プロモ・ビデオ(PV/MV)のパイオニアと映像表現進化の歴史:ディランのリリック・ビデオを基軸にして

1月 4, 2018


プロモ・ビデオ(PV/MV)のパイオニアと映像表現進化の歴史:ディランのリリック・ビデオを基軸にして

1965年5月8日。映像ディレクターのD・A・ペネベイカーはロンドンの路地で、カスタマイズしたオーリコンの16mmカメラを肩に担ぎ、目の前に立っている痩せた男にそのレンズを向けた。その男は、厚紙(サヴォイ・ホテルでクリーニングしたワイシャツに挟む厚紙だ)に走り書きした歌詞を石畳の道に放り投げていた。この時、D・A・ペネベイカーは、史上最も大きな影響力を持つことになるミュージック・ビデオを作っていたことに気づいていただろうか? このビデオでは、ロンドンW2(郵便番号)のサヴォイ・ステップで、ボブ・ディランが遊び半分に「Subterranean Homesick Blues」の歌詞に出てくる単語を次々に見せているが、このシーンの影響は思いもよらず現在まで続いている。こうしてD・A・ペネベイカー、ボブ・ディラン、アレン・‘ラビ’・ギンスバーグ、そして撮影前夜、ドノヴァンも大喜びで単語をマジックで書く作業を手伝ったボブ・ディランの親友ボビー・ニューイスは、現在再び流行しているリリック・ビデオを偶然にも発明したのだった。

しかし、注意してほしい。このフィルムはミュージック・ビデオではなかった。当時、そうした技術や発想はほとんど存在していなかったのだ。60年代を通じて、フィルム・クリップ――‘インサート’と呼ばれた――はホーム・ムーヴィー・スタイルで撮影され、映画用カメラが使われることも多かった。こうしてできた作品は奇抜なものだっただった。ザ・ビートルズのクリップに関して言えば、風変わりかつ偏狭で、長い間忘れられていたイギリス流の演出表現のようだった。だからこそ1965年に行われたボブ・ディランの英国ツアーを基にしたドキュメンタリー映画『ドント・ルック・バック』のオープニングで、D・A・ペネベイカーが「Subterranean Homesick Blues」を撮影した場所がロンドンだったのは、当然だったとも言えるだろう。ホテルの屋上と近くのヴィクトリア・エンバンクメント・ガーデンズでも別のクリップが2つ撮影されたが、同じような都会的なインパクトはなかった。このロンドンの町中で撮影された映像、そしてこのロンドンという街は世界で最もグルーヴィーな場所だったことは白黒の映像であっても今も伝わってくる。

60年代の蛍光色の時代が暗くなり、例えばザ・ローリング・ストーンズの「Jumpin’ Jack Flash」のビデオで悪魔的になるまでの間、優れたクリップは世界の最先端を行く首都ロンドンが持つ若干ヒステリックな遊び場的ムードを高めていた。その意味では、60年代を代表するクリップは、単なる懐かしさを喚起する以上の存在であるといえる。これらのクリップは、まばゆく強烈な時代を視覚的に歴史として記録しているのだ。一方、80年代の凝ったビデオは、より容赦なく商業的な印象を与えることもあり、芸術作品というよりも、広告作品に近かったのだ。

対称的に、ボブ・ディランの「Subterranean Homesick Blues」のフィルムは自己を敬うよりも、自分自身をからかったものだった。彼のフィルムはチャーミングで、ウィットに富んでおり、曲としっかり結びついていた。これはボブ・ディランの宝物であり、彼なりの解釈だった。また、同フィルムは容赦なく模倣され、パロディ化されてきたが、浮浪児のような風貌の男が、刺激的な姿へと変貌を遂げようとしている様子が明確に描かれている。またこのフィルムには、銅貨2枚すら持っていなさそうに見える男が、ロンドンで最高級かつ最高値のホテルに泊まりながら、フィルムを作るためにただ同然の小道具を使っている。なお、そのフィルムの製作費は、ウォーダー街まで帰るタクシー代ほどで、同フィルムの映像処理はウォーダー街で行われた。

