日本が世界に誇る音楽家、坂本龍一が71歳で逝去。彼の長く多彩なキャリアを辿る

Published on

Ryuichi Sakamoto - Photo: Frans Schellekens/Redferns

国境、ジャンル、世代を超えたプロデューサーやミュージシャンに多大な影響を与えた日本の音楽家、坂本龍一が、3月28日、71歳でその生涯を終えた。

彼の所属レコード会社であるエイベックスは、公式声明で坂本が癌で亡くなったことを報告し、彼の闘病生活を支えた日米の医療従事者に感謝の意を捧げるとともに、近親者によって既に家族葬が営まれたことを伝えている。

「2020年6月に見つかった癌の治療を受けながらも、体調の良い日は自宅内のスタジオで創作活動をつづけ、最期まで音楽と共にある日々でした」

<関連記事>
インスト音楽のサウンド・エスケープ:イーノからエイナウディまで
2023年に亡くなったミュージシャン、音楽業界の関係者たち

坂本は長く多彩なキャリアを歩んできた。初期の作品はクラシックやアヴァンギャルド・ミュージックの影響を受けていたが、70年代後半に細野晴臣、高橋幸宏と結成したテクノポップ・グループ“イエロー・マジック・オーケストラ”(YMO)で初めて世界的ヒットを記録する商業的成功を収め、後にマイケル・ジャクソンやエリック・クラプトンらも彼らの楽曲をカヴァーしている。一方で、ソロ・アーティストとして彼の音楽性は、モダン・エレクトロ、ジャングル、アンビエントといったサウンドを予見させるものだった。

また、坂本は過去に、スコットランド出身のニュー・ウェイヴ・バンド、アズテック・カメラや、ポストパンクの旗手パブリック・イメージ・リミテッドといった国際色豊かなコラボレーションや映画音楽の作曲も手掛けており、1987年の映画『ラストエンペラー』でアカデミー賞作曲賞に、1990年の『シェルタリング・スカイ』でゴールデングローブ賞作曲賞に輝いている。

近年は、2017年に発表した『async』やドイツ出身のアーティスト、アルヴァ・ノトとのコラボレーションなど、原点回帰とも言える、より抽象的で実験的な作品を発表していた。

坂本の頻繁なコラボレーターで友人のデヴィッド・シルヴィアンは、2017年のニューヨーク・タイムズ紙のインタビューの中で、彼についてこう語っている。

「彼の好奇心は止まることを知らず、もし彼がこれだけ多くのもののマスターであるという事実がなければ、よろず屋か何かかと思われていたかもしれない」

 

その生涯

坂本龍一は、1952年1月17日、東京で芸術一家に生まれた。彼の父親は、三島由紀夫や大江健三郎といった大物小説家たちと仕事をする編集者だった。彼は幼い頃をこう振り返っていた。

「いつも、とても若い作家や小説家志望の人たちが家に来ていました。家にはたくさんの本があり、僕たちはその山が崩れないように避けて歩いていました。文化に溢れていましたね」

また、その生涯にわたり音楽を愛した彼の母親は、彼を連れて、ジョン・ケージやイアニス・クセナキスといった現代クラシック・アーティストの公演をよく観に行っていたという。年を重ねるにつれ、彼の音楽的興味は、ブリティッシュ・インヴェイジョンのロックンロールや、フランスの作曲家クロード・ドビュッシーなどの作品にも及ぶようになった。

1970年、東京芸術大学に入学し、作曲と民族音楽学を専攻していた彼は、電子音楽の世界に足を踏み入れる。そこで彼は、BuchlaやMoogといった初期のシンセサイザーを弾き始め、彼にとってもう一つの大きな影響力となるクラフトワークと出会う。坂本は、2006年に行われたドイツのGroove誌のインタビューの中で、彼らの魅力について、「コンセプチュアルで、理論的でもあり、非常に明確で、シンプル且つミニマムな力強さがある」と語っていた。

 

YMOの結成

大学卒業後、人気スタジオ・ミュージシャンとして活躍するようになった坂本は、仕事を通じて細野晴臣と高橋幸宏に出会い、彼らと1978年にイエロー・マジック・オーケストラを結成する。同グループを結成した意図について、彼はGroove誌にこう語っていた。

