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ビー・ジーズの経歴と作品:2億2千万枚以上を売り上げた三兄弟による栄光の軌跡
ビー・ジーズ(The Bee Gees)は、家族経営のビジネスとしてはとてつもない存在だった。1959年の結成以来、この驚異的な3人組は世界中で2億2千万枚以上のアルバムを売り上げてきた。彼らは世の中の音楽やファッションのスタイルが大きく変化しても生き残ることができ、プライベートでの悲劇も乗り越えてきた。それは、ありきたりのアーティストであればとっくの昔に挫折しているような険しい道のりだった。
このグループは、現在も創設メンバーのバリー・ギブが主導権を握っている。そんな中、これまで発表した22枚のスタジオ・アルバム、サウンドトラック、コンピレーション、未発表音源、長編映像作品の権利がキャピトル・レコードに移った……というニュースが2016年に流れた。そのニュースは、数多くいるビー・ジーズのファンのあいだで大きな話題となった。
音楽業界の中では、バリーと彼の亡き弟2人、モーリスとロビンは非常に尊敬されている存在だ。彼らはグラミー賞を8回受賞し、ロックの殿堂とソングライターの殿堂の両方に入っている。それも当然のことだろう。なぜならこの三人は、超・洗練されたポップスの達人として素晴らしい功績を挙げてきたからだ。4000万枚もの売上に及んだ大ヒット・アルバム『Saturday Night Fever』(史上2番目の売上を記録したサウンドトラック)は大衆にアピールするディスコの時代を切り開いた。また、ビー・ジーズは全米シングル・チャートで9曲のNo.1ヒットを記録し、トップ10入りシングルは23曲に及んでいる。
彼らは、『Saturday Night Fever』に収録されていた「How Deep Is Your Love」「Night Fever (恋のナイト・フィーバー)」「Stayin’」に加え、「How Can You Mend A Broken Heart」「One」「Words」など数々の名曲を作り上げてきた。そうした紛れもないヒット曲以外でも、驚きに満ちた作品が数多くある。その例としては、近年になって再評価された1969年発売の名作『Odessa』などが挙げられるだろう。
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物語の始まり
彼らの物語は英国王室の属領マン島から始まり、マンチェスター、オーストラリアのクイーンズランドへと移っていく。そのあいだに、ハーモニーの帝王たちの壮大な旅はどんどん勢いを増していった。バリー、ロビン、モーリスのギブ三兄弟は、最初にスキッフル・グループであるラトルスネークス(Rattlesnakes)を結成し、ポップ・ミュージックの世界に足を踏み入れた。
彼らはオーストラリア・ブリスベン郊外という音楽を行うには厳しい環境の中で本格的にプロのミュージシャンとして腕を磨き始める。1960年頃は、レッドクリフ・スピードウェイで生演奏をやり、小遣いを稼いでいた。彼らはオーストラリアでシングルをリリースしたが、1966年にUKに戻るまでは大きな脚光を浴びることもなかった。
そんな中、デモ録音がザ・ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインの会社であるNEMSエンタープライズの重役であったロバート・スティグウッドの手に渡り、それがきっかけとなってポリドールとのメジャー契約が結ばれた。そうして1967年に発表された「New York Mining Disaster 1941」は、英国とアメリカのチャートで上位に入る大ヒットとなった。
当時は、さまざまなグループが絶え間なく精力的に活動していたポップス黄金期だったが、「New York Mining Disaster 1941」に続いてリリースされた「To Love Somebody」にて、彼らは自分たちが一発屋でないことを証明した。1968年までにビー・ジーズはスターとしての地位を確立し、「Massachusetts」で全英シングル・チャートの首位を獲得した。さらに「I’ve Gotta Get A Message To You」「I Started A Joke」、先鋭的な「First of May」といったシングルも大ヒットを記録している。
初期ビー・ジーズの特徴となっていたのはロビンによるビブラートのヴォーカルだった。またR&B寄りのバリーのファルセットも次第に前面に出てくるようになり、それもこのグループを際立たせる個性となった。音楽面で冒険的な姿勢をとっていた彼らは、バロック・ポップ、サイケデリック、ブルー・アイド・ソウルを取り入れていた。
そうした組み合わせのサウンドは、ロバート・スティグウッドがプロデュースした初期の作品『Bee Gees’ 1st』『Horizontal』『Idea』『Odessa』といった初期の作品でひときわ印象的だった。このうちアルバム『Odessa』は当時期待されたほどのインパクトをもたらさなかったが、現在では珠玉の名作と再評価されている1枚であり、2009年には3枚組のデラックス・エディションとして再発され、多くの賞賛を集めた。オペラ的で、アンセムのようで、時に型破りなこのアルバムは、あらゆる人が聴くべき逸品である。ファンは既にその素晴らしさを知っているが、それ以外の人はこれを聞いてきっと大きな驚きを感じることだろう。