話をもう少し過去に遡ろう。「Subterranean Homesick Blues」は初のポップ・フィルムではない。フランス製のクリップもいくつかあったが、初のポップ・フィルムの栄誉はムーディ・ブルースに送られるだろう。同グループのコ・マネージャー、アレックス・ウォートンは1964年12月、シルエットのテクニックを使ってシングル「Go Now」のプロモーション・フィルムを作っている。なお、同テクニックは後にクイーンも「Bohemian Rhapsody」で採用している。

ザ・ビートルズは、プロモーション用にパフォーマンス中の姿を撮影されることも多かったが、リチャード・レスターの監督による映画『ハード・デイズ・ナイト』で銀幕の世界に進出した。リチャード・レスター監督は自作の短編映画『とんだりはねたりとまったり』のシーケンスをアップデートして使用し、有名な「Can’t Buy Me Love」のシーケンスを作った。また、同映画の中で、ザ・ビートルズは熱狂的な大衆から逃れようと、ロンドンのメリルボーン駅に近いボストン・プレイスを走っており、当時の高揚感が映像に収められている。

ザ・ビートルズはこの他にも映画『ヘルプ!』や「Day Tripper」、「We Can Work It Out」等、気軽で明るいながらも影響力の大きなインサート・フィルムを作り、「Rain」、「Paperback Writer」(『Ready Steady Go!』のプロデューサー、マイケル・リンゼイ=ホッグが監督を務めた)でもプロモーション・フィルムを制作。さらに、全面的にサイケデリアを取り入れた「Strawberry Fields Forever」と「Penny Lane」は、ピーター・ゴールドマンが監督を務め、当時流行していたカルト映画『欲望』 にも敬意を表している。

ザ・ビートルズで最も奇妙なフィルムは「A Day In The Life」だ。バッド・トリップ(恐ろしい幻覚体験)に似た悪夢のような構成だった。1967年のクリスマスにモノクロとカラーの両ヴァージョンで放映されたザ・ビートルズの長編モンタージュ作品『マジカル・ミステリー・ツアー』では、奇妙なトリップがテーマだった。当時、カラーTVに250ポンド(今日の3,000ポンド=46万円に相当)を支払えるのは、英国でわずか20万人だけだったため、大半の人々は『マジカル・ミステリー・ツアー』をレンタル・ショップのラジオ・レンタルズから借りたモノクロTVで観賞した。

その5カ月前の1967年6月25日、ザ・ビートルズは世界で初めて多元衛星中継が行われたTV番組『Our World~われらの世界』に出演していた。「All You Need Is Love」のパフォーマンスは、ポップ・ミュージックに対して英国が初めて面白い場面を提供した瞬間となっただけでなく、バンドが音楽制作を行う姿を見せたという点で、重要な転機となった。以下が当時の様子である。

無頓着な様子のジョン・レノンだったが、同イベントでは落ち着きをなくし、ヴォーカル・パフォーマンス中ずっとガムを噛んでいた。また、ジョージ・マーティンとエンジニアのジェフ・エメリックはこっそりスコッチを飲んでいた。ザ・ビートルズの人気のおかげで、床に座ってフェイド・アウト中にコーラス部分も合唱していた友人・知人たちの中には、ミック・ジャガー、エリック・クラプトン、 マリアンヌ・フェイスフル、キース・リチャーズ、キース・ムーン、グラハム・ナッシュ、マイク・マクギア、パティ・ボイド、ジェーン・アッシャーの姿もあり、この中継はザ・ビートルズの無敵ともいえる勢いをさらに強めた。なぜなら、世界25か国で4億以上の人々がこの光景を観賞したのだ。

しかし、こんなにも世界中の人に見られたビデオは例外だった。ポップ・フィルムの問題は、どれほどの人々がポップ・フィルムを見ているかを判断するのが難しいことだった。音楽家組合のマイミング(口パク)禁止令は、順守が難しいものだったが(実際には多くのグループは口パクしていた)、TVカメラマン組合は、自分達の仕事が無くなることを危惧してテレビで音楽ビデオが放映されることに反対していた。その結果、こうしたクリップは通常、一部を抜粋使用されるか、DJが喋っている間に流れるつなぎとして使用されるかのどちらかだった。

BBC2のスタッフは、ポップ・フィルムに賛同する傾向が強かったが、大元のBBCは概して厳格な検閲を行っていた。ザ・キンクスの「Dead End Street」は、バンドがケンティッシュ・タウンのリトル・グリーン・ストリートで棺を担ぐシーンが極めて悪趣味だとされ、放送禁止となった。雪に覆われた北ロンドンの森で楽しげに撮影されたザ・キンクスの「Sunny Afternoon」は、オランダのTVでしか放映されなかった。