「とても日本らしい何かを作りたかった。YMOは、アメリカ音楽の影響、ヨーロッパ音楽の影響、クラシック、ポップスなど、ありとあらゆるものが混ざり合った、お弁当箱のようなものをね。そして、それがとても日本的だと思ったんです」

彼が説明するありとあらゆるものの集合体は、1978年にYMOが発表したセルフタイトルのデビュー・アルバムでよく表現されている。トリオが奏でる楽しく泡立つような曲は、電子楽器の可能性に満ち溢れ、シンセが生み出し得る驚くべきサウンドの宝庫だった。同時に彼らの曲は、ダンスクラブにおあつらえ向きの親しみやすさもあった。

YMOは日本で瞬く間に人気グループとなり、その6年の活動期間で制作した7作のアルバムは、ほぼ全てがTOP5にランクインし、全国各地で行われたコンサートは完売を繰り返した。2008年のGuardian誌のインタビューで、坂本は当時をこう振り返っている。

「僕たちはとても有名になってしまって、いつもパパラッチに追い回されているのが嫌でした」

やがて彼らは海外でも商業的な成功を収めるようになる。アメリカ出身のピアニスト、マーティン・デニーの「Firecracker」をユニークな電子音でファンキーにカヴァーした彼らのヴァージョンは、1980年に全米R&Bチャートでサプライズ・ヒットを記録し、YMOは人気TV番組“Soul Train”に出演を果たした。

 

欧米へカルチャーへの影響

YMOの功績は、ヒット・チャートでの商業的成功に留まらず、欧米のヒップホップ、R&B、電子音楽のプロデューサーに大きな影響を与えたことだった。彼らの作品は、アフリカ・バンバータ、ジェニファー・ロペス、マライア・キャリーら著名アーティストたちの楽曲でサンプリングされている他、1979年のアルバム『Solid State Survivor』の収録曲「Behind The Mask」は、エリック・クラプトンが1986年のアルバム『August』で、マイケル・ジャクソンが『Thriller』のためにカヴァー・ヴァージョンをレコーディングしている。

YMOはまた、80年代のニューロマンティック・ムーブメントや、IkonikaやFour Tetといった現代のプロデューサーに大きな影響を与えたと言われている。

 

ソロとしての活躍と『戦場のメリークリスマス』

1984年にYMOが解散するまでに、坂本はすでに3作のソロ・アルバムを発表していた。ダブのテクニックを駆使した1980年の『B-2 Unit』、キング・クリムゾンのギタリスト、エイドリアン・ブリューが参加している1981年の『Left-Handed Dream』という2作のアルバムは、坂本はその後のキャリアを方向づけるアンビエントや実験的な作品を予感させ、心地よさと刺々しさが交差するような構成になっていた。

しかし、坂本が全く新しい道を歩むきっかけとなったのは、大島渚監督の誘いで実現した、第二次世界大戦中に日本統治下にあったジャワ島の日本軍俘虜収容所でのドラマを描いた1983年の映画『戦場のメリークリスマス』でのデヴィッド・ボウイとの共演だった。

デヴィッド・ボウイ演じる英国人捕虜に同性として惹かれ、苦悩する硬派な陸軍大尉ヨノイ役を演じた坂本は、この映画で高い評価を得たが、さらに大きな話題を呼んだのが、彼がこの映画のために手掛けた感動的な音楽だ。エリック・サティの影響を窺わせる華やかなテーマ曲「Forbidden Colors」(禁じられた色彩)の彼とシンガーソングライターのデヴィッド・シルヴィアによるヴォーカル・ヴァージョンは、イギリスやアイルランドでヒットを記録した。

『戦場のメリークリスマス』のサウンドトラックをきっかけに、その後も多くの映画やテレビ音楽を手掛けるようになった坂本は、デヴィッド・バーンやコン・スーらと共に、ベルナルド・ベルトルッチ監督による1987年の大作映画『ラストエンペラー』でアカデミー賞作曲賞に輝いた。また、1998年の『スネーク・アイズ』と2002年の『ファム・ファタール』などブライアン・デ・パルマ監督作品の他、NetflixのSFドラマ・シリーズ『ブラック・ミラー』の2019年のシーズン5に音楽を提供している。