幅を広げた70年代
その後、ロビンは短期間ではあるがビー・ジーズの活動から離れた。とはいえ1970年代最初のリリースとなった『Cucumber Castle』では、バリーとモーリスがスタジオでプロデュースに携わるようになっていた。常に新しい技術を取り入れようとするビー・ジーズは、『Cucumber Castle』と同年である1970年に発売された『2 Years On』で再びオーケストラを導入した。そしてメロトロンとこれまで以上に複雑なハーモニーも取り入れ、他のアーティストたちよりも先に進んでいった。
1971年9月に発売された『Trafalgar』も必聴盤だ。ここには、彼らにとって初の全米チャート1位獲得となった「How Can You Mend a Broken Heart」が収録されている。
続くアルバム『To Whom It May Concern』とLAで制作された『Life In A Tin Can』では、ビー・ジーズらしい個性を保ちつつ、よりアメリカらしいアプローチを打ち出し始めている。『Life In A Tin Can』では、スニーキー・ピート・クレイナウのペダル・スティールが独特なカントリー調の雰囲気を生み出している。
そうしたアプローチは、アリフ・マーディンがプロデュースした1974年の『Mr. Natural』で非常に前面に出ている。ここではよりハードなR&Bとファンクが導入され、さらに1975年の『Main Course』では、サウンドがよりダークなものになっている。このアルバムはニューヨークとマイアミのクライテリア・スタジオで録音された。クライテリアを推薦したのはエリック・クラプトンだったという。
これはまさしく、ビー・ジーズにとって新しい時代の幕開けだった。名曲「Jive Talkin」「Nights On Broadway」、複雑な「Fanny (Be Tender With My Love)」は画期的な音作りになっており、素晴らしいヴォーカル、ファンキーなギターとシンセが聴きものになっていた。こうしてついに、彼らが単なるポップ・グループだという考えが覆されることになったのだ。どんな基準から見ても、これはソウル・ミュージックとしか言いようがない。
『サタデー・ナイト・フィーバー』の大ヒット
やがてディスコが爆発的なブームとなり、『Children Of The World』収録の「You Should Be Dancing」がホット・ダンス・クラブ・プレイ・チャートと全米シングル・チャートの両方で首位を獲得した。また、これがきっかけとなり、ビー・ジーズは映画『サタデー・ナイト・フィーバー』のサウンドトラックにたくさんの曲を提供。その中には「Stayin’ Alive」「How Deep Is Your Love」「Night Fever (恋のナイト・フィーバー)」「More Than A Woman」といった新曲だけでなく、「Jive Talkin’」のような過去の曲も含まれていた。
こうした楽曲は、実質的に商業的なディスコ・ミュージックのお手本となり、そのおかげで低予算のB級映画が1970年代で最も愛された映画の1つとなり、未だにカルト的な影響力を与え続けている。アメリカとUK、さらにはヨーロッパ各国のチャートで首位を獲得したこのサウンドトラック・アルバムは、当時の流行に関する通常の基準をすべて超越していた。
1979年の『Spirits Having Flown』はNo.1ヒットを連発する記録的な作品となった。ここから生まれた大ヒット曲「Too Much Heaven」「Tragedy」「Love You Inside Out」によって、ギブ三兄弟は地球上で最高のポップ・ソウル・グループとしての地位を確立したと言える。この時期、バリーはギブ家の末っ子であるアンディ・ギブのアルバム『Shadow Dancing』もプロデュースし、映画『グリース』のテーマ・ソングを作った。その曲を歌ったのは、誰あろうフランキー・ヴァリだ。ヴァリはさまざまな意味で彼らの精神的な師匠といえる存在だった。
同じ年にリリースされた『Bee Gees Greatest』で、彼らはまた新たな地点まで到達した。カムバックが大成功を収め、1975年から79年にかけてキャリアの全盛期を築き上げたのだ。とはいえこのグループはひとつのやり方に頼ることに満足していなかった。1981年の『Living Eyes』では、ディスコ・ブームの衰退を察知したのか、再び路線を変更している。
サウンドの変遷とアンディの死
それからしばらくの活動休止期間を経て、1987年には『ESP』がリリースされた。しかしヒット曲「You Win Again」を聞けばわかるように、楽曲の質は高いままだ。この曲は、ディスコ・ブームに対する逆風が吹いていたにも関わらず、ヨーロッパでヒットを飛ばしている。
コンピューター・プログラミング、シンセサイザー、キーボードを多用するようになったビー・ジーズは、また別の出来事にも向かい合わなければならなかった。弟アンディ・ギブが30歳という年齢で若くして亡くなったのである。1989年の18枚目のアルバム『One』は、彼の思い出に捧げられている。
ビー・ジーズが’1990年代に入って最初に出したのは『Tales From The Brothers Gibb』だった。これはキャリアを網羅したボックス・セットの初期の例で、1990年にこの種のボックスを出すのはまだ珍しいことだった。とはいえこのボックスは、このグループの偉業を思い起こさせる素晴らしいリリースだった。1990年代のビー・ジーズが発表した最初の新作アルバムは、1991年の『High Civilization』である。ここで彼らはまたもや腕に磨きをかけ、再びマイアミでレコーディングを行い、往年の洗練されたファンクにモダンなダンス・フィーリングを加えた。
1993年の『Size Isn’t Everything』は見過ごされがちな作品だが、ここには初期のスタイルに回帰した名曲「For Whom the Bell Tolls」が収録されている。また、1997年の『Still Waters』や1998年の華麗なるライヴ・アルバム『One Night Only』(録音会場となったのはラスベガスのMGMグランド) でも、彼らのレパートリーは鮮度が失われていなかった。
2001年にポリドール/ユニバーサルから発売されたビー・ジーズの最後のアルバム『This Is Where I Came In』には、あの名曲「Sacred Trust」が収録されている。これはもともと1998年にマイアミビーチでのレコーディング・セッションで録音された曲だった。この曲は後に、『Popstars: The Rivals TV』出身のグループ、ワン・トゥルー・ヴォイスがカヴァーしている。そのシングルは全英チャートで最高2位に達し、UKで広く聴かれることになった。
メンバーの死と追悼のコメント
その翌年、2003年1月にモーリスが他界し、ひとつの章が閉じられた。2012年にはロビン・ギブも亡くなり、新たな悲しみを巻き起こした。そして我々も、ビー・ジーズがいかに素晴らしいグループであったのか再認識することになった。ザ・フーのロジャー・ダルトリーは、ロビンのことを次のような言葉で見事に表現している。
「とても、とても素敵な男だ。ありとあらゆる人がビー・ジーズの成功について語っているけれど、シンガーとしての彼について話す人はあまりいない。俺は、彼のことを最高の歌手のひとりだと思っていた。俺の中では、歌う時は人を感動させることが大事だ。ロビンの歌声には、俺を感動させる何かがあった。その何かは、他の何百万人もの人たちも感動させていたに違いない。あれはまるで、彼の心を外にさらけ出しているような感じだった」
また映画『サタデー・ナイト・フィーバー』で主演を務めたスター俳優のジョン・トラボルタも、ロビンについて次のようにコメントしていた。
「ロビンは最高に素晴らしい人間のひとりだった。才能があり、心が広くて、知り合った人すべてが彼のことを本当の友達だと感じていた。みんな、彼がいなくなって寂しく思っている」
2016年、バリー・ギブは2001年ビー・ジーズの最後のアルバム『This Is Where I Came In』以来となる新作としてソロ・アルバム『In The Now』をリリース。さらにグラストンベリー・フェスティヴァルでは、コールドプレイのステージにゲスト参加し、「To Love Somebody」と「Stayin’ Alive」を一緒に演奏している。
ビー・ジーズはたくさんの人から賞賛され、2004年にはバンドとしてCBE勲章(大英帝国第3級勲位)さえ授けられ、驚異的な枚数のレコードを売り上げてきた。そして、さまざまな時代を映し出した非常に多くの曲によって、大きな喜びと調和をもたらしてきた。彼らは不朽のポップ・グループであり、さらに言えば、それを超えた存在だった。
彼らがマン島から出発し、芸術的成功の頂点を極めるまでの道のりはかなりの大冒険だった。その偉業は、2010年に『Mythology』というタイトルの4枚組ボックス・セットとしてまとめられた。彼らの作品は、これからさらに華やかな展開を迎えるように思える。多くのビー・ジーズ・ファンは、今後の動きを楽しみにしている。彼らは再び勝利を手にするに違いない。
Written By uDiscover Team
ビー・ジーズ オリジナル・アルバム20タイトル
2022年11月23日再発
CD予約
アルバム・タイトル
①『Bee Gees’ 1st』(1967)
②『Horizontal』(1968)
③『Idea』(1968)
④『Odessa』(1969)
⑤『Cucumber Castle』(1970)
⑥『2 Years On』(1971)
⑦『Trafalgar』(1971)
⑧『To Whom It May Concern』(1972)
⑨『Life In A Tin Can』(1973)
⑩『Mr. Natural』(1974)
⑪『Main Course』(1975)
⑫『Children Of The World』(1976)
⑬『Spirits Having Flown』(1979)
⑭『Living Eyes』(1981)
⑮『E.S.P.』(1987)
⑯『One』(1989)
⑰『High Civilization』(1991)
⑱『Size Isn’t Everything』(1993)
⑲『Still Waters』(1997)
⑳『This Is Where I Came In』(2001)
ビー・ジーズ初の公式ドキュメンタリー
『ビー・ジーズ 栄光の軌跡』
2022年11月25日より
ヒューマントラストシネマ渋谷、新宿武蔵野館他にて公開
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