茶目っ気のあるモッズ、スモール・フェイセスも自身のフィルムが放送禁止になった。「Lazy Sunday Afternoon」や「Itchycoo Park」の見事なクリップは、都会のラフさとサイケデリックな素晴らしさを融合していたが、ニュージーランドのオークランドやオーストラリアのアデレードの住人以外は、クリップを見る機会を逃していただろう。

その他、注目すべきビデオは、英国バンドのマンフレッド・マン制作による「Ragamuffin Man」とトラフィックの「Paper Sun」だ。前者ではマイク・ダボがスクーターの後ろに乗ってロンドンを回りながら同曲を歌っており、後者ではトラフィックが南ロンドンのホーニマン・ミュージアム周辺を歩きながら、人類学的な展示を眺めている。上記2作が純粋に奇妙なフィルムであるならば、バーズの『Notorious Byrd Brothers』のアルバム・ジャケットを引き合いに出したマンフレッド・マンの「Fox On The Run」のプロモ用フィルムも特筆に値するだろう。同フィルムの中で、彼らは獣のような狩猟家たちの群れからキツネを救出している。

当時、最も有名だったザ・ローリング・ストーンズのクリップは、「Jumpin’ Jack Flash」だ。これは2ヴァージョンあり、ひとつは直球のパフォーマンス映像、もうひとつは伝説的なヴァージョンで、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ブライアン・ジョーンズがウォーペイントとゴールドフェイスを施している。マイケル・リンゼイ=ホッグが両ヴァージョンとも監督を務めた。ザ・ローリング・ストーンズのファンは、ピーター・ホワイトヘッドの監督による「Have You Seen Your Mother, Baby, Standing In The Shadow?」のフィルムについてもよく知っているはずだ。同フィルムでは、ザ・ローリング・ストーンズがステージ上で襲われる姿をとらえた激しいライヴ映像が使われている。

ピーター・ホワイトヘッド監督は、「We Love You」のクリップの出来により満足していた。しかし同ビデオはBBCで放送禁止となった。というのも、ミック・ジャガーとキース・リチャーズの麻薬押収に関する公判が迫っていたからだ(彼らは勝訴したが)。ピーター・ホワイトヘッドはこう回想している。「これはシリアスで政治意識の高い、知的で文化的な初めてのビデオだった――そして、曲を売るビデオでもあったんだ。ストーンズの薬物訴訟の直前に作られたビデオで、彼らの苦境について取り上げていた。同ビデオは、メンバー全員をドラマの中の俳優へと変貌させ、オスカー・ワイルドの裁判を再現し、マリアンヌ・フェイスフルが[ワイルドの恋人]ボジー(アルフレッド・ダグラス)に扮していた。私に関して言えば、私はこのフィルムで、それまでのキャリアよりも大きなことを成し遂げたんだ」。

しかしおそらく、映画『パフォーマンス/青春の罠』でのニック・ローグ監督ほど、ミック・ジャガーを見事に描いた人物はいないだろう。同映画の中で彼が演じたキャラクターは、極めて重要な「Memo From Turner」を歌っている。1968年のこの時点で、ミック・ジャガーのリリカルなスキルは絶頂に達していた。「Memo From Turner」と「Jumpin’ Jack Flash」はボブ・ディランと肩を並べるが、60年代の疾走をアナーキーな結末へと結びつけたのは、ニック・ローグの映像だ。なお、同映画は大きな物議を醸し、1970年まで公開されなかった。ミック・ジャガーはヘムロック(毒ニンジン)とコーク(清涼飲料水のコーラについて歌っているわけではない/コカインのことだ)に言及し、インパクトを与えた。このシーンを超えるポップ・ビデオは存在しないだろう。