YMO解散後の坂本のソロ活動は、急速に進化し、頻繁に方向転換していくことになる。1986年に発表した『Futurista』は、エレクトロ・ポップの峻烈なコレクションであり、1989年の『Beauty』では、ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンやザ・バンドのロビー・ロバートソンら錚々たる顔ぶれをゲストを迎え、フラメンコ、ロック、日本の伝統音楽を探求した作品となっている。

また、1992年に行われたバルセロナ・オリンピックの開会式のために作曲した曲や、さまざまな友人や彼のファンを公言するアーティストたちのアルバムに参加するなど、彼は自分の創作活動の枠組みを超えて幅広いプロジェクトにも時間を割いた。

長年のコラボレーターとして知られるデヴィッド・シルヴィアンの1987年の『Secrets of the Beehive』と1999年の『Dead Bees on a Cake』では、編曲とキーボードを担当し、シンセポップをより抽象的で印象主義の領域へと導いた。1993年にリリースされたアズテック・カメラの『Dreamland』ではプロデューサーを務めており、バンドリーダーであるロディ・フレイムのジャングル・ポップにシンセを重ねるなどして、より成熟させたサウンドを作り上げた。

ロディ・フレイムは、1993年のインディペンデント紙のインタビュー中で、彼との制作をこう振り返っている。

「彼は、ずっとコンピュータの画面の前に座っている音楽教授や博士みたいな人だと世間に思われがちですが、実際はもっと直感的な人で、常に自分の知っていることを壊そうとしているんです。スタジオで一日の半分を過ごすと、彼は作業を中断してヒップホップやハウスを10分ほどかけ、それからまた元の作業に戻ります。彼はいつもそうやって自分をトリップさせ新しいものを発見しようとしているんです」

 

後年の活動

坂本は、中咽頭がんと診断された2014年まで、絶え間なく音楽活動を続けていた。以降1年間は治療とセラピーを受け、予定していた創作プロジェクトのほとんどを見送らざるを得なかった。6年を経て寛解した彼は新たな活力を持って仕事と向き合うようになり、その結果生まれた作品の多くは、より開放的で実験的なものとなった。

2017年発表のアルバム『async』は、不規則なシンセサイザーやピアノの中にフィールド・レコーディングを融合させた瑞々しいアンビエント・インストゥルメンタルのサウンドに満ちている。

彼は、同年行われたニューヨーク・タイムズ紙のインタビューの中で、この作品についてこう説明している。

「実はこれが最後の作品になるかもしれないと思っていました。僕はただ、自分が聴きたいものだけを作品にしたかった。身の回りにあるものの音を、たとえそれが楽器であっても、モノとして聴きたかったんです」

 

またこの年、坂本の音楽活動への復帰を追ったドキュメンタリー映画『Ryuichi Sakamoto: CODA』も公開され高い評価を得たが、2022年6月、坂本はがんが再発したことを発表した。

坂本龍一がそのキャリアを通じて多忙を極め、ジャンルと世代を超えたアーティストたちをコラボレーターやファンとして彼の世界に引き込んだのは、彼の尽きることのない好奇心と様々な音楽スタイルをマスターする音楽的才能だった。彼は、ライヴ・パフォーマンス、舞台や映画のための作曲、オーストリア出身のアーティスト、クリスチャン・フェネスとの2007年のプロジェクトでも知られる実験的なコラボレーションなど、あらゆるプロジェクトに全身全霊を捧げていた。

坂本は2017年のThe Creative Independentの取材に次のように語っていた。

「僕は、設計図や目的、目標に基づいて音楽を作るプロセスが嫌いです。僕が建築家だったら、設計図を作りたくないので、ダメな建築家になるでしょうね。自分の知らないもの、今までやったことのない、全く新しいものを作りたいんです。願わくば、僕にとって、驚きと、新しい体験になることを期待しています」

坂本は、妻でマネージャーの空里香と4人の子供たちを後に残した。彼の前妻でミュージシャンの矢野顕子との間に生まれた娘の坂本美雨は、日本のポップ・シンガーとして活動している。

Written By Robert Ham



Share this story

Don't Miss

{"vars":{"account":"UA-90870517-1"},"triggers":{"trackPageview":{"on":"visible","request":"pageview"}}}
モバイルバージョンを終了