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1976年7月4日、ラモーンズ初のロンドン・ライヴ

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1976年の秋は、ブリティッシュ・パンク・シーンから芽が出てきたいくつかのバンドの最初のレコード盤がリリースされた。レースで先頭を切ったのは、悪名高き「Anarchy In The UK」を出したセックス・ピストルズではなく、それよりも数週間発売時期が早かったザ・ダムドの扇動的な「New Rose」だった。しかし、ニューヨーク・パンクであるラモーンズがこの新しいシーンに衝撃を与えたデビュー・アルバムを出したのは、これよりも6ヶ月も前のことであった。サイアー・レコードからリリースされた『Ramones』は、1976年4月23日にアメリカでリリースされ、瞬く間にシーンに知れ渡ったのだ。

ザ・ダムドのベーシスト(後にギタリスト)のキャプテン・センシブルはエヴェレット・トゥルーの著書『Hey Ho Let’s Go : The Story Of The Ramones』で ラモーンズに関して「フレッシュでワイルドで、パワフルなサウンド、そしてわかりやすかった」と語っている。「彼らのレコードをかけて、俺はその辺にあるベースかギターを握って、レコードに合わせてジャムるんだ。それが俺の練習法だった。。。シド・ヴィシャスも同じことをしてたぜ」。

さらに、ウェスト・ロンドンの素晴らしきパンクス、ザ・ラッツのジョン・“セグズ”・ジェニングスが近年行った著者とのインタビューで、このアルバムの重要性を語っている。「デイヴ・ラフィ(ザ・ラッツのドラマー)が聴かせてくれた時のことを鮮明に憶えているよ。あれで俺は、やられたんだ。それから‘New Rose’、‘Anarchy In The UK’と続いて、もう後戻りなんてできなかった」

ローリング・ストーン誌やヴィレッジ・ヴォイスといった影響力のあるアメリカの雑誌はラモーンズに惜しみない賞賛を送っていたが、ニック・ケントやチャールズ・シェアー・マレーといった先進的なライター達からの支持を得るまでは、イギリスではまだ彼らは無名に等しかった。若いパンクス達の口コミで広がった彼らの輝かしいロンドンでのデビュー・ライブは1976年7月4日、アメリカ独立200周年の日に行われ、ザ・フレイミング・グルーヴィーズとザ・ストラングラーズというラインナップと共に胸に期待を膨らませたファン2000人が会場に詰めかけた。

ジョーイ、ジョニー、ディーディー、そしてトミーは14曲のセットを繰り出し、3曲のアンコールで締めくくった。彼らは、シングル「Blitzkreig Bop」の宣伝用のミニチュア野球バットを配り、さらにゲストに伝説的なT・レックスのリーダーであるマーク・ボランをステージに招いた。他にもザ・ダムドのラット・スキャビーズとザ・アドヴァーツのゲイ・アドヴァートという未来のパンク・シーンを担う2人が観にきていたが、都市伝説とは反対に、セックス・ピストルズとザ・クラッシュのメンバーはそこにはいなかった。両バンドは、同日にシェフィールドのブラック・スワン・パブでライブがあり、セックス・ピストルズの前座にザ・クラッシュが出演(この日が彼らの初ライブ)していたのだ。

しかし、翌日カムデンのディングウォールで行われソールド・アウトとなったラモーンズの2日目のライブでは、セックス・ピストルズとザ・クラッシュだけでなくザ・ダムドやのちのプリテンダーズのリーダーとなるクリッシー・ハインズも会場にいた。パンク史に詳しい専門家達の間では、この会場で(実に些細なことで)ザ・クラッシュのポール・シムノンとザ・ストラングラーズのJJ・バーネルが乱闘を起こしたことでも知られているが、しかしそれよりもこのムーブメントの勢いが増していたという事実の方が重要であろう。

ラット・スキャビーズがUncut誌で「“誰が最初だったか?”なんて重要ではなかった。それよりも、世界の別の場所でも何かが起こっているという事実のほうが重要だ。次の世代は怒っているんだという。怒ってるのは俺達だけじゃなかったんだと気づかせてくれたんだ」と語った。

Written by Tim Peacock


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