デヴィッド・ボウイが1969年に発表した「Space Oddity」は、マルコム・J・トンプソン監督によるデヴィッド・ボウイのプロモーション用フィルム『Love You Till Tuesday』のハイライトだった。マルコム・J・トンプソンは、当時デヴィッド・ボウイのマネージャーだったケネス・ピットの友人だ。トム少佐という名高いキャラクターが初登場した同曲は、アポロ11号の月面着陸と関連づけられることが多いが、1968年12月8日に打ち上げられたアポロ8号と年代的には重なるところが多い。アポロ8号は、3日をかけて月に向かい、20時間で月を10回周回。その間にクルーはクリスマス・イヴのTV放送に出演すると、創世記の最初の10節を朗読した。当時、この放送は歴代最高の視聴率を記録し、クルーと視聴者が地球の全体像を見ることができた(月の向こう側と「地球の出」)初めての宇宙飛行となった。この素晴らしい経験に、スタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』(1968年5月に公開)から得た影響が加わり、「Space Oddity」が誕生。デヴィッド・ボウイのファイナル・アルバムにもその痕跡が残っている。

ドラッグが盛んだった70年代初頭だが、驚くことに、印象的なプロモーション・クリップはあまり存在しない。この点を詳細に説明はしないが、ビデオ・テープはまだ、音楽グループに広く使用されてはいなかった。しかし、ポルノ映画の監督は大いに活用しており、オーヴァーダブした台詞を使うことで、映像との同期の問題を克服していた。当然、デヴィッド・ボウイはポルノ・ビデオという媒体を知っていた。クリーヴランドでのギグで、彼はスツールに座り、「Drive-In Saturday」をアコースティック・ギターで演奏すると、こう語った。「これは、人々が愛の交わし方を忘れ、20世紀のポルノ・ビデオに立ち戻る未来についての歌だ。これは、何かしらの大災害が起こった後の話で、路上で暮らしている人もいれば、ドームに住んでいる人もいる。そして人々は、困難な事態を収拾しようとお互いに助け合っているんだ」。同曲の歌詞はまた、映画『パフォーマンス/青春の罠』のミック・ジャガーをほのめかしている。

デヴィッド・ボウイがミック・ロックと共に作ったプロモーション素材は、概してビデオだった。デヴィッド・ボウイとミック・ロックは『ジギー・スターダスト/アラジン・セイン』のピンナップや、オレンジ色の髪をしたデヴィッド・ボウイを映すことで、ポップ史上でデヴィッド・ボウイの地位を確固たるものとした。ロックが作ったその他のデヴィッド・ボウイ作品は、「John, I’m Only Dancing」(2番目の「Space Oddity」)と「Life On Mars?」で、どちらも派手で色彩豊かなビデオの特質を最大限に利用している。

「John, I’m Only Dancing」のビデオは、1972年8月19日に、デヴィッド・ボウイがスパイダーズ・フロム・マーズとレインボウ・シアターでパフォーマンスのリハーサルをしている姿を映している。制作費用は200ポンド。同ビデオの中で、デヴィッド・ボウイは黒いレザー・ジャケットを着用し、片方の頬に錨のタトゥーを入れている。バンドとデヴィッド・ボウイのパフォーマンス・シーンと、網タイツのような衣装に身を包んだアストロネッツがバックライトのついたシルエットのスクリーンの後ろで踊っているシーンが交互に映しだされている。ミック・ロックはまた、「The Jean Genie」のプロモ・ビデオも、デヴィッド・ボウイの『Aladdin Sane』全米ツアー中にサンフランシスコで撮影した。同ビデオには、デヴィッド・ボウイとシリンダ・フォックスがマーズ・ホテル(グレイトフル・デッドと縁のある4番街の安宿)ではしゃぐ姿が収められている。グレイス・スリックの前夫、ジェリー・スリックがカメラマンを務めた。

「Life On Mars?」では、デヴィッド・ボウイは淡いブルーのスーツを着て、濃いアイシャドウを塗っているが、ミック・ロックが彩度で実験することにより、アイシャドウはブルーからパープルへと色を変え、プロモ・ビデオにポップアートの要素を添えている。そして、デヴィッド・ボウイの乳白色の肌は、炎のように赤い彼のマレットヘアと対を成している。商業的な市場では、これらのフィルムによって、モダン・ビデオが誕生したと考えられている。

それでも、多くのグループがビデオのプロセスに関与することを拒んだ。驚くに値しないが、レッド・ツェッペリンは撮影されることに賛成せず、『The Song Reminds The Same』で撮影された時も、その出来に満足していなかった。それではロキシー・ミュージックは? 彼らは「Re-Make/Re-Model」を学生たちの自由な解釈に任せたが、それ以外ではライヴ・パフォーマンスや、『The Old Grey Whistle Test』の出演に固執した。

