黒人歌手として初めてカントリー界で成功したチャーリー・プライドが新型コロナの合併症により逝去

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Photo: Joseph Llanes

2020年12月13日、カントリー界のレジェンド、チャーリー・プライド(Charley Pride)が新型コロナウイルスの合併症により86歳で逝去し、多くのカントリーミュージック界のスターたちが追悼を捧げている。

故郷ミシシッピ州で綿花を摘みながら父親を支えた質素な生い立ちから、黒人歌手として初めてカントリー界で成功を収めてスーパースターへと上り詰めたチャーリー・プライドの功績は誰もが認めるところである。先月開催されたCMAアワード授賞式で、“ウィリー・ネルソン生涯功労賞”を受賞した彼が、現代の黒人カントリー・スター、ジミー・アレンと共に、自身の1971年の名曲「Kiss an Angel Good Morning」で共演したステージが彼にとって生前最後のパフォーマンスとなった。

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追悼の言葉

ドリー・パートンはツイッターで自身の心境をこう明かした。

「私の最も親愛なる旧友の一人、チャーリー・プライドが新型コロナウイルスで亡くなったことを知り、悲しみに打ちひしがれています。なんて恐ろしい、恐ろしいウイルスなんでしょう。チャーリー、私たちはずっとあなたを愛しています」

カントリー界のもう1人の草分け的黒人アーティスト、ダリウス・ラッカーも彼の功績を称えこう記している。

「胸が締め付けられるような思いです。チャーリー・プライドはアイコン、伝説、彼の偉大さを表すどんな言葉にも相応しい人でした。彼は人種の壁を打ち砕き、前人未到の功績を残しました。今日はずっと彼のことを考えています。私がこの世で知り得る最も立派な人物の1人が天へと召されました。CP、君のことが恋しい、心から愛しています」

現代カントリー界で最も有名な歌手の1人であるルーク・コムズも次のように追悼している。

「“グランド・オール・オプリ”で演奏した時に、チャーリー・プライドにお会いできたのは光栄でした。彼の存在感と才能に畏敬の念を抱いています。彼の訃報を知ってとても悲しいです。彼は真の伝説であり、先駆者でした。彼がカントリー界と何世代ものアーティストに与えた影響は、決して忘れ去られることはないでしょう。安らかにお眠りください」

ダリウス・ラッカーと共にCMAアワードの司会を務めたリーバ・マッキンタイアもこう哀悼の意を捧げた。

「チャーリー・プライドは、永遠にカントリーミュージック界のレジェンドであり続けるでしょう。彼がいなくなって本当に寂しいですが、彼が生んだ偉大な音楽、素晴らしい人間性、そしてその寛大な心は、この先もずっと記憶に残されていくでしょう。彼の妻ローゼンとご家族の皆様に心からお悔やみを申し上げます。チャーリー、安らかにお眠りください」

 

真の先駆者

1938年3月18日、ミシシッピ州スレッジで生まれたチャーリー・プライドは、カントリー歌手になる夢を追い求めるために、デトロイト・イーグルスやメンフィス・レッドソックスで活躍し、将来を有望視されていた野球選手のキャリアを断念した。1967年1月に、RCAビクターから自身初のヒット曲「Just Between You and Me」をリリースし、アフリカ系アメリカ人ソロ・シンガーとして“グランド・オール・オプリ”に初出演を果たす。同番組の中で、彼はロイ・エイカフから「ミシシッピ出身の親友で、カントリー・ミュージックを生きる少年」と紹介された。

このシングルは、全米カントリー・チャート入りを果たした全67曲のうちの最初のシングルで、最後のチャート入りは1989年だった。自身初のNo.1シングルとなった1969年の「All I Have To Offer You (Is Me) 」を皮切りに、チャーリー・プライドはその後も、「Is Anybody Goin’ To San Antone」、「It’s Gonna Take A Little Bit Longer」、「She’s Just An Old Love Turned Memory」、そして自身最後の1位となった1983年の「Night Games」など、全29曲ものNo.1シングルを世に送り出した。

チャーリー・プライドはまた、1968年から2003年かけて、全米カントリー・アルバム・チャートに43回以上登場し、カントリー界の名盤と知られている、1966年の『Country Charley Pride』をはじめ、1967年のNo.1アルバム『The Country Way』、そして13週にわたって1位を記録した1969年の『Best Of 』など、過去に12度の首位を獲得している。

1970年代初頭に立て続けにリリースされた『Charley Pride Sings Heart Songs』と『Best Of Volume 2』はそれぞれ16週にわたり、『A Sunshiny Day With Charley Pride』は10週にわたって同チャートのトップに立った。

一風変わったナッシュビルまでの道のり

チャーリー・プライドは、カウンターカルチャー紙“The Great Speckled Bird”の取材に、ナッシュビルに行き着くまでに自身が辿った一風変わった道のりについて次のように述べていた。

「故レッド・フォーリーとレッド・ソヴァインが出演していた1963年のショウの後半に私を招いてくれて、その後ナッシュビルに行くように勧めてくれたんです。彼らは私の歌に大きな衝撃を受けていました。地元の友人たちからも“お前は歌が上手いからナッシュビルに行ったらいいよ”と言われていましたが、彼ら(フォーリーとソヴァイン)に言われるまでは、真剣に考えたことはありませんでした。それで私は“そうさ。彼らが音楽業界にいるのなら、その世界を見てみるべきだ”と思い、その後RCAでチェット・アトキンスのオーディションを受けて契約を獲得しました。あとはご存知の通りです。彼らは私にスチールでできたスーツを買ってくれました」

チャーリー・プライドは、CMAアワードにおいて、“エンターテイナー・オブ・ザ・イヤー”とW受賞した1971年、そして1972年という2年連続で“男性ボーカリスト賞”を受賞している。2000年にはカントリー・ミュージックの殿堂入りを果たし、2017年の“生涯功労賞”を含む、過去に4度のグラミー賞を受賞している。

「カントリー・ミュージックは、真の意味で“地に足の着いた”人々の音楽であり、彼らの苦悩や失望、勇気、そして喜びの音楽なのです。カントリー・ミュージックは何よりも正直なのです」と彼は語っていた。

Written By Paul Sexton




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