にて公開

公式サイト

映画『ビー・ジーズ 栄光の軌跡』本予告編(2分16秒)



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