しかし、クイーンはビデオを活用した。「Bohemian Rhapsody」は新たな技術的エフェクトを導入することで慣習を打破し、ミック・ロックの撮影による『Queen II』のカヴァー・ショットを再現して巧みに利用した。同ビデオを撮影したのは、ブルース・ゴワーズだ。バンド3回目の英国ヘッドライン・ツアーの前日にエルストリーで撮影された。ヴィジュアルのインパクトは絶大で、この後メジャー・アーティストは皆、ビデオという媒体をより真剣に考えるようになった。(しかし、クイーンが全員女装でメロドラマ『Coronation Street』をパロディ化した「I Want To Break Free」のビデオは、真剣には程遠い。)

70年代でも特に秀逸なファッションは、アバの「Take A Chance On Me」に収められており、同ビデオは1977年時点でのスカンジナヴィア出身の神的ポップ・グループを正攻法で映しだしている(彼らに敬意を表したイレイジャーをはじめ、4,000万人もが視聴している)。ザ・ローリング・ストーンズも70年代、美しい衣装を着ており、「It’s Only Rock’n’Roll (But I Like It)」ではセーラースーツに身を包んだ。あまり威圧感のある衣装ではないが、それでも彼らはなかなか気に入っていたようで、「Ain’t Too Proud To Beg」でもセーラーのパンタロンを履いていた。

グレイス・ジョーンズ は、常に大仰な演出をしていた。キャンドルやケープを使った「Do Or Die」のビデオもそうだ。対照的に、ホール&オーツは寂れた軽食堂の外で、ブルーアイド・ソウルの傑作「She’s Gone」をシンプルに歌っている。一味違った素晴らしさがあるのは、クラフトワークが1978年に発表し、エレクトロニック・ミュージックの先駆となった「The Robots」のクリップだ。同クリップの中では、人間がマシーンとなり、観客は唖然としてそれを見ている。

それから3年後の1981年8月1日、MTVがスタートした。まるでNASAが宇宙探索を始めるかのように、「紳士淑女の皆さん、ロックン・ロールです」というボイスオーヴァーが流れた。当時のMTVはAOR的で、定額配信サーヴィスだったが、じきに多くの家庭で親しまれるようになる。

検閲はいまだに行われていた。マイケル・ジャクソンの「Thriller」とプリンスの「Little Red Corvette」はヘヴィー・ローテーションされていた――当然のことだろう。彼らはニュースになっていただけでなく、彼ら自身がニュースだったのだから。しかしまた、MTVは第二次ブリティッシュ・インヴェイジョンをアメリカで推進した。バグルスの不滅の名曲「Video Killed The Radio Star(邦題:ラジオ・スターの悲劇)」はMTVで放映された最初のビデオだったが、このメッセージは脅しなのだろうか? それとも約束なのだろうか? 同曲がラジオに対する恩を仇で返すようなことはなかったが、「Money For Nothing」のダイアー・ストレイツは( スティングの協力を得て)、自分たちの立場を決めかねているようだった。同ビデオの中で、彼らは裕福なロック・スターが大金を稼ぐ中、冷蔵庫や電子レンジ、システム・キッチンを舌打ちしながら汗水たらして運ぶごく普通の男について、皮肉を交えて歌っている。

10 年後、 R.E.M.は全ての面で圧倒的なアルバム『Out Of Time』をリリースし、90年代のマルチミリオン・セラーの代表例を作った。なお、同アルバムには「Losing My Religion」(同曲のビデオはグラミー賞を獲得)や「Shiny Happy People」が収録されている。この頃までにはビデオは絶対条件とされており、レコード会社はビデオを要求していた。バンドが日本公演を行っている最中であっても、自国の市場から離れてはいけない、と考えられたのだ。ダムドやセックス・ピストルズ 、ザ・クラッシュいったパンク・グループのパイオニアたちはビデオに顔をしかめていたが、KLFのようなアナーキストたちは、「Justified And Ancient」でカントリー界のスーパースター、タミー・ワイネットと共演しながら、刺激的な映像を作った。

ユーモアもビデオでは重要だった。ウィーザーはTVドラマ『ハッピーデイズ』をパロディにした「Buddy Holly」のビデオで観る者を笑わせると、時代を風靡した。Blink 182 は「What’s My Age Again?」のビデオで全裸になると、ロサンゼルスを駆けめぐった。そして、ジョナサン・デミの映画『ストップ・メイキング・センス』の中で歌った「Girlfriend Is Better」でダボダボのスーツを着ていたデヴィッド・バーンは、「She’s Mad」では頭を爆発させ、さらに奇妙さを増していた。

ザ・ヴァーヴのリチャード・アシュクロフトも下手に干渉しない方がいいタイプの人間だ。「Bitter Sweet Symphony」の中では、長回しのショットでロンドンのホクストン地区を勢いよく闊歩しているが、これは視聴者をイラつかせるために作ったという。

プロモーション・ビデオの可能性を心から理解していたのは ベック だ。彼のビデオは全て見る価値があるが、まずは1996年8月1日にMTV2で最初に放映された「Where It’s At」を見てほしい。しかし、そんなベックでも勝てなかったのは、ニュー・ラディカルズのグレッグ・アレクサンダーだ。彼は傑作「You Get What You Give」で愉快な毒を振りまき、ポップ・カルチャーに風穴を開けた。同ビデオの中で、彼とメンバーはスタテン・アイランドのモールをめちゃくちゃにしながら、マリリン・マンソン、ポップ・トリオのハンソン、コートニー・ラヴ、そしてベックを喩えに使いながら批判した。これは、ポップダンス史に残る重要な瞬間である。

N.W.A.による「Strait Outta Compton」の後を受け、エミネムは「Lose Yourself」で新たな世紀に足を踏み入れ、シネマ・ベリテの手法に対して反逆を起こした。こうして映像作家の台頭が起こった。ミシェル・ゴンドリー監督はビョーク、ホワイト・ストライプス、ザ・ヴァインズが重用するコラボレーターとなった。ミシェル・ゴンドリー監督は、マッシヴ・アタックの「Protection」やスターダストの幻覚的な「Music Sounds Better With You」等、影響力の大きなクリップを制作したが、ドナルド・フェイゲンの「Snowbound」向けに作った画期的で陰鬱なクリップは、彼の最高傑作と言えるだろう。

スパイク・ジョーンズも、同様に輝かしい経歴を重ねてきた人物だ。彼はソニック・ユースとチェインソー・キトゥンズのクリップでミュージック・ビデオ監督のキャリアをスタートしたが、ファットボーイ・スリムの「Weapon Of Choice」の監督や、ウィーザー、ガール・スケートボーズの仕事でより知られている。

何も存在しないところから楽曲用の映像を作り出すゲリラ的なフィルム・メイカーが人気を博したことをきっかけに、アーティスト自身がビデオを制作するようになった。こうしてリリック・ビデオの隆盛が始まったのだ。プリンスは昔、「Sign “O” The Times」でリリック・ビデオを制作したが、いまやアヴィーチーからマルーン5、アデル、アリアナ・グランデ等あらゆるアーティストがリリック・ビデオをポストしている。クイーンですら、『On Air』からのライヴ音源に歌詞を入れたリリック・ビデオをポストしている。

デヴィッド・ボウイはかつて、「Ashes To Ashes」に当時最高額の製作費を投入したが、「品質よりも予算を重視したムーヴメントをスタートすると、「Love Is Lost」のビデオを家庭用のムーヴィー・カメラを使い、わずか8ポンドで制作した。時間の他にかかったのは、完成したビデオを保存するUSBスティックの12.99ドルだけだ。

こうして誰もがビデオを作れるようになった。ボブ・ディランはその超頭脳から生み出した名言のリリック・ビデオを作ったが、今やそれは数百万ドル規模のフォーマットとなっている。ボブ・ディランは1995年に「誰でもビデオは作れる」と言った時(彼の息子のジェシーはウィル・アイ・アムトム・ペティエルヴィス・コステロ、トム・ウェイツといった多種多様なアーティストのビデオを作ってきた)、辛辣な主張をしていたのかもしれない。しかし、既に精霊は瓶から飛び出した――手頃な家庭用機材を持ったYouTubeの「スター」が多数輩出されていることが、その証拠である。

Written By Max Bell


